第8話 昇華の章 *布石~関東管領

*布石


 景虎は御館おだてに赴いていた。

 御館は先年、関東管領・上杉憲政のために、景虎が建てた居館である。

 帰国の挨拶が表の用向きだが、何よりも重大なお伺いを立てるためであった。京から帰国後の永禄二年(一五五九年)十一月のことである。

 外に目を向ければ、一度積もった雪が溶けたとは言え、鉛色の雲が低く垂れ下がり、今にも雪が降り出しそうな空模様だ。

「先ずは無事の帰還、執着じゃ。京では病に罹り大変だったと聞くが元気そうではないか」

 先に口を開いたのは上座の憲政だった。数年前に「這う這うの体」で、上野国から逃げ落ち延びたとは思えないほど、今ではすっかり腹回りには肉がつき、別人のような顔つきになっている。貫禄がついたと言えば聞こえは良いが、単に飲み食いに明け暮れ、自堕落な生活が招いた末の、成れの果ての姿に過ぎない。

 越後の海がもたらす豊富な魚介類と、美味なる米を食い漁り、毎晩の酒に溺れた結果である。その日も昨晩の酒が未だに残っているのか、目は充血し頬も紅潮したままだ。

 自分はこのような御方を匿い、豪勢な館と暮らしをあてがっているのか、と景虎は内心落胆した。今となっては、(北条)氏康の敵ではなかったのも、大いに頷ける話だ。

「疲れが蓄積し、多少寝込む時期もありましたが、もうこの通り、元の景虎でございます。ご心配には及びませぬ」

 景虎は余計な話が長くならぬよう、本題を切り出した。

「京の公方様から、直接お渡しするよう、とのことで御内書を預かって参りました」

 憲政宛の御内書は京を出立する前に、将軍義輝から直々に預かってきたものだった。憲政はその御内書を手にするなり、披見しながら、時折景虎を凝視した。少なくとも、このような真剣な表情の憲政を目にするのは初めてのことだ。

「弾正殿は、内容を存じておられるのだな」

「おおよそのことは」

「であれば、話は早い。何とする」

 ひと呼吸を置いて景虎は口を開いた。

「御館様が望まれるのであれば、公方様の要請でもあり、お引き受けいたす覚悟です」

「儂が否と言えば何とする」

「その時はむろん、お断り申し上げます。あくまでも御館様の意向が第一と心得ます。それがたとえ公方様の希望であっても、御館様ご本人が望まぬことを、強行するつもりはございません。左様なことを強行すれば、近い将来必ず良からぬことが起きます。そもそも、これは御館様から幾度となく内々の打診がありながらも、お断りしてきた経緯がございます。決して、自らが望んでお引き受けするものではない以上、御館様が否というのであれば、その御意向に従うまで、と心得ます」

「此度引き受けようと決めた理由は、公方様からの要請があったからの変心かな」

「むろん、それがきっかけとなったことは間違いありません。此度の上洛では、畏れ多くも公方様と親しく言葉を交わす機会が、幾度となくございました。そして、関東諸国や信濃などの近隣諸国を鎮圧後、あらためて上洛することを約束いたしました。それを少しでも早めるためには、関東管領職を正式に引き継いで、関東の地を平らかに治めることこそが、最善の策と思うようになりました」

 この言葉を聞いた憲政は、急に相好を崩すと、本音で景虎に語り始めた。いや、いつもの憲政に戻っただけかもしれない。

「よくぞ申してくれた。ご安心召されよ。今更、否などという気は毛頭ない。もう関東管領などという重責が、儂に務まらぬことくらい、とうに気づいておる。だから、従前から打診して参ったのじゃ。儂はこうして、そなたの庇護のもとで、穏やかに余生を過ごせるのであれば、もう何も言うことはない」

「それでは、お許し頂けるのですか」

「許すも許さぬも、かねてよりの我が願いが叶うのだから、反対する理由がないではないか」

「ありがとうございます」

「それで養子縁組はいつ行う。儂はいつでも良いぞ」

 これには景虎にひとつ考えがあった。

「お待ちくださいませ。その前に、来年軍を率いて、再度越山する所存です」

「おお、また行ってくれるか」

「はい、此度は上野国にしっかり拠点を構えて、腰を落ち着けた戦をしようと思います」

「うむ、重畳じゃ」

「そのうえで、お味方してくれる関東の諸将を糾合して、敵の本拠たる小田原まで攻め入る覚悟でございます」

「おお、しかし、無理はせんでもよいぞ。何せ、氏康はかなり手強い。そなたに、万が一のことでもあったら、一番困るのはこの儂じゃから」

 この御方は、どこまでも自分中心らしい。せめて、越後の国が立ち行かなくなる、程度の言葉が欲しいところだ。半ば呆れながらも景虎は続けた。

「決して、無理な戯れ言ざれごとを申し上げているつもりはございませぬ。とは申せ、小田原城は極めて堅固な天下の名城と、専らの噂でございます。事がそう簡単に運ぶとは考えておりませんが、必ず突破口を探し当て、そこに活路を見出そうと存じます。勝算あっての言葉と、思し召しください」

「なんとも頼もしき言葉よ」

「そこでお願いがございます」

「はて、何かな。この儂で出来ることがあるならばじゃが」

 怪訝そうな憲政の表情をよそに、景虎はそのまま続けた。

「小田原攻城の後に、然るべき神前で、御館様の養子として上杉の名跡を継ぎ、関東管領職を継承したことを、天下に知らしめようと考えております。それ故に、此度だけは御館様の関東同道は欠かせませぬ。関東管領としての最後の大仕事でございます。何卒お聞き届けくださいますよう、お願い申し上げます」

「それで、その然るべき神前とは」

「東国における源氏の総本山、鶴岡八幡宮を置いて他にはないかと存じます」

「なるほど、確かにそれ以上相応しいところはあるまい。あい分かった。これまでのそなたの厚情に応えるにはそれしかあるまい」

「有り難き幸せに存じます」

 諸手を着いて御礼を言上する景虎だったが、あらためてこの御仁の養子になるのだと思うと、景虎の思いは複雑だった。


 翌十二月、景虎は直江実綱の居城である与板の城を訪ねていた。半年を京で過ごした永禄二年も、もうすぐ暮れようとしている。

 思い返せば、実綱に上洛について相談したのも、この城においてであった。あれから早や一年余りが経過している。

 既に二人の間には酒と肴の膳が用意されていた。

「与兵衛尉、留守居役の大任、まことに大儀であった。京での務めに傾注できたのも、留守中の越後が平穏だったおかげじゃ。」

「なんの、礼には及びませぬ。それより、殿が大病を患ったことを耳にした時は、心の臓が飛び出るかと思うほど驚きましたぞ。数日後には快方に向かっていると聞き安堵しましたが、それまでは、正直生きた心地がしませんでした」

「その節はまこと、心配を掛けてしまった。済まぬ」

 この時ばかりは親に叱られた子供のように、景虎は縮こまって詫びた。

「まあ、過ぎたことですし、これ以上は申しますまい。またこうして、元気に御酒を酌み交わせるのですから。しかし、殿にはこれからも、この越後という大所帯の屋台骨でいて貰わねば困ります。くれぐれも、ご無理は禁物に願いますぞ。万が一にも、この与兵衛尉よりも早く逝ってしまうことなど、なきようお願いします。すでに蒼衣を失い、そのうえ殿まで失うようなことがあれば、この与兵衛尉には、もう後を追うしか途は残されておりませぬ」

 まさに、実綱の気持ちは父親そのものだった。

「左様に儂を心底叱ってくれるのは、そなただけじゃ。何故か苦言ですら耳に心地よい」

「また、そのような戯れ言を」

 二人は笑いながら、盃を口に運んだ。

「ところで殿、越中の様子はその後如何ですか」

 実綱は思い出したように、隣国越中のことを話題にした。

 景虎上洛の間、直江実綱は柿崎和泉守景家、蔵田五郎左衛門尉とともに、春日山城代として留守を預かっていたが、西に接する越中の動きに不審な点が多々あり、景虎帰還の時にも、真っ先に耳に入れておいた情報だった。

「そなたの見立て通りであった。幻の者にも探らせたが、どうも富山城の神保長職ながもとの動きが腑に落ちぬ」 

「やはり、左様でしたか」

「雪融けを待って、この春にも越後に攻め入ろうという動きがある。未だ確たる証拠はないが、背後に甲斐の武田がいることは、先ず間違いあるまい」

「武田大膳太夫という男、実に執拗で嫌らしい策ばかりを弄する敵ですな」

「まこと、厄介な奴よ。しかも正面切って堂々と戦をやる気がない。まるでぬえのような男じゃ」

「鵺とは、言い得て妙ですな」

「そう言えば、面白い話を耳にしたぞ。その鵺である武田大膳太夫晴信が、出家して徳栄軒信玄と号したそうじゃ」

 この永禄二年から三年にかけては「永禄の大飢饉」が関東甲信越の国々を中心に襲い、それぞれの国主や国衆が対応に追われていた。むろん、越後も例外ではないが、特に甲斐国は想定外の大打撃を被っていたのだ。

 その飢饉対策としての「伝家の宝刀」が、借金棒引きの「徳政令」であり、もう一つは大名が代替わりを実施して、人心の刷新を内外に示すのが通例だった。その代替わりを行わずに、武田晴信は出家という手段を選び、信玄と号したのである。

「鵺を隠して坊主に化けましたか。それはまた面妖めんような」

 実綱も負けずに戯言で返した。

「神をも怖れぬ不埒な奴が、形ばかり真似て頭を丸めても、神の御加護など得られるわけがなかろう。まあ良い、いずれ儂が、その鵺坊主を戦場に引きずり出して成敗してくれよう。その前に先ずは越中の神保じゃ。神保も恐らく、甲斐からの誘いには逡巡したが故に、未だ事を起こしていないとみた。ならば、奴が攻めてくる前に、雪融けを待ち、こちらから先に叩き潰すまでのことじゃ」

「春にはまた戦ですか」

「越中にはさほど時をかけられぬ。神保が重い腰を上げないのは、逡巡だけではなく、なかなか兵が集まらないのだろう」

「その物言いは、越中の次があるという、含みのある言い方。次は信濃ですか、それとも」

「そう、その『それとも』の方、関東じゃ」

「再び越山でございますね」

「うむ」

 景虎は酒を一口含み、一呼吸を置いて告げた。

「関東管領職を継ぐ」

「おお、それは目出度い。お目出とうござる」

「儂にとっては、それが目出度いのかは今でもわからぬ。これまでも憲政様からの勧めを、幾度となくお断りして参ったのは、何ももったいぶってのことではない。心底からお断りしてきたものだ」

「それはやはり、御父上と管領家の間にある過去の因縁を気になさってのことでしょうか」

「むろん、それもある。しかし、本当の理由は別のところにある」

「では、その理由とは」

「与兵衛尉だけには言っておく。他言は無用じゃ。管領職を継ぐということは、否が応でも関東出兵は避けられぬ。武田と同様に伊勢(北条)は手強い。そう易々と我が軍門に降るとは思えぬ。軍費は如何様にでもなる。しかし、やはり兵による乱取りは心が痛む。それに、関東出兵が重なれば、国衆の不満が鬱積して、いつか爆発するのは上杉房能様の失敗例でも明らかなこと。そんな火中の栗を拾うようなことは、誰も望むまい」

「なるほど。しかし、少し考えれば誰でも分かるような危険を顧みずに、敢えて管領職を継ぐと決めたからには、それ相応の理由がございましょう」

 実綱は景虎の盃に酒を満たしながら、景虎の次の言葉を待った。

「上洛の際、公方様から関東管領職の継承を直々に熱望されたことをきっかけに、儂は考えてみた。それまでの儂は、管領職を継承することで、良からぬことばかりを考えていた。しかし、果たして、それが全てなのかと。管領職継承の有無に関わらず、この越後は四方に敵を抱えておる。北は伊達、東は葦名、南に伊勢(北条)と武田、西に神保に一向宗と、それぞれがこの越後を虎視眈々と狙っておる。このような外敵に対抗するには、関東管領職継承をきっかけとして、関東の地で反伊勢の旗幟きしを鮮明にしている諸将を糾合して、一大包囲網をつくることが得策と考えたのじゃ」

「なるほど、確かに、今の越後を取り巻く外敵に対抗する手段は、それしかないかもしれませぬ」

「そうなのだ。今や、五十年前とは、全く情勢が異なっている。たとえ、関東管領職継承を断り、内にばかり目を向けても、隣国の敵からは容赦なく攻撃を受けてしまう。そうであるならば、関東管領の名のもとに、越後に敵対する輩に対しては、正々堂々と攻め入るのが得策であろう。越山もしかりじゃ」

「殿は我らの考えより、遥かに先を進んでおられるようだ」

「と言うことは、関東管領継承は別の理由に心当たりがあると思っていたのか」

「ええ、てっきり我ら国衆の自尊心と忠誠心を高めるためかと思いました。殿が関東管領となれば、我らは管領の譜代・直参となります。つまりは、我らは東国一の殿に仕える家来衆ということになります。これほど、喜ばしいことはありません。これで国内の求心力は一層高まることになるでしょう」

「なるほど、皆の心の内までは、考えが及ばなかった。それも一理あるかもしれぬ。儂の考えもまだまだ詰めが甘い」

「殿が自らを卑下する必要はありません。かようなことは、本来の目的からすれば、あくまでも副産物でしかありませぬ。ただ、越後の国に生き、殿に仕える我らにとっての、大きな矜持となることは、間違いございません」

「うむ、心に止め置こう。ただひとつだけ心配がある」

「何か他に、でございますか」

 実綱は景虎の一瞬曇った顔の表情が理解出来ない。

「これで儂は、鎌倉以来の長尾の名跡を捨てることになる。ご先祖様は果たしてこれを、お許しになるであろうか」

「左様なことでしたか。なんの、我らと同様に喜びこそすれ、どうして嘆くことなどありましょうや。殿は越後一国の守護代から、守護をも飛び越えて、東国の武士を束ねる頭となられるのですよ。きっと一族の誉れと褒め称え、あの世で祝杯をあげて下さることでしょう」

「そうか。与兵衛尉に謂われると、あれこれと考え悩んでいたことが馬鹿らしくなってきた。やはり相談してよかった」

「さあ、これからは殿の京の土産話を肴に飲み、語り合いましょう」

「そうするか」

「ただ、殿。今宵もほどほどに願いますぞ。この城で万が一、殿が倒れるようなことにでもなれば、一番困るのは、この与兵衛尉でございますから」

「おいおい、儂をあまり脅すな。折角の酒が不味くなるではないか」

「そう言いながらも、殿は美味しそうに飲んでおられますよ」

「分かるか」

 二人は笑いながら、同時に盃の酒を飲み干した。


 永禄三年(一五六〇年)三月、景虎は兵五千を率いて春日山城を進発すると、まさに疾風怒濤の如く、西の隣国越中に攻め入り、富山城に立て籠る神保長職を瞬く間に包囲した。

 景虎にとって、これが最初の越中侵攻である。

 神保長職が前年から、しきりに武田信玄の要請があったにも関わらず、越後侵攻が出来なかったのには理由があった。ひとつは国内に越後攻めの同調者がいなかったこと。もう一つは「永禄の大飢饉」が越中をも襲い、戦どころではなかったことだ。

 景虎にとって、皮肉にも幸いしたのは、この大飢饉が上洛期間中に関東甲信越一帯を襲ったことだった。上洛によって、長期間国元を留守したにも関わらず、信玄や氏康も飢饉の対応に追われて、国境を脅かすどころではなかったのだ。

 さて、一旦は富山城に立て籠もり抵抗を試みた神保長職だったが、景虎軍の猛攻に耐えかねて、三月末日には、こっそりと富山城を抜け出し、増山城に逃れていた。しかし、この増山城にも景虎軍の追撃の手が迫ると、形勢不利と判断するや、越中の山奥に隠遁してしまったのだ。

 長職の逃げ足の速さには、呆れると同時に舌を巻くしかない景虎だった。しかし、逃げ込んだのが、いずこの山中か知れず、知らない国の知らない土地での探索が、危険と判断した景虎は、神保長職の捕獲を諦めて帰国するしかなかった。

「永禄の大飢饉」は越後でも他人事ではない。上洛中にも被害の深刻さは、刻一刻と景虎の下にももたらされていたが、留守居役のなかでも活躍が目立ったのが、栃尾以来の近臣・庄田惣左衛門尉定賢と刈羽郡赤田城の若き主・斎藤下野守朝信だった。

 朝信の居城である赤田城は、直江実綱の与板城から南におよそ五里の距離にあり、いわゆる、お隣さん同士である。

 父親の死後若くして後を継いだ朝信だったが、家来や民にも情が深く、治政もしっかり行き届いているという評判が、実綱の耳にも聞こえて来ていた。そこで、景虎上洛中の全権を任されていた実綱は、その斎藤朝信を春日山に呼び寄せて、庄田定賢、蔵田五郎左衛門尉とともに飢饉対応を委ねたのであった。

 景虎帰国後は、坂本で新たに家臣として加えた河田長親を含めた四人を中心に、飢饉への対応に当たらせている。

 越中から凱旋帰国した四月、景虎はその四人との評定に臨んでいた。

「城の米蔵の備蓄は、いま如何ほどか」

「全米蔵に蓄えられる量の二割程度しか残っておりませぬ」

 景虎の問いに蔵田五郎左衛門尉が答えた。景虎の命で、昨年秋に、城内の食い扶持を残し、全て吐き出しており、収穫された分が僅かに残っているに過ぎなかった。

「うむ、およそ儂の予想と違えてはおらぬ。今は民の命を救うことが先決じゃ。仕方あるまい。だが、このままでは収まらぬ。飢饉が及ぼす影響は計り知れず、我らの想像を遥かに超えたものになろう。我ら人の力が、天の力には遥か遠くに及ばぬことを、此度は嫌と言うほど思い知らされたわ」

「仰せの通り、天の所業には、如何に抗おうとも敵いませぬ。しかし、このまま手をこまねいていれば、民草の生活が更に行き詰まるは必定でございます」

 口を開いたのは斎藤朝信だ。

「何か策がありそうな顔をしておる。申してみよ」

「徳政でございます」

 徳政は既に景虎の想定の内にあった。しかし、これまでの借金を棒引きにするという大胆な策だけに、さすがの景虎も逡巡せざるを得ない。景虎は暫くの間、目を閉じたまま無言で考えている。景虎が次に何を言うか、四人は固唾を呑んで待つ他なかった。やがて、景虎は目を開くと自らの存念を述べ始めた。

「やはり、其の方らの考えは徳政か。しかし、それでは町商人が納得するとは思えぬ。納得しないだけならば未だ良い。共倒れされては元も子もあるまい」

「そこで、でございます」

 庄田定賢は、朝信と長親に目配せした後に、景虎に向かって策を述べた。

「殿の直轄領の町商人に対して、五年間の諸役と地子(税)を免除しては如何でしょうか」

「なんと五年もの間か」

「はい、幸い春日山の金蔵は、殿の十年余に及ぶ治政のおかげで、揺るぎなきものとなっております。故に、向こう五年間を免じたとしても、身代が傾くことは一切ございませぬ」

「戦や遠征が続くぞ」

「心配には及びません」

 今度は代わって、斎藤朝信が自信ありげに応えた。

「長親はどう思う。そなたは算術が得意と聞き、二人の補助を任せたのだが如何じゃ。正直に申してみよ」

「お二人が仰せの通り、多少の戦があっても動じない身代を、殿は既に築いておられます。たとえ十年間の減免を行ったとしても、耐えうる貯えがございます。越後に参りまして、あらためて殿の偉大さを痛感しております」

 長親の目の輝きから、日々の充実が推し量れた。

「蔵田五郎左衛門尉、そなたはどう思う」

「既に皆さまが全てを、お話下さっております」

「分かった、では、其の方らに任せよう」

 永禄三年(一五六〇年)五月十三日、景虎は徳政を発する傍らで、町商人の心情に配慮し、直轄領の五年間租税免除令を断行した。

 こうして、景虎は国内外に布石を打つことで、後顧の憂いなく、関東遠征を実行する素地を固めていった。


 景虎が徳政令を発した翌日、上野国箕輪城主の長野業政より、春日山城にいる景虎のもとに書状が届けられた。武蔵国で北条の動きが再び激しくなってきているとのことである。このままでは上野国も危うく、至急出馬をお願いしたいとの報せだった。また、同様の書状は、御館の上杉憲政にも届けた旨が追記してあった。

 長野業政は病を患い、先頃は床に臥せがちであることが、漏れ伝わってきていた。それに乗じた北条の動きであることは間違いなかった。また、永禄の大飢饉は、関東の方がより深刻であり、それ故に、武蔵から上野国一帯を支配下に置くことで、実入りを多く得ようという、北条の魂胆が透けて見えている。

 予断を許さぬ状況とは言え、安易な計画の前倒しは危険だった。特に今回の遠征が腰を据えたものになると考えている景虎は、当初の予定通り、八月末日を進発日と定め、諸準備を進めるよう通知した。

 此度の遠征は、北条を徹底的に追い込み、小田原まで攻め込む腹積もりである。それだけに、急く気持ちを押し殺し、収穫時期を考えての決定だった。

 梅雨も未だ明け切らぬ五月末日、その日も春日山の空は雨雲で覆われており、いつ降り出してもおかしくない空模様だった。

 幻蔵が珍しく景虎の前に姿を現した。景虎の勢力拡大に伴い、幻の者一党の規模も拡大し、各方面での諜報活動が活発化している。

「幻蔵か。暫く姿を見せていなかったな。何かあったか」

「はい、至急、殿のお耳に入れたほうが良いと思い参上しました」

「うむ、それで、その急ぎの報せとは何か」

「去る五月十九日の夕刻、駿河国の太守である今川義元殿が、尾張国・桶狭間で、お討ち死にとのことでございます。急ぎ、その真偽を探りましたが、事実に相違ございません」

「なんと、今川の太守殿が討ち死にとは。その相手は誰じゃ」

「尾張国の織田上総介信長殿とのことでございます。風雨激しい中、桶狭間に陣取る今川軍本隊を兵三千で急襲し、みごと討ち取りに成功を収めたとのことです」

「織田上総介か」

「ご存じでしたか」

「いや、先年、儂が上洛する直前の二月、兵五百を率いて上洛し、公方様に謁見しているらしい。記憶に新しい名じゃ」

「左様でございましたか」

「ところで、その駿河国の様子はどうじゃ」

「駿府の街は混乱の極みでございます。明日にでも織田軍が攻め寄せてくるという偽の噂が飛び交い、家財道具をまとめて逃げ惑う輩やら、混乱に乗じて盗人が横行する始末です。嫡男の今川氏真殿は、何とか混乱を収拾しようとしているようですが、父君の器量と比べると、これから国をまとめるには些か」

「よい、わかった。これで甲駿相の三国同盟も長くはあるまい」

 幻蔵は返事をする代わりに首を縦に振った。

「幻蔵、よいか。甲斐の鵺坊主はいつか必ず動く。血縁で結ばれているだけに、多少間を置くとは思うが、同盟を破るのは奴に違いない。甲斐の動きには、更に注視せよ。何かあれば些細なことでも構わぬ。直ちに報せてくれ」

「ははっ」

 音もなく幻蔵が去っていった。

「織田上総介信長か」

 いつか戦うことになるかもしれない。そんな予感がした。景虎はその名を心に刻んだ。

 

  *関東管領


 永禄三年(一五六〇年)八月末日、景虎は関東管領上杉憲政を奉じ、兵八千を率いて春日山城を進発した。それに先立つ三日前に、留守を預かる家来衆と府内町人に対して、それぞれのおきてを定め、きつく遵守を強いた。

これは、今回の関東遠征が長期化すると踏んで、お膝元の訴訟や喧嘩・些細な争いを含めた一切の不安要素を払拭したうえで出陣したい、という景虎の気持ちの表れでもある。

 此度も留守居役筆頭として直江実綱、それに金庫番兼財政方として蔵田五郎左衛門尉を指名していた。

 こうして、九月初旬には三国峠を越えて、景虎は上野国に兵を進めた。真っ先に向かったのは、長野業政の居城である箕輪城だった。

 この頃は病床に臥せてばかりの業政だったが、この時ばかりは鎧をまとい、戦支度で景虎を迎えた。やはり、思った以上に顔色は優れない。身体も痩せてきているのが、はたから見ても分かるほどだ。病床を押しての出迎えが、景虎の目には痛々しく映った。

 背後には心配そうな顔で控えている若武者がいる。嫡男の業盛なりもりだった。この時、業盛の齢はわずか十六歳だが、気丈に振る舞おうとするその姿に、景虎は自分の若い時の姿を重ね合わせた。思い返せば、景虎の初陣もこの年頃だった。

 そんな感慨に浸る暇はない。業政に目を移し、見舞いの言葉で労った。

「信濃守殿、病が篤いと伺いました。そのような戦支度など無用。どうか床に入りお休みくだされ」

 景虎の心配をよそに、精一杯強がって、業政は言葉を返す。

「なんの、これしきの病、ご心配には及びませぬ。長尾弾正殿にこうしてお越し頂いたからには、寝てなどおれませぬ。病も恐れをなして早々に退散するに相違ありませぬ。どうか、此度も我が箕輪勢に先鋒をお申しつけくだされ」

「父上、ご無理は禁物でございます」

 嫡男の業盛が、背後から小さく声をかけた。

「ご子息の言う通りじゃ。信濃守殿には、これからも上野国の要として、長く活躍して貰わねば、この儂が困る。此度だけは、どうかゆるりと養生くだされ」

 景虎の言葉に、業政は胸を詰まらせていた。

「これではおめおめと、黄泉よみの国に旅立つわけには参らぬようですね。それでは弾正殿、お言葉に甘えて、ひとつお願いがござる」

「何なりと」

「ここに控える嫡男の業盛を、このおいぼれに代わって、先導役としてお連れ頂けまいか。未だ若輩者ながら、何としてもお役に立ちたいと意気込んでおります故に、何卒この願いお聞き届けくだされ」

「それは願ってもないこと。こちらこそ宜しくお願い致す、業盛殿」

 景虎は背後の業盛に声をかけた。

「有難き幸せ。父に代わって、みごとお役目を果たしてご覧にいれます」

「頼りにしておりますぞ。我ら越後衆は上野国を含め、関東の地の利は無きに等しい。是非とも、我が傍で行く先々を先導してくだされ」

「承知仕りました」

 息子の会話のやり取りに、安堵した業政は、肩の力を抜いて胡床に腰掛けた。業盛に支えられながらの、その様子から病の篤さが知れた。

 長野業盛が率いる箕輪衆の加勢を得た景虎は、上野国内の北条方に与している城を、一気呵成に攻め立てた。明間城、岩下城、沼田城らを次々と攻略し、遂には守将である北条孫次郎他五百余名を討ち果たした。

 この景虎の猛攻を看過出来なくなったのは、もちろん北条氏康である。氏康はこの時、上総国(現在の千葉県中央部)・里見義堯の居城である久留里城を攻めていたが、慌ててその攻囲を解き北へと転身した。永禄三年九月二十八日、氏康は越後勢を牽制すべく、武蔵国の河越まで軍を進める。

 しかし、景虎はこれを全く意に介することはなかった。むしろ北条軍を嘲笑うが如く、那波城、そして厩橋(現在の前橋)城をも攻略した。

 九月晦日、厩橋城に入った景虎は、即刻、関東管領・上杉憲政の名で、関東諸将に向けて北条氏討伐の檄文を発した。檄文は越後にいる時から、予め練り認めていたものである。関東の隅々に達するまでに、それほど時間はかからなかった。

 氏康は檄文が関東各地に及んでいることを、河越の地で知ることとなる。

さすがに焦りを隠せない氏康は、思わず罵りの言葉を吐いていた。

「長尾景虎の奴め、小癪な真似をしてくれる。越後で大人しくしておればよいものを。公方様の覚え目出度いかは知らぬが、調子に乗るのも大概にしろ。のう孫九郎、そうは思わぬか」

 孫九郎とは大道寺駿河守政繁の幼名である。政繁、この時二十八歳。既に北条家家臣の要として、氏康の傍近くに仕えていた。

「まことに。しかしながら、わずか一月足らずのうちに、ほぼ上野国全土を手中に収めてしまうとは、なかなか侮れぬ難敵です」

「甲斐の徳栄軒殿(信玄)も、北信濃で幾度か刃を交えているが、毎回苦戦しておるようだ。今川治部大輔殿(義元)亡き今日、甲駿相の三国を中心に保ってきた東国の均衡も、今後は微妙となろう。その均衡に揺さぶりをかけてくる筆頭が、長尾弾正であることは間違いあるまい」

「畏れながら、御本城様を置いて、東国の覇者に相応しい御方はおりませぬ」

 御本城とは北条氏康のことである。氏康が治める伊豆・相模国も飢饉の大打撃を被っている。御多分に洩れることなく、氏康も家督を嫡男の氏政に譲り、形ばかりは隠居しながらも、『御本城様』の立場として、依然実権を掌握していた。

「嬉しいことを言ってくれるではないか。しかし、儂は長尾弾正が東国の覇者になるとは言ってはおらぬ。奴が越後に居を構える以上、地の利が我らにあるのは言うまでもない。それに、越後は長い冬の間、雪に閉ざされる国じゃ。雪深い所になると十尺(三m)も積もると聞く。奴が冬ごもりをしている間に、我らは奪われた城や土地を、じっくり奪い返せばことは足りる。何事も焦りは禁物ということじゃ」

「なるほど、さすがは御本城様の慧眼けいがんには、毎度のことながら感服いたします」

「うむ、されど此度は、関東管領憲政を連れて来ておる。例の檄文も関東管領の名で関東諸将に向けての発信じゃ。恐らく、我らに従わぬ数多くの輩が、長尾勢の下に参じることになろう。それを念頭に、我らは対抗措置を準備せねばならぬ」

「御本城様は敵にどれくらいの兵が集まるとお考えですか」

「六、七万は下るまい。下手をすれば十万の大軍になろう」

「十万でございますか」

 さすがに大道寺政繁は驚きを隠せない。相手は戦上手の長尾景虎だ。十万の敵兵相手では、如何に氏康とはいえ、平地での戦では勝ち目がない。小田原城が十万の兵で取り囲まれるなど、これまでに想像したことがない話だった。

 その困惑した様子をみて、氏康は政繁を安心させようと付け加えた。

「左様に心配する必要はない。小田原城は、例え十万、いや二十万の敵に囲まれようとも、そう易々と落ちる城ではない。敵は数ばかりの寄せ集めに過ぎぬ。それに関東の諸将は、我らと同様に、此度の大飢饉で兵糧の蓄えがない。長期に及ぶ攻城は無理に決まっておる。とすれば、せいぜいひと月も我慢していれば、向こうから自ずと軍を退かざるを得まい」

「確かに兵糧のことを考えると、長く対陣することは困難でしょう。我らは城を固く閉ざして、敵の挑発に乗らなければ、あとは諦めて退陣するのも待てばよいという寸法ですね」

「それに、儂は甲斐の徳栄軒殿を通じて、越中の一向宗徒や北信濃の武田勢に、越後国境を脅かして貰うつもりでいる。さすれば、当の長尾景虎も、関東に長居は出来まい」

「となれば、然程、厄介事とはならないのではございませんか」

 政繁は、そこまで読んでいながら、神妙な顔つきをしている氏康が理解出来ない。

「長尾弾正のことだ。この城をそう易々と落せるとは思っておるまい。真の目的は、城を囲み自らの力を関東だけでなく、近隣諸国に誇示することにあるのじゃ。そして、関東武者が多くいる面前で、憲政に替わり、関東管領の職に就任することこそが、奴の一番の狙いと睨んでいる」

「なんと、あの関東管領職を、でございますか。しかし、関東管領は代々山内上杉家当主の世襲でございましょう。長尾家は、管領家の一家臣という位置づけに過ぎませぬ。果たして、そのようなことが可能でしょうか」

「ひとつだけ方法があるではないか」

 氏康の問いかけに暫く考え込んだ政繁だが、やがて閃いたことを口にした。

「なるほど、憲政の養子になるということですか」

「そうじゃ。先年、長尾弾正が上洛の折に、京の公方様から直々に、関東管領を継ぐよう要請されたらしい。それに、公家筆頭である関白・近衛前嗣様という変わり者が、その弾正に惚れ込んで、わざわざ越後に下向してきているらしい。そのような高貴な御方が、長尾弾正を追って関東まで来たらどうなる」

「一層、長尾弾正の求心力が増す」

「その通りじゃ。関白・前嗣の動き次第でどうなることか、この先は儂も読めぬ」

 ここまで言うと、氏康は黙ってしまった。

 氏康の額に刻まれた皺が、燭台の炎に照らされて一層深く見える。氏康が初めて見せる表情だった。その姿を目にした政繁は、早雲が伊豆を手にして以来、最大の危機が目前に迫っていることを感じ取っていた。


「弾正さん、約束を守って参りましたよ」

 別にこちらから頼んだわけではないが、関白着到の報を聞き、景虎は厩橋城の門外まで出迎えた。相変わらず、声だけは公家らしく甲高い。

 永禄三年(一五六〇年)九月十九日、正親町天皇の即位式を滞りなく終えた関白・近衛前嗣は、京を出立し越後に入った。しかし、その時既に、景虎の姿は春日山城にない。上野国で転戦の真最中である。

 関白下向の報を、京の神余親綱から受け取っていた留守居役の直江実綱は、関白を出迎えたうえで、饗応の宴を開き大いに歓待した。数日間、春日山で逗留の後、前嗣は景虎を追って、関東に下向することにした。景虎が帰国するまで春日山に留まるということも十分考えられたが、前嗣は敢えて景虎を追うことを選択した。直江実綱は、関白前嗣に対して、朱塗りの輿と百人の警護兵をつけて、春日山城を送り出していた。

 厩橋城に到着した前嗣は、上機嫌である。

 輿に揺られての優雅な旅である。しかも、京人にとっては珍しい、山海の珍味と酒を飲み食いし、色づく紅葉を愛でながらの道中だった。齢二十五歳の前嗣には、喜びこそすれ、苦になるはずもない。前嗣は武家の血も引いており、鷹狩りもやり馬も乗りこなす。もちろん、京から春日山城までは、馬に揺られての旅路だった。それが春日山からは、景虎の意を受けていた実綱が、貴人に対する最高のもてなしを行い、送り出しているのだから、機嫌が良いのは当たり前だ。

 もちろん、前嗣はこの時、民が飢えで苦しんでいることなど知る由もない。また、塗輿を担いで大変な思いで、峠越えをした兵を労わることもなかった。

 それも仕方ない。関白前嗣は貴人中の貴人、この国では帝に次ぐ最高位の殿上人なのだ。周りの配慮や苦労など、露ほども気にすることなく、もてなしを当然のこととして享受し、ただ単純に景虎との再会を喜んでいた。

「麿は初めて関東の原野を目の当たりにして、度肝を抜かれました。まるで地の果てまで続くかと思うような平らかな土地。聞くところによれば、これより先の武蔵国や常陸、相模国などは雪も少ないそうな。京に比べれば、まこと穏やかな気候だとかいうではありませぬか。京のような狭い土地とは違い、他人の機嫌を伺うことも必要ない。のう弾正さん、貴方のお力で、麿に関東のいずこかの大きく堅固な城を預けては貰えぬものだろうか」

 景虎は驚いていた。もし、前嗣が関東に追いかけてきた場合は、どこか要の城に落ち着いて貰いたいと、虫のいいことを考えていたのだ。そうすれば、自分が不在の場合の名代として、関東一円に影響力を及ぼすことが出来るのではないか。ただ、それはきっと嫌がられるだろうと思っており、実現は困難と踏んでいた。それを、まさか前嗣自ら言い出すとは、予想もしない展開だった。

 この当時の関東における権力構図は複雑である。

 もともと、室町幕府による関東の統治は、鎌倉公方あらため古河公方と呼ばれる、足利尊氏の子孫を頂点に、関東管領が補佐するという図式だった。その図式が大きく崩れることになったのが河越合戦である。

 この合戦で、古河公方であった足利晴氏は上杉憲政とともに、北条氏康に大敗を喫している。その後は、公方の座を子である足利義氏に譲ることを条件に、氏康から助命された晴氏は失意のまま、永禄三年五月に亡くなったばかりだった。義氏は足利晴氏と、北条氏綱の娘との間に生まれた子であり、氏康は外伯父にあたる。つまり、義氏は北条方の傀儡公方かいらいくぼうだった。

 一方、この傀儡公方に異を唱える勢力も、決して少なくはなかった。常陸の佐竹義昭や安房の里見義堯らがその代表格であり、氏康によって廃嫡された晴氏の嫡男である足利藤氏こそ、古河公方の正当な継承者であると主張していた。もちろん、上杉憲政を擁して、打倒氏康を掲げる景虎も、これを支持している。

 つまり、関東の公方という地位を巡って、氏康の傀儡である足利義氏と、廃嫡された足利藤氏のどちらが、正当な継承者かを争う形で、氏康と景虎の対立軸が成立していた。

 景虎は、叶うことなら関白・近衛前嗣を象徴として、足利藤氏の古河公方継承正当性を、世に知らしめたい、という構想を描いていた。それ故に、前嗣から先に口にした「望み」は、景虎にとっては、願ってもない発言だった。

 それでも、景虎は慎重だった。前嗣は公家特有の世辞で、このようなことを言い出したのかもしれない。ましてや、前嗣は京の貴人であるだけでなく、公家の頂点に立つ関白なのだ。めったなことで、危険な橋を渡らせるわけにもいかない。

「関白殿下、お戯れを口にするのはお止めください。左様に嬉しいことを伺えば、我ら田舎者は真に受けてしまいます」

「麿は決して戯言を言っているのではないですよ。本気で、この地に住みたいと思っているのです。弾正さん、是非とも、真剣に考えてくださいな」

 少なくとも、その時の景虎を見つめる前嗣の眼差しに、偽りはなかった。

「殿下のお気持ちを察することが出来ず、失礼いたしました。殿下のお望み、確と承りました。この長尾弾正、必ずや関白殿下のお望みを叶えてご覧にいれましょう」

「そうか、叶えてくれるか。それでこそ、麿が頼りに足る人と見込んだ弾正さん、宜しく頼みますよ」

「承知しました。但し、戦は始まったばかり。我らにとっては、これからが性根の据えどころでございます。関白殿下は先ず、この厩橋の城で、ゆるりと旅の疲れを癒してください」

「うむ、そうしよう、そうしょう。戦場とは申せ、一年ぶりの再会ではないか。固いことは抜きにして、今宵くらいは良いのでしょう。先ずは一献と参りませんか」

 毎度の甲高い笑い声を聞きながら、景虎は前嗣を城内へと先導した。


 関東管領・上杉憲政の名で、景虎が発した北条討伐の檄文により、上野国はもちろん、北武蔵や上総国・下総国の諸将が続々と参陣を表明してきた。

 一方で未だに旗幟を鮮明にしていないのが、東の隣国下野の諸将だった。

「未だに下野国の国衆の態度が釈然としないのは何故でございましょう」

 厩橋城本丸の景虎の御前で、河田豊前守長親が思わず呟いていた。

 近江国・坂本での献身的な看病に加えて、飢饉への対応でも非凡な才覚を示した長親は、景虎の命で関東にも従軍している。

 話かけられた相手は長野業盛である。この時、長親十八歳・業盛十六歳と歳が近い二人は、厩橋城内で、直ぐに意気投合していた。

 景虎は他の国衆がいない時は、傍らで自由に話をさせている。

「殿、我が知るところを、申し述べても宜しいでしょうか」

 業盛は一旦景虎の方に向き直ると、遠慮気味に訊ねた。

「其の方らには、場をわきまえるのなら、何でも忌憚なく述べよ、と予め伝えておるではないか。遠慮は禁物だ」

 優しく笑みを浮かべた景虎の言葉に安心した業盛は、長親に対して自分の考えを伝えた。

「下野国は隣国とはいえ、代々独立独歩の気風を持つ国衆が多く点在しております。古からの坂東武者の血を引く者として気位も高く、今は未だ、高みの見物を決め込んでいるものと察します」

「うむ、さもあらん。しかしそれだけであろうか」

 景虎は少し覗き込むような仕草で、業盛に再考を促したが、なかなかそれ以上は答えが見つからなさそうだった。

 すると、何事かをひらめいたのか、口を開いたのは河田長親の方だった。

「これはひょっとするとだが、各々決めきれずにいるのではないか」

「それはどういうことですか」

 業盛は長親に視線を送り、詳しい説明を求めた。

「下野の国衆には、確実に我らとは一線を画す那須殿を除き、主だった方々といえば、宇都宮殿・小山殿・佐野殿がおられます。しかし、彼らは必ずしも結束しているようには見えませぬ。恐らくは、各々がどう出るかを、水面下で腹の探り合いをしながらも、未だ決めかねているのではござりませぬか」

「恐らく、その通りだろう。古河公方様だろうが、我ら関東管領軍だろうが、はたまた伊勢(北条)だろうが、彼らは自らの本領が安堵されるのなら、誰が勝ち、誰が負けようがどうでもよいと思っている。要は勝ち馬に乗れば良い程度の考えなのだろう。とすれば如何いたす、長親」

 景虎の問いに対する長親の答えは明快だった。

「とすると、下野の国衆はこれからもあまり信用は出来ない、と考える必要がございます。しかしながら、我らは下野という背後に危ない輩を抱えたままで、武蔵・相模と兵を進めるには危険が大きすぎます。例え一時的にであっても、お味方に抱え込むことが肝要と存じます。先ずは個々に使者を立てたうえで、先方の出方をみる他ないのではありませぬか」

「左様、そなたの申す通りじゃ。先ずは、この厩橋から最も近い、唐沢山城の佐野昌綱殿に接触を図ろうと思う」

「されば、その使者として、それがしにお命じください。みごと、使者としての任を果たしてご覧にいれます」

 長野業政からの申し入れに対する景虎の返答は否である。

「お気持ちは有り難いが、そうは参らぬ。貴殿は御父上からお預かりした大事な御方じゃ。左様に危険な橋を渡らせる訳にはいかぬ。それに卒爾ながら、貴殿は我が名代として些か若過ぎる。佐野殿のお立場になって考えて下され。当家は軽く見られた、もしくは見下されたと思うに違いない。そうなってしまっては、纏まる話も纏まらない。佐野殿は今年二月に伊勢(北条)氏政率いる大軍に城を囲まれながらも、みごと撃退したと聞いておる。味方になってくれれば、これほど心強いことはない。ここは、我が宿老の安田治部少輔長秀殿を使者に立てようと思っている。どうか、お気を悪くしないで下され」

 確かに使者としての役目は未だ早過ぎる。しかし、父・業政の命がいつまで持つのか。その後は、この業盛が箕輪城主として跡を継ぐことになる。その時のために、今は傍近くで一つでも多くのことを、長親と共に学んで欲しいと願う景虎であった。


「ご用向きはしかと承った。喜んで合力いたそう。その旨、長尾弾正殿にお伝えくだされ」

 ここは下野国・唐沢山城本丸の一室である。本丸は唐沢山の山頂、標高百三十五間余(二四七メートル)に位置する。

 城主の佐野昌綱は、景虎の使者である安田長秀を、平装のまま応対しながらも、憲政・景虎軍への参陣を、あっさりと約束していた。

 景虎は大軍を率いて桐生城に入っている。安田長秀はその桐生城から、単身唐沢山城に乗り込んできていた。佐野昌綱も景虎の動向は、既に掴んでいるはずだ。

 それにしても、多少難航する交渉と構えていただけに、長秀は些か拍子抜けの感がしないでもない。

 長秀も、景虎挙兵から十六年間、景虎政権を支えてきた百戦錬磨の強者つわものである。これほど簡単な応諾には、何か裏があるに違いないと、勘繰らざるを得なかった。

「それは有り難きご返答。佐野殿に参陣頂けると聞けば、我が主、長尾弾正も大変喜ぶことでございましょう。ところで、佐野殿。正直申し上げて、かように簡単に快諾の返答を頂戴出来るとは、思ってもいませんでした。であるならば、何故に参陣の態度を、今まで保留してこられたのか、差支えなければ、そのご存念をお伺いしたいと存じます」

 言葉は丁重だが、詰問とも取れる内容だ。しかし、佐野昌綱は臆することなく返答した。

「我ら佐野一党は、かの平将門公を討ち果たした藤原秀郷公を祖とする坂東武者の端くれでござる。幾多の艱難を乗り越えて、今日まで命脈を保って参った次第。従って、我らは他家他国を従えよう、ましてや滅ぼそうなどという野望は、ただの一欠片も持ち合わせてはおりませぬ。足利家であろうが、上杉家であろうが、ましてや成り上がりの小田原など、正直に申し上げて眼中にござらぬ。ただ、願いとしてあるのは、本領の安堵のみ。従って、我が本音は、いずれにも味方することなく戦を避け、ひたすら力を温存したいという一点に尽きる。ましてや、昨年から続く大飢饉で、自ずと力が削がれている現状をお察し頂ければ、理解頂けると思うが如何か。我らに決して他意はござらぬ」

「それでは、お味方頂けぬ場合もあり得る、ということで」

「それはどうであろう。此度は合力いたすことを約束しているが、もし、我が意に反するようなことがあれば、その時は考えざるを得ないとしか、今は申し上げられぬ」

「ではもう一つ、今後、北条方に味方することが有りか、または無いと誓えるか」

「それも分らぬとしか申し上げられぬ」

「もし、北条方に味方した場合は、恐らく我が殿はこの城を攻め落としにかかると存ずるが」

「その時はこの城に立て籠もり、迎え撃つまでのこと。既にご覧頂いたと存ずるが、この城は天然の地形を利用した難攻不落の要塞ですぞ。この二月にも、小田原の大軍が押し寄せてきたが、全く手も足も出なかったことを知らぬ貴殿でもあるまい。それにこの城は、井戸の水も潤沢で、何年籠城しても枯れることがない。攻めるには、相当のお覚悟が必要と存ずるが」

 不敵な笑みを浮かべながら昌綱は、逆に長秀を挑発した。

 しかし、安田長秀も十三歳年下の昌綱の誘い水に乗るほど、決して青くはない。どこまでが本音か分らない昌綱に対して、笑みを浮かべながら話を切り上げた。

「さすがは下野にこの人あり、と天下に高名が轟く佐野殿、その御覚悟に感服仕りました。どうかご安心くだされ。我が主、長尾弾正が故なく他国を攻めることなど断じてござらぬ。これまでの戦ぶりからも、それはお分かり頂けるはず」

「それをお伺いして安堵いたした。長尾弾正殿が義に篤い御方というのは、遠国に居を構える我らにも伝わっております。本領安堵が我らの願いとは申せ、小田原勢が武力で征服と侵略を続けていることには、正直腹を据えかねておる次第。しかしながら、弱小勢力の我らだけでは如何ともいたし難く、今日まで我慢して参った。此度、長尾殿が小田原に挑むというのであれば、参陣することに異論はござらぬ。左様、長尾弾正殿にはお伝え願いたい」

「委細承知いたした」

 安田長秀はここが引き際だと察した。如何なる弁舌を繰り出しても、佐野昌綱の回答はこれ以上でも以下でもないはずだ。形式的な辞去の挨拶を済ませ、早々に城を後にした。

 佐野昌綱は、唐沢山城の本丸から、足早に遠ざかる長秀を覗き見下ろしながら、独り言を呟いていた。

「さて、これからどうしたものか。まあよい。誰に対しても面従腹背を貫くことが、我が真骨頂じゃ」

 昌綱はひとり高笑いしていた。遠ざかる長秀を、二度と覗き見ることはなかった。

 永禄三年(一五六〇年)十一月、下野国に吹き上げる、乾いた冷たい北風が、枯れ落ちた葉を晴れ渡った冬の寒空に巻き上げていた。


「なかなかの策士でございました。此度、佐野殿は我らにお味方頂けるとのことですが、それがいつまでなのか、あるいは此度に限ったことなのか、皆目見当がつきませぬ。腹の底では何を考えているのか、全く分らぬ御仁でございます」

桐生城に戻った安田長秀は、唐沢山城での一部始終を、景虎に報告していた。

「さもあらん。これまでも小田原を相手に一歩も引けを取らぬとあれば、なかなかの強者であろう。今まで頑なに中立を貫いてきたのであれば、我らにそう易々と与するとは思えぬ」

「なるほど」

 相槌を打ったものの、長秀は思い出したように、自身の杞憂を付け加えた。

「されど、それでは背後から襲われる恐れがありますぞ」

「いや、少なくとも此度に限っては、その心配はあるまい。一度口にしたことを、いとも簡単に覆すような者には、一族郎党をまとめるおさなど務まらぬ。それに、佐野殿が我らにくみするという噂は、もう下野国内を駆け巡っていよう。恐らく、未だに旗幟を明らかにしていない宇都宮殿や小山殿らも、遠からず我らへの合力を約束して参るはず。となれば、佐野殿が単独で我らを裏切り、背後を突くなど到底考えられぬ。そもそも佐野殿の唯一にして最大の目的が、本領安堵であろう。そのような者が、失敗した場合に、後から恨みを買うような、不意打ちなどという姑息な手段を選ぶはずがない」

 長秀は、景虎の読みが、自分よりも数歩先に進んでいることに、あらためて感心していた。何よりも、十四歳年下の景虎を、初陣の時より盟主と仰ぎ、支えてきたことが間違いではなかったと、今更ながらに思い返していた。

 数日後、景虎の読みは現実のものとなっていた。宇都宮氏や小山氏をはじめとする下野国の有力な国衆が、雪崩を打って参陣を表明してきたのだ。

 景虎はその使者一人ひとりと顔を合わせ、丁重に持て成すとともに、小田原討伐への並々ならぬ意気込みを披露し、同意を得ようと必死になった。

 この頃、北条氏康は河越城から更に北上し、越後勢を牽制する目的で、武蔵松山城に陣を敷いていた。

 しかし、那須氏を除く下野国衆の大半が、景虎の下にはしってしまったことを知った氏康は、武蔵松山城に留まる意味がないことを悟り、撤退の準備をする一方で、急ぎ兵を古河に向かわせた。現・古河公方である足利義氏のもとである。

 氏康の杞憂は、上野国・下野国を押さえた景虎の次の一手が、古河御所(城)を襲い、足利義氏を捕獲幽閉することだった。

 その読みは当たっていた。永禄三年(一五六〇年)十二月、景虎は大軍で古河御所(城)に向かいこれを包囲した。

 しかし、この時既に、足利義氏は間一髪でこの難を逃れている。景虎軍が古河御所を取り囲む半時前に、氏康の命を受けた小田原軍が、古河御所に急行し義氏の脱出を手助けしていたのだ。

 この報せはすぐに景虎の耳にもたらされた。出立の遅れを地団駄踏んで悔しがったが、後の祭りでしかなかった。

傀儡公方である義氏を拉致し人質とすることで、その助命と引き換えに、足利藤氏を古河公方に据えるという景虎の目論見は、これで完全に潰えてしまった。

 それとは対照的に、間一髪で義氏の救出に成功した北条氏康は、すぐさま武蔵松山城を放棄し、義氏を連れて小田原に退却した。

 この時も、氏康の老獪さは遺憾なく発揮されている。それは、勢力下にある各城や砦に対して退却しながらも、景虎軍の如何なる挑発にも乗ってはならず、という軍令をもって、籠城策を徹底させたことだ。

 もちろん、この退却は氏康にとって、極めて不本意なものに変わりない。自ら出陣したにも関わらず、何ら得るものがなかっただけでなく、気づけば、南武蔵と相模・伊豆を除いて、ほとんどが反小田原派で固められてしまっている。これまで年月をかけて、着実に勢力図を拡大してきたものの、僅か三月足らずで、景虎に崩されてしまったのだ。この現実を目の当たりにした氏康は、内心、まさに忸怩たる思いでの退却だった。

 しかし、今はどうあがいても、景虎側に勢いと、何よりも大義がある。

 もともと、氏康には古河公方の継承については、武力を笠に着て奪い取った、という負い目がある。足利晴氏の正当な公方継承者である藤氏を、無理やり廃嫡して、甥に当たる義氏を公方として据えたことだ。

 古くから坂東武者として根を下ろしてきた、その子孫である関東各地の国衆が、身内の公方を傀儡として操り、勢力を拡大してきた氏康を快く思うはずもない。そのことへの反発が、ここに来て一挙に噴出したとも言えた。

 これらの反小田原を掲げる国衆の間では、幕府政所執事の流れを汲むとは言え、今川氏の客人でしかなかった伊勢新九郎長氏(北条早雲)が、伊豆一刻を乗っ取り、その子供が、縁もゆかりもない「執権・北条家」の名を、恥ずかしげもなく語るなど、まさに言語道断、という気概で一致している。

 今や、親・小田原勢力と言えるのは、同族以外では、舘林の赤井氏・武蔵松山の上田氏・下野の那須氏・下総の結城氏と千葉氏、津久井の内藤氏らわずかの将に限られてしまっている。

 ここは、長尾景虎という強大な嵐が立ち去るまで、辛苦に耐え忍ぶことの他に、残された途はなさそうだった。


 同じ頃、甲斐の躑躅ケ崎館つつじがさきやかたでは、武田信玄と嫡男の太郎義信、そして弟の典厩信繁が、近隣諸国を描いた図面を囲み、顔を突き合わせていた。

「長尾弾正が、派手に関東の各地を駆け巡っているようですね」

「うむ」

 信繁の話しかけたことに、信玄は一言唸っただけだった。その後は黙したまま、剃り上げた坊主頭を時折撫でながら、ひたすら図面を凝視している。

「昨年は大軍を率いての上洛と長期滞在、今年は越中に出陣したかと思えば、今度は関東に侵攻し、どうやらそのまま越年する様子。ひょっとすると、来年は小田原まで攻め込むつもりではないでしょうか」

「父上、我らがこのまま手をこまねいていて良いのでしょうか」

 典厩信繁の話に、被せるように発言したのは、嫡男の太郎義信だ。この時、二十三歳の若者の、気持ちが逸るのも無理はない。

「何も手をこまねいているわけではない」

 義信の生意気とも取れる発言に対して、信玄はぴしゃりと言い放った。

「小田原からは越後国境を脅かして欲しい、と矢の催促じゃ。越中の神保が、いとも簡単に敗走したことは想定外であった。しかし、海津の城が完成したことで、ようやく北信濃攻略の足掛かりが出来た。来年の雪溶けを待って、源五郎が越後国境に向けて仕掛けるはずになっておる」

 源五郎とは高坂虎綱の幼名である。高坂虎綱はこの年の永禄三年に完成した海津城の城代を担っていた。

 海津城は千曲川の河畔東側に位置し、西に位置する塩崎城と共に、越後勢の南進を妨げることを主眼に築城された一大拠点である。

 従来からその近くにある尼巖砦は山城で小規模のため、前回の景虎との戦では、殆ど役に立たないことを思い知らされていた。そこで、その麓の平地に二年近くの歳月をかけて完成させたのが海津城だった。

「それでは、高坂殿が越後に攻め入るのですか」

「左様に事が容易ければ苦労はせぬ。北信濃には越後方の出城や砦が未だ数多く残っておる。それらを牽制しながら国境を脅かすことだけでも、如何に難しいことか考えてみよ。源五郎にとっては、良い腕の見せ所にはなるが、果たしてどこまで出来るか。いくら長尾弾正が留守とはいえ、留守居役として直江、それに上田長尾といった智将が控えておる。そう易々と攻め込むことなど出来るはずもあるまい」

 義信の短絡的な問いかけにも、気持ちを鎮めて応える信玄を気遣い、弟の典厩信繁が更に優しく補足した。

「太郎殿、小田原殿も我らによる越後侵攻が容易いなどとは、微塵も考えてはおらぬはずです。ただ、これ以上、長尾勢が関東に居座ることがないよう、つまり、一日も早く長尾勢が帰国するように、同盟の誼で信越国境を牽制して欲しい、と頼んできているのですよ」

 典厩信繁は、これ以上義信が詰まらぬ話を口にして、兄・信玄の機嫌を損ねることがないように、敢えて話の矛先を変えた。

「ところで兄上、ここ二年間の間の大飢饉で、国の懐具合は相当痛んでおります。それは越後とて然程事情は変わらぬはず。それにも拘わらず、景虎が大軍を引き連れての上洛や、関東への大遠征といった動きが出来るのは、どういうからくりがあるのでしょう」

「それは詳しく、大熊に聞いてみるがよい」

 大熊とは景虎に謀反を起こし、甲斐に逃げ込んだ大熊備前守朝秀のことだ。

「越後には有名な青苧があり、海もあり、川も広い。海を利用した物流は、我らの想像を超えた利を産むらしい。また、青苧や産物の運搬には川を利用して、そこにも通行税を課すらしい。とにかく、然程さほど、銭には困らぬらしいのだ。我らもいずれは海を手に入れる時が来よう。そのためには、何としても力を蓄えねばならぬ。越後には負けることなど、断じてあってはならぬ」

「父上、もしや駿河に攻め入ろうなどと、考えておられるのでは」

 信玄の何気ない一言に、義信は敏感に反応した。信繁は内心『しまった』と悔いたがもう遅かった。

「駿河の今川家は、我が妻の実家でございます。北条と同様に同盟している国ではござりませぬか。今川の義父上が討ち死にされたからといって、左様な不義だけはお止めください」

「分かったような口を開くではない。それに誰も駿河に攻め入るなどと言ってはおらぬ」

 信玄の強い口調に対しても義信は、この時ばかりはひるむことがなかった。

「しかし、父上は先ほど、越後には負けられぬ、とおっしゃいました。父上が長尾弾正を警戒していることは分かっております。であれば、越後の海を手に入れることなど、今は念頭にないはず。他に海が手に入るとすれば、駿河を置いて他にはございませぬ」

「それは物の例えというものじゃ。どこの海ということを念頭に置いて言ったのではない。もうよい、この話はこれで終いとする」

 釈然としない話であり、苦しい言い訳でしかない。全く納得していない様子の義信の顔色を窺い、信繁はまた別の話題に矛先を変えることにした。

 日頃の信繁は、信玄の御機嫌取りなどでは決してない。しかし、信玄と嫡男である義信の仲を取り持つことが出来るのは、自分しかいないことも分かっている。武田家の将来にとって、親子の不和が、良い方向に行くわけなどない。ここで二人の仲を気拙くしてはならない。その思い一心で責任感の強い信繁は、精一杯気を使っているのだ。

「兄上、その長尾弾正が山内上杉家の名跡と関東管領職を引き継ぐ、という噂はまことでございましょうか」

「うむ、その流説は真のことらしい。どうやら、上洛の折に、京の公方様からお墨付きを得ておるようじゃ」

 信玄は甲斐国に合わせて、信濃国守護という立場を手に入れたまではよかった。しかし、信濃については、約束を反故にし、攻め入っているとの理由で、将軍義輝から撤回の御内書を受理している。その御内書は無視しているとはいえ、関東管領となる景虎とは立場上大きく差がつくことになるから、内心穏やかではない。

 ましてや、信玄には新羅三郎義光以来の、源氏の名門であるという、決して譲れない矜持がある。かたや、景虎が上杉の名跡を継ぐとなれば、同じ源氏一門に名を連ねることになるのだ。そのような不条理を信玄が黙って見過ごすはずがなかった。

 その心情を知っているから、信繁も口に出そうか迷ったが、いずれは話題となることである。ここは親子の不仲を避ける方が大事だった。

 信玄は、そんな弟・信繁の心の内を見透かしたかのように、見栄を張り、むしろなだめるかのように付け加えた。

「典厩、心配には及ばぬ。儂は全く気にしてはおらぬ。小田原は簡単に滅びるほど弱くはない。長尾弾正が雪深い越後を本国とする以上は、関東管領とは名ばかりのお飾りとなろう。関東も長尾勢が帰国した後で、勢いを盛り返せばよいだけのことじゃ」

「仰せの通りですが、関東には北条殿を成り上がり者と非難し、従うことを是としない国衆が数多いると聞いております。それらが皆、長尾弾正に従うとなれば、北条殿も、うかうかとはしておられますまい」

 典厩が懸念していることは、信玄のそれと同じだった。信玄はこれまで黙していた重大な決意を、信頼できる弟と嫡男だけには、この機会に話すことにした。

「そなたの申す通りじゃ。だから、此度は何としても、小田原には踏みとどまって貰わねばならぬ。これまで、儂は長尾弾正との戦を極力避けて参った。無駄な犠牲は出したくないからな。しかし、奴が形だけとは言え関東管領となれば話は別じゃ。一度は痛い目に遭わせて、誰が真の東国の覇者なのかを、この機会に天下に知らしめねばならぬ」

「すると父上、いよいよ越後との決戦をお考えですか」

 血気盛んな太郎義信が、目を輝かせて信玄に問う。

「そう急くではないぞ、太郎。長尾弾正は強敵じゃ。正面切っての勝負は、奴が望むところ故に、奴の土俵で相撲を取るわけにはいかぬ。しかし、次こそは何としても、我らが大勝利を収める必要がある。そこで奇襲の機会を探ろうと思う。奴も生身の人間じゃ、必ずどこかに隙を見せるはず。そこを突いて勝機を見出すつもりじゃ」

「兄上はその時期がいつ頃とお思いですか」

 典厩信繁も、兄の並々ならぬ決意を聞いて、些か興奮気味だ。

「むろん、それは奴の帰国時期による。儂の予想では、氏康殿は景虎の如何なる挑発にも乗らずに、小田原城に籠城すると見ておる。そこを一旦は越後勢を中心に関東の集まった国衆が、取り囲み攻撃を仕掛けるであろう」

「しかし、小田原城は難攻不落と言われております。いくら長尾弾正が戦上手とはいえ、簡単に落とすことなど、出来ないのではありませんか」

 今度は太郎義信が横から口を挟んだ格好だ。

「その通りじゃ。となると、弾正に付き従ってきた関東の国衆も、この二年の大飢饉で、兵糧が長く持つとは考えにくい。撤退の声を上げる国衆を、景虎がどれだけ抑えられるか。それに加えて、我らが北信濃から越後国境を脅かす動きも気になるはず。そこで景虎は小田原まで攻め入ったことで、参陣した関東国衆への面目は立ったと考える。どんなに遅くとも、夏前には帰国すると考えるのが、妥当な線であろう。となれば、戦を仕掛けるのは自ずと今秋になる。休む間を与えず叩く、というのが上策じゃからな」

 典厩信繁は、信玄の見通しに納得した様子だ。

「これまで長尾弾正景虎には、幾度となく苦い思いをして参りましたが、今度こそ我ら清和源氏の末裔の名にかけて、一泡も二泡も吹かせてやりましょう」

「うむ。しかし典厩、心して懸からぬと痛い目に遭う相手だということも忘れるな」

 信玄は典厩をいさめた言葉だったが、それは、自らに言い聞かせる自重の言葉でもあった。

 躑躅崎ケ館の外では、先ほどまで降り頻っていた雪が、いつの間にか止んでいる。その後に訪れた静寂の闇が、白銀の世界をすっぽりと覆っていた。


 景虎は激動の永禄四年(一五六一年)を、厩橋で迎えた。

 小田原攻めに当たっては、上野国や下野国をはじめとして、武蔵・上総・下総の各国衆が駆けつけることを約してきたが、景虎の内心は未だ穏やかではなかった。

 それは、反・北条の急先鋒であり、小田原攻めの先頭として名乗り出てくると思われた、常陸国の佐竹義昭と安房国の里見義堯が、新年を迎えても一向に参陣の有無を明らかにしていないからだった。その二人の去就次第で、参陣の有無や将兵の数にも影響しかねない。

 景虎は考えた。

 佐竹と里見は儂を警戒しているに違いない。きっと、儂が小田原の氏康と同じように、関東に領地を広げ、我が物にすることを狙っている、と疑っているはずだ。

 こう考えた景虎は、自分に次ぐ名の知れた将を、かの地に向かわせることにした。かかる疑念を晴らすには、景虎の真心を体現出来る者が必要だ。

 景虎は直ちに筆を取ると、坂戸と春日山に向けて、それぞれに急使を走らせた。

 急使が携えた書状には、長尾政景に春日山城留守居役を担って貰い、現在、留守居役の直江実綱には直ちに厩橋城まで下向するよう、指令する内容が書かれてある。

 かくして、直江実綱は厩橋城に急行した。永禄四年(一五六一年)二月のことである。

「殿、急なお呼びで驚きました」

「済まぬ。儂の名代として、ここは与兵衛尉しか任せられる者はおらぬと思い、急ぎ呼び寄せたのじゃ」

「では、そのお役目とは」

 さすが、何を言われても覚悟は出来ているという面構えだ。

「既に戦況は報せてある通りじゃ。これから目指すのは敵の本城・小田原だが、反小田原急先鋒であるはずの常陸国の佐竹殿と安房国の里見殿が、未だに参陣を渋っておる。これは恐らく。ご両家ともに儂が小田原の氏康と同じように、領土拡大が目的の越山と疑っているのであろう」

「それは数年前に殿が上野国で示した戦と、その後の仕置きでも、左様な下心がないのは明らかではござりませぬか」

「いいや、此度こそ本性を表わすのではと、懐疑的になっているに違いない。そのうえ形ばかりとは言え、一度であっても儂の指揮下で戦をすることに、躊躇ためらいがあるとは思わぬか。特に佐竹殿は清和源氏の流れを汲み、祖は一時関東管領職にあった名門という矜持がある」

「それは真に厄介なことで」

「そこで、お主に白羽の矢を立てたということじゃ」

「なるほど、それぞれ両氏に会って、殿の真意を飾ることなく披露し、理解して貰えということですな」

「さすが、話が早い。それが出来るのは他におらぬ。引き受けてくれるか」

「そこまで殿に云われては、否とは申せませんな」

「これから我らは軍を南に進め、鎌倉そして小田原を目指して進軍する。お主にはその行軍の途中で道を違え、我が書状を携えて、両氏との会見に向かって貰う」

「承知いたしました。ところで殿、武田の動きが気になります」

「やはりそうか。昨年、千曲川の東岸に完成させた海津の城の噂は、幻の者の報せで掴んでいる。小田原の要請を受けておるに違いない。恐らく、雪融けを待って、北信濃を騒がせるつもりだろう」

「ええ、代わって春日山に入った新五郎殿(長尾政景)も、信濃には十分に目を光らせておりますので、大事には至らぬかと」

「うむ。義兄上のことだ。高梨の叔父上と上手く連携を図りながら、敵をいなしてくれよう」

「ただ、気になるのは海津城代の高坂虎綱とやら、なかなかのやり手との評判でございます。油断は禁物かと存じます」

「まあ良い。奴らが信濃で胡坐あぐらをかいていられるのも今のうちじゃ。関東の仕置きが済んだら、今度こそ決着をつけてやる」

「されど、武田は殿との決戦を避けてばかり。いくら挑発しても、全く意に介さないのがこれまでの遣り口でございますぞ」

「左様、しからば、次こそは否が応でも戦いの舞台に引きずり出してみせる」

「殿には何やら秘策があるようですな。では、この与兵衛尉はただ付き従うまでのこと」

「今度こそ雌雄を決する大戦になろう。そのためにも、お主にはこの役目を果たし、無事戻って貰わねば困るのじゃ」

「ご心配には及びませぬ。お任せください」

実綱の自信ありげな声は、交渉の成功を確信させるに十分だった。

 それより数日後、景虎は厩橋うまやばし城を発ち、上野国から武蔵国へと軍を進めた。

 かねてより合力する旨を表明していた深谷城の上杉氏、忍城の成田氏、羽生城の広田氏、岩槻城の太田氏らも合流し、先ずは武蔵松山城を囲んだ。

 氏康の軍令もあって、当初、城門を固く閉ざして籠城を決め込んでいた、城主の上田朝直父子だったが、景虎軍の猛攻に遭い、堪らず夜陰に紛れて城を脱出し、小田原に逃げ込でしまった。

 この武蔵松山城には、岩槻城主の太田資正を城代に据えて、景虎は更に南下した。

 この太田資正は長野業政が救援を求めて春日山城を訪れていた時に、北条軍の猛攻に遭い、やむなく北条に鞍替えしたその人である。

 景虎の勢いは止まらない。兵を一挙に鎌倉まで進めると、これを攻略した。永禄四年(一五六一年)二月も下旬を迎えていた。

 鎌倉攻略に前後して、下野国の小山秀綱をはじめ、景虎の下に参じる関東の有力諸将が後を絶たない。そこに待ち焦がれていた人が戻って来た。

「直江与兵衛尉殿、ただいまご帰還にございます」

 その報せを耳にして、景虎は実綱のもとに駆け寄っていった。

「待っていたぞ、与兵衛尉」

 直江実綱は武蔵国に入ると、景虎軍から離脱し、東に向かっていた。常陸国の佐竹義昭と安房国の里見義堯に会い、参陣を乞うためである。むろん、実綱に先立って、両者には我が名代として訪うことを報せてある。決して粗略には扱われまいとは思っていた景虎だったが、やはり、無事な姿をその目で見るまでは、内心気が気ではなかった。

「殿、両氏ともに、追って馳せ参じることを約束してくれましたぞ」

 開口一番、実綱から発せられた言葉である。一刻も早く、景虎に伝えたかった一言だった。 

「よくぞ、やってくれた。お二人の様子は如何であった」

「お二人とも、殿がご懸念されていた通りでございました。ことに佐竹義昭殿は、殿とは一つしか歳の差がないせいか、相当対抗心を燃やしている様子でした。軍門に下るのではなく、あくまでも同盟軍として対等な立場であれば、喜んで参陣するとのこと」

「やはりそうであったか。儂への疑いは如何であった。侵略する意図など皆無であると分かって貰えたか」

「その点につきましても理解頂こうと、誠心誠意、話したつもりです。殿は聖道を尊ばれる稀有な御方であり、弱き者を助ける義の武将であると。また、此度の関東遠征も、あくまで関東の地に正しき秩序と静謐せいひつをもたらし、世の安寧を図るためのもの、領土拡大の野望など皆無であるとも説きました」

「それで両者は何と言っておった」

「俄かには信じられぬと」

「さもあらん。しかし、そなたのことじゃ。何も言わずに戻ってきたわけではあるまい」

「ご明察の通りです。あくまで、我が個人の見解と前置きしたうえで、次の通り申して参りました」

「うむ」

「越後は四方を敵に囲まれた国。特に関東はこのまま小田原殿が勢力を拡大すれば、今は対岸の火事でも、やがては大きな火の粉が越後に降り注がれることは必定。そうなる前に、反・小田原の旗を掲げる関東の皆さまと手を携えて、越後への侵略を未然に防衛する必要があり、こうして主の命を受けて参った次第。従って、越後勢の参陣は決して侵略目的にあらず、あくまで事前の自国防衛を目的としたものである、と説きましてございます」

「うむ、それを聞いた両者の反応は如何であった」

「二人とも、多少は合点がいった、という表情をしておりましたが、果たしてどこまで信用されたかは計りかねます」

「それで良い。此度は、先ず佐竹・里見の両軍が小田原攻めに参戦することに、一番の意義がある。儂の本意は追々分かって貰えばそれでよい。大儀であった。休む間もなく、さぞかし老体には堪えたであろう。先ずはゆるりと休むがよい」

「有難うございます。しかし、これから殿の大勝負という時に、休んでなどいられませぬ。老体は老体なりに働いてみせますので、ご心配には及びませぬ」

 二人は思わず笑っていた。景虎は口には出さずとも、誰より安堵し、また心の中では深く感謝していた。

 数日後、常陸国・佐竹義昭の軍勢が鎌倉に着到した。安房の里見義堯は二日前に着き、景虎との陣中での対面を済ませている。

 反・小田原の旗に参陣した軍勢は、遂に十万余に膨れ上がっていた。鎌倉の街中は、活気で溢れ返っている。聞くところによれば、足利尊氏の弟・直義が一時治めていた幕府草創期以来のにぎわいらしい。

 景虎は佐竹義昭を自らの陣中に招き入れた。

「佐竹殿、よくぞ参陣を決断してくだされた。佐竹殿のご加勢は、百万の味方を得たに等しい心強さでござる。長尾弾正景虎、ここに深く礼を申す」

「長尾殿、どうか遅参を許されよ。過日は越後第一の忠臣として、ご高名な直江殿をわざわざ使者として遣わして頂き、ご足労をお掛けいたした」

「いやいや、佐竹殿に我が本意と真の心の内を知って貰うには、直江与兵衛尉実綱を置いて他にはおりませぬ。どうか、お気になさらぬよう。我が本意は未だに懐疑的かもしれませぬが、それも致し方ないと心得ております。それは、これからの関東における我が振る舞いと仕置きをもって、得心頂く他ないと思っております」

「なるほど、越後国主として自らの言動に、余程自信があるとお見受けする。何故に直江殿があのように、真剣なまなざしで訴えかけてきたか、これで少しは分かった気がします。あの時の直江殿は、まさに長尾殿が乗り移って、語りかけているようでした」

「はて、直江がどのような様子で、佐竹殿に訴えかけたのかは存ぜぬが、失礼があったのであれば、平にご容赦願いたい」

「失礼など、とんでもない。実に羨ましい主従関係とお見受けしました」

 佐竹義昭は緊張が幾分和らいだとみえて、口元には微かな笑みを浮かべている。

「そのように思って頂けたのであれば、実に有難きこと。直江も今のお話を聞いたら、さぞかし喜ぶことでしょう」

 残念ながら、この日、実綱は鎌倉にいない。朝から小荷駄に問題がないか点検の後に、斥候を兼ねて、小田原に向かう道のりの踏査に出向いている。夕刻には戻り、直に報告を受けることになっていた。

「宜しくお伝えくだされ。こうして、直に長尾殿お会い出来て本当に良かった。常陸から出張ってきた甲斐がございました」

「こちらこそ、こうして佐竹殿と直接お話が出来て、失礼ながら、些か心が通えた心地がしております」

「長尾殿」

 佐竹義昭の顔が急に引き締まった表情に変わった。

「何でござろう」

「こうして小田原攻めに参じたからには、憎き北条の息の根を止めるまで、徹底的に叩き潰したい、というのが我らの本音。しかしながら、近年の大飢饉のため、十分な兵糧を確保出来てはいないのが、当家の懐事情であり、内情はいずこも似たようなものと存ずる。恐らく、敵は野戦を避けて籠城戦に持ち込み、我らの兵糧切れを待つものと考えるが、長尾殿は如何いたす所存か。ご存念を伺いたい」

「左様、此度は兵糧の不足が悩みの種。小田原城を包囲しても、我らの兵糧の蓄えでは、せいぜい一か月が限界といったところでしょう。しかし、何もせぬうちから撤退ありきでは、既に城攻めを放棄したのも同然です。小田原城は難攻不落の名城と噂には聞きますが、必ずどこかに弱点があるはず。先ずはその弱点を見つけ出すことに全力を注ぎ、発見次第、そこを潰しに懸かりたいと考えております」

「それでも弱点が見つからない場合は」

「兵糧が持たぬと判断した場合は、参陣頂いた同志の皆さんには申し訳ないが、潔く包囲を解き引き上げるしかないでしょう。兵糧が尽きても戦う、などという愚策は決して取れませぬ」

「それを聞き安堵いたしました。もしも、長尾殿が包囲の続行を叫んだとしても、それぞれの判断で退陣してしまうでしょうが」

 冗談めかして言った義昭の話は、その通りになるだろう。飢えてまで戦う気概など、誰も持ち合わせてはいないはずだ。

「しかし、本音を申せば、遠路越後から小田原の地まで足を延ばし、敵の本城を目の前にしていながら、退却せざるを得ないというのは、如何にも無念というしかありませぬ」

「それは我らとて、思いは同じ。そこで長尾殿にひとつ提案したいのですが」

「何なりと承りましょう」

 少し居住まいを正して義昭は語り始めた。

「我らは打倒・小田原という目的では一致をみている。そして、意気込みと目測には、多少なりとも差があるとは申せ、此度の攻城での決着は微妙かもしれぬ、という認識も共通している。そこで、今後も我らは固く同盟して共に戦い続けることを、ここで約したいのだが、ご同意いただけないだろうか。里見殿にも後日、お声がけしてみようと思うのだが」

「それは願ってもないことです。喜んでちぎりを交わしましょう」

 景虎は突然の提案に内心戸惑いながらも、喜びを隠せない。

「我が太田城を訪ねてこられた折に、直江殿が言われていたことはどうやら本当のようですね。こうしてお会いして、貴殿は信ずるに足る御方と拝見いたしました。京の公方様が、貴殿を関東管領に推挙したことも、漏れ伝わり聞いておりましたが、それも頷けます。これまでの数々のご無礼をあらためてお詫び申し上げたい」

「左様なお詫びなど無用です。何よりも、我が本意をお分かり頂けたことが、何よりも嬉しゅうございます。我らが力を合わせれば、小田原にとっては、かなりの脅威となりましょう。宜しくお頼み申します」

 こうして、義昭と心を通わせ、北関東に心強い味方を得ることになった景虎だった。しかし、わずか数年の後に義昭を襲う病魔によって、景虎の目算は大きく狂い始めることになる。


 永禄四年(一五六一年)三月初めの暦を迎えていた。

 小田原攻めに先立って、景虎の一番の懸念事項は、寄せ集めに過ぎない十万を超える軍勢の、秩序維持にあった。それぞれの軍が勝手な振る舞いを行えば、自ずと指揮系統が乱れてしまい、戦の趨勢にも影響しかねない。そこで、景虎は直江実綱・柿崎景家・斎藤朝信らに、諸将の陣を回らせることにした。

目的は、関東の諸将に対して、予め用意していた陣中見舞いの品々を届けると同時に、景虎が定めた当陣中における軍令規律の遵守を求めることである。

 その効果は覿面てきめんであった。陣中見舞いを届けて貰ったうえで、協力を求められれば、否とは言えないのが人の常である。ましてや、坂東武者としての意地と矜持もある。

 遂に十万余の大軍が動き出した。その行軍は、とても寄せ集めの軍とは思えない。整然と隊列を成し、一糸乱れることなく、見事に統率が取れたものである。海岸沿いの道を西に向かって粛々と歩を進める。目指すは北条氏康・氏政父子が籠る小田原城である。

 一方、北条に味方する国衆も、決して指を銜えて待っていたわけではない。

小田原からは引き続き籠城の徹底が厳命されていたが、抜け駆けの功名を立てようと、密かに討って出ようとする輩が現れていた。

 これらは関東諸将連合軍が、所詮は『烏合の衆』と舐めてかかってきた輩である。戦術は小手先の夜襲や奇襲でしかない。景虎の指揮下にあっては、一部の隙すら見せることはなく、瞬く間に蹴散らされていた。

 三月半ばには、田原城主である大藤秀信の軍勢が、中郡大槻で兵を埋伏させていた。右横合いから突如湧き出たかのように攻め立ててきたが、景虎が慌てることはなかった。これを遠巻きにしてから包囲を縮め、後は圧倒するだけだった。この埋伏は、斥候を兼ねた幻蔵率いる一党の手により、予め景虎の下にもたらされていた。

 小田原が迫るにつれて、曽我山や怒田山からの攻撃で、一時戦闘が激化したが、これらも景虎率いる大軍の敵ではなかった。

 三月下旬、遂に景虎は小田原城を西方に望める酒匂川沿いに到着し、そこを本陣と定めた。

 景虎が本陣から真っ先に指令したのは、小田原の街への放火だった。敵の埋伏先として恰好の場所となる家屋を、そのまま残しておくわけにはいかない。戦の常套手段としては、城だけを残して周囲を丸裸にすることだった。 

 無論、これは景虎にとって苦渋の決断である。

 大軍が攻め寄せて来ることを知った小田原の民は、既に郊外へと逃げ去った後であり、街中が『もぬけの殻』であることは確認している。それでも罪なき民の住まいを灰塵に帰することに、景虎の心は痛んだ。

 小田原の街は三日三晩、空を赤く焦がし燃え続けた。その焦げた匂いが充満するなかを、大軍が小田原城を包囲した。

 まさに蟻一匹すら逃れる隙間がない程、十万の将兵によって、城の周囲は埋め尽くされている。ここまでは景虎の予定通りだった。しかし、未だ緒戦ですらない。これからが、本当の戦いであり正念場なのだ。

 敵は相変わらず城門を固く閉ざして、攻め込む隙を一切見せていない。味方の誘い水にも、一向に応じる気配がない。強硬手段で、城門に迫ろうとすると、すぐさま狭間から火縄銃と弓矢で応戦してくるので、手の打ちようがない有様だった。指揮官からの指令が末端の兵にまで行き届いている証である。

 こうして、天下の名城と謳われる小田原城攻囲は、膠着状態のまま、瞬く間に十日間が過ぎていった。味方の兵糧が底をつく前に、城の囲みは解かねばならない。時間との戦いでもあり、先延ばしには出来ない。その時は刻一刻と迫ってきている。

景虎は、先ず、本陣に諸将を招き入れて、自らの存念を直接披露することにした。その招き入れに応じて、次々と諸将が陣幕内に集まってくる。

 佐竹氏、里見氏、佐野氏、小山氏、宇都宮氏、太田氏、成田氏、広田氏、酒井氏、山室氏といった錚々たる顔ぶれが一堂に会することになった。

 景虎の隣には関東管領・上杉憲政が座しているが、顔色が冴えない。理由は分かっている。バツが悪いのだ。それでも、懐かしい国衆もいるはずで、それらを前にして、さぞかし機嫌も少しは直るかと思っていたが、少々当てが外れたようだ。

 景虎はゆっくりと一同を見渡した後に、全員に向けて語り始めた。

「今日、お集り頂いたのは他でもありません。小田原城攻めの今後についての存念を申し上げたいと思います。その前に、ここまで参ることが出来たのは、偏に皆様のお陰であり、お隣の関東管領・上杉憲政公に成り代わって御礼申し上げます。我らは打倒・小田原という同じ目的を果たすために集まった同志であります。出来ることなら、このまま城の攻囲を続け、敵を打ち滅ぼすまで戦い続けたいところです。しかしながら、お味方の兵糧も徐々に底が見えつつある中、これ以上の攻囲は困難と心得ます。よって、明日の総攻撃をもって、打開の途が開けぬ時は、攻囲を解き退陣も止む無きもの、と考えますが如何でしょうか」

 景虎はあらためて、全員の顔を見渡した。案の定、いずれの顔にも反対の表情を浮かべる者はいない。本音では、一刻も早く陣払いし、帰国の途に就きたいのであろう。

その時、一人の武者が声をあげた。

「ひとつ、申し入れても宜しいでしょうか」

 それは武蔵国・岩槻城主の太田資正だった。憲政の機嫌が優れない一因は、他ならぬこの方のせいかもしれない。

 太田資正は現在岩槻城主だが、もともとは武蔵松山城主でもある。景虎は、先般の武蔵松山城攻めで功があった資正を、城代に任じたばかりだったが、憲政の機嫌が芳しくないのはその時からだ。憲政にとっては、遡ることおよそ十年前、北条勢の猛攻に屈して裏切り、鞍替えしたその人だからだ。

 北条に鞍替えをせざるを得なかった、資正の当時の悔しさなど、知る由もない憲政である。

憲政にとっては、太田資正が長野業政と共に、最後まで自分の味方であると、一方的に信用していた相手だけに、裏切られたことへの憎しみは一入ひとしおだった。 

 その太田資正が、再び鞍替えして味方として参陣してきている。しかも、旧主である上杉憲政の前で、過去のことなど一切忘れてしまったかのような態度でいるのが、一層気に食わない。

 景虎自身も次の言葉を聞くまでは、そんな資正をどこまで信用していたかは疑わしい。しかし、それを言ってしまえば、参陣しているこの中に何人信用出来るか、分かったものではない。景虎は余計な先入観を持たずに、ひたすら丁重に向き合うことだけを心掛けた。

「太田殿、何なりと承りましょう」

「それがしに、大手の蓮池門攻めをお命じくだされ」

 景虎はその意図を即座に理解した。この御方は十年前の鞍替えせざるを得なかった悔しさを、今でも決して忘れてはいないのだ。いや、むしろずっと恥じ続けている。憲政の御前で、総攻めの中でも、特に難しい大手門攻めを自ら申し出ることで、少しでもあがないたいと思ったに違いなかった。

「太田殿、よくぞ申し出てくださいました。蓮池門を破ることが叶えば、一挙に城内に侵入し戦況打開が図れるかもしれません。他の皆さんも、太田殿に蓮池門攻撃の御先手を、お任せしても宜しゅうございますか」

 反対の声が上がるはずもない。蓮池門の守りは固く、そう容易く敗れるなどと、誰も思っていないからだ。それどころか、敵の出方によっては大量に犠牲を出してしまうかもしれない。火中の栗を拾うような役目を担うことは、誰もやりたくないのが、正直な気持ちだった。

 景虎自身も、太田資正がどこまで蓮池門を真剣に攻め立てるかは未知数だ。しかし、自らその難役に手を上げてくれたからには、全面的な援護を惜しまないつもりだ。

 景虎はつい先ほどまで、蓮池門攻撃には先鋒として、斎藤朝信を当てるつもりでいた。しかし、後詰めとして太田軍の背後から援護するよう配置すれば、より効果的な攻撃になるに違いない。

 明日の攻撃手順に思いを馳せていると、些かかすれた声の人物から言葉が上がった。

「蓮池門攻めについては異論ござらぬが、ひとつお伺いしても宜しいかな」

 その声の主は武蔵国・忍城主である成田長泰だった。還暦を越えても意気盛んな老将である。成田氏は、古くは藤原氏の流れを汲む関東の名門である。

「何でございましょうか、成田殿」

 成田長泰は、前年から早々に合力を約束してくれている国衆の一人だ。武蔵松山城攻めにおいても、早速、参陣を果たしている。

「長尾殿は、明日の総攻めをもって打開策が見いだせぬ時は、退陣やむなしとのお考えと承った。我ら成田衆も兵糧の残りは心許なく、退陣には異論ござらぬ。しかし、問題はその後じゃ。長尾殿は、小田原から退いた後、関東の仕置きを如何考えておられるのか。この機会に是非とも伺っておきたい」

 その発言は景虎にとって唐突なものだったが、冷静に考えれば尤もな話だった。この戦に参陣してきた諸将の多くは、上杉憲政の恩義に報いるためでも、ましてや景虎に臣従してきた訳でもない。単に「打倒・小田原」を掲げて集まってきたに過ぎない。

 景虎が越後に戻れば、伊勢(北条)が反転攻勢をかけてくることを、誰もが想定しており、それが一番不安に違いなかった。ここは、あやふやな言葉でお茶を濁すことは出来ない。しっかりとした自らの覚悟を示して、結束を図る必要があった。

 景虎はこの機会に、全てを披露することが相応しいと判断した。

「お応え申し上げましょう。先ず、関東における公方様は、正当な継承者である足利藤氏様に継いで頂こうと思います。そして、その古河御所には関白殿下であらせられます近衛前嗣様と、上杉憲政公にもお留まり頂き、藤氏様をお支え頂くつもりです。そして、この不肖長尾弾正景虎、前の上洛の折に、畏れ多くも京の公方様より直々に、関東管領職を継ぐように、との命を頂戴いたしました。かくなるうえは、上杉の名跡を引き継ぎ、藤氏様を輔弼し、関東の地に安寧をもたらせるよう力を尽くす所存でございます」

「それは目出度い。しかしながら、長尾殿は越後の御方。特に冬は辺り一面が雪に囲まれ、関東との行き来は儘ならぬらしいではござらぬか。左様なことで、小田原の脅威から関東の地を、果たして守れるものやら。かような不安を抱いているのは、決して我一人にあらずと思うが如何であろうか」

 成田長泰は全く臆することなく、ことの本質を突いてきていた。景虎もここで引くことは出来ない。

「我が名代として厩橋城に、信頼できる部将を据え置いて、決して小田原の好きなようにはさせぬつもりです」

「どなたが厩橋に留まるかはともかく、失礼を顧みずに申し上げることをご容赦願いたい。小田原と対等に渡り合えるのは、長尾殿ご本人を置いて他にはいないと存ずる。もし窮地に陥った時に貴殿が雪に閉ざされてしまい、身動きが取れない時は如何するおつもりか」

「我が家来衆を左様に甘く見られては些か心外です。それに、越山の要請を受け次第、この長尾弾正景虎が、いずこに居ようとも、また例え豪雪の中であっても、それを掻き分けて必ず駆けてみせますので、どうかご安心ください」

 むろん、この覚悟には嘘偽りはない。しかも、それを実証する日が、すぐこの年末にやってくるのだ。

「なるほど、そのお覚悟たるや、お見事でござる。是非、その言葉を忘れずに、今後も我らにお力添えくだされ」

 言葉とは裏腹に、成田長泰は未だ景虎の言葉を信じてはいないとみた。もともと懐疑心が強いから、信じる気がないと言った方が正しいのかもしれない。

 この時、景虎は近いうちに長泰が小田原に寝返ることを直感していた。他にも同調する者が出るかもしれない。

 しかし、この場は明日の総攻めを決める軍議の場である。成田氏の裏切りを、今から考えても仕方がないことだった。それに皮肉なことに、関東管領継承の話を、切り出すきっかけをつくってくれたのが、他でもない成田長泰だった。

 場の雰囲気は決して悪くはなっていない。長泰の執拗な質問に対しても、丁寧且つ真摯に応えた景虎への信頼が、増しているようにさえ感じる。景虎にとっては、総攻撃の士気を高めることが、何よりも先決だった。

 景虎は予め決めていたそれぞれの軍勢の配置を告げ、次のことを遵守徹底するように伝達した。

 先ず、明日の夜明け前には、軍勢の配置を全て完了させること、移動に当たっては敵に気づかれぬよう慎重を期すること、攻撃は景虎本隊の火縄銃による一斉射撃をもって開始するので抜け駆けは禁止すること、移動や退陣は景虎からの伝令に基づき行うこと、である。

 伝達内容について、誰からも異論が出ないことを確認した後、景虎は軍議の解散を告げた。それぞれが自陣に戻っていく。最後に一人残ったのが佐竹義昭だった。柔和な顔で景虎に近寄ってきて、一言だけ告げた。

「お見事な差配でした。これからが我らの戦いの始まりですね」

「お互いに死力を尽くしましょう」

「では、また戦場で」

 そう言うと目礼し、義昭は踵を返した。

 心強い同盟相手がみつかった、景虎は心の底から思っていた。


 永禄四年(一五六一年)三月十三日払暁、辺り一面の静寂を切り裂くように、景虎の鉄砲隊三百丁の銃口が一斉に火を噴いた。小田原城総攻め開始の合図だった。小田原城を取り囲んだ十万余の将兵が、一斉に各城門や城壁に向かって駆け始めた。

 しかし、城の狭間から放たれる矢や鉄砲の勢いが激しく、盾を押し出しながら前進を試みるが、なかなか城門には近づけない。太田資正も斎藤朝信と連携しながら、何とか戦況を打開しようと試みているようだが、一向に進展はなかった。

 景虎の我慢は一時いっとき(二時間)が限界だった。一向に戦況に変化がないことを察した景虎は、しびれを切らして命じた。

「彌太郎、馬引け。孫左衛門は朝信を一旦退かせろ。ここに呼べ。長親は直ちに火縄銃隊全員を連れて来い。源蔵は強弓を扱える弓手百人を揃えろ。新兵衛、太田殿に伝令じゃ。儂が参るまで進軍停止を命じよ。急げ」

「ははっ」

 小島彌太郎と金津新兵衛、黒金孫左衛門、それに秋山源蔵は、この時既に五十のよわいを越していたが、未だ衰えを見せていない。馬廻衆の最古参として益々意気盛んだ。

 準備が整った状況を見届けた景虎は、馬上から大音声で命じた。

「我らはこれから、火縄銃隊と強弓隊を率いて斎藤朝信軍と共に、太田資正殿が攻める蓮池門に向かう。馬廻衆のみ儂に従え」

「殿、それでは兵が少な過ぎます。殿に万が一のことがあったでは済まされませぬ」

 河田長親が心配を口にした。

「安心しろ。こういう時は、むしろ数の多い方が、城からの標的になり易いし、動きが掴まれやすい。数百の中にまさか儂が紛れ込んでいるとは誰も思わぬ。それに、もしものことがあった時は、儂の運もその程度だということだ」

 景虎は笑みを浮かべながら、長親を諭した。

 蓮池門を攻める最前線の太田資正は、慌てた様子で景虎を迎えた。

「太田殿、決して貴殿を責め立てようと参ったわけではありません。これから儂が言う指示に従ってください。その後に攻撃を再開して頂きます。次が勝負です」

 とがめられるのではないことに安堵した資正は、景虎の指示の内容に、幾度となく感心しながら頷くばかりだった。

 噂には聞いていたが、この御方はまさに軍神だ、と心の中で呟いていた。


 敵の動きが止まって約半時が過ぎていた。大道寺政繁は外の敵の様子を確認するために、城壁の狭間から、何気なく見下ろした途端に、冷や汗が流れ出た。

「拙い。すぐさま、城門を固めろ。決して、蓮池門を破られてはならぬ」

 太田軍からの攻撃が、一旦止んだ理由は分からない。城からの集中攻撃にさらされて、半ば諦めたものと、多少、味方に気の緩みがあったと言うしかない。見張りの兵は立てていたが、ほんのわずかな間隙を縫って、敵が間近に忍び寄っていた。

 蓮池にかかる橋と門の左右には長く分厚い盾が、既に据えられており、これでは城からの矢玉が防がれてしまう。

 いきなり、敵方から矢玉が間断なく撃ち込まれてきた。矢は城壁を越えて何人かが犠牲になっている。鉄炮玉が狭間を通過して城兵に命中するのは稀だろうが、これでは城兵が怯んで反撃に移れない。敵は火縄銃隊に弓隊を交えて、三段か四段に分けて、順番に打ってきているらしい。

 このような奇策を誰が思いつくのか。対応を考える間もなく、今度は城門に轟音が響いた。振動が政繁の身体に伝わってきた。

 敵は盾で防御しながら、直径四尺もあろうかという巨大な丸太をぶつけ、城門を破壊しようとしている。どうする、これでは城門が破られるのも時間の問題だ。

 焦るばかりの政繁のもとに、ひとりの若武者が鎧の擦り音を立てて、近づいてきた。

 後北条家・第四代当主の北条氏政だった。この時二十四歳の氏政は、政繁より五歳年下であり、日頃は兄のように慕ってくれているが、ここは戦場である。総大将としての凛とした下知だった。

「駿河守、このままでは城門が破られる。その前にここは討って出るぞ。御本城様(氏康)のお下知じゃ。敵はよもや、我らが自ら門を開けるとは思っていないはず。次に丸太をぶつけてきた時に、かんぬきを急ぎ取り外し開門せよ。行け」


 突如、城門が開かれ、城兵がどっと押し寄せてきた。橋に架かる両脇の盾は瞬く間に蹴散らされて、次々と蓮池の中に落とされていく。もう一、二回で城門は壊され、味方の兵が一気に城内へと雪崩れ込む手筈だった。

 思いもしない敵の攻撃に、一瞬怯んだ太田資正軍だったが、斎藤朝信率いる一軍が入れ替わって、向かってくる敵兵に突っ込み、城兵を押し返した。

 蓮池門前を中心として両軍が広がり、戦況は忽ちのうちに乱戦の様相を呈してきている。こうなると味方の火縄銃は役に立たない。河田長親に命じて火縄銃隊を退かせた。この戦いを長期化させれば、城内からの攻撃が更に加わり、味方の不利は否めなかった。

「もう良い。太田殿に退き鐘で報せよ。お味方の犠牲を増やしてはならぬ。彌太郎、馬廻衆全員を引き連れて、一度切り込んで来てくれ。撤収の隙さえつくればそれで良い。すぐに反転して戻ってこい」

 景虎の下知に従い、馬廻衆五十騎が切り込んで敵を攪乱する。瞬く間に敵兵の首が数個飛ぶ様子が、遠目からでも確認出来た。この騎馬隊の切り込みで敵の動きが、一瞬止まった。

 馬廻衆はすぐさま反転して駆け戻ってくるが、敵も新手の攻撃を懸念して追ってはこない。両軍は睨み合いながら、敵味方分かれて少しずつ後退し始めた。

 やがて双方に間合いが生じると、敵も後方から徐々に城内へと撤退していく様子が確認出来た。これ以上の戦いは諦めざるを得ない。敵の全軍が城内に吸い込まれた後には、両軍合わせて百五十余の屍が残されているだけだった。

暫くすると、前線で指揮していた太田資正が、兜を小脇に抱え息を切らせながら、景虎のもとに参じた。

「もう少しのところでございました。丸太での城門攻撃が、もう二回出来ていれば、我らが先に城内に攻め込んでおりましたものを。実に無念でございます」

「左様、誠に残念でした。しかし、この奇策は二度と使えません。敵の中に我らの奇策に対処する方法を、瞬時に判断した優れた武将がいたのですから、諦めましょう。それに首尾よく城内に攻め込めたとしても、難攻不落と呼び名の高い小田原城内には、如何なる罠が待ち構えているか、全く想像がつかないのです。易々と落城に追い込めると考えるのは早計でしょう。些か惜しい気はしますが、此度はここが引き際です」

「しかし、敵の城門も相当傷んでおり、夜陰に乗じて再度大木を打ち込めば、蓮池門は突破できます。決して無理はしないことを約束しますので、どうかその攻め手をお任せください」

 諦めがつかない様子の太田資正は、景虎に詰め寄った。

「太田殿の勇猛果敢なお働きには、心より感服仕りました。仰せの通り、一旦退いたかに見せかけて、夜討ちを仕掛けるという手もあるでしょう。しかし、それくらいのことは敵も考えて備えているはずです。城門も既に内側から補強している音も、我が配下が耳にしております。これ以上、貴殿に危ない橋を渡らせる訳にはいかないのです」

「しかし、それでは蓮池門攻撃の先手としての面目が立ちませぬ」

「太田殿には十分に御役目を果たして頂きました。もし、これからひと月以上の攻城が可能であれば、新たな策も考えつきましょうが、大方のお味方は兵糧が底をつく寸前です。このまま我らが城の包囲を続けたとしても、他のお味方が続々と陣を解き、帰国の途につかれては孤立してしまうばかりです。此度の戦では、残念ながら雌雄を決することは出来ません。しかし、関東のお味方衆が揃って、小田原攻めを行ったことに大いなる意味があります。ここはお互いに無念の気持ちを押し殺して、刀を元の鞘に収めるのが肝要と心得ます。如何でしょうか」

 ここまで景虎に言われては、さすがの資正も引き下がるしかない。悔しさのあまり、強がってはみたが、本音のところでは、これ以上の犠牲を増やしたくないのも事実だった。

「承知仕りました。しかし、今度、小田原を攻める時は、それがしに再度、蓮池門攻めをお任せ頂きたいと存じます」

「心得ました。その節は是非ともお願いいたしましょう」

 景虎はこの時、佐竹義昭の他にも、その力量はさておき、また一人、関東に心強い味方を得たことに満足していた。

 

「あれを見ろ、案の定、敵が続々と退いていくぞ」

 北条氏康は、小田原城本丸の櫓から、敵の大軍が撤退する様子を眺めながら、珍しく興奮気味に声を張り上げた。

 氏康は隠居の身であり、形式上では氏政が総大将である。

「左様、やはり父上の言う通りでございました。これ以上は兵糧が持たないのでしょう」

「うむ」

 氏康は返事をしただけで、相変わらず撤退する敵に視線を向けたまま動こうとしない。

敵が兵糧に不安があるのは、最初から分かり切っている。しかし問題は、敵が果たしてその常識通りに動くかどうかだった。撤退している軍を目の当たりにしていても、未だ半信半疑である。いつ反転してくるか分らないという不安を抱えたままだ。

関東の寄せ集めの軍勢はともかく、氏康の念頭にあるのは、常に長尾景虎の動向だった。これまでも幾度となく、苦い思いをさせられてきた。この視界から完全に越後勢が消えて見えなくなるまでは、安心できないというのが、偽りなき氏康の本音だった。

景虎の旗印である、白地に黒墨で大きく書かれた「毘」旗が見えなくなって、ようやく落ち着いた氏康は、氏政に話しかけた。

「新九郎、これからが本当の戦いじゃ」

 新九郎とは氏政の通称であり、初代早雲の「伊勢新九郎長氏(盛時)」にあやかった名である。

「父上、これから追っ手を差し向けましょう」

「左様に無謀なことを言うものではない。相手は長尾弾正景虎じゃ」

お前が相手になる敵ではない、と言う言葉を氏康は呑み込んだ。

「しかし、今こそ越後勢にひと泡吹かせる好機ではありませんか」

「何度も同じことを言わせるな。そなたが追い討ちをかけたとしても、到底敵う相手ではない」

 言わないつもりだったが、言ってしまっていた。

「申し訳ございませぬ」

 氏政の顔には、その発した言葉とは裏腹な、如何にも納得できないという気持ちが表れている。

 氏康はその表情を見て思っていた。

 新九郎は些か己の才覚に溺れるきらいがあり、我が強すぎる。それがいつか、あだとならねばよいが、それが少し心配だった。

 氏康は気づかれないように溜息を吐いた。我が嫡男の将来を案じつつも、越後勢が立ち去った東の地平線を、いつまでも眺めていた。


 小田原城攻めを終えて景虎勢が再び向かった先は、鎌倉の地である。

 小田原攻めの論功行賞を終えた後に、あらためて上杉憲政の養子となり、関東管領職を継承することを、公式の場で披露した。

 そして、今は鶴岡八幡宮の大鳥居を前に感慨深く立ち尽くしている。思い浮かべているのは、今は亡き一人の女性のことだった。未だ、蒼衣に約束したことの何一つ実現していない自分だったが、この晴れ姿だけは一目みせたいと思った。

 蒼衣の死から早や七年の歳月が経過しようとしていたが、景虎の心にある想い人は、変わることなくその人であり、色褪せるどころか、年々想いは深くなっている。

 景虎は管領にのみ許された網代輿あじろごしに乗り込んだ。朱柄の傘と梨地の持槍を従え、厳かに鶴岡八幡宮本殿へと進んだ。太刀持ちは柿崎景家と斎藤朝信が務めている。関東の錚々たる武将が居並ぶ中での儀式はまさに圧巻だ。関東諸将は既に大半の将兵を国元に帰し、僅かな供回りだけを残して参列していた。

 景虎は本殿に進み、山内上杉家の名跡を継いだこと、諱も憲政の一字を貰い受け、政虎と改名したことを披露した。ここに、長尾景虎あらため、関東管領・上杉政虎が誕生した。

 政虎は、参列した関東諸将の前で、あらためて次のことを声高らかに宣言している。

 先ず、鎌倉公方は先代・足利晴氏の嫡男ながら、氏康の手によって廃嫡の憂き目に遭っていた足利藤氏とすること。

 第二に、藤氏は古河御所(城)において、関白・近衛前嗣あらため前久と共に、関東の正当な施政者として、その任に当たること。

 第三に、関白・近衛前久は足利将軍・義輝の名代として関東に下向しており、藤氏の継承正当性は疑う余地がないこと。

 第四に、政虎は両者を補佐するためであれば、如何なる困難をも厭わず、必要があれば真っ先に関東に駆け戻ってくること。

 最後に、関東の諸将は、関白と関東(古河)公方を盛り立てて、関東に災いをもたらす伊勢(北条)一族とそれに味方する不逞の輩に対抗すること。

 以上の五項目だった。

 叶うことならば、政虎は参列した諸将の全員から起請文を取りつけたうえで、関東公方の足利藤氏と関白・近衛前久に対して、忠誠を誓わせたかったに違いない。

 しかしながら、坂東武者の血を引く関東の諸将は、独立独歩の気風を強く持ち合わせている。彼らは公方であろうが関白であろうが、その風下に立つことを、決して潔しとはしない。これは長期にわたる関東在陣で、政虎自身が肌身に染みて、感じ取っていたことだった。

 関東管領職を全うするうえで、難しいのはそれだけにとどまらない。自分に有利で旨い話があれば、平気で小田原に寝返ることも厭わない輩が数多いるということも、残念な事実だった。

 政虎も歳を重ねるに連れて、乱世の今にあっては、自分と同じように誠実に義を貫く者が、極めて稀であることも、これまでの経験で感じ取っている。

 であればこそ、京の権威の象徴である関白まで巻き込んだつもりだったが、そのことすらも、どこまで通用するか疑わしかった。このままでは、当初描いていた服従・忠誠は、とても期待出来そうにない。

 永禄四年四月一日、政虎は関東諸将を招き入れ、能楽を催した。そのきらびやかで艶やかな舞台とは裏腹に、政虎の心は冬の海に低く垂れ下がる鉛色の雲で覆われ、決して気持ちが晴れることはなかった。

 しかし、関東の諸将が一筋縄でいかないことは、ある程度覚悟のうえでの関東管領継承だった。もう後戻りは出来ない。ただ突き進むしか、もう道は残されてない。考えても詮なきことだった。

 この頃から、政虎は疲労と心労が祟り、しきりに腹痛を催すようになっていた。現代で言うところのストレス性胃腸炎といったところか。

 最後に祝いの酒を振る舞い、全ての関東勢が帰途についたのを最後に、それまでのお祝い気分を全て取り払い一新した。表面上は上機嫌に振る舞っていた政虎だったが、内心はこれからの関東統治と併せて、越中と北信濃の動向が気になって、お祝いどころの気分ではなかったのだ。

 越中では武田信玄の内意を受けた一向一揆が、頻繁に越後国境を脅かしているらしい。また、北信濃では武田勢との小さな衝突が頻発している状況だった。

 将軍義輝からは、新たな御内書が政虎の下に届いていた。その内容は、本来信濃守護である小笠原長時を、政虎の力で帰国させてあげて欲しいというものである。長時は武田信玄に松本を追われ、今は摂津国・芥川城に身を寄せているという。

 この御内書は政虎にとって、武田信玄を信濃から追い払うという大義名分を得たという意味で、極めて大きな意味を持つものだった。

「与兵衛尉、弥次郎、これより、一足先に越後に戻って欲しい。坂戸の義兄と共に、越中口と北信濃の警護が必要じゃ」

 与兵衛尉は直江実綱、弥次郎は柿崎景家の通称であり、義兄とは留守居役を務めている長尾政景のことである。

「心得ました。それで、殿はこれから如何なさるおつもりか」

 景家が訊ねた。

「儂は先ず古河に参る。関白殿下と藤氏様、そして憲政公に対しては、関東の政事の申し送りが必要じゃ。それが済み次第、今度は厩橋城に戻り、小田原の動向を把握したうえで、しっかり牽制しなければならぬ。春日山に戻るのは、その後になろう」

「であれば、お戻りは五月も末になるでしょうなあ」

 実綱が確認した。

「うむ、恐らくその頃になる。帰国後は直ちに軍備を整え、今度こそ武田信玄を徹底的に叩きのめすつもりじゃ」

「しかし、武田は殿との決戦を避けてばかりですぞ。これまでと同じように、また逃げられるのではありませぬか」

 柿崎景家の懸念は、実綱を除く越後の全国衆が思っていることだろう。

「いや、此度はそうとも限らぬ。儂が関東管領を継いだことは、既に奴の耳にも届いておろう。信玄は儂が関東管領であることなど絶対に認めたくはないはずだ。これまでと違う手を打てば、今度こそ誘いに乗ってくるに違いない」

「それでも、信玄は石橋を叩いて渡る程の、慎重な性格の持ち主ですぞ。そう簡単に参りましょうか」

 景家が伸びた口鬚を撫でながら、あらためて政虎に問いを向けた。

「儂に考えがある。此度こそ、奴を戦場の真ん中に引きずり出してみせる。弥次郎、楽しみにしておれ。その時はお主には存分に働いて貰う」

「それは楽しみですなあ。では国元で、殿のご帰還をお待ち申し上げるといたしましょう」

 景家が豪快に笑った。

「しかし殿、近頃は顔色が優れぬようです。またもや、どこかお悪いのでは」

 実綱が心配そうに声を掛けた。

「なに、些か腹が痛むだけじゃ。ここにきて、幾分疲れが溜まったのであろう。大事ない。それよりも、儂が戻るまでの越中口と北信濃のことは、くれぐれも頼む」

「お任せください」

 景家が胸を軽く叩いてみせた。

「殿もどうか、ご無理をなさらぬよう。我らは首を長くして、ご帰還をお待ちしております」

 実綱は政虎の顔色を見て、もう一度念押しした。


「小田原を陥落させるまでは至らずとも、連戦連勝のお噂は麿のもとにも入ってきましたよ。先ずは祝着至極。さすがは山内殿やまのうちどのとの話題で、皆さん持ち切りでした」

 そのような噂をどこから入手しているものやら。また、山内上杉の名跡を継いだからといって、早速『山内殿』などという呼称を使うあたりが、いかにも公家らしく抜け目がないところだ。

 政虎は古河御所の一室で、関白・近衛前久と差し向かいで一献傾けていた。この部屋は前久がお気に入りの私室として使用しており、奥の部屋が寝所となっていた。前久は名前を前嗣から武家らしく改めただけではなく、部屋も武家様式のまま使うと決めていた。

 先頃発症した政虎の腹痛は、治まるどころか、痛みも日毎増すばかりである。出来得ることなら、この日の宴も断りたかったが、前久に対しては、この機会にどうしても伝えておかねばならないことがあった。

 関東公方の足利藤氏と前管領の上杉憲政、そして関白・近衛前久に対する正式な申し送りは既に終えたが、政虎不在時の舵取りは、近衛前久ひとりに任せる他ない。藤氏や憲政がいない場所で、腰を据えた話が必要だった。

 しかし、そこは酒好きの前久のことである。話は一献傾けながら、とたっての希望を言われてしまわれては、政虎はそれを受け入れるしかなかった。

 腹痛を堪えて、酒を一口流し込んだ政虎は、前久の話には触れず、本題を切り出した。

「関白殿下は既にご承知かと存じますが、この政虎が不在時の政事は、殿下お一人が頼みの綱なのです」

「分かっておりますとも。この関白・前久にお任せあれ」

 いいや分かってはおらぬ、とは思ったが、決して口に出してはならない。政虎は更に続けた。

「どうやら、殿下には耳触りの良い話しか伝わっていないようですが、前の戦では小田原城を取り囲みはしたものの、決定的な打撃を与えたわけではありません。いつまた、伊勢(北条)とそれに味方する輩が、我らに反転攻勢を仕掛けてくるか分らない状況です。また、此度は我らに味方した中にも、いつ寝返るか知れない者がいるのも事実です」

「えっ、それは初耳ですよ」

 盃を置いた前久は、眉をひそめて政虎を見つめた。

「さすがに関白殿下のお命を狙うことは、ないはずですのでご安心ください。であればこそ、この古河御所にお越し頂き、政事をご一任するのです」

「そうは言っても、やはり山内殿がいないとなれば、麿は心配で夜も眠れませんよ。関東に住みたいと言ったことに嘘はないけど、気楽に暮らしたい、ただそれだけなのに」

 やはり、勇ましいふりをしていても、所詮公家でしかない。政虎は内心落胆するが、ここで諦めるわけにはいかなかった。

「この乱世にあって、安全な場所など、日の本中ひのもとじゅうどこを探したとしてもございません。この城はそう易々と陥落する城ではございませんので、ご心配は無用です。それに、いざという時には、厩橋から我が家来が駆けつけますし、常陸国の佐竹義昭殿と箕輪の長野殿が合力してくれる手筈も整えております。岩槻城の太田資正殿も必ず力になってくれるはずです。何よりも、この政虎が見過ごすとお思いですか。必ずや越後から馳せ参じる覚悟ですので、どうぞご安心ください」

「まことに、今の言葉を信じてよいのですね」

「天地神明に誓って」

「ならば、此度は山内殿を信用しましょう。必ず守って下さいよ」

「有難う存じます」

「やれやれ、折角の美味しい御酒が、これでは興覚めしてしまいました。山内殿、飲み直しと参りましょう。今晩はとことん付き合って頂きますよ」

 激しい腹痛に耐えながらも、説得した甲斐があった。ようやく胸を撫でおろした政虎だった。

 永禄四年(一五六一年)六月初め、本来であれば、帰国しているはずの政虎は、依然として厩橋城に留まったままだった。

 原因不明の腹痛は激しさを増すばかりで、時折嘔吐の症状も出始めていた。このような体調では、とても危険で山越えなど、出来る状況ではない。

 前久との宴を終えて翌朝、痛みを堪えて厩橋に入ったが、それから病床に伏したまま、既に二週間が経過していた。

 幸い、関東の各地では静謐が保たれている。大飢饉の影響で、兵を動かす余力はどこにも残っていないのだ。

 この間に、近衛前久が病床の政虎を一度見舞っていた。この時も、前久は古河御所での酒宴が政虎の病状を悪化させたことに、気づいてすらいない。 

また、将軍・義輝から、小田原攻めの戦勝を祝する御内書が、政虎のもとに届けられたのも、この頃だったが、この時の政虎に、御内書を喜ぶ余裕はなかった。

 景虎の病状が一気に快方に向かうことが出来たのは、箕輪城主・長野業政が、差し向けてくれた薬師のお陰だった。政虎の病状を憂慮した河田長親が、長野業盛に相談したことがきっかけである。この薬師が処方した薬が効いたのは間違いなかった。

 処方の翌日には嘔吐が治まり、翌々日からは、少しずつ腹痛も治まっていった。症状の寛解に伴い、徐々に食事も通常に戻すことが出来たことで、河田長親他、近臣衆が一様に胸を撫で下ろしたことは言うまでもない。

 この間に弱ってしまった体力の回復を待って、政虎が帰国の途についたのは、六月二十一日である。

 政虎は厩橋城代に河田豊前守長親を指名した。年齢が近い長野業盛との円滑な連携を念頭に置いたとは言え、その才覚と力量を認めた大抜擢だった。

 春日山城への帰還は七日後である。十ケ月に及んだ関東遠征も、これでようやく終わりを告げることになった。

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