第11話 迷滞の章 *関東争乱 

  *関東争乱


 春日山に凱旋した政虎は、休む間もなく戦後処理に忙殺されていた。

 感状は右筆に任せるわけにはいかない。文机に向かい、数々の感状を慎重に確認しながら、一枚ごとに花押を記している。

 前の合戦で信玄に大立ち回りした末、落馬負傷した荒川伊豆守長実は、一命を取りとめたものの、旗本として復帰は困難だった。

 庄田定賢亡き今、旗本馬廻り衆の若頭として重責を担える者は、吉江佐渡守忠景ただ一人になってしまったのは、政虎にとって大きな痛手となった。

 ふと、城の外の景色に目を移してみる。山の広葉樹からは葉がすっかり落ち尽くしており、既に初冬の装いを呈している。空には鉛色の雲が低く垂れ下がり、冷たい雨が山肌一面を覆っていた。

 川中島一帯における信玄との戦いは、政虎にとって領土拡張を目的としたものではない。村上氏・須田氏などが、信玄に追われた土地や城の回復のために、助けを乞われたから応じた、いわば義戦である。

 むろん、信濃諸氏の救援要請を断ったとしても、いずれは信玄の飢えた牙が、越後まで及ぶことが当初から明白だった。下手をすれば併呑される危険すらあり、ある種の防衛戦でもあった。

 政虎の本来の考え方からすれば、戦後の恩賞などなくても国のために戦うべき、となるのだが、そうとばかり言ってはいられなかった。

 先ず、他国での戦いで多数の戦死者を出したという現実がある。幸い、一命は取りとめたものの、戦はもちろん農作業すら満足に出来ない身体になってしまった負傷者もいた。それらを看過出来るはずがない。その遺族や家族に対して、金品を含めて何らかの形で、報いなければならないことは当然だった。

 また、合戦の勝利に貢献した国衆に対しても、新たな土地を与える替わりの論功行賞は、必要不可欠だった。そのためには、これまでに青苧の取引や税収で着実に増やしてきた城の金蔵から、感状に添えて放出することが早急に求められていた。

 しかしながら、前年までの「永禄の大飢饉」で発した徳政令の影響で、向こう五年間は税収の増加は期待出来ないうえに、金蔵を減らしている。関東への遠征も続くことを考えれば、政虎にとって頭が痛い話だった。

 四百六十年余の時空を超えて今も現存する、この時政虎が記した数枚の「血染めの感状」は、まさに身を削って、家来・国衆らに報いたものだったに違いない。

 全ての感状に花押を記し終えた政虎が、次に手を着けたのは、関白・近衛前久への書状をしたためることだった。前久は今も関東公方の足利藤氏や上杉憲政とともに、下総国・古河城にいる。

 凱旋帰国早々に、政虎は前久に対し、自らが太刀打ちまでに及ぶ激戦で、信玄に大勝利したことを報せているので、これが二度目となる。

 この時期、関東では一旦逼塞した北条氏康が、早くも捲土重来けんどちょうらいを期して、関東の各地に策謀を巡らし始めていた。

 臆病であるが故に、極めて世情に敏感な近衛前久が、そのような関東の不穏な動向を、察しないはずがなかった。

 今、政虎が認めている書状は、一日も早い政虎の越山を促す、前久の書簡に対する返信だった。

「今年も関東で越年か」

 筆を置いた政虎は独り言を呟いていた。降り注いでいた冷たい雨は、いつの間にか、みぞれへとその姿を変えていた。


「義兄上、御足労をお掛けしました」

「なんの、我が坂戸城とこの樺野沢城とは目と鼻の先。御屋形様こそ、休む間もなく、また関東遠征とは何たる忙しさ。いくら関東管領とは申せ、これでは身体がいくつあっても足りませぬぞ」

 永禄四年(一五六一)十一月、政虎は五千の軍勢を率いて、再度関東へと歩みを進めようとしていた。

 この頃から政虎は、関東諸将からは山内殿、国内では御屋形様と呼ばれるようになっており、義兄の長尾政景もそれにならっていた。

 この日は春日山城から約二十里東に位置する、樺野沢城に一泊することになっている。明朝は一路南下の後に、荒砥・寄居と経由して、三国峠を越える予定である。ここまで四日間の道のりだった。

 幸い、この年は、これまでのところ降雪量が例年に比して少ない。道端に雪は積もっているが、行軍にはほとんど影響が出ていないことが幸いしている。

 当初の予定では、坂戸に立ち寄ったうえで、義兄である政景に対して、北信濃出陣中の留守居役の功を労うつもりだった。政景は斎藤朝信と共に、越中一向宗徒の動きを、封じ込めてくれていた。

 しかし、政虎は行軍の初日に上野国・箕輪城主である長野業政危篤の報せを受けていた。一刻も早く越山し、箕輪城に向かうには一部予定を変更するしかない。その煽りを受けた結果、この日の宿所が坂戸城から樺野沢城に変わり、急きょ政景との対面場所も、樺野沢城に変更されてしまっていた。

 政虎は北信濃から凱旋帰国後、政景から直接、引き継ぎを受けてはいたが、それはあくまで公式のものであり、義兄弟として親しく話す時間はなど、皆無に等しい慌ただしさであった。政景も、戦後処理に忙殺されている政虎の様子を察し、引き継ぎを終わらせると直ぐに、坂戸に戻っていた。 

 政虎の身に、もしものことがあった場合に備えて、という深い意味があったにせよ、此度の戦においても、政景率いる上田衆の武功を挙げる機会を奪ってしまったことに、政虎は多少の負い目を感じている。何としても、政景と直接会い、しっかり時間を割いて、御礼を述べる必要があり、ようやくこの時を迎えていた。

 政虎は、かけられた労いの言葉に対しても、政景の心中を察し、努めて平静を装った。

「越山もこれで三度目。慣れてしまえば易しきことです。そんなことより、義兄上には北信濃出陣時の留守居役に対する御礼をろくに行いもせず、ご無礼仕りました」

「左様なお気遣いは無用です。当然の務めを果たした迄のこと。それに帰城後の御屋形様のお忙しさは、我らの想像を遥かに超えておりました。早々に退散したことに、何ら他意はございません。御屋形様が謝るのは、お門違いというものでございます」

「いいえ、それは違います。義兄上が留守居役として腰を据え、越中を抑え込んで下されたからこそ、我らが後顧の憂いなく、信玄との戦に専念出来たのです。陰の功労者である義兄上に対する、春日山での粗略な応対は、お詫びしなければ気が済みませぬ」

「御屋形様の、そのお言葉を頂戴しただけで十分でございます」

 政景の表情は晴れやかで、そこに嘘はなかった。

「ところで、御屋形様、此度は良い機会と存じ、連れて参った者がおります。お会い頂けますか」

「義兄上がそのような物言いをされるとは実に珍しい。もちろん、どなたであろうと、喜んでお会いいたしましょう」

 政景の合図で後方のふすまが開くと、そこには幼子が伏して座していた。教えられたばかりの、ぎこちない所作が、政虎の心をくすぐった。

「嫡男の卯松でございます」

「おお、この子が。卯松か、面を上げよ」

 卯松はこの時、齢七歳という幼子である。長男の義景が早逝したために、卯松が上田長尾家の嫡男という命運を背負っている。政虎に見せたその顔は、どこにでもいる幼子の愛らしく無邪気な表情そのものである。この時、後にその身に降りかかる数々の試練など知る由もない。

「叔父上さま、お初にお目にかかります。卯松でございます」

 きっと何度も練習したのだろう。淀みなく挨拶する卯松に、政虎の顔は思わず綻んでいた。

「卯松よ、そなたには御父上を見習って、しっかりとこの越後国を支えて貰わねばならぬ。そのためにも、今から文武に励むがよい」

「はいっ、叔父上さま」

 政虎の言葉に対しても、卒ない返事をする卯松の利発さに、政虎は満足していた。

「卯松、下がってもよいぞ」

 父である政景の声を受けて、卯松があらためて平伏すると、再び襖が閉じられた。

 襖の向こうの卯松の気配が消えたのを確認した政虎は、政景に顔を向けると、目を細めて口を開いた。

「義兄上、実に良き子に育っているではありませんか。十年後が実に待ち遠しい。ゆくゆくは、我が春日山城で、小姓として傍に置き、その成長を促したいと存ずるが如何でしょうか」

「それは願ってもないこと。是非にもお願いいたします」

 この時の二人の口約束が、数年後に思わぬ形で実現することになる。

 政虎はこの夜、政景慰労の宴を催した後に、翌朝早々に関東に向けて出発した。

 その日は遠雷が鳴りやまず、それが本格的な冬の到来を知らせる合図でもあった。


 政虎が上野国・箕輪城に到着したのは、永禄四年(一五六一年)十一月二十一日のことである。

 三国峠の行軍には、積雪のため難渋を強いられていた。ところによっては吹雪のため、前方の視界が開かない時は進軍を止め、吹雪が止むのを待つしかなかった。遭難してしまったら、元も子もない。

 やっとの思いで上野国に入ると、政虎は一部の旗本衆を伴い、一路箕輪城に向かって先行した。

 厩橋城代である河田豊前守長親に、予め各所に替え馬を用意させておいたことが、役に立っていた。

 最期の時を迎えようとする、長野業政の枕元には、嫡男の業盛が控えていた。

 長野業政は危篤の身にありながらも、山内殿は未だか、まだ来ぬか、と譫言のように繰り返していたらしい。

「信濃守殿、お分かりか。儂じゃ、政虎じゃ。いま越後から駆けつけましたぞ」

 政虎は業政を珍しく官位で呼びかけた。

「おぉ、山内殿か。よくぞ、よくぞお越し下された。最期にお会い出来て、もう思い残すことはござらぬ」

 それまでの業政は、夢と現実の間を行き来するばかりだった。意識も混濁していると思われていたが、政虎着到の声を耳にした途端、目を見開いたのだ。政虎の声にも、直ぐさま反応し、弱々しい口調ながらも、燃え尽きる前の力を振り絞って、しっかり応えていた。

「父上、これ以上はお身体に差し障りがございます。どうか、おやすみください」

 嫡男の業盛が、父の身体を気遣った、労りの言葉だったが、業政はそんなことは無用とばかりにたしなめた。

「何を今更。我が命の灯火がもうすぐ消えようとしていることは、自分が一番分かっておる。関東のためを思って来られた山内殿に、こうしてお会い出来たにも関わらず、無理をせずしてどうする。よいか、これからはお主が箕輪衆を率いて、山内殿をお支えするのじゃ。儂の死後に法要などは要らぬ。願いはただ一つ。氏康の首を我が墓前に供えることじゃ」

 途切れ途切れになりながらも、必死の思いで語った息子への遺言だった。

「承知仕りました、父上」

 我が子の表情に満足した業政は、もう一度ゆっくりと政虎に目を移し、やせ細り震える右手を差し出した。

「山内殿、これからも、この箕輪をどうか、どうかお頼み申す」

「それは言うまでもなきこと。ご安心くだされ」

「しかし、山内殿」

「何でござろう」

「願わくは、あと十年、あと十年遅く生まれてきとうございました」

 政虎は差し出された右の掌を、両手で支えるように握りしめたまま、何も言えず頷く他ない。

「山内殿と伴に、この関東の大地を思う存分に駆け回り、不逞の輩を討ち果たしたかった」

 業政の閉じた瞼から、一筋の涙が零れ落ちた。

 それが、業政最期の言葉になってしまった。上野国・箕輪城主であり、関東における政虎最大の支援者でもある長野信濃守業政が息を引き取ったのは、その翌朝である。永禄四年十一月二十二日、享年六十三歳だった。

 業政の後半生は、北条という巨大な新興勢力に屈することなく、凋落ちょうらくする関東管領家を最後まで支え続けた苦難の道のりだった。他の国衆が次々と北条に鞍替えする中で、関東管領家の再興を最後まで信じて奮闘した、まさに「忠義」を絵に描いたような人生でもあった。

 政虎による小田原攻城と関東管領継承は、業政にとっての、晩年における最後の希望の光だったに違いない。臨終の床にあっても、最後に政虎と会話を交わし、自らの願いを託することが出来たことが、せめてもの慰めとなったはずだ。

 この長野業政の死は、瞬く間に関東各地に伝播し、親政虎派と目された諸将の結束に、大きな動揺と亀裂をもたらしていく。

 これまで、業政は政虎の関東統治を支えるうえで、大きな屋台骨としての役割を担い、精神的な支柱の役割も果たしてきていた。彼の死が如何に痛手であったかを、やがて政虎は身をもって知ることになる。

 政虎には業政の死を悼んでいる暇すら、与えては貰えなかった。北条軍八千が武蔵国に進出してきたとの報せが、箕輪城にいる政虎の下にもたらされたのだ。

 政虎はやがて追いついた越後軍本隊と合流すると、直ちに武蔵国羽生に進出し、北条軍を撃破した。その後、政虎軍が向かったのは、関東の前線基地でもある厩橋城だった。

「殿、信州川中島における大勝利、執着至極に存じ上げ奉ります」

 政虎は厩橋城・本丸において、城代である河田豊前守長親から、あらためて戦勝祝いの挨拶を受けていた。長親はこの時、未だ十九歳の若者である。近江国坂本で家来として認められてからの活躍ぶりは目を見張るものがあった。その非凡な力量を政虎に認められ、厩橋城代としても、政虎不在の半年間を見事に務め上げていた。

「信州八幡原では典厩信繁殿をはじめ、多くの将兵を討ち取り、痛撃を与えたはず。それにも拘らず、信玄という男、なかなか懲りないようじゃ。戦では敵わぬと諦めてか、伊勢(北条)と手を組み、密かに関東の国衆に対して、内通をそそのかしているという」

「御屋形様もご存じでしたか。敵対している舘林城の赤井殿はもとより、唐沢山城の佐野殿が最も怪しいと踏んでおります。また、その両者の去就によっては、小山殿も歩調を合わせるかもしれません。長野業政殿亡き今日、油断は禁物でございます」

「やはりそうか」

 舘林城と唐沢山城は、国は違えども目と鼻の先であり、双方示し合わせて北条と武田に内通している可能性が極めて強い。

「しからば、赤井には翻意を促す書状、佐野には忠義に偽りないかを問い質す書状をもって確かめることにしよう。年明けの一月中に良き返事がなければ、直ちに攻め込む」

「では、早速に手配いたします」

「まあ待て。そう急かさずともよい」

 引き下がろうとする長親を、政虎は引き止めた。

「関白殿下を通して、京の公方様が儂に報せてきた。改名せよとの思し召しだ」

「それはおめでとうございます。その御名は何と」

「義輝公の一字を頂戴し、諱を輝虎と名乗るようとのことじゃ」

「左様でございますか」

 長親の一瞬曇った顔を政虎は見逃さなかった。

「心配いたすな。古河の御所で伴におわす関白殿下が既に、前の管領・憲政公に説明し快諾頂いておる」

「それを伺い安堵いたしました。御屋形様は鶴岡八幡宮で政虎に改名なされて、未だ一年も経っておりませぬ。それ故に、憲政公がお気を悪くされぬかと危惧してしまいました。どうか、我が先走りをお許しください」

「いや、謝る必要はない。お主のその細やかな配慮こそ、これからも大事に心掛けねばならぬことだ」

「はい」

「これで、儂は関東管領・上杉輝虎と名乗ることで、関東は全て儂に任せると、正式に京の公方様が追認した証になる。長野殿亡き今、我らからの離反を少しでも食い止めるきっかけに出来ればよいが、果たしてどうであろう。独立独歩の気風が強い関東の諸氏が、京の公方様の権威を、どこまで重んずるか、些か怪しいとは思わぬか」

「畏れながら、仰せの通りかと存じます」

「そこでだ。これは赤井と佐野の仕置きを終えて後のことになるが、お主を沼田の城に配し、この厩橋は北条丹後守(高広)に任せることにしようと思う」

「丹後守様でございますか」

「何か言いたそうではないか」

 政虎は長親が言わんとすることを分かりながらも、そのまま口が開くのを待った。

「それがしは丹後守様をよく存じ上げませぬ。されど、丹後守様は一度武田信玄に内通し、御屋形様に弓を引いた過去があると伺っております。そのような御方を、この厩橋に配して、心配はないのでしょうか」

「確かに北条丹後守は、一度儂に対して弓を引こうとした。しかし、奴の手腕には捨てがたいものがある。この上野国を儂の名代として任せられるとすれば、直江実綱、長尾政景、北条高広、斎藤朝信、山吉豊守、そしてお主くらいであろう。お主と朝信、豊守はまだ若い。となると、自ずと丹後守にお鉢が回ってしまうのだ。そこで、お主には沼田で目を光らせて貰うことにした。奴の牽制役・目付の役割を担うことになる。どうじゃ」

「しかし、そのような大役が、この若輩に務まるかどうか心配です」

「何を申すか。儂が不在の半年もの間、この厩橋を治めてきたのはどこのどいつじゃ」

 政虎は笑っていた。

「恐れ入ります」

「もうひとつ、お主には断っておく」

「何なりと」

「古河におわす関白殿下と憲政公は、越後に連れて帰るつもりじゃ。鋭敏なお主のことだ。既に気づいておろう。関白殿下は名前を武家風に前久と変えたところで、所詮はお公家様でしかない。小田原が少し動いただけで、早く助けに来て欲しい、と矢の催促じゃ。もう少し、胆が据わった御方とお見受けしたのは、儂の見立て違いであった。このまま、憲政公と伴に古河におられても、お荷物以外の何物でもない。越後の御館で二人ゆるりとお過ごし頂くのが一番じゃ」

「すると、古河には、足利藤氏様お一人が残されてしまうのですか」

「さすがに藤氏様まで越後にお連れするわけには参らぬ。もしも、儂がお連れしてしまえば、関東の諸氏からは、権威を私物化していると思われても仕方あるまい。ここは、安房国の里見殿に庇護頂くよう、お願いするつもりじゃ」

「それであれば、申し上げることは何もございません。沼田については、御屋形様のご期待に沿えるよう、更に精進いたします」

「うむ、頼んだぞ」

 政虎はいみなを輝虎と改めた。永禄四年(一五六一年)十二月のことである。

 こうして、生涯で最も華々しくも、多難と多忙を極めた激動の永禄四年が暮れようとしていた。輝虎は、またもや新年を関東の地で迎えることになった。


 永禄五年(一五六二年)二月一日、輝虎は最後通牒をも無視した、舘林城の赤井文六照光を攻めた。輝虎軍の猛攻にさらされた赤井照光は堪らない。夜陰に紛れて城を捨てて逃亡し、武蔵国の忍城に逃げ込んだ。

 赤井照光は北条の援軍を期待して、輝虎への回答を引き延ばし、時間稼ぎを企てたつもりだった。しかし、輝虎はそのような姑息な手口を許すはずがない。電光石火の攻撃で、舘林城を忽ち落城に追い込んでいた。

 また、赤井照光が忍城に逃げ込んだことで、成田長泰の離反も明らかとなった。成田長泰に対しても、あらためて詰問状を差し出し、その弁明の内容次第では、あらためて攻め込むことになる。

 舘林城の次は唐沢山城だった。佐野昌綱からも、一月末日を迎えた時点で、輝虎に対する回答が一切なされていない。

 唐沢山城は攻めるに難く、守るに易い関東随一の山城と謳われていたが、予想を遥かに上回る速さでの反転攻撃に遭い、戦支度が追いつかない。そもそもが、赤井照光と同様に、この時の佐野昌綱は、北条の援軍頼みであった。

 昌綱は城の天守から、周囲を取り囲んだ越後勢を見下ろしながら、悔しがるしかなかった。

「もう十日もあれば、北条からの援軍と武器補給で対抗出来たものを。それにしても、舘林城がいとも簡単に落ちてしまうとは誤算だった。まこと恐ろしきは上杉輝虎。ここは無念だが、一旦は軍門に下る他あるまい」

 傍らには家臣の大貫定行が控えている。大貫は家臣団の中でも親北条派の筆頭格である。

「殿、援軍が到着するまで、断固戦いましょう。この唐沢山城は難攻不落。さすがの輝虎とて、易々と攻撃を仕掛けて来るとは思えませぬ」

「いいや、我ら佐野衆にとっては、本領安堵が叶うのであれば、正直なところ、上杉でも北条でもどちらでも良いのだ。それにこの城には十分な兵糧の貯えがない。未だに一昨年までの大飢饉が尾を引いておる。そのうえ、敵は何をしてくるか分らぬ、軍神とも怖れられる上杉輝虎だ。ここは降伏するのが、一番利口なやり方じゃ。いずれまた、手のひらを返せばよいだけのこと。ここは我慢する他あるまい。のう、定行」

 佐野昌綱はこう告げると、即刻降伏の使者を輝虎のもとに差し出した。

 輝虎はそれをあっさり受け入れると、軍を古河に向けた。

 もちろん、輝虎が佐野昌綱の面従腹背を、疑わないわけがない。ただ、この時は唐沢山城に固執している場合ではなかった。

 関白という公家の最高位にいる方のご威光が、関東武士には全く響かぬことが明白となっただけでなく、関白本人の臆病さが露呈してしまった以上は、一日も早く後顧の憂いを断つことが先決だった。これは関白・近衛前久と前管領・上杉憲政を連れて、越後に戻ることでしか解決出来ないことだ。

 佐野昌綱の居城である唐沢山城は、上野・下野・武蔵・下総・常陸の国々に睨みを効かせる意味で、最重要拠点の一つであり、ここを抑えることが関東統治にとって不可欠である。この時輝虎は、そのことを十分に承知していながらも、唐沢山城のことはまた次の機会に延期する、という選択しか道は残されていなかった。

 永禄五年(一五六二年)四月、輝虎は関東公方の足利藤氏が、安房国の里見氏の庇護を求めて無事出立した様子を見届けた後に、関白・前久と前管領・憲政を伴い、越後に帰国した。


「山内殿、麿はもう飽いた。京に帰ろうと思う」

 ここは越後・府内にある御館である。上杉憲政のために輝虎が建てた豪華絢爛で広大な屋敷である。関東から帰国後は、関白・近衛前久も、ここにふた月ほど同居している。同居といっても広大な敷地にある別邸であり、何ら不都合はないと踏んでいた。

 突然の呼び出しに何事かと思えば、帰洛宣言である。輝虎の驚きと戸惑いが尋常ではないのは無理もない話だった。

 越中の神保氏に、またもや不穏な動きがあり、この時は戦支度の最中にも関わらず、呼び出しに応じてやってくれば、この始末である。

 そもそも、関白が越後に下向してきたのも、彼自身の思いつきと我が儘に過ぎない。言うまでもなく、輝虎から下向を願い出たことは一度もない。従って、京に帰ることも、前久の勝手と言えばそれまでである。

 しかし、輝虎にとってみれば、自分を頼って下向してきたからには、自分の意向に沿った行動を取って欲しい、というのが偽りなき本音だった。思えば、一昨年の九月から、彼には振り回されっぱなしだった。ようやく、落ち着いたかと思えば、突然の爆弾宣言である。

 これでは、輝虎の面目は丸潰れもいいところだ。当然、はい、そうですか、などと簡単に返事が出来る筋合いの話ではない。

「関白殿下、我らに何か粗相がございましたか。お口に合わない食がございましたら、何なりとお申しつけください」

「不満は何もない。食は全て美味で、暮らしも快適そのものじゃ。山内殿が案ずることは、何もない」

「では何故でございますか。京の暮らしに辟易した、とおっしゃったのは、他ならぬ殿下ご自身でございますぞ」

「あい済まぬ。どうも麿には飽き易いという癖があるようだ。あれほど、嫌がっていた京の暮らしが、今となってはとても懐かしくさえ思える。山内殿、どうか許して欲しい」

「お待ちくださいませ。越後の秋は、美味なる自然の恵みが沢山ございます。米や酒はもちろん、揚北の川には毎年、大きな鮭が遡上して参ります。その鮭の味を知った者は、一生忘れられないと申します。冬には脂の乗った海の様々な魚が獲れ、新鮮なうちに食することが出来ます。是非、関白殿下にも、これからの越後の食を堪能頂きたいのです」

「麿に対する山内殿の真心には深く感謝しておる。麿の我が儘にも、よく応えてくれた。もっと、越後の美味なる食を堪能したい、という気持ちもある。しかし、山内殿は所詮、戦人。麿の傍には誰もおらぬ。勝手を言っているのは承知のうえ。話し相手がおらぬ中で、どんなに美味な酒や肴を口にしたとしても詰まらぬ。もうこんな退屈には耐えられない。麿には美味なる酒や肴よりも、胸襟を開いて話が出来る者が傍に必要なのじゃ。それが、この一年と半年ほどの暮らしでよく分った。この心の内をどうか汲んでは貰えまいか。のう、山内殿」

 輝虎は初めて気がついた。

 前久が求めて下向してきたのは、山海の美味なる珍味でも酒でなかった。ましてや、贅の限りを尽くした住まいや暮らし向きでもない。意気投合出来る話し相手であり、友だったのだ。

 前久が京で見た輝虎は仮の姿であり、一旦国元に帰れば、戦人として東奔西走せざるを得ないのが真の姿だった。それを前久がどこまで理解して、遥か遠くの越後や関東まで下向してきたのかは、分からない。

 しかし、そこは輝虎自身が冷静に判断すべきであったのかもしれない。将軍・義輝を中心とした京における厚誼の中で、夢のような暮らしに酔いしれ、前久の申し出を安易に受け入れてしまった自らの至らなさを、今更ながら大いに悔いていた。

「殿下のお気持ちは、この輝虎、確と承りました。殿下のお心の内を、察することが出来ず、恥じ入るばかりでございます」

「おお、分かってくれるか」

「はい、もう反対はいたしません。ただ、最後にもう一つだけお願いがございます」

「それは何じゃ。遠慮なく申すがよい」

「実は隣国である越中に不穏な気配があり、近々出陣しなければなりません。早々に賊を成敗し舞い戻ります故に、どうかその時まで、この府内の地にお留まりくださいませ。戻り次第、盛大に殿下の送別の宴を催して、お見送りしたいと存じます。それまでの期間、どうかご辛抱頂けませんか。この通りお願い申し上げます」

 輝虎は深々と頭を垂れた。それが輝虎としての精一杯のお詫びの気持ちと誠意だった。

「山内殿に左様にされては麿が困る。どうか、お顔を上げてください。分かりました。約束しましょう。山内殿の帰りを待ちましょう。それまでは京には戻りません」

 この口約束を信じて、輝虎は春日山城に戻った。

 翌々日の朝、輝虎は裏切りの事実を知る。

 昨日のうちに、関白・近衛前久が、輝虎との約束を反故にして、密かに越後を去ったというのだ。別れの挨拶もせずに、これではまるで出奔ではないか。待てないのであれば、正直に言えば済む話だった。

「追っ手を差し向けましょうか」

 報せにきた吉江佐渡守忠景は、主の輝虎よりも憤りを隠せないでいる。

「よい、捨て置け。貴人に手荒な真似をするものではない」

 輝虎は怒りを通り越して、ただ呆れるばかりだった。今後は親しく付き合うこともないであろう。むろん、将軍・義輝との関係もある。父親である太閤にも和歌を通しての恩義がある。今後も無視は出来ないだろう。しかし、これを機会に、必要以上の公家との深い交誼は、決して行わないことを心に決めていた。

 後日、御館の一室に置いていった書置きが、春日山に届けられた。輝虎はそれを手にすることすらなく、一言、丁重に保管しておけ、と伝えただけだ。今更、公家の言い訳を読んでも、腹が立つだけだった。

 その翌日、輝虎は直江実綱の居城である与板にいた。

 輝虎は、これまでに実綱が果たしてくれた働きに報いるために、感状ではない他の形が何かないものかと、常日頃から考えていた。それは義兄の長尾政景と並ぶ実力者である実綱を、文字通り輝虎の片腕として、内外に誇示する必要があると考えていたからだ。

 それがこの度、直江大和守政綱への改名という形で叶うことになり、越中出陣を控えながらも、一日も早く報せようとした輝虎の心配りだった。

 政綱の「政」は上杉憲政から一文字を頂戴したものだ。

 輝虎は、いくら将軍家からの思し召しとは言え、一年も経ずして政虎の名を捨てて、輝虎に改名したことには、やはり憲政に対する気後れがあった。

 憲政が改名を快諾したのは、あくまで儀礼的で表面的なことであり、本音の部分では決して面白くはなかったことが、後日傍近くに仕える者からの報せで判明した。

 そこで、ここは直江実綱が改名することで、憲政の損ねた機嫌を直して貰おうと、一計を講じたのである。

三日前、輝虎は近衛前久に会ったその足で、憲政のやしきも訪っている。もちろん、直江政綱への改名の承認を得ることが目的であり、それはすんなりと受け入れて貰えていた。

「改名を機に、この越後のために益々活躍して貰わねばならぬ。老いるにはまだ早すぎるぞ、大和守」

 祝いの宴を前にして、輝虎は政綱に冗談交じりを口にした。

「御屋形様、この儂も既に五十四の歳を数える身となりました。この老体を少しは労わって貰わないと困ります」

 政綱も冗談で返す。

「しかし、御屋形様も考えましたな。憲政公の機嫌を損ねぬように、この儂を利用するとは」

「人聞きの悪いことを申すではないか。以前から何か良い形で、お主にはこれまでの忠義に報いたいと思っていた。そこで閃いたのがこの改名だ。確かに一挙両得とはなったが、あくまでも結果であって、利用したのでは決してないぞ」

「それは失礼を申し上げました。しかし、憲政公の機嫌が直ったのは、何よりも目出度きこと」

「儂が一番驚いておるわ。これほど上手くいくとは思ってもいなかった。古河城から連れ戻して以降、暫く音沙汰がない。会ってみれば、やはり最初はご機嫌斜めな様子。しかしどうだ。お主の改名の話を持ち掛けたところ、ころりと機嫌が直ったから摩訶不思議。昨日も、使いを通してあれこれ我が儘を言ってきているそうじゃ。」

「そうでしたか。まあ、多少の我が儘は仕方ないとしても、今は大飢饉から立ち直ったばかりでもあり、ほどほどにして頂かなければなりませぬぞ。それより、気になるのは坂戸の新五郎殿のことです」

 政綱が長尾政景のことを心配するのは珍しいことだ。

「坂戸の義兄のことで、何か耳にしているのか」

「いいえ、ただ、それがしの改名は、新五郎殿にとっては決して穏やかではないと思うのです」

「坂戸の義兄が、お主に対抗心を燃やすと申すか。そのように了見が狭いお方ではないぞ」

「確かに、新五郎殿ご自身はそうでしょう。しかし、ご家来衆はどうでしょうか。ましてや、上田長尾衆の矜持は、なかなか侮れませぬぞ。御屋形様が関東管領職を継承したこと自体、上田衆は決して快く思っておりませぬ。そこに上田長尾家と比肩するかのように、この直江が改名し御屋形様のお傍近く仕えているとあれば、不満が表面化してもおかしくはありません。このような状況の下で、万が一、他国から新五郎殿に内通の誘いがあろうものならば、どうなるものかと、心配なのでございます」

 政綱の深読みは、政景をおとしめようなどという、狭い了見で言っているものでは断じてない。それは輝虎が一番分かっている。

 確かに上田衆の思惑は、決して蔑ろには出来ない。政景自身に二心がないこととは別に、冷静に判断する必要がある。輝虎はあらためて、直江政綱に備わる含蓄の深さに感心していた。

「お主が申すことは至極尤もじゃ。先年の八幡原における信玄との決戦の時も、留守居役に甘んじた、と未だに不満を口にする家臣もいると聞く。樺野沢城で儂と義兄が会ったことを知っても、なお変わらぬということは、余程腹に据えかねることなのだろう。上田衆のことは、これまで以上に、気に留めておこう」

「御屋形様にとって、新五郎殿は欠くべからざる大事なお方です。くれぐれも仲違いなどにはならぬようお願いしますぞ」

「分かっておる。しかし、これでまた一つ教訓が増えた」

「はて、それは如何なることでございましょう」

「上杉輝虎という男は、直江大和守政綱なしには、生きては行けぬということじゃ」

「何と、お戯れを」

 二人は笑っていた。

「さて、今宵はお主の祝いの宴じゃ。飲み明かそうではないか」

 政綱のひと声で、すぐさま膳に乗せられた肴と酒が運ばれてきた。


 与板から春日山に帰城すると、間もなく輝虎は越中に出陣した。永禄五年(一五六二年)七月のことである。

二年前に逼塞ひっそくさせた神保長職ながもとが勢力を盛り返し、一向宗徒と手を組んで、再び挙兵したからだった。輝虎はこれを撃破し、以後の仕置きを、椎名康胤やすたねに任せて、一旦帰国する。

 ここまでは筋書き通りに運んだのだが、ここでまたもや予期せぬ事態が起きていた。

 暫くは立ち上がれないはずの神保長職が、一向一揆の助勢を受けて、またもや決起し、椎名康胤軍を神通川の戦いで大敗させてしまったのだ。そればかりか、椎名康胤は新庄・堀江の諸城を、敵方に奪われ、遂には自らの居城である松倉城を包囲されるという失態を演じていた。

 この一連の動向を陰で糸を引いているのは、他でもない武田信玄である。

 輝虎は再び動くしかなかった。

 同年九月、またも越中に怒涛の如く侵攻すると、松倉城の攻囲を解いた神保長職と一向一揆の連合軍を、瞬く間に蹴散らし、長職をまたもや増山城に追い込んだ。

 こうなると、烏合の衆である一向宗徒が当てにならないことを、一番知っているのが長職本人に他ならない。輝虎の総攻撃を前に、頼ったのは隣国・能登の守護である畠山義綱だった。

 和睦の仲裁役として、隣国守護に登場されては、輝虎も応じないわけにはいかない。むろん、和睦申し出を断るという選択肢もあるが、川中島での激戦で多数の死者を出して日も浅い輝虎にとって、いたずらに兵は失いたくないのが本音のところだ。ましてや能登守護の顔を潰してしまうことにもなる。

 輝虎は和睦を受け入れることにした。和睦の主導権を握っているのは、もちろん輝虎だ。和睦の条件として、輝虎が提示した内容は、驚くほど実に寛大な内容だった。この時未だに領土拡張を目指していない輝虎にとっては、隣国で揉め事をおこして欲しくない、というのが偽らざる本音だった。神保長職には、武田に唆されることなく、大人しくしていて欲しいという願いが込められた提示でもあった。

 その提示した条件の内容は、神通川より東側、つまり越中の東半分を親上杉である椎名領とし、神保領は射水・婦負の二郡を安堵するというものだった。長職は最低でも二郡のうちのどちらかは、割譲されると覚悟しての和議申し入れだった。しかし、和睦条件の蓋を開けてみれば、戦前のまま本領が安堵されている。この提示内容に、神保長職が輝虎に恩義を感じないわけがない。

 一方の椎名康胤とすれば、反対に不満だった。康胤自身は戦に負け続けており、輝虎がいなければ、滅亡の憂き目に遭っていたかもしれない立場である。そもそも、不平を言う権利自体がないのだ。しかし、そこが人間の浅ましさというものだろう。

 この和睦条件が、後年、輝虎にとって、神保氏と椎名氏の敵味方逆転という皮肉な構図を作り出してしまうとは、乱世とは言え不思議なことが起きるものだ。

 ともあれ、同年十月十六日、この和睦に安堵した輝虎は、越後への帰国の途を辿った。ところが運悪く、これが初雪の日とぶつかってしまったから始末が悪い。

 越後との国境に位置する親不知の浜から容赦なく吹き上げる海風が、帰国の途についた将兵の身体を痛めつけるから、堪ったものではない。やっとの思いで帰城した輝虎を待っていたのは、またも関東擾乱の報せだった。

 武蔵松山城を守る太田資正が、北条・武田の連合軍に攻め立てられており、輝虎に救援を求める書状が届いていたのだ。

 もともと、この城は一時北条に帰属していたが、一昨年奪い返し、元の城主である太田資正に守らせていた武蔵国の重要拠点である。まして、資正は小田原城攻めにおける、蓮池門前での攻防では、その勇猛果敢ぶりを発揮してくれている一番の功労者でもある。

 輝虎は、金津新兵衛から受け取った書状を一読し激昂した。

「信玄の奴、戦では儂に敵わぬとみるや、姑息な手を使って、せいぜい儂を疲弊させる魂胆であろう。しかし、この程度で音を上げる儂ではない」

 語気を強めて言い放ったところまではよいが、すぐに出陣というわけにはいかない。何せ、将兵は越中における戦から、ようやく解き放たれたばかりなのだ。それでも輝虎は、寡兵であっても先発することにした。

 しかし、関東遠征となれば、またもや留守居役を決める必要があった。ここはやはり長尾政景に頼むしかあるまい。留守中は越中も監視する必要がある。その意味でも事情通の政景が適任と言えた。

 しかしながら、いくら輝虎の要請とはいえ、それ相応の準備が必要だ。政景自身も居城である坂戸を空けることになるのだから、日数を要するのは当然のことだった。ましてや、上田長尾家中では、特に川中島における決戦への参陣が叶わなかったことへの不満が、未だに尾を引いているとなれば、尚更のことだろう。

 父である長尾房長の死から既に十年余り、当主としては申し分ない働きで、上田家中をまとめ上げてきた政景だったが、ここにきて戦場での活躍が少ないことを、快く思わない家臣が出てきたのは、政景にとっては頭痛の種だった。政景を戦場から遠ざけている、真の理由を知らないせいか、中には輝虎からの冷遇と公言して憚らない者まで、出ている始末だった。

 そんな時に、またもや春日山城留守居役の要請である。損な役回りばかり押し付けられている、と迫る家来に手を焼く日が幾日も続き、時間ばかりを浪費してしまっていた。

 政景がようやく春日山城に入ったのは、永禄五年(一五六二年)十一月二十日のことである。輝虎より要請を受けてから、早やひと月を経過していた。

 政景の内情に薄々感じていた輝虎は、政景の遅参を意に介さなかったが、関東への出立遅れは正直痛かった。武蔵松山城の詳しい戦況が掴めない今、一日も早く進発したいところが、足止めを食らう形になっていた。

 同年十二月十六日、輝虎はまたもや、峠越えという厳しい雪中行軍を経て、上野国・沼田城に入った。城の守将は河田豊前守長親である。引き連れてきた兵は僅か二千に過ぎない。後続の兵四千は一月下旬になる予定だった。

 その翌々日、長親を引き連れて輝虎が向かった先は、関東における前線基地でもある厩橋城である。新たに城代となった北条高広は、この時期、関東内の動向に目を配り、積極的に情報の収集に当たっていた。

 厩橋で分かったことは、迂闊に武蔵松山城に近づくことは危険だということだった。これまで味方と信じていた国衆が、相当数北条の圧力に屈して寝返っているらしい。今、動員出来る最大の軍勢はわずか四千でしかない。背後から攻められたら、一溜りもないのは明らかだった。まさに、昨日までの味方は今日の敵ということだ。

 輝虎にとって不幸中の幸いは、輝虎越山の報せを受けた北条勢が、慌てて武蔵松山城の攻囲を解き、一旦南に軍を退いてくれたことだった。越後から軍勢四千が到着するまでは、まだひと月以上がある。この機に、関東における敵味方の情勢を、冷静に分析する必要があった。輝虎は三度関東の地で、雪のない正月を迎えることになった。

 関東の国衆には、未だに去就を明らかにしていない輩も数多いるが、それは日和見を決め込んでいる連中であり物の数ではない。格別相手にする必要のない連中ばかりだった。

 情勢分析の結果、今回の関東遠征で、明らかに叩いておかなければならないのは三人だった。忍城の成田長泰、祇園城の小山秀綱、そして唐沢山城の佐野昌綱だった。  

 いずれも二年前の小田原攻めでは、味方の軍勢に加わった者ばかりである。

 輝虎も歳と経験を重ねてきており、裏切りは世の常と諦めている。自身の感情を抑える術も身に着けていた。あとは事態をどう収拾させるか、の一点に絞って策を練ればよい。

 待ち望んでいた越後からの援軍四千が厩橋城に着いたのは、永禄六年(一五六三年)二月一日だった。同日に、またもや武蔵松山城からの援軍要請を受けていた。北条軍一万が再び城を取り囲んだ、との急報だった。

 輝虎は直ちに上野国の兵を合わせた八千の軍勢で進軍し武蔵国に入った。最初に入ったのが石戸城だったが、そこで受けた報せに、輝虎は地団駄を踏んで悔しがった。

 それは、武蔵松山城の守将である太田資正が、北条軍の猛攻を恐れて、輝虎勢の到着を待たずに、城を明け渡し、自身は岩槻城に逃げ帰ってしまったというのだ。

 輝虎は太田資正に対する失望よりも、自身が僅かに後手を踏んでしまったことを悔いた。そもそも、今回の越山の目的は武蔵松山城の救援だったはずだ。しかし、いくら後悔しても今更どうにもならない。

 すぐに気持ちを切り替えた輝虎が向かった先は、小田伊賀守が守る騎西城だった。  

 小田伊賀守は、忍城主である成田長泰の弟である。これを難なく落とすと、案の定、成田長泰が慌てて降伏と帰参を申し出てきた。藤原氏の流れを汲む名門の家とは、名ばかりの腰抜けかと思いはしたが、輝虎はこれを許した。

 この余勢を駆って、次に輝虎が向かった先は、下野国の小山秀綱が居城である祇園城だった。

 輝虎は、武蔵松山城が敵の軍門に下った段階で、今回の関東遠征の目的をなくしてしまっていた。だからといって、このまますごすごと越後に帰るわけにはいかない。 

 北条軍がこれ以上北上して勢力を拡大しないように、楔を打つことが急がれた。そのためには、西上野への武田勢侵攻を念頭に置いたうえで、上野国中央部と東部、そして下野国を固めなければならない。

 輝虎は、反旗を翻した小山秀綱の祇園城と、佐野昌綱が籠る唐沢山城に照準を絞ることにした。この両者は何が何でもこの機会に、帰順させなければならない。

 驚き慌てふためいたのは、当の小山秀綱である。上杉軍南進の報せを耳にしていたから、てっきり武蔵松山城の奪還に動くものと思っていたところに、上杉軍が現れたのだから、その驚きも尤もなことだった。事実、輝虎は一旦、軍勢を南下させたうえで、急に進路を東に変え、小山の地に急行していた。

 小山秀綱はそもそも、北条の脅しに屈して輝虎からの離反を表明したに過ぎない。つまり、積極的な北条への臣従ではなく、輝虎と戦う気など、最初から持ち合わせていない。その戦闘意欲の低い小山勢が、輝虎率いる八千の軍勢に取り囲まれてはなす術もなかった。

 ましてや、一昨年の信州川中島における上杉軍の勝利で、その精強さが関東一円に喧伝されている。軍神とも怖れられる輝虎に対して、秀綱が思案を巡らしたことは、如何に赦しを乞うかの一点のみである。そして、秀綱が出した結論は、自らが剃髪のうえ、人質を差し出して、自らの過ちを悔い改めることだった。輝虎は起請文を交わしたうえで、これを赦した。

 最も厄介なのは、唐沢山城の佐野昌綱である。

 唐沢山城は、平将門を討ち破った、佐野氏の祖とされる藤原秀郷による築城と謂われている。当時、関東随一の山城とも称され、攻めるに難く守るに易い名城だった。

 従って、佐野昌綱が本気で反旗を翻してきた場合は、相当の苦戦を覚悟せざるを得ない。しかしながら、この時の昌綱は違っていた。既に小山秀綱の投降を知っている。徹底抗戦をしても、負けはせずとも勝てるわけがない。すんなりと、降参を申し入れてきたので、輝虎は再びこれを受け入れることにした。

 こうして、輝虎は兵力を温存したまま、四回目の関東遠征を終え、帰国の途に就いた。永禄六年(一五六三年)四月二十八日のことである。

 帰国して暫くの後、輝虎にもたらされたのは、恩師・天室光育危篤の報だった。林泉寺から長慶寺に移り、今は柿崎浜に開いた楞厳寺りょうごんじで、穏やかに余生を過ごしていると聞いている。九十三歳という当時では稀な超長寿者だった。

 輝虎はわずかな供回りを連れて、急ぎ柿崎浜に向けて馬を走らせた。付き従ったのは、彌太郎・新兵衛・孫左衛門・源蔵・与八郎といった昔から親交のある者ばかりだ。

 七年前の出奔騒動以来、光育和尚には会えていない。思い返せば、その後は上洛、そして戦に明け暮れる日々であった。

 輝虎は馬上にあって、自らの半生を振り返っていた。光育和尚の薫陶なくして、今日の自分は絶対にあり得ない。虎千代と言われていた幼子の才能を見抜き、御仏の道に止まらず、芸能や武芸、兵法まで学ばせてくれたのは、紛れもなく天室光育である。危篤という臨終の際に立たされ、あらためて師の偉大さに気づかされていた。

 案内された寺の一室には、静かな面持ちで師が横たわっている。その身体は一段と縮んだように見えた。顔中には深い無数の皺が刻み込まれている。穏やかな死期が訪れようとしている瞬間だった。

「和尚さま」

 輝虎は枕元に腰を下ろすと、囁き声で語りかける。

輝虎の声に天室光育が突然目を開いた。ここ数日間というもの、和尚は昏睡したままで、このまま逝っても何ら不思議ではない容体だったらしい。

「和尚さま」

 もう一度声をかけた。

「殿」

 天室光育は微かに一言だけ皺枯れた声で発した。その声の主が輝虎であることを、はっきりと認識した証だった。

 弱々しくも温和な目が、微かな光を放って輝虎を見つめる。しかし、それも束の間の出来事だった。

 口元に穏やかな笑みを浮かべたまま、眼が閉じられると、それが再び開くことはなかった。

 永禄六年(一五六三年)六月、天室光育和尚は静かに入仏した。

 不思議と涙は出ない。ただ、輝虎の心の中に大きな穴が開いたような虚しさだけが残った。その日、輝虎は一人居室に籠り、一日中誰とも顔を合わすことがなかった。この日だけは恩師を悼む日にしたかった。城の外は夏真っ盛り、蝉が競うように、いつまでも鳴き続けていた。


 関東管領・上杉輝虎となった今でも、四方に敵を抱えていることに変わりはない。輝虎は怒りを通り越して嘆息する他ない。四度目の関東遠征から帰国して、未だふた月も経たないうちに、またも武田と北条が連携しながら、怪しい動きを見せていた。

 西上野からは武田が、武蔵からは北条が、懲りもせずにそれぞれ国境を脅かそうとしているらしい。さすがの輝虎も動きが取れない。兵を動かそうにも、稲の刈り入れを前に、これ以上無理はさせられなかった。

 輝虎は、西上野を河田長親に、南上野から武蔵は北条高広に、対処を命じる他なかった。

 今の輝虎には、柏崎にある飯塚八幡宮別当の極楽寺や、出雲崎の高名山薬師寺に願文を納め、祈ることしか出来ない。輝虎は願文に武田信玄と北条氏康の悪行三昧を上げ連ね、ひたすら両者の調伏を祈願した。これが永禄六年(一五六三年)七月十八日のことである。

 しかし、信玄や氏康も同様に、輝虎に対する敵愾心てきがいしんは相当なものだった。これまでに、輝虎のせいで、幾度苦汁を舐めてきたことかは数え切れない。 

 二人は示し合わせて、比叡山延暦寺に輝虎調伏の祈祷を願い出ていた。ところが、このことは、たちまち輝虎の知るところとなる。

 祈祷を願い出た先が、延暦寺の別舎である正覚房・重盛だったことが、信玄と氏康の運の尽きだった。正覚房・重盛と輝虎は、父・長尾為景の代から長く続く付き合いで、関係の深さが違い過ぎた。正覚房・重盛は、信玄と氏康の祈祷を拒否すると同時に、その事実を直ちに輝虎に報せてきたのだ。

 その書状には、天台座主応胤法親王の令旨により、重盛らの三院大衆が、延暦寺・根本中堂において、七千夜叉を供に勤行し、輝虎の武運長久を祈願したことも、併せて付記してあった。

 輝虎は大いに喜び感激した。そもそも、信玄や氏康のような俄か信仰と、輝虎の信心深さでは、年季が違い過ぎた。信玄のことだから、せいぜい信州の末寺辺りの細い伝手を頼りに、ようやく延暦寺に辿り着き、願い出たに違いない。両者は、赤恥もいいところで、面目丸潰れだった。

 この一件で、一矢報いた輝虎ではあるが、信玄と氏康に対する憎悪が、一層掻き立てられたことは言うまでもない。輝虎はあらためて、信玄と氏康に対しての徹底抗戦を誓っていた。

 しかし、信玄と氏康の所業は止まることを知らない。

 永禄六年九月、安房国の里見氏のもとに身を寄せていた足利藤氏が、幽閉されるという事件が起こった。藤氏が下野国・古河城に一時的に戻ったところを、この動きを察知した氏康が襲い、捕らえたというのだ。

 輝虎はこれ以上関東を氏康の好きなようにさせることは拙い、このままでは手の施しようがなくなると判断した。敵は越後が雪に閉ざされていることを見越して、勝手し放題なのだ。そうであれば、敵の裏を掻いて乗り込むしかない。

 此度の留守居役は直江大和守政綱に命じた。さすがに続け様となる此度は、長尾政景に留守居役を頼めなかった。

 永禄六年十一月下旬、輝虎は軍勢を集め、雪が降り積もる中、一路関東を目指した。しかし、この時の輝虎には運がなかった。折からの豪雪に足元は取られ、目の前の吹雪に上野国境で足止めを食らってしまう。鬼神の如き輝虎ですら、自然の猛威だけには勝てない。これではお手上げ状態だった。

 西上野ではまたもや武田勢が動き出していた。

 輝虎の出陣を知り、一度は軍を退いた武田勢が、輝虎が峠で難渋を強いられていることを知ると、再び信濃・佐久から上野国に入り、倉賀野城を攻囲したのだ。もし、倉賀野城が陥落するようなことになれば、長野氏居城の箕輪城も危なくなる。輝虎は焦ったが、どうしようもない。

 その時に倉賀野城主である倉賀野左衛門五郎尚行を支えたのが、重臣である橋爪若狭守だった。橋爪若狭守は武田勢の猛攻にも動ずることなく、冷静にこれを迎え撃った。

 輝虎の援軍が、早晩到着することは分かっている。それまで持ち堪えさえすれば、この戦は勝ちだということが、判断出来る怜悧な頭脳を持っていた。橋爪若狭守は、守兵に対して、一切撃って出ることを禁止した。ひたすら城内に籠り、堀や城壁に迫る敵の撃退のみに、戦力を集中させた。

 時折飛んでくる火矢も想定内だった。予め水桶を各所に配置している。兵糧や水も十分に確保出来ており、あとは守兵の士気が衰えないよう、また敵への内通者がいないかだけを監視すればよかった。

 永禄六年十二月下旬、輝虎軍がようやく厩橋城に入ったとの吉報が伝わると、倉賀野城内は大いに沸いた。その情報はやがて武田勢に伝わることになる。相変わらず逃げ足だけは早い武田勢は、慌てて攻囲を解き、撤退していった。

 しかし、武田勢がそのまま帰国するとは考え難かった。案の定、武田軍は北条軍と示し合わせていた。共に合流して向かったその先は、横瀬成繁の居城である上野国・金山城と、下野国・足利城だった。

 この動きを関東に配置されている幻の者から受け取った輝虎は、上野国・小泉城主である富岡重朝と、岩槻城主である太田資正に命じて、それぞれ武田・北条連合軍の後方に軍を展開させた。当然、挟撃を恐れた武田・北条の両軍は、何の成果も得ることなく、攻囲を解いて退却するしかなかった。

 この働きで太田資正は、先年、武蔵松山城を勝手に放棄して撤退した汚名を、自らの働きで雪いだことになる。

 年が明けて永禄七年(一五六四年)一月、輝虎は反転攻勢に転ずるために一計を講じた。思い返せば、ここ二年間というもの、全てが後手で、その火消しばかりに時間を費やしてきた。これ以上、武田・北条の侵攻を許すわけにはいかない。

 先ず、輝虎は安房国の里見義堯・義弘親子に書状を送り、下総国への進軍を要請した。そして、輝虎自らは武田の手に落ちた上野国・和田城攻めに取り掛かった。まさに、敵のお株を奪う二方面作戦だった。

 和田城主の和田業繁は、箕輪城主・長野業政死後に、武田方に寝返っている。輝虎は和田城を軍事的要所として高く評価しており、何としても味方に戻そうと必死だった。

 しかし、この二方面作戦は、緒戦こそ成功するが、敢え無く頓挫してしまう。

輝虎の要請に応じて、太田資正の軍勢らを合わせた一万二千の大軍で、下総国の国府台城に入った里見義堯・義弘父子は、一月七日、台地の急斜面で埋伏し、江戸城から進軍してきた北条軍の先鋒隊を急襲する。その戦果は、遠山綱景・富永直勝・舎人経忠の全将を討ち取るという華々しいものだった。

 しかし、この緒戦の大勝利に浮かれた里見父子は、国府台城に戻り、なんと酒宴を催してしまった。しかも、斥候や物見の配置を怠ったままである。これは敵の先鋒隊を、氏康が差し向けた全軍と勘違いしたとしか考えられない。それにしても、里見父子は。自国から離れた不慣れな土地にも関わらず、油断と驕りという、戦場では絶対に許されない二つの過ちを起こしてしまっていた。しかも相手は、夜襲が得意な北条氏康と分かっていながらである。まさに里見父子の大失態だった。

 この国府台城の様子を、斥候からの報せで察知した北条氏康率いる本隊二万の軍勢が、城に夜討ちをかけたのだから、この時点で勝敗は決していた。

 一月八日未明、全ての里見軍が酔って寝静まっているところに、北条勢の大軍が押し寄せてきたのだから、城内は大混乱である。里見父子は、正木信茂と安西実元の重臣二人を犠牲にし、大きな代償を払いながらも、命からがら安房国に逃げ帰っていた。

 この国府台の合戦における大敗により、反北条を旗印に輝虎と同盟を組んでいた里見家の勢力は、大きく衰退してしまった。

 この大敗が輝虎に与えた影響は更に深刻だった。里見父子の失策は、この後も、氏康の手によって、大いに喧伝されることになり、親輝虎派からの離反者が相次ぐ一因になってしまう。

 里見父子の大敗と原因を知った輝虎は、呆れ果てて暫くの間、ものも言えない状態だった。もう少しまともな同盟相手だと思っていたが、これでは信玄や氏康とは格が違い過ぎる。声をかけた相手が間違っていた、と言われても仕方ない。

 この敗戦によって、自ずと二方面作戦は、見直しを迫られてしまった。輝虎は一旦、和田城攻めを諦め、その軍を常陸国・小田城攻めに転じた。これは、盟友である佐竹義昭の要請に応じたものであり、北条方の小田氏治を討伐するためだった。小田氏治とすれば、里見父子の情けない敗走によって、その矛先を向けられたのだから、堪ったものではない。

 永禄七年一月二十七日、輝虎は兵七千を率いて、佐竹義昭らと共に小田領内に進攻し、山王堂の戦いで、小田勢を粉砕した。首級二千を挙げた勢いそのままで、小田城内に攻め上がり、二十九日には陥落させている。城主の小田氏治は、命からがら城を抜け出して、支城である藤沢城に逃れるのがやっとだった。

 輝虎は更に軍勢を佐野の唐沢山城に向けた。佐野昌綱は前年四月に降伏していたが、輝虎が帰国すると、三度みたび、反旗を翻していた。まさに、舌の根の乾かぬうちの仕業である。

 佐野昌綱は唐沢山城に籠り、わずか数日間、形ばかりの応戦をしたが、またもや降伏を申し入れてきた。この応戦は、後日、北条方に申し開きするためであることは明白だった。つまり、必死に応戦したものの、上杉勢の攻撃が激しく、やむなく降参せざるを得なかった、との言い訳を予め準備したに過ぎない。

 この昌綱のやり口を苦々しく思いながらも、またもや、輝虎はこれを受け入れざるを得なかった。難攻不落の唐沢山城が相手とあっては、相当の犠牲と月日を覚悟せざるを得ないからだ。但し、さすがに今回は無条件で帰参を許すわけにはいかない。

輝虎は降伏を受け入れる前提として、二つの条件を昌綱に突きつけていた。

 第一は昌綱の子、虎房丸を人質として春日由城に送り込むことであり、第二が今回の関東遠征に同道していた色部修理進勝長を、目付役として唐沢山城に留め置くことだった。

 これを佐野昌綱が渋々ながらも受け入れたことで、降伏を許した輝虎は、あらためて軍を上野国の和田城に向けることになった。これが永禄七年三月七日である。

 此度の軍勢は一月の時とは規模が違う。佐野昌綱から背後を突かれる心配がなくなったうえに、長尾憲景・横瀬成繁・宇都宮広綱・佐竹義昭らの関東諸将の軍勢が加わり、総勢二万の大軍での攻城である。

 しかし、和田城側も、この二月近くの間を、ただ待ち構えていたわけではない。輝虎が常陸と下野に転戦している間、城の防備増強に月日を費やしており、大軍による城の攻囲にも動じることはなかった。

 もちろん、長期戦に持ち込めば、敵が降参することは目に見えている。しかし、此度の参陣も関東諸将は大軍での包囲に驚き、和田業繁が忽ちのうちに降参するだろう、という目算で従軍しているに過ぎない。つまり、本気で戦う気はなく、長期攻囲をも想定はしていない。

 加えて越後の兵も、農繁期を控え、四月早々には帰国させる条件で引き連れて来ていた。輝虎は和田城攻略を、またもや諦める他なかった。

 永禄七年(一五六四年)四月、こうして五度目となる輝虎の関東遠征は、後味の悪さを残したまま終了した。昨年豪雪で足止めを食らった道を反対に辿り、越後への帰路を急いだ。

 帰国した輝虎は、留守居役の直江政綱に再度改名を命じた。政綱あらため直江大和守景綱の誕生である。これは直江大和守が「景」の文字を諱に用いたことで、同族に列する待遇を与えられたことを意味している。

 この改名によって、輝虎を支える二大家老としての地位が、名実ともに確立したのであった。

 御館の上杉憲政には、この改名を予め報せている。酒に溺れる毎日の憲政は、既に政事への興味や、かつての管領としての矜持は無くなっていた。

 しかし、直江景綱への改名はもう一人の巨頭である長尾政景の足元で、微妙な軋轢を生むことになる。足元とは上田長尾の家臣団である。

 ただでさえ誇り高き上田長尾に仕える家来衆は、直江景綱が重用されることは勿論、当家と並び立つことすら、腹に据えかねることだった。景綱は輝虎初陣の時からの忠臣とは言え、家来筋の一人でしかない、という意識で凝り固まっている以上、当主の政景ですらどうしようもないことだった。

 政景自身は輝虎の優れた才覚と非凡な力量を認め、主として尊敬し、兄弟以上の絆も感じている。また同時に、直江景綱の輝虎を支える忠義心に嘘偽りがないことも知っている。近頃では、家来衆の小言や陰口、愚痴を直接耳にしようものならば、その場で厳しく叱り、二度と口外しないように命じているが、心の中で勝手に思うことに対しては、手の施しようがない。

 問題は、その僅かな不協和音が、隣国の信濃を経て、武田信玄の下にもたらされたことだった。正面切っての戦では、とても敵わないと諦めている信玄は、得意とする内通と調略によって、越後国内を混乱に陥れることで、輝虎攻略の糸口を探ろうとしていた。そんな魔の手が政景に迫っていることを、この時、輝虎はまだ知らない。


 甲斐国、躑躅ケ崎館の一室で、信玄は一通の書状を手にしていた。

「彦五郎、思わぬところから綻びが出るかもしれぬぞ」

 差出人は信濃国・海津城を預かる高坂弾正虎綱だ。信玄は傍らに控える穴山玄蕃頭信君げんばのかみのぶただに向けて、不敵な笑みを浮かべている。

 穴山玄蕃頭、この時二十四歳、後に穴山梅雪と号する、その人である。弟・信繁亡き後は、一門衆の中でも、信玄に優れた資質を認められ、厚遇を受けている一人だ。

「長尾越前守が内通するかもしれぬ」

「長尾越前守と言えば、輝虎殿の義兄に当たる方ではありませんか。そのようなお方が果たして、応ずるものでしょうか」

「高坂弾正からの報せじゃ。根も葉もない噂話ではあるまい。直江大和守が諱名を政綱から景綱に改名したそうな。これが長尾越前守の家来衆にとっては面白くないらしい。せいぜい、越後における第二の地位を奪われたと騒いでいるのであろう」

「しかし、家来衆が多少騒いだとしても、当の越前守が意に介さないのであれば、意味がないと思われますが」

 穴山玄蕃頭の言い分は尤もだ。

「果たしてそれはどうか。長尾越前守はひと昔も前になるが、一度輝虎に弓を引いておる。それまでは不仲だったという。表面上は仲の良い義兄弟でもあり、主従関係だとしても、心の奥底までは当の本人しか分らぬものよ」

「それならばやる価値はございますね」

「うむ、駄目で元々のこと。もし、我が調略に乗ってくることがあれば、越後は我が手中に落ちたのも同然じゃ」

 信玄は珍しく高笑いをした。

「大願成就の暁には、越前守殿への褒美を何と約されるのでしょうか」

「その時は、越後の中郡以北を全て任せるくらいの甘い誘いは必要であろう」

「なるほど、それほどまでに越前守を買っていることを示せば、心が揺れないわけがございませぬ」

「お主もそう思うか」

「はい」

 信玄は穴山玄蕃頭の顔を見ながら思っていた。

 もう輝虎との戦は懲り懲りだった。相模の北条と手を組み、上手く揺さぶりをかけながら、調略で越後内部から崩す他ない。

 信玄は小袖の中に手を入れ、先年八幡原で深手を負った左肩口の傷跡を無意識に触っていた。


  

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