第12話 迷滞の章 *野尻池~挫折と破綻
*野尻池
「内通じゃと」
輝虎に長尾政景内通の噂を耳に入れたのは、近臣である金津新兵衛と秋山源蔵である。
「越前守様にご謀反の意思があるかは判りかねます。しかしながら、再三にわたり甲斐からの使者が、密書を携えて坂戸を訪っているのは、確かでございます」
「であれば捨ておけ。義兄に限って、左様な誘いに乗るはずがなかろう。それに再三にわたっての
「しかしながら、綿密な謀反の打ち合わせをしている、ということも考えられます。それに坂戸の重臣の中には、公然と武田への内通を唆す不届き者もいるようです。そのことを憂慮した者が、密かに我らに報せてくれているのですから」
「なるほど、しかし案ずるな。義兄上は大丈夫じゃ。それにしても、信玄はどこまで汚い手を使えば気が済むのか。義兄上にまで触手を伸ばしてくるとは、さすがに思ってもみなかったことだが」
「しからば、如何いたしましょう」
源蔵の顔は、いかにも困りはてた表情だ。
「知らせてくれた坂戸の
「承知いたしました。そのお返事を聞けば、さぞかし安堵することでしょう」
「しかし許せないのは武田信玄じゃ。恐らく、義兄上が内通の意思なしと知った後も、敢えて幾度となく使者を送り込み、その噂を広めることを狙っているのに違いあるまい。我らを疑心暗鬼に陥らせて、越後の分断を図ろうとしていることは明々白々だ」
「なるほど、どこまでも悪知恵の働く生臭坊主ですな」
「堅物の新兵衛にしては、上手いことを言うではないか」
「恐れ入ります」
「ところで新兵衛、ひとつ頼みがある」
「何なりと」
「これから、儂が書する願文を、弥彦神社に奉納してきてくれ」
弥彦神社は万葉の昔より、崇敬と信仰を集めている越後国一宮である。
「信玄が如何に卑怯で不当悪辣であるかを、弥彦の神に直訴しようと思う。儂が信濃に出兵せざるを得ない理由も、書き添えるつもりじゃ。その願いは必ず神の下に届くであろう。それが直ぐに叶わずとも、いずれ必ず、信玄や武田家には天罰が下るはず」
「仰せの通りと存じます」
「小田原も同様じゃ。京の公方様は、早く儂に上洛して欲しいとみえて、伊勢(北条)との和睦を進めるようとの、矢の催促じゃが、こればかりは承服しかねる。たとえ、公方様の命であっても、悪の権化と手を結ぶ奴との和睦など、天に唾を吐くことに等しい。よいか、新兵衛。今日中に出立し、必ず明日には奉納してくれ」
翌日、金津新兵衛
「これで何度目になる」
「五度目でございます」
長尾政景は、信玄からの書状を破り捨てながら、小姓として仕える国分彦五郎
「よいか、彦五郎。武田の使者には二度と坂戸城の門を潜ること罷りならぬ、と伝えているとは思うが、もしも、性懲りもなく、この地を踏むようなことがあれば、切り捨てて構わぬ、とお主からも皆に伝えよ」
「しかし、使者を切り捨てるなど、それでは武家としての礼に失するのではございませんか」
彦五郎は小姓ながらも聡明で、たとえ当主たる政景に対しても、言いたいことははっきりと述べる若者だ。そこが政景は気に入っている。近いうちに自らが烏帽子親になり、元服させようとも考えている。将来は、嫡男・卯松を支え、よき近臣として相談相手にもなるはずだ。今は家中で耳にしたことを、全て報せるように、とも日頃から言い聞かせている。
「彦五郎、考えてみるがよい。礼を欠いているのは武田信玄の方じゃ。儂はこれまで、使者が参る度に、誰が聞いていてもよい、との思いから、内通の意思はないと大声で明白に断っている。それにも関わらず、
「殿のご意思が固いことを、信玄に知らしめるということですね。それと同時に御屋形様に対しても、忠誠を表すことにもなります。ご覚悟の程を存ぜぬとは申せ、出過ぎたことを申し上げてしまいました」
「分かればよいのじゃ」
「しかしながら、殿」
「何じゃ」
「我が家中には、武田への内通を待ち望んでいる方もいるようでございます」
「それは既に儂の耳にも届いておる。であればこそ、儂の決意を家中全てに示すため、今後の使者に対しては、断固たる措置を取るよう、皆に触れ回っておるのじゃ。儂と御屋形様は親戚同士という間柄に止まらず、今では固い絆で結ばれている。かつては若気の至りとは言え、反発する時期もあった。しかし、御屋形様の類い稀な力量を最も知り尽くし、認めておる者のひとりが、この儂に他ならぬ。御屋形様は儂のことを、実の兄以上に思ってくれている。それと同様に、直江大和守殿を父親のように思い、頼っておられる。ただそれだけのことだ。目くじらを立てることなど何もない。それなのに、我が家中の一部が、直江大和守殿の改名を面白く思っていないだけならいざ知らず、儂がいっそ武田に内通すればよい、などという考えは浅慮にも程があるというものだ」
「しかしながら、殿。御屋形様がどうお考えかが心配でなりませぬ」
政景は彦五郎の不安に合点がいった。
「信玄の使者が儂を唆そうと、この坂戸に参っていることくらい、とうの昔に御屋形様の耳にも届いておろう。それが分かっていながらも、何らお
「まことに、仰せの通りでございます。それがしはまだまだ未熟ですね。それでは、あらためて殿のご決意を皆に報せるといたします」
「うむ、頼んだぞ」
政景は深く一礼し立ち去る彦五郎の後ろ姿を、頼もしく見つめていた。
長尾政景の居城である坂戸城下に向かって、歩みを進める武者の一行があった。
馬上の人は
永禄七年(一五六四年)七月四日のことだった。
定満に格別急ぐ素振りは見られない。馬上から、飛び始めた赤とんぼに目をやりながら、ぶつくさと独り言を呟いていた。それはいつものことらしく、家人も一切気にも留めていない様子だ。
「やれやれ、この招きも何年ぶりであろうか。先代(房長)の時は毎年のように招かれ、馳走になっていたものだが、どうも越前守(政景)は堅物なばかりで詰まらぬ奴だ」
長尾父子と共に、当時の景虎(輝虎)に挑んでから、早や十数年が経過していた。この間に、上田長尾家当主である政景は、輝虎との主従関係を深めながら重用され、越後国内で確固たる地位を築いている。
一方の宇佐美駿河守といえば、既に齢七十歳を迎えてはいるが、自身に格別の才覚があるわけでもない。戦の軍役が課されても、家中に華々しい手柄を立てる程の
しかし困ったことに当の本人は、これまで果たしてきた自身の貢献を、高く見積もっているから、手がつけられない。こういう輩に限って、話が面倒で拗れる場合が多々ある。いつの時代にも一定数いる輩の一人である。
「何故儂は、御屋形様から冷遇を受けねばならぬ。天文の折の挙兵が、それほど気に食わないのか。しかし、首謀者である越前守は、何事もなかったかのような厚遇を受けておるではないか。此度も武田への内通の噂で持ちきりだというのに、何らお咎めなしとはどういうことだ。ああ、それに比べて儂はどうじゃ。何と不幸なことか。よし、今日は馳走になってやるぞ。土産もたんまりと頂戴して帰ろう」
このような取りとめもない話を、ぶつぶつと一人呟きながら、一向は上田庄へと、歩を進めていた。
ちょうどその頃、長尾政景は坂戸城内にあって、近隣各将を招いての宴の目録に目を通していた。傍らには宴の準備責任者である、城代家老の金子直綱が、緊張の面持ちで控えている。
主客には発智氏・栗林氏・大貫氏といった面々の他に、宇佐美駿河守の名が記されている。
これより遡ること十日前、春日山の輝虎から一通の書状が届けられていた。それは、八月の信濃出兵に参陣を乞うという趣旨のものである。併せて、代々上田長尾家に付き従っている近隣諸将を、一度城に招いて宴を催して欲しいことも付記してあった。案の定、内通の噂話などには、一言も触れられていないことに、政景はあらためて安堵するとともに感謝していた。
後を追うように大量の金が届けられた。宴に合わせて軍資金を配り、皆の士気を鼓舞して欲しいという、輝虎らしい考えだ。八月であれば稲の刈り入れにも目途がつくから、兵の招集も容易であろう。
本音を言えば、宴の催しなどは面倒でしかないが、輝虎の頼みとあれば仕方がない。大急ぎで宴の準備を整え、今夕の催しにまで漕ぎつけていた。
他の諸将はともかくとして、厄介なのが宇佐美駿河守だ。亡き房長とは同世代の老将であり、敬意を払って持て成すつもりだが、最大の難点は酒癖の悪さだった。
年老いたとはいえ、酒量は以前と然程変わることがない。酔ってくると誰彼構わず絡んでくる。そのうえ、夜通しも厭わない酒豪ときているから、手がつけられない。
今宵は徹夜も覚悟か、と政景は憂鬱な気分になっていた。
翌日、坂戸城に近い野尻池に、一艘の小舟が浮かんでいた。乗っているのは、長尾政景、小姓の国分彦五郎胤吉、そして宇佐美駿河守定満である。
政景と定満は並んで舟に腰掛け、のんびりと釣り糸を垂らしている。この頃は現代の暦で言うところの八月下旬に当たり、越後では既に池の水も冷たく、とても泳げる水温ではない。
昨晩は政景の悪い予感が的中してしまった。定満の絡み酒に付き合わされて、今は寝不足と二日酔いの二重苦に苛まれている。一方の定満はというと、夜通しで飲んでも飽き足らない様子で、朝酒まで所望し、酔ったままの舟釣りとなっていた。
他の各将は、朝餉を食したあと、輝虎からの土産である軍資金を馬に乗せ、既に居城への帰路を辿っている。
ただ一人、酔ったままの定満だけが、どうしても釣りをしたい、とせがむので仕方なく政景が付き合う羽目になっていた。
「のう、越前守殿。貴殿の父とは昔こうやって、釣り糸を垂らしたものじゃ。どちらが多く釣ったかを競い合ったものよ。釣った数が同じ場合は目方を量ってまで勝負をつけた。あの頃が実に懐かしい」
定満は竹筒に入れてきた酒を一口含み、それを美味そうに流し込んだ。
この老人はどこまで飲み続けるつもりだろう。この時の政景は、釣りどころの話ではない。催してきた吐き気を抑えるのに必死だった。船が川面に立つ波で揺れているせいなのは、分かり切っている。定満に対しては失礼かとは思ったが、とても声に出せる状態ではない。無言のまま、政景はひたすら釣り竿の先だけを見つめていた。
政景の脳裏に、ふと浮かんだ光景がある。父・房長と定満が連れ立って、楽しそうに釣りに向かう後ろ姿だった。元服してからは一度だけ、父に連れられて、定満との釣りに付き合ったこともあった。
一方の定満は酔っているせいで、政景の様子には無頓着である。それだけならまだしも、何ら言葉を発しない政景に対して、ひとり勝手に気分を害してしまっているから、手に負えない。
上田長尾家の惣領とは言え、今では同じ関東管領家の一家臣に過ぎぬ間柄だぞ。まして、儂は年長者であり、客人ではないか。その儂に返事もせずに黙り込んでいるとは無礼千万じゃ。
腹の中ではこのように憤りながら、また一口酒を運んだ。
釣れないまま釣り糸を垂らして、半時ほど経った頃、遂に事件は起こってしまった。
政景の酔いもようやく、最悪の状態から回復の兆しをみせていた。頭痛は相変わらず続いているが、どうやら吐き気だけは治まってきたらしい。定満はどうかというと、依然気分を害したまま、黙々と酒を口にしていた。
気がついた時には、竹の中は既に底をついている。ここで、定満は小姓の彦五郎に難癖をつけ始めた。
「おい、小坊主、ここに酒を持ってこい」
もちろん、舟に用意した酒などなかった。もし、本当に酒を用意するには、冷たい池の中を泳いで、遥か向こうの岸まで辿り着き、別の舟で運んでくるしかない。それは土台無理な話だ。
「駿河守様、それだけはご容赦ください。拙者はあまり泳ぎが得手ではありませぬ。それに水がかように冷たくては、例え得手だったとしても、向こう岸まで辿り着くことは、極めて困難でございます」
彦五郎は丁重に断ったつもりだが、絡み癖の定満は、もう収まりがつかなくなっている。
「いいや、容赦出来ぬ。今すぐに泳いで、ここに酒を届けろ」
ここまで家人を愚弄されては、例え酒に酔ったうえでの言動でも、政景は看過するわけにはいかない。
「駿河守殿、どうやら今日は釣りには不向きの日と思えます。雑魚一匹すら喰いつかないのでは話になりませぬ。今日のところは、これで釣りを切り上げて、陸に戻って飲み直すことにしましょう」
定満は酒のせいで、血走った眼を政景に向けた。
「いいや、儂はこの舟で釣りをしながら、太公望を気取って飲みたいのじゃ。越前守殿には、この風流をお分かり頂けまい。さあ小坊主、ここに酒を持ってこい」
その瞬間に、定満の手は彦五郎の腕を掴みかけていた。
どう考えても、無謀でしかない。そのようなことを小姓にさせるわけにはいかない。将来が期待される若者の命が掛かっているのだ。ここは身を挺してでも、彦五郎を守るしかない。政景は決心していた。
「御免」
一言発して、定満の手を払った政景は、彦五郎を庇うように大手を広げて、定満の前に立ち塞がった。
この思いがけない政景の行動に、定満は激昂した。
「無礼であろう。御屋形様の覚え目出度いからと言って、調子に乗るのも大概にせよ。我らはかつて共に、御屋形様に弓を引いた仲ではないか。それがどうだ。狡賢く御屋形様に擦り寄った挙句、今では偉そうに一番の家来面をしおって。しかも、それだけでは足らず、今度は宿敵であるはずの武田如きの甘い餌につられて、内通しているというではないか。そんな卑怯な奴は、この駿河守が許さぬ」
ここまで侮辱されても、政景は冷静を保とうとしていた。武田の使者が来ていたことは、紛れもない事実だ。言い訳するつもりもない。そんな噂が国中に広まっていることも、薄々は感じていた。それでも、輝虎さえ自分を信じてくれていれば、それでよいと割り切っていた。
しかし、我慢出来ないのは、小姓の彦五郎だった。
「左様なことは事実無根でござる。我が殿は天に誓って、内通などは致しておりませぬ。これ以上、我が殿を愚弄するとあれば、たとえ駿河守様でも、この彦五郎胤吉が許しませぬ」
彦五郎がそう言うや、脇差の鯉口を切る音を背後に聞いた政景は、慌てて振り返った。
「止めよ、彦五郎」
言った時には遅かった。危機を察知して一瞬先に鞘を掃った定満は、振り返った政景の背中に向けて、袈裟懸けに深く刃を振り下ろした。その瞬間に、血飛沫が舟内の辺り一面に広がり真っ赤に染まる。
「殿」
とっさに叫んだが、突然の出来事が未だに信じられない。苦悶の表情を浮かべた政景の顔が目の前にあった。彦五郎は倒れ掛かる政景をとっさに支えながら、静かに横たえると、直ぐさま振り返り、定満を睨み返した。
「おのれ、駿河守」
逆上のあまり、そう叫び脇差を抜いた彦五郎は、定満めがけて斬りかかった。しかし、相手は太刀を持った大人である。如何に酔った老人とはいえ、その刃を受け流すと、彦五郎を足で蹴り飛ばした。
水音の方向を見れば、彦五郎の身体は池の深みにはまり溺れかけている。
その様子を横に見ながら、定満は手負いの政景に向けて、刀を振りかぶった。
「こうなったら仕方ない。謀反を問い質したところ、突然抜刀して斬りかかられたので、やむなく応戦し、切り捨てたと申し開きをすれば済む話じゃ。越前守もここまでじゃ、覚悟しろ」
そう言い終わるが早いか、定満の身体は強い衝撃とともに宙に浮いていた。その瞳は初秋の青空を一瞬捉えたが、激しい水音とともに何も見えなくなってしまった。
輝虎は坂戸城にいた。三人の変わり果てた遺体と対面したばかりだ。それは間違いなく、長尾越前守政景、宇佐美駿河守定満、そして小姓として仕えていた国分彦五郎胤吉の亡骸だった。
舟釣り中での溺死とのことだったが、政景の背中には深く刀傷が刻まれていた。
三人を見送った者からの話では、酔ったままの宇佐美定満が、気乗りしない政景を半ば強引に連れ出したらしい。それが何故こうなったのかは、誰一人として目撃した者はいない。
信濃出兵という大事な時期に、片腕でもある政景を失ってしまったことは、輝虎にとって大きな痛手だった。久しぶりに副将として戦場での活躍を期待していたが、それも叶わぬことになってしまった。
しかし、この時も、輝虎には義兄の死を悼む時間すら与えられていない。関東では、太田資正の居城である岩槻城が、北条勢に攻囲されて、落城の危機に晒されていた。その急報が届いた矢先に、政景の訃報だった。
坂戸城で、この事件処理を早々に済ませて、春日山城に戻らなければならないのだ。
輝虎は政景直臣の主だった者を集めた。
「此度のことは全て事故として処理する。事実は死んだ三人しか分らぬ以上はやむを得まい。宇佐美家は息子の平八郎に継がせる。今までと何も変わらぬ。枇杷島には儂から使者を出す。彦五郎の家には、十分な金子を届けさせる。手厚く葬ってやってくれ。それから、国分の家の者には、此度のことは一切口外せぬよう念を押すこと。上田長尾家の今後についても、悪いようにはせぬ。これから、儂が直接姉上に申し上げる。皆、安心して、これまで通り儂を支えてくれ」
姉上とは綾、のちの仙桃院のことであり実姉である。亡き政景のもとに嫁いでから、早や十数年が経過していた。
「姉上、誠に無念でなりませぬ。衷心よりお悔やみ申し上げます」
久しぶりの姉弟の対面である。姉とは義父・房長の葬儀以来となる。まさかこのような形での再会になるとは、二人とも思ってもいなかったはずだ。姉は気丈に振る舞ってはいるが、夫の急死を受けて、顔には泣き疲れた跡がみられる。
「本当に急過ぎる出来事で、これからどうしたらよいものか、見当もつきませぬ」
悲しみと困惑の極限にある姉に対して、それでも輝虎は話を進めなければならない。
「姉上、先ず卯松のことでお話があります」
顔を上げた姉の表情が、急に険しくなったのが分かる。
「春日山に連れて行くということですね」
「はい。以前、卯松には樺野沢城で会ったことがあります。その際、いずれは春日山で引き取り、我が手元で育てたいと義兄上にはお伝えしました。かような形で時期が来るとは思ってもみませんでしたが」
「それは質という意味なのですか」
「それは違います。ご存知の通り、我が身には妻も子もおりませぬ。それは生涯変わることがありません。卯松は我が甥。卯松の今後を確と見届け、やがては我が後継として成長して欲しいと願っております」
姉である綾の瞳は、瞬きもせず輝虎をじっと見つめたままだ。
「その言葉を信じましょう。ただ、一つだけお願いがあります。卯松をひと月だけ、我が手元に置いて、共に暮らしたいのです。夫が急死したうえに、息子まで奪われるとあっては、
確かに綾の言う通りだった。傷心の姉に追い討ちを掛けるような、酷い仕打ちをするところであった。輝虎は自らの配慮のなさを恥じた。それと同時に、自らの幼い頃と、卯松が置かれた今の状況を重ね合わせていた。置かれた環境は違うが、早くに親の元から引き剝がされてしまう点では似通っている。
自分がわずか七歳にして、母親や近習から突然引き離された結果、寺での厳しい修行に身を投じたのは、その寂しさを紛らわせるためでもあった。これから卯松にも、同じ思いをさせてしまうと思うと不憫でならなかった。
幼い頃に、寂しさと母恋しさのため、兄弟子たちが寝静まった後で、密かに涙で枕を濡らしたことは一度や二度ではなかった。
「姉上、これほど自らの浅慮を恥じたことはありません。辛いお気持ちの姉上と、未だ幼い卯松に対して、人の心を失ったような命を、安易に下そうとしておりました。どうかお許しください。卯松が春日山に来るのは、義兄上の四十九日法要を済ませた後で結構です。限られた月日ではございますが、どうか卯松との残された日々を大切にお過ごしください」
「分かってくれましたか。武家のもとに生まれた以上は、いつかこのようなことが訪れることは、覚悟しておりましたが、いざとなると、駄目なものですね」
「そんなことはありません、姉上」
輝虎は次の言葉が見つからなかった。何を言っても駄目なような気がしていた。
「輝虎殿」
「はい」
「卯松を上田長尾家の嫡男として恥じぬ立派な武者に、どうか育てて下され」
綾は深々と輝虎に向けて頭を垂れた。その一言はやがて離れ行く我が子に対する、母としての精一杯の思いの丈でもあった。
「それから、卯松にはひとり、近習として付き従わせたい者がおります」
顔を上げた綾には、もう迷いはなかった。
「無論、それは構いません。卯松の近習として、姉上のお墨付きを得た者が、如何なる人物か気になります」
「お墨付きを与えたわけではありません。ただ、古今稀に見る秀逸な子であることは、この私が保証しましょう」
「それは子どもなのですか」
「当家家臣樋口兼豊の子で、与六と言います。未だ五歳ながら実に利発な子ですよ。四歳年上の卯松とも、よく気が合うようです。二人が一緒であれば、少しは寂しさも紛れるでしょう。何よりも、私が安心なのです」
「未だ幼子ではありませんか。そのような者が本当に卯松の近習として務まるのですか」
「輝虎殿、会う前から幼子が役に立たないという、勝手な思い込みをしていませんか。会えば直ぐに、この姉が薦めた理由がわかるはずです」
「姉上がそこまで言うからには、余程優れた子なのでしょう。今から会うのが楽しみになってきました。それでは、卯松と同様に与六も、我が手元で立派に育ててご覧にいれましょう」
「頼みましたぞ」
姉弟の約束は見事に後年結実する。樋口与六とは、後の直江山城守兼続である。
一刻の後、輝虎は坂戸城を後にした。
義兄上、見ていてください。卯松はいずれ我が子として、必ずや立派な武将に育ててみせます。
心の中で、亡き政景に誓い、輝虎は春日山への帰路を急いだ。
*挫折と破綻
輝虎は兵一万を率いて、横山城に入った。八幡原での激闘から既に三年の歳月が流れている。
武田信玄は三年前の大敗に懲りることなく、北条との同盟を巧みに利用しながら、老獪な手段を使って、輝虎を苦しませている。
出陣の直前には、またもや関東から輝虎を落胆させる報せが届いていた。それは去る七月二十三日に武蔵国・岩槻城が北条の手に落ちたという内容だった。戦による落城ではない。城主・太田資正の息子が、氏康に唆されて、父を追放したのだ。資正の無事は、関東に配している幻の者が追跡し確認していた。今は、宇都宮城主の宇都宮広綱のもとで、無事庇護されているとのことである。
武蔵松山城に加えて、岩槻城まで失ったことで、武蔵国の拠点は全て失ったことになる。輝虎にとっては、資正の無事だけが唯一の救いだった。
当然、輝虎の凄まじい憎悪は、手段を選ばぬ姑息な信玄と氏康に対して向けられる。特に信玄は、これまでの越中への介入や、信濃侵攻に飽き足らず、西上野侵攻や密かに越後の国衆に内通を唆すなど、あらゆる手段を使って輝虎を陥れようとしている。義兄である政景の死因は不明だが、信玄からの内通の誘いと、何らかの関係があるに違いなかった。並みの才覚では、とても太刀打ち出来そうもない仕打ちだ。輝虎という軍事的天才だからこそ、ここまで何とか
川中島に布陣する直前には、敢えて信玄の勢力範囲である更科八幡宮まで足を延ばし、信玄の悪行を書き連ねた願文を奉納していた。永禄七年(一五六四年)八月一日のことである。
輝虎は今度こそ信玄との決着を図ろうと乗り込んできている。信玄が必ず出て来る確信があっての出陣だった。
その確信は信濃隣国の飛騨における国衆同士の争いに端を発している。具体的には、江馬時盛対江馬輝盛・三木良頼の対立である。信玄が時盛を支援し、輝虎は輝盛と三木良頼を支援するという構図だった。
なお、輝盛と三木の陣営には、織田信長も
信玄は江馬時盛を支援するために、永禄七年六月、既に山県・甘利の両将を援軍として飛騨に遣わしている。それは信玄本人が出陣するに当たっての先遣隊という意味であり、信玄が飛騨に出陣する際には、必ず北信濃を経由してのものになる、という確信があった。
もちろん、この動向も、幻蔵の後を継いだ幻次がもたらしたものだ。
輝虎は即断した。この機を逃す手はない。信濃に軍を進めれば、先ず信玄の飛騨行を阻止することが出来る。それは江馬輝盛と三木良頼を側面から支援することになる。そして、一番望んでいるのが、信玄との再戦だった。
幻次からの報せに間違いはなかった。間もなく、一万の軍勢を率いた信玄が、塩崎城に入ったことがわかった。
輝虎は早速、軍を動かした。善光寺・横山城から犀川を渡河し、更に南下させ布施の地から西に進み陣を敷いた。南方に塩崎城がみえる絶好の位置だ。東側に位置する海津城からの側面攻撃にも、いつでも対処出来るよう警戒は怠っていない。善光寺・横山城に控える輜重隊にも、奇襲に備えて武装させたうえに、更に警護の軍を配しながらの移動であり、備えは万全だった。
あとは信玄の出方次第だった。そう易々と信玄が決戦を挑んでくるとは思えない。三年前に食らった苦い思いは、もう二度と味わいたくはないだろう。
輝虎の気持ちが逸らないわけがない。いくら憎んでも憎みきれない程の、宿敵信玄を目の前にしているのだ。叶うことならば、何とかして信玄を戦場に引き摺り出して、決戦に持ち込みたかった。
幾度か誘いの軍や、油断した軍の様子をみせてはみたが、やはり一向に敵が動く気配がない。こうなっては、またもや手の打ちようがない。いたずらに時間だけが過ぎていくだけだった。
信玄も塩崎城の櫓に立ち、北方に陣取る越後勢を忌々しい気持ちで見下ろしていた。その後ろに控えているのは、馬場美濃守信春である。三年前の戦いでは高坂弾正虎綱と共に、別動隊を指揮していたその人である。武功が認められて、名も馬場民部信房から改めていた。
「早や十月を迎え、夜の寒さも堪えるはずですが、敵の士気は一向に衰える様子がありませぬ」
「うむ」
馬場美濃守の問いかけに対しても、信玄は不機嫌そうに一言唸っただけだ。
確かに季節は晩秋を迎えようとしている。北に陣取る越後勢の陣営から立ち上る闘気は、全く衰える様子がない。そもそも、此度の出陣は飛騨への侵攻を企てたもので、越後勢との決戦を目論んだものではない。輝虎に先読みされて、飛騨への進軍を
飛騨の情勢は流動的だった。武田の援軍を得た江馬時盛が戦いを優勢に進めていたのも束の間、今は輝虎の援軍を越中から得た江馬輝盛と三木良頼の連合軍が、勢いを盛り返しているという。このままでは、雪に閉ざされる冬を前にして、両軍講和するしかないだろう。
「どこまで儂の邪魔をすれば気が済むというのか」
信玄が感情的に怒るのは珍しいことだ。
にわかに一陣の冷たい山風が、辺りの森の木々を、激しく揺らした。
「止むを得まい。兵を退く。甲斐に帰るぞ」
信玄は越後勢の方向を見下ろしたまま動こうとしない。櫓の下に目を移すと、馬場美濃守が、方々に退陣を告げて急ぎ駆け回る様子があった。
翌朝、輝虎は、物見の兵から武田勢に動きあり、との報せを受けていた。
輝虎は、従者数名を引き連れて急ぎ南下した。半里ほど駆けたところで馬を止めた。物見の見立ては間違っていない。武田の大軍が塩崎城から南に向かって徐々に撤退している。
「やはりそうか」
少し残念そうに呟くと、次の瞬間には馬首を返していた。
その後、輝虎は国境の飯山城の普請を済ませて、そのまま春日山に帰城した。この対陣を最後に、信濃・川中島を舞台とした両雄の戦いには、終止符が打たれることになった。
永禄八年(一五六五年)の正月を迎えた。輝虎が春日山で年を越したのは、実に五年ぶりになる。ここ数年間は全て上野国の厩橋城だった。これも全て関東管領としての義務を全うしようとしてきた、輝虎の責任感の強さと、関東管領としての矜持以外の何ものでもない。
春日山での正月が新鮮なのは、五年ぶりということだけではない。卯松と与六という我が子のような二人の幼子を傍に抱えたことだ。三年ぶりに会った卯松の成長は著しいものがあったが、それより驚いたのは樋口与六だ。卯松より四歳下にも関わらず、物怖じすることなく、卯松とは仲の良い兄弟にしか見えない。今は仙桃院と名乗っている姉、綾の言う通り、極めて聡明な子供だった。随所に大器の片鱗を覗かせてもいる。卯松には勿論のこと、与六に対しても、輝虎は自身が学んできた出来る限りのことを、教えてあげようと思った。
一方、一歩国の外に目を向けると、情勢は決して好ましい方向には進んでいない。北条方に鞍替えする関東の国衆が後を絶たないのだ。輝虎が関東に居座っている間は従順でも、帰国した途端、手のひらを反すように北条方に与する国衆には、さすがに辟易していた。まさに鼬ごっこでしかなかった。
北関東に
跡を継いだ業盛も、決して凡庸な器ではない。ただ、父親である業政の影響力に比べると、若さ故にどうしても劣ってしまう。これから数年の働き次第では、周囲の見る目も違ってこようが、それまで箕輪城が持つかどうかという瀬戸際だった。武田勢が本気で西上野から侵攻してきた場合、果たして居城を死守出来るかという段階にまで、既に追い詰められており、その不安は払拭出来ないまま今日に至っている。
越前の朝倉義景からは雪解けを待って、共に加賀の一向一揆を攻めようとの誘いを受けている。義景は前年九月に加賀に攻め込んでいた。一向宗徒の拠点数か所を焼き討ちにして、自信を深めているようだ。今年は南北からそれぞれ攻め込んで、一向宗徒の殲滅を図ろうという誘いに違いない。
しかし、輝虎は一向宗徒攻めの難しさを知り尽くしている。殲滅など、そう簡単に出来るものではない。一度や二度の緒戦に勝利したとしても、宗徒の大半が民である以上、他の民の中に紛れて潜み、地から湧き出るように、必ず勢力を盛り返すのだ。輝虎自身が一向宗を相容れないとは言え、信仰の持つ強さは誰よりも知っているつもりだった。
とは言え、朝倉家との交誼は、交易上これからも重要である。もしも簡単に断るようなことをすれば、義景の顔を潰すことになる。果たしてどうしたものか、と思案しているところに、一通の書状が輝虎のもとに届けられる。
それは、上総国の酒井
しかし、関東の国衆の離合集散が後を絶たない中にあって、こうして救援を求める者を、見放すことは決して得策とは言えない。色々と考えあぐねたうえ、この救援依頼を理由に、加賀出兵の誘いを、婉曲的に断る口実に使うことにした。
関東への先遣隊には、河田長親を指名した。この時、輝虎は長親から関東の詳細にわたる情勢を直接聞くために、沼田城から一時帰国を命じていた。
この輝虎の判断は的を射ていたことが、然程時を待たずに立証される。河田長親が軍勢を率いて、北条高広が守る厩橋城に入ると、上総国における北条方の動きが鳴りを潜めたのだった。
一方では京の将軍・義輝からは、上洛を促す書状が尽きることはなかった。もちろん、叶うことならば、すぐにでも上洛のうえ、将軍家をお守りしたい気持ちに嘘偽りはない。しかし、関東の混沌とした状態を棚に上げて上洛するなど、今の輝虎に到底叶うはずもない。関東管領という今の立場では、上洛は夢のまた夢でしかなかった。
この時の輝虎の目は、西に向いてはいない。京における微妙な権力図の変化には、些か鈍感になっていた。京の雑掌・神余親綱からは、様々な報せが届いてはいる。前年七月には三好長慶が急死したことも、いち早く報告を受けていた。
三好長慶という畿内の大大名の死が、京において如何なる変化をもたらすかということは、冷静に考えれば分からないはずはない。しかし、この時の輝虎の思考回路は、関東や近隣の動向を見定めることで手一杯だった。京の動きについては、些か後回しになっていたことは否めない。
京で驚天動地の大事件が起きたのは、そんな時である。
永禄八年(一五六五年)五月十九日、足利幕府第十三代将軍・義輝が、二条御所で殺害されたというのだ。首謀者は三好長慶の継子である義継と松永久秀であるという。神余親綱からの急報でその事実を知った輝虎は、まさに烈火の如く激怒した。
松永久秀などは、もともと三好長慶の一家臣に過ぎない。そのような者が、畏れ多くも武家の棟梁たる公方様を誅し奉るなど、言語道断の暴挙でしかない。
輝虎は自ら軍勢を率いて、直ちに不逞の輩を成敗するつもりだった。京から遠く離れた越後にあっては、それが如何に困難なことかは分かっているが、それでも本気だった。輝虎は与板に遣いを出して、直ちに直江大和守景綱を呼び寄せた。
「
御実城とは輝虎のことである。輝虎が春日山城の本丸である実城の主であることから、この頃より「御実城様」と尊称されるようになっていた。
「されど、お主は武家の頂点に立たれていた公方様を殺されて、それを黙って見過ごせというのか。儂には、主君を殺されて、見す見す我関せずなどという不義は断じて出来ぬ。かくなる上は、越前の朝倉義景殿と共に上洛を果たし、賊徒仇敵である三好・松永を滅ぼす。河内守護の畠山殿からも、上洛を乞う書状が届いている。一緒に戦おうとの誘いじゃ。義は我らにある。この弔い合戦を行わずして、何が関東管領か」
この時期、朝倉義景は再度加賀への出兵を要請してきている。一度は関東情勢を理由に出兵を断ったのだが、輝虎の予測した通り、一向一揆を根絶やしにするどころか、反撃に遭い困っている窮状を伝えて来ていた。
河内国からも、畠山氏第一の家臣である安見宗房が、兵五千を率いて助勢するので、急ぎ上洛を乞うとの懇願が手元に届いたばかりだった。
「御実城様のお気持ちはお察し申し上げます。公方様のご無念を晴らし奉ることこそが忠義の証であり、武家の本分・至誠とお考えでしょう。それは決して間違ってはおりません。しかし、それでは、あまりに短慮が過ぎます。今、御実城様が軍勢を率いて上洛しようものならば、関東・信濃・越中だけで事は済みませぬ。京の将軍職が空席の今、隣国に潜む不逞の輩を抑え込む権威のある方は、この世に誰一人としておりませぬ。此度上洛するとなれば、半年や一年では済まないでしょう。お留守を共にお預かりしてきた越前守様(政景)も、もうこの世にはおりませぬ。そうなれば、御実城様がご不在の間に、越後が他国の敵に蹂躙されることは、先ず間違いないでしょう。それが分かっていても、飽くまでも忠義や本分に拘り、越後の民を捨ててまでも、上洛と敵討ちに拘ると仰せでしょうか」
直江景綱が、ここまで正面を切って輝虎に反対することは、極めて稀なことだ。輝虎の「暴走」を止められるのは、もう自分しかいないと腹を
景綱は諫言に少し怯んだ輝虎に対して更に続ける。
「民のためだけではございませぬ。もしも、越後と近隣の国々を捨ててまでも、上洛と弔い合戦に拘るというのであれば、これまで御実城様の義戦に付き従い、傷つき死んでいった多くの将兵の御霊が、どれだけ嘆き悲しむことかをお考え下さい。それでも、敢えて上洛するというのであれば、好きになさるが宜しい。ただ少なくとも、この大和守は一切関わらぬ所存であり、ご承知おき願います」
景綱にここまで言われては、輝虎に言い返す術はなかった。今日の自分があるのは「越後の民」の支えだけでなく、自らが掲げる義戦で傷つき、命を落とした幾千の将兵の犠牲のうえに存在している。
将軍・義輝の暗殺という暴挙は断じて許されるものではない。しかし、先ず自分は越後の国主であり関東管領だった。怒りという感情に任せて、敵討ちに走ることは、景綱の言う通り許されるはずもなかった。
冷静さを取り戻した輝虎は詫びた。
「すまぬ、大和守。お主の申す通り短慮であった。許せ」
「いいえ、些か言葉が過ぎました」
二人の表情がようやく和らいだ。
「やはり、儂はお主が必要じゃ。いざという時に、面と向かって儂を諫める者がいるのは心強い。今、つくづくそう思っている」
「恐れ入ります」
「ついでに訊ねる。これから京はどうなると思う」
「次期将軍職を巡っての争いになるでしょう。恐らく、三好殿が推すどなたかと、畠山殿や朝倉殿が推すどなたかの間で、泥沼の駆け引きとなるに相違ないかと」
「やはり、そう思うか。畠山殿の書状には、南都・興福寺一条院に覚慶殿という、亡き義輝様の弟君がおられると記してあった。その御方に
「そうであれば尚更のこと。もしも、御実城様が我が反対を押し切り、上洛のうえ弔い合戦に勝ったとしても、その後の将軍職継承を巡って、何かと担ぎ出されるは必定でございましょう。越後に戻れるのはいつのことやら、分かったものではござりませぬぞ」
「心配には及ばぬ。上洛と弔い合戦は諦めた。次に上洛するとすれば、新たな公方様が儂を頼って下さり、気が熟した時となろう。それまでは、更に越後国内を豊かにして力を蓄え、関東も何とかしなければなるまい」
「それが宜しいかと存じます。しかし」
景綱は言おうか、言うまいかを、珍しく逡巡している。その様子を輝虎が見逃すはずはない。
「しかし、何じゃ。お主らしくもない。先ほどのように遠慮なく申してみよ」
「されば申し上げます。御実城様は既に幾度となく越山し、関東の地に平穏と安定をもたらそうと、尽くされて参りました。しかし、それが思うように進んでいないのは、ご自身が一番ご存知のはず。関東遠征は飽くまでも、関東管領としての職責を果たさんがため。そこに私心の欠片もなきことは、この大和守がよく存じ上げております。しかし目前には、左様な御実城様を快く思わぬ、武田と北条という難敵がおります。奴らはただひたすら貪欲に、自領の拡大を推し進めて参りました。目的を果たすためであれば、奴らは手段を選びません。弱者を脅し、時には唆し、そして最終的には武力で解決するというやり口です。そのやり口に、我らは毎度後手を踏み、苦しめられ続けて参りました」
「それは今更いうまでもあるまい」
「左様でございます。しかし、関東統治がなかなか進まないのは、もう一つの原因があると心得ます」
「それは何じゃ」
「御実城様は、関東の国衆それぞれの自治を前提とした、統治を目指しておられますね」
「それは当然だ。儂には領土拡大などという、詰まらぬ欲には関心がない。それぞれの国衆が先祖から受け継いできた土地と民を、守り養えばそれでよいではないか」
「それがそうとも限らないのです」
「どういうことじゃ」
「戦乱の世が長く続く中で、国衆はより強く大きな勢力を持つ大名に、臣従を誓うことで本領を安堵して欲しいのです。また戦で手柄を立てた時は、褒美として領地を増やして欲しいというのが本音なのです。それは関東の国衆も同じです。かつての関東は、鎌倉公方様を頂点に、それを補佐する関東管領が、一円を統治して参りました。しかし、ご存知の通り、伊勢何某かという今川の客人から身を起こし、伊豆一国を手中に収めた者の子が、北条の名を語り、今では伊豆・相模・武蔵国の大半を領するまでに至っております。とすれば、越後に本拠を構える御実城様よりも、常時関東に大きな勢力を振るう者に付き従い、本領の安堵を願うというのが、自然の流れと申せましょう」
「沼田と厩橋に拠点を置いているが、それだけでは否と申すか」
「はい。本拠が上野国ならばともかく、関東国衆の心を掴むのは、なかなかに困難なことと心得ます」
「しからば、今後儂は如何したら良いのか」
「今更、関東の国衆を家臣化して、直接統治することは出来ません。ただいま申し上げた国衆の心情を念頭に置いて、あとは武力をもって、敵を圧倒する他に途はございません」
「関東各国衆の心情に気を配り、理解しながら進めろということか」
「左様心得ます。しかし、西は違いますぞ」
「それは越中・能登・加賀のことか」
「御意にございます。一向宗徒との戦いは極めて困難ながら、今後の上洛を容易にするためにも、少なくとも、その三国は直接統治することを、念頭に置くことが肝要かと存じます」
「考えておく」
「御実城様は、越中・能登・加賀そして越前では、何故こうも一向宗が盛んなのかを、考えたことはございますか」
「それは政事が拙く、民のためになることを行わないからであろう」
「仰せの通りです。御実城様が越後と同じように、その三国を治め、民を守るのです。そうすれば民の暮らし向きはよくなり、やがては一向宗徒として武力に訴えることも徐々に減少していくでしょう」
「民のための領土拡大と直接統治か」
「その通りです」
「なるほど。それならば今後は前向きに考える必要がありそうだ。いずれにせよ、これから京は騒がしくなるが、儂にとっての先決は関東、そして次は越中か」
その晩、輝虎は読経しながら、ひたすら義輝の冥福を祈った。京で共に過ごした義輝との日々は、既に遠い過去の出来事だった。
その後も、京からは次々と新たな報せがもたらされたが、肝心の将軍後継者については、遂に噂の域を出ることはなかった。
永禄八年(一五六五年)七月二十八日、亡き将軍義輝の弟であり、興福寺・一条院に軟禁されていた覚慶が、甲賀の和田城に入ったとの報せを受けた。覚慶は当初、次期将軍候補の筆頭と目されていたが、義輝を殺害した三好義継がこれを快く思わなかった。その覚慶を軟禁から救い出したのが、越前国の朝倉義景だった。
その後、和田城に入った覚慶は、頻繁に輝虎に対して、上洛を促す書状を送ってきたが、輝虎がこれに応ずることはなかった。
永禄八年十一月、輝虎にとって不運な訃報が続くことになった。常陸国の佐竹義昭が、国内の統一を目前に、三十五歳という若さで急死したのである。
前に長野業政を失い、今度は佐竹義昭だ。輝虎は関東における盟友を、立て続けに失ってしまったことになる。極めて大きな痛手だった。これで東関東には、反北条を掲げて、輝虎と共闘する一大勢力が消失したことになる。既に家督を継いでいた子の義重が、父親の急死でどこまで家中をまとめられるかは今のところは未知数だ。
佐竹義昭の急死の報を待っていたかのように、小田城を小田氏治が奪回したという。昨年一月に攻め落としたばかりの城を奪回されたとあっては、もう看過することは出来なかった。このままでは、益々北条方を勢いづかせることになってしまう。
同年十二月初旬、またもや、雪が激しく降りしきるなかを押して峠越えし、輝虎は関東に軍を進めた。二年ぶりに厩橋城で越年した輝虎が、先ず向けた矛先は小田城ではない。
永禄九年(一五六六年)一月、輝虎は上野国安中口に急行した。輝虎に味方する安中景繁が籠る碓氷郡の諏訪城を、武田軍が攻めているという。
信玄不在の武田勢などは輝虎の敵ではない。これを難なく撃ち破った次に向かう先は、因縁の佐野氏が籠る唐沢山城だった。
性懲りもなく、という言葉も、佐野昌綱のためにある。またまた輝虎を裏切り、北条方に寝返っていた。春日山城に人質として預かっている、実子の虎房丸のことなど、どうなってもよいと考えているのか。
唐沢山城を無視して、常陸や下総に軍を進めることは出来ない。背後を突かれる恐れがある。度々にわたる佐野昌綱の所業には腹に据えかねているが、目前に立ち塞がる障害は、此度も難攻不落の堅城である以上は、現時点では如何ともいたし難い。
輝虎は苦々しく思いながらも、図々しく本領安堵を条件として降参を申し出てきた昌綱を、受け入れざるを得なかった。
但し、さすがに輝虎も無条件で許すほど、お人好しではない。旗本衆のひとり、吉江佐渡守忠景を唐沢山城城代に据えて、昌綱の勝手な振る舞いを封じ込めることにした。
ようやく後顧の憂いを断った輝虎は、常陸国の小田城攻略に向けて軍を進めた。その道中、思わぬ味方が駆けつけてくれていた。それは、父を亡くして間もない佐竹常陸介義重である。
義重が率いてきた三千という兵は、決して大軍とは言えない。父・佐竹義昭の死後、義重の立場は未だ安泰とは言えないはずだ。恐らくは、居城の守りをしっかり固めたうえで、可能な限りかき集めた精一杯の結果が、三千という兵力なのだ。
輝虎にとっては、兵の数に関係なく、義重自身が小田城攻めに参陣してくれた、その心意気が何よりも嬉しかった。義昭の死によって、佐竹義重の去就は、関東の国衆の誰もが注目するところだった。
輝虎は、義昭の死を機に、義重が自分と
「常陸介殿、よくぞお越し下された。御父上のことはお悔やみ申し上げる。我が同志を失ったことは痛恨の極み。しかし、こうして常陸介殿が軍勢を率いて参陣して下された。何よりも心強い限り。この関東から不逞の輩を全て駆逐するまで、ともに戦いましょう」
「山内殿より早速温かいお言葉を頂戴し、恐悦至極に存じます。父義昭が死の淵にありながら残した言葉は、自分の死後も山内殿との同盟を堅持し、北条とは一線を画すようとのことでした。父の声は絶え絶えでしたが、この耳で確と聞いております。結局それが父の遺言となってしまいました。此度、山内殿が小田城奪還のために、進軍中との報に接し、遅れてはなるまいと、急ぎ馳せ参じた次第です」
「さすがは若くしてご当主となられた御方らしく、実に頼もしきお言葉。亡き御父上も、早くから貴殿の類い稀なその才覚を、見抜いておられたのでしょう」
輝虎のその一言は決してお世辞ではない。本心からの言葉だった。義重が家督を継承したのは四年前、わずか十六歳の時である。むろん、実権は父である義昭が掌握していたはずだ。義昭はこの頃から、密かに体調不安を抱えていたのかもしれない。そこで、自らは隠居という形を取り、早くから義重に当主としての心得や振る舞いを授けていたのであろう。
「いいえ、未だ若輩者故に、山内殿には今後
輝虎は笑みを浮かべながら義重に語った。
「左様に堅苦しい形式張った物言いは、これで終いといたしましょう。我らは御父上の代の頃と変わらず、対等の同盟関係にあるのです。これからはお互いに遠慮なく、胸襟を開いて語り合うというのは如何でしょう」
「それは望むところです」
「常陸介殿、早速儂からひとつ伺っても宜しいかな」
「何なりと」
「亡き御父上は常陸国を統一せんとしながらも、その志半ばで帰らぬ人になってしまわれた。それ故に失礼ながら、国元における常陸介殿のお立場は、未だ不安定なのではござらぬか。左様な時期にも関わらず、儂への義理立てのために、居城を留守にしてまで参陣くだされた。それは我らにとってまことに有り難きこと。されど、余計なことかもしれぬが、敢えて言わせて貰いましょう。この留守中に敵方が攻めてきて、太田城を襲われる不安がないか、つい心配してしまうのだが如何であろうか」
「ご心配を頂き、
「左様でしたか。それを伺い安堵いたしました。常陸介殿は、お父上譲りの緻密さと、豪胆さの両方を兼ね備えておいでだ」
「畏れ入ります」
「ではお伺いしたついでに、我が存念を遠慮なく述べましょう。宜しいかな」
「どうぞ、ご存分に」
「ご存知の通り、関東では我らに与する方と、小田原方に分かれて、離合集散を繰り返しており、それが未だに定まる気配すらありませぬ。そのような中で我らは、二人の偉大な盟友を失ってしまった。お一人目が上野国・箕輪城主であった長野業政殿、そして此度が他でもない御父上です。これは正直言って、我ら小田原に敵対する勢力にとっては、実に大きな痛手になってしまった。しかし、此度は常陸介殿が御父上に勝るとも劣らぬ、将としての器の持ち主と知り、道が開けた心地です。かくなるうえは、御父上の遺志を継いで、一日も早く常陸国を統一頂きたいと願うばかり。それがひいては、関東の安定にも繋がると存ずるが如何でしょう」
「山内殿から、左様なお言葉を頂戴出来るとは、思ってもみませんでした。むろん、我が願いは父の遺志を引き継ぎ、常陸一国を統一することです」
「貴殿はそれを十分に成し得る御仁とお見受けしたからこそ、こうしてお伝えしたまでのこと。貴殿が常陸一国を束ねて、下総や下野国に睨みを効かせて下されば、我らも上野や武蔵国での動きが取り易くなります」
「なるほど」
「そこで、これは盟友からの助言として捉えて欲しいのですが」
「何でございましょう」
「先ずはご自身の足場を固めることこそが肝要。早々に太田城にお戻りなさるが宜しいかと存ずる。むろん、御父上がご存命であれば、これからの総州攻めを含めて同道頂くところ。されど貴殿にとって、今、最も重要なことは、決して総州攻めではない。我らのことはどうか気になさらず、小田城攻めの後、早々に帰国なさるがよい」
「しかし、それでは我ら佐竹の家の者の気が済みませぬ。どうか、総州攻めにもお加えください」
「今は、そのお気持ちだけで十分です。本日、こうして陣中でお目にかかり、直接存念を語り合えたことで、心が通じ合えた心地がいたします。行く行くは、この関東に安寧をもたらすために、力を合わせて、戦おうではござりませぬか。先ずは我らに遠慮なさらずに、国元を固めることを優先なさるが宜しい」
この時の佐竹常陸介義重は、輝虎の男気に魅了されていた。輝虎の武勇について知らぬ者はいない。しかし、決して戦い一辺倒の猛者ではないらしい。噂以上に広い視野と見識を持ち、情と義に篤い武将であることを、会って初めて知ることが出来たのだ。
しかし、この義重に対する男気が、やがて、取り返しのつかない大きな失策の導火線になってしまうとは、この時思いもしない輝虎だった。
ともあれ、上杉・佐竹の連合軍は小田城に迫った。
慌てたのは小田氏治である。輝虎襲来の報を受けて、とても敵わぬと諦めた小田氏治は、結城晴朝を仲裁役として、またもや輝虎に降伏を申し入れてきた。永禄九年二月十日のことである。
降伏に当たって自ら申し入れてきた条件は、城の破却だったが、輝虎は敢えて、それを拒否した。小田城が持つ戦略的位置づけは極めて大きい。わざわざそれを破壊するのは愚策でしかない。
小田氏治の助命と、城に留まることを許す代わりに、輝虎が提示した条件は、氏治を取り巻く親・小田原を称する家来衆を一掃し、その者たちを売りに出すことだった。氏治に余計な入れ知恵をする不逞の輩を排除するために取った、輝虎の非情に徹した判断だった。
小田城の仕置きを終えた輝虎は、一旦上野国・舘林城まで兵を退いていた。下総国の攻略には、あらためて態勢を整える必要があったためだ。
最初に攻めたのは小金城である。下総と武蔵の国境にあり、先ずはこの拠点を抑えることが定石だった。これを難なく陥落させた後の標的が、いよいよ下総国・臼井城である。
臼井城は千葉氏の家臣である原
特に里見義堯・義弘父子と言えば、二年前の国府台城の合戦において、氏康の夜襲を許すという大失態を演じた張本人である。汚名を濯ぎ、勢力を回復する機会を狙っていた里見父子にとって、絶好の機会が到来したと言ってよい。臼井城攻めに賭ける意気込みは並々ならぬものがあったはずだ。永禄九年(一五六六年)三月のことである。
ところが、輝虎が臼井城攻めに向かおうとしたその時に、二つの報せがほぼ同時にもたらされたことで、事態は思わぬ方向に展開する。
一つ目の報せは、氏康の要請を受けた武田信玄が、三月十三日に信州岩村田城に着陣し、更に西上野に軍を進めているという。信玄の動き次第では、上野国のどこかで決戦を仕掛ける千載一遇の機会が訪れるかもしれない。結局、輝虎は北上と南進の両構えで、小金城に足止めを食らうことになってしまった。
そこに、足利義秋の書状を携えた使者が、輝虎の下に向かっているという報せである。足利義秋とは、一条院覚慶が還俗した後の名であり、次期将軍候補の一人と目されている。書状は早々に小田原と和睦を図ることを勧め、またもや上洛を促すものに違いない。その内容は披見する前から、ある程度予測出来る。問題は、その書状を携えた使者が到着するまで、数日を無駄に費やしたことだった。将軍就任の有無に関わらず、前将軍の実弟からの書状となれば、輝虎の性格から決して蔑ろには出来ない。この無駄に過ごした数日が、結局仇となってしまう。
武田信玄は西上野に入ると、その動きを止めたまま、進軍する様子が見られない。信玄が輝虎の動向を気にしているのは明らかだった。
膠着状態が続くと思われたその時、入ってきたのが臼井城での大敗の報だった。輝虎は耳を疑った。里見義堯には、輝虎勢が到着するまで、くれぐれも総攻めを行わないように使者を送っている。功を焦ったのだろうか。里見氏と輝虎との間には、主従関係がない。しかし、またもや軍令違反に類する失態を、里見氏は演じていた。
輝虎は、小田攻めの後に、佐竹義重を帰してしまったことを、今更のように後悔していた。もしも、義重を臼井城に先行させていたならば、身を挺して里見義堯の勇み足を止めてくれたに違いない。
やがて敗戦の詳細が分かってきた。城に籠る兵は北条の援軍を含めても二千三百足らず。去る三月二十六日、総攻めを仕掛けた里見・酒井の軍勢七千が、逆に城門を開けて討って出た兵の猛攻に押されて、兵が恐れをなして逃げ帰ったという無様な有様だった。特に敵方の白井浄三入道と松田康郷が、鬼神の如き働きぶりで、城兵を大声で鼓舞しながら、里見・酒井の兵を圧倒したらしい。
敵の三倍以上の兵力を擁しながら、聞けば聞くほど情けない戦ぶりに、呆れて言葉も出てこない。もしも、自分がその場にいたなら、絶対にそんな負け戦にはなっていない。
この時の武田信玄の出陣は、西上野攻略に先立って、輝虎を釘付けにすることが最たる目的だった。輝虎は、その策にまんまと
しかし、後悔しても全てが、後の祭りなのだ。向ける矛先を無くしてしまった輝虎は、失意のまま越後に帰る他なかった。永禄九年四月のことである。
この臼井城における敗戦の報は、瞬く間に関東一円に広まった。これをきっかけに、輝虎自身の指揮ではないにも関わらず、これまで親輝虎派と目されてきた国衆の離反が相次ぐことになる。
離反の一番大きな理由は、輝虎の同盟相手の一角である安房国・里見氏が、二度目の大失策で全く頼りにならないことが公になったことだ。北条包囲網の一角が、愚策を弄する国主であることがあからさまになった以上は、取りつく島がない。
また、この勝利を北条方が利用しない手はない。氏康は、またもや大々的な喧伝作戦に出た。実際は里見・酒井方の死傷者合わせて千人余に過ぎない。これを北条氏康・氏政父子が、輝虎本軍と合わせて五千の兵を討ち取ったと、大袈裟な数字で方々に伝え広めたから堪らない。関東のあらゆる所に予想以上の動揺をもたらしてしまっていた。
離反理由のもう一つが輝虎の
こうして、輝虎の与り知らぬところで、白井城における敗戦は大きな波紋を呼び、やがて造反者の続出に繋がることになる。
一方、輝虎とは対照的に、武田信玄は着々と西上野の支配を固めつつある。
輝虎が越後に去ったのを見届けた信玄は、永禄九年五月、和田城に軍を進めた。信玄の目的は長野業盛の居城である箕輪城を攻略し、西上野を平定することである。先ずは高浜城と鷹留城を次々に陥落させ、箕輪城を孤立分断させた。同年六月には、長野家家臣である小暮弥四郎の内通に成功している。この段階で、既に箕輪城は丸裸同然の状態だった。
この頃、関東から帰った輝虎は、越中から能登へと軍を進めていた。先鋒はかつての仇敵である神保長職である。
長職は輝虎が下した四年前の沙汰に対して、心底から恩義を感じ、武田信玄とは既に絶縁している。戦では輝虎に惨敗しながらも、越中本領である二郡の支配を引き続き許されるなど、当時思いもしていない大温情に感涙し、今後はその恩に報いようと翻意していたのだ。
その両者の仲介役が、能登国守護の畠山義綱だったが、その能登では、今度は畠山義綱が自らの家臣団に追放され、近江六角氏の下に逃れるという国内の政変が起きていた。
神保長職は当時、輝虎との仲裁の労を惜しまなかった、畠山義綱にも恩義を感じている。これを機に長職は、正式に輝虎に臣下の礼を取ることにし、能登攻めの加勢を願い出たのであった。
神保勢を先鋒として、輝虎は能登に進軍すると、能登家臣団の軍勢と、一向一揆集団を各地で撃破する。しかし、覚悟していたとはいえ、離合集散を繰り返す一向宗徒を敵に回し、戦いは長期化の様相を呈していた。
そのような能登における陣中にあって、届くのは相次ぐ関東国衆離反の報せだった。驚きと失意の中にあっても、輝虎に停滞は決して許されない。春日山城の留守居役である直江大和守景綱に早馬を走らせた。直ちに坂戸城の上田衆と、帰国していた河田長親を、上野国・沼田城に急行させるためだった。
武田信玄が一向宗徒の動きに、一枚噛んでいるのは百も承知のことだ。能登国の混乱に乗じて、輝虎の動きを封じ込めようとしているに違いない。今回もまんまと信玄の術中に陥っていると言ってよかった。輝虎に残された途は、現在有利に進めている能登の戦況と、保持している絶大な武力を背景として、出来る限り有利な条件で、一旦和議に持ち込むしかない。輝虎は和議交渉を急いだ。
輝虎が能登で釘付け状態にあることをしり目に、信玄の西上野制圧は目前に迫っていた。自らが一万五千の大軍を率いて向かった先は、上野国・箕輪城だった。城主は長野業盛、亡き業政の嫡男である。箕輪城が陥落することは、輝虎にとっての関東における重要拠点を失うことになり、その痛手は計り知れない。
信玄は箕輪城攻めに先立って、新田金山城主の由良成繁・国繁父子を調略している。この寝返りによって、沼田城の河田長親や厩橋城の北条高広、そして舘林城の長尾景長も、迂闊に動きが取れない状態になっていた。箕輪城はとうとう、孤立無援となってしまった。
なかでも河田長親は、輝虎の命を受けて、沼田城に急行しながら、手の打ちようがない自分の無力さを悔み恨んだ。まして、今危機にあるのは、気の合う戦友としての契りを交わした長野業盛である。その業盛を見殺しにするしか、途が残されていないのは、まさに断腸の思いでしかなかった。
全ての援軍が叶わぬことを知った長野業盛は、心静かに自らの運命を悟り受け入れていた。降参して信玄の軍門に下る気など毛頭ない。もとより、城兵千五百と共に最後まで戦い、城を枕に討ち死にする覚悟だった。
永禄九年(一五六六年)九月二十七日、武田勢による箕輪城への総攻撃が、遂に始まった。十倍の兵力で臨んだ武田勢に、もう小細工は必要ない。手始めに長野家の菩提寺である善龍寺を焼き払い、気勢を上げると、あとは数に頼んで、力攻めするだけで十分だった。
善龍寺の焼失に怯むことなく、武田勢の猛攻に対して、勇猛果敢に戦いを挑んだ長野勢だったが、衆寡敵せず、既に戦の趨勢は火を見るよりも明らかだった。刀折れ矢玉尽きるのは、やがて時間の問題となり、命を惜しむ者たちが、夜陰に乗じて次々と逃亡していく。
それを知っていながら、業盛は敢えて止めようともしなかった。これまでの恩顧に、殉ずる気持ちがある者だけが、残ればそれで良いと思っている。遂には守兵も二百までに減り、傷を負っていない者は一人として残っていない有様だった。
永禄九年九月二十九日、長野業盛は箕輪城本丸北側にある御前曲輪の持仏堂で、父、業政の位牌を拝み、一族郎党と共に自害して果てた。享年二十三歳という若さだった。
「春風に梅も桜も散り果てて名のみぞ残る箕輪の山里」が業盛の辞世の句として伝わっている。
箕輪城落城により、信玄による西上野の支配は決定的となった。信玄は箕輪城代として甘利昌正を据え、甲斐に凱旋帰国した。
一方、輝虎は箕輪落城の報せを、越中国射水の地で耳にする。ようやく能登での和議が成り、春日山城への帰路を急ぐ道中だった。またもや、信玄に対するどうしようもない怒りが込み上げてきた。同時に、若き長野業盛の死を悼み、自らの力不足を悔いた。
その怒りと悲しみの矛先は、関東に向けるしかない。輝虎は帰国後、休む間もなく、直ちに兵五千を率いて三国峠を越え、沼田城に入った。永禄九年(一五六六年)十月十日のことである。
輝虎にとって、先ず血祭にあげるべき相手は、敵に寝返った新田金山城の由良父子だった。この由良父子の裏切りがなければ、箕輪城への援軍も叶い、落城の憂き目に遭うことはなかったはずだ。
輝虎は今も変わらず味方と目される関東諸将に対して、新田金山城攻めの参陣を呼び掛け、自らは大胡城に陣を移し、味方の参陣を待つことにした。
この時、輝虎のもとに、関東各地の動向を探っている幻の者から、願ってもない報せがもたらされる。北条の大軍が、上野・武蔵の国境に集結しつつあるというのだ。
同年十一月九日、喜び勇んだ輝虎は、軍勢を率いて急ぎ南下し、利根川を越えて北条軍の行方を追った。しかし、それも無駄だったことが直ぐに分かってしまう。利根川を越えた時には、既に輝虎急行の報せを聞きつけた北条軍が、慌てふためいて逃げ去った後であった。
遂に輝虎の堪忍袋の緒は切れた。裏切りに次ぐ裏切りといい、箕輪落城といい、戦う気がなく逃げ回る輩といい、どうにも腹の虫が治まらない。輝虎は武蔵国深谷城から上野国高山城に至る一帯に火をつけて焼き払い、大胡城に
再び大胡城に入った輝虎だったが、嫌な予感がしていた。
河田長親は自軍の兵と合わせて、総勢七千で新田金山城を力攻めすることを提案した。長親も長野業盛の討死が、新田金山城の裏切りのせいと断じて、燃え盛る怒りの炎を、由良父子に向けていたのだ。確かに攻め落とせない兵力ではない。しかし、輝虎はこれを冷静に却下して、全軍を下野・唐沢山城まで退くことにした。
この時の唐沢山城は、城主である佐野昌綱に代わって、城代として吉江佐渡守忠景が仕切っている。この退却は理屈ではなく、輝虎の勘でしかなかった。同年十一月十九日のことである。
唐沢山城に入った輝虎にもたらされた報せは、自身の耳を疑う内容だった。まさに悪い予感が的中した形だった。
厩橋城の北条高広と舘林城の長尾景長が、示し合わせたように北条方に寝返ったというのだ。まさに危機一髪だった。もしも、あのまま新田金山城を攻めていたら、自軍はまさに袋の鼠だった。高広と景長の軍勢と、城兵の挟み撃ちに遭い、少なくとも大敗は免れなかったはずだ。
よりによって北条高広は、二度目の反逆である。十二年前に信玄と内通し、謀反を起こしながらも、その器量に免じて許されていた。まさに恩義を仇で返した張本人に違いない。しかも、おまけに輝虎が厩橋に参陣の使者として遣わした、松本石見守景繁を捕らえて、北条氏政に引き渡したというではないか。
輝虎の怒りはどうにも治まらないが、怒りの矛先を向けようにも、関東の粗方が敵に回ってしまっては、佐野から動きが取れない。結局、輝虎は佐野の唐沢山城で越年することになったのだが、そこに意外な人物が輝虎を訪ねて来た。
その人物とは、裏切り者である北条高広の息子である景広だった。この時、齢十九歳の景広は小田原への鞍替えを
「よくぞ参った。卑怯者の父を捨てて、我が下に参じるとはあっぱれ。そなたこそ越後武者の鏡じゃ」
久しぶりに上機嫌となった輝虎にむかって、北条景広は額を床に擦りつけるように伏して言上した。
「畏れながら申し上げます。此度の父の所業には訳がございます。それがしはその申し開きに、こうして参上いたしました。御実城様、先ずはどうかお聞き届けの程お願い申し上げます」
輝虎は景広の気配を察し、人払いを命じた。広間は二人だけになった。
「儂の他には誰も聞いておらぬ。その訳とやらを申してみよ」
「有難う存じます。されば申し上げます。此度の裏切りは、決して父の本意ではございません。父は今でも、かつて御実城様に助命頂いた御恩を、決して忘れてはおりませぬ」
「今更何を申すか。ならば、何故儂を裏切り、小田原に降ったのじゃ。厩橋は関東における我が一番の拠点じゃ。それが敵の手中に陥ることで、儂がどれだけ痛手を被るか知らぬ丹後守ではあるまい」
「仰せの通りでございます。此度の仕儀は、我が父が悩み抜いた末のことにございます」
「それだけでは全く分らぬ。仔細を申してみよ」
「此度の翻意は、箕輪落城と舘林殿(長尾景長)の内通の兆しに起因しております。既に箕輪城が武田の手に渡り、そのうえ舘林も敵方となれば、頼りになるお味方は沼田のみ。箕輪落城の折も、我らが後詰めとして駆けつけようにも、周りを固められ、一歩も動きが取れぬ有様でした。敵が次に狙うは越後に近い沼田にあらず、厩橋に間違いありません。御実城様が越後在国の時期を狙い、四方から攻め寄せてくるのは明らかです。そうなっては、もう我らに勝ち目はありませぬ。箕輪城と同じ運命を辿るしかありません。我が父、丹後守は、決して自らの命惜しさに裏切るような者ではございません。ただひたすらに、御実城様からお預かりしている数多くの精鋭を、決して、無駄死にさせてはならぬと考え、敢えて謀反人の汚名を被ることを、覚悟したのでございます。昨今の情勢から察しますに、誠に無念ではございますが、今は小田原に降ったふりをする他に、無駄な血を流さない方策は見当たりません。畏れ多くも、使者の松本殿を捕らえ、小田原に護送したのも、あくまで敵の目を欺くためでございます。松本殿については、近いうちに厩橋に戻して貰い、その後、折をみて沼田に逃げて頂く手筈も整えております」
「ならば、そなたが父親と
「御意にございます。父とは家来衆の前で大芝居を打つことを、予め相談しておりました。父の所業を大声で誹り仲違いをして、御実城様の下に馳せ参じたことになっていますが、これも我が父の意図するところでございます」
「なるほど、そなたは丹後守が
「はい。畏れながら、我が父は、御実城様がこのまま引き下がるとは、到底考えておりません。数年のうちに、必ず逆襲に転ずる機会が訪れると信じております。父はその風向きが変わる時を逃さず、その時にもしもお許し頂けるのであれば、再度御実城様にお仕えしたいと申しておりました。どうか、我が父の心中を、少しでもお察し頂ければと存じます」
輝虎は得心した。
「丹後守は良き跡継ぎを得たようじゃ」
「畏れ入ります」
「相分かった。そなたは今日から我が近習として仕えよ」
「ははっ、それでは、我が父のことをお許し頂けますでしょうか」
「今は許すとは言えぬ。ただ、その時が来たら、あらためて考えるとしよう。それから、今後は怪しまれぬように、幻の者を使って、そなたの父とは連絡を取ることにする。そのやり取りの中で、そなたの言うことの真偽が分かるというものよ」
「むしろ、父は喜ぶと思います。密かに敵方の動きもお報せ出来ると存じます」
緊張の糸が切れた景広の顔に、ようやく笑みが
永禄十年(一五六七年)一月、常陸国・太田城主の佐竹義重が軍勢を率いて、唐沢山城に着到した。この援軍によって、厩橋はともかく、舘林城の長尾景長を牽制することが出来る。輝虎は兵七千の全軍で新田金山城を攻めることが出来るようになった。
しかし、狡猾な信玄は佐竹勢の南進を知ると、真田幸隆に命じて信濃衆と合わせて兵八千の大軍を、新田金山城の近郊に展開させていた。
軍勢の数ならほぼ拮抗とみてよい。正面切っての戦は負ける気がしない。しかし、迂闊に真田を攻めれば、城兵から挟撃を食らう恐れがある。ましてや、地の利は敵にあり、この数か月で如何なる罠を仕込んだか知れたものではない。また、長期戦となった場合、いくら同盟軍とは言え、常陸国統一を目指す佐竹軍を、いつまでも拘束することは出来ない。
塾慮の末に輝虎が出した結論は、此度も新田金山城攻めを断念することだった。輝虎は遠路参陣を果たした佐竹義重とその重臣を、唐沢山城で大いに饗応した。この饗応には、佐竹氏との同盟が強固であることを関東諸将に知らしめる、という大きな意味があった。ただ、此度の関東遠征は、得るものがないどころか、失ってばかりの苦いものとなってしまった。
永禄十年(一五六七年)二月、春日山城にまたもや足利義秋から上洛を促す書状が届いた。後に七月にも同様の書状が届くことになる。この時の義秋が、どれほど輝虎の上洛を待ち望んでいたのかが分かる。後に織田信長が奉じて、足利幕府第十五代将軍となるこの御仁は、強力な武力を背景に、後ろ盾となってくれる大名を血眼になって探しており、その候補筆頭が輝虎だった。
その気持ちは分らぬでもない。義秋にしてみれば、実兄である義輝の代には、二度も上洛を果たし、三好長慶を大人しくさせた唯一の実力者である。ましてや、義に篤く将軍家に忠誠を尽くす将となれば、全国津々浦々を探しても輝虎の右に出る者などいるはずもない。上洛の暁には、義秋の進退を含めて全て輝虎に任せる、と記した起請文まで送り届けているほどであり、この時の義秋のご執心ぶりが伺い知れる。
しかし、輝虎にしてみれば、憎き武田・北条双方との和睦が条件とあるから、到底受け入れられる話ではない。将軍でもない義秋が、和睦の仲裁の労を取ってくれるわけでもない。ましてやこの時、武田と北条側でも、和睦など受け入れるはずがなかった。
義輝暗殺以降、後継を巡る争いから、将軍職は未だ空席のままであり、義秋はその一候補者にしか過ぎない。しかも、後に第十四代将軍となる義栄が、三好氏の意向を背景に、将軍職後継競争に先んじているという情報も、京の神余親綱からもたらされている。
義秋の焦る気持ちは分らぬでもない。しかし、僧として仏門に没頭する時間が長かったせいか、あまりにも世情に疎いという
同年四月、北条に捕らえられていた松本景繁が、沼田城に無事戻ったとの報せがあった。かねての密約通り、厩橋の北条高広が、小田原から送還されてきた景繁を、密かに逃がしたのだ。
小田原には恐らく、拘束網を掻い潜り、脱走されてしまった呈を、取り繕うのであろう。
無論、厩橋からは小田原への手前、追っ手の軍を出さざるを得ない。本気でやり合うはずはないが、それでも厩橋に要らぬ嫌疑が掛からぬよう、ここは取り繕う必要がある。輝虎は上田の坂戸城から沼田城に一千の兵を移し、増強を図ることにした。
このことは、輝虎が関東での失地回復を、決して諦めてはいないことを、関東の国衆に知らしめるという意図をもって、行った動きでもあった。
この動きを信玄が黙って見過ごすことは出来ない。会津の葦名盛氏を動かして、越後国境を脅かすと同時に、信濃国・野尻城を攻撃してきたのだ。
西上野をほぼ手中にした信玄の目は、この時既に南に向いている。信玄は何としても海が欲しい。輝虎がこの世から急に居なくでもならない限りは、北上政策が破綻している以上、今川義元亡き後、急速に勢力が衰退した駿河を手中に収めるしかない。
義元の娘を妻としている嫡男・義信は、謀反を企てた咎で、前年東光寺に幽閉している。駿河侵攻に異を唱える者も家中から一掃していた。
あとは今川家中を内通させて数多く取り込み、三河国の徳川家康と示し合わせて、同時に今川領に攻め上がる手筈を整える段階にまで進んでいる。そのためにも、信玄は西上野や北信濃の脅威を、少しでも取り除く必要があった。つまり、越後国境に楔を打ち込み、輝虎を極力国内に留め置く意図が強く働いていた。
輝虎の動きは早かった。もしも野尻城が敵の手に渡るようなことがあれば、越後国境までわずか一里の拠点を失うことになってしまうのだ。それはまさに喉元に突きつけられた刃も同然であり、到底許容出来ることではない。
自ら兵を率いて野尻城に赴き、武田勢を善光寺平まで完全に駆逐した。輝虎はこの野尻城攻めを受けたことで、あらためて北信濃の防衛線強化の必要性を認識し、直ちに飯山城を強固な砦に変えるため、自ら普請に取り掛かっている。
また、葦名討伐には、三条城主の山吉豊守に兵三千を与え、これに充てた。この時二十六歳の豊守は、その軍才を如何なく発揮し、葦名兵五百の首級を挙げて、軍勢を会津に追いやっている。
山吉豊守の戦勝に気を良くしている間もなく、今度は関東に派遣していた身内が、耳を疑うような大失態を演じていた。
吉江佐渡守忠景に代わって下野国・唐沢山城代として着任した
葦名盛氏は同盟相手ではない。武田方の完全な敵国である。まして、菅名庄で痛い目に遭わされて間もない盛氏が、五十公野玄蕃允の頼みを聞き入れるはずがない。葦名盛氏は五十公野玄蕃允を捕縛し、北条氏政のもとに突き出してしまっていた。輝虎にとっては、最大の珍事であり、痛恨の屈辱事である。
唐沢山城代不在となって大喜びしたのは、それまで二の丸に軟禁されていた城主・佐野昌綱だった。すでに城主として復活し、あらためて北条に忠誠を誓っているという。
永禄十年(一五六七年)五月十六日、輝虎は元城代として事情に詳しい色部修理勝長に先遣隊として佐野に急行させた。佐野昌綱の動きを封じ込めることが先決だった。
輝虎が飯山城の普請を終えて、三国峠を越えたのは同年十月のことだ。十月二十四日、沼田城に入った輝虎は、早速、松本景繁と色部勝長を交えて軍議を開いた。松本景繁は四月以降、河田長親と交代し、沼田城代として詰めている。
「今のところ、佐野昌綱は唐沢山城に籠ったまま、動く気配はありませぬ」
先ず口を開いたのは色部勝長だった。勝長は先遣隊として唐沢山城近くに着陣し、四か月余りにわたって、佐野昌綱の動きを牽制してきている。
「弥三郎殿(勝長)、長い間苦労をかけた。少し痩せたよう見える。どこか具合が悪いのであれば、無理をせずに言ってくだされ」
七十二歳になっても意気盛んなことをよいことに、勝長に少し甘え過ぎていたようだ。輝虎は勝長の体調を気遣いながらも、先遣隊を命じたことを、今更ながら後悔していた。
「御実城様、ご心配には及びませぬ。少し背中と腰の辺りが痛みますが、歳のせいに違いありません。それよりも、こうして集まったのは、佐野攻めの軍議でございますね」
「済まぬ。そうであったが、やはり気になる。佐野には戻らずともよい。あとは息子二人に任せて、ここ沼田の地で養生するがよい。息子たちには儂から使いを出しておく」
勝長には顕長と長実という二人の息子がいる。今も佐野で父の留守を預かっているはずだ。
「しからば、お言葉に甘えるといたしますかな」
「そうなされよ。ところで石見守(景繁)、小田原の動きは今どうなっている」
「今のところ、目立った動きはございませぬ。ただ、しきりに使者が佐野と往復している様子。幻の者からの報せでは、近々軍勢を発するものとみられます」
沼田だけは敵に渡すわけにはいかない。輝虎は小さなことも見逃さぬように、松本景繁にも幻の者からの報せが届くように手配済みだった。
「それからもう一つ、気になることがあります」
「何だ、それは」
「利根川沿いに赤岩という場所がございます。ちょうど上野と武蔵の境に当たるところですが、そこに大量の船が集められているとのことです」
「それだ、石見守。小田原はその赤岩に船橋をかけて、大軍を佐野に送り込む算段をしている。間違いない」
船橋とは大量の船を川に横付けにし、その上に人や馬の重さに耐え得る厚い板を乗せて、橋にするという手法である。輝虎は更に続けた。
「石見守、直ちに出陣するぞ。小田原勢が船橋を渡り、佐野に押しかけて来られてからでは遅い。我らが先んじて船橋を壊す他ない」
「ははっ」
「弥三郎殿、城の留守居役を頼む」
「ご存分にお働きくだされ」
「うむ」
輝虎は沼田の守兵を残し、総勢八千で南下した。案の定、赤岩には利根川に横付けにして渡れるだけの大量の船と板が用意されている。
突然の越後軍襲来に、船頭や大工はもちろん、民に紛れて潜んでいた小田原の兵も、一目散に逃げ去ってしまった。残されたのは、大量の空船と板だけである。
輝虎はこれらを
事実、この時北条氏政自らが、既に一万五千の大軍を率いて江戸城まで北上していた。赤岩で渡河する計画が、輝虎によって見破られ、頓挫したことを知った氏政は、援軍を諦め小田原に帰還する他なかった。
赤岩での破却を済ませた輝虎は、そのまま佐野に軍を進めた。唐沢山城の佐野昌綱は、輝虎軍に攻囲されて初めて、北条の援軍が閉ざされたことを知る。もはや残された道は、またもや降伏の道のみである。
十月二十七日、佐野昌綱はまたもや、軟禁生活に戻ることを覚悟のうえ、輝虎の軍門に降るしかなかった。輝虎の面前で言い渡されたその沙汰は、意外なものだった。そのまま城を預けるという。
それは輝虎としても苦渋の選択だった。五十公野玄蕃允は逃亡し、色部修理勝長は高齢でもう城代は難しい。他の家来衆や国衆は、長尾政景亡き今、葦名や武田そして越中の一向宗徒への備えで手一杯だった。沼田城代であった河田長親には、今後、越中と能登方面の指揮官を任せるつもりでいる。これ以上、関東に回せる人手はない。輝虎は裏切る可能性を十分に認識しながらも、人質として春日山城で預かる実子・虎房丸の命を楯に、昌綱に唐沢山城を任せる他なかった。
十一月二十一日、輝虎は沼田城の松本石見守景重に対して、引き続き唐沢山城への警戒を怠らぬよう言い含めて、雪が降りしきる中、越後への帰路を急いだ。その中には沼田での養生が効いたせいか、少しだけ回復した色部修理の姿もあった。
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