第18話 *争覇の章 *手取川の合戦

*手取川の合戦


 本丸主殿から見下ろす眺望はまさに絶景だ。

 遥か遠くには七尾湾と能登半島が見渡せる。近くを見下ろせば、尾根の至る所に曲輪が立ち並び、それが城下近くまで続いている。天然の地形を活かした城づくりは、春日山城に勝るとも劣らない見事なものだ。

 唯一、右下に映る長屋敷の焼け跡だけが痛々しく見えた。謙信は全ての亡骸を丁重に葬った後に、長屋敷跡に新たな屋敷を普請するよう、鰺坂長実に命じた。長一族の犠牲を無駄にしないためにも、この地に古の繁栄を、再びもたらすことを、自らの新たな使命として誓っていた。鰺坂長実には、昨夜のうちに、七尾城代として、これから差配するよう伝えてある。

 昨晩は、用意された高屋敷のひとつを寝所として使ったが、気持ちの昂ぶりが勝っていた。早暁に目覚めた謙信は、まだ夢の中にいたと思われる、喜平次景勝と与六兼続を叩き起こし、本丸迄の道を登ってきたところだ。

「どうじゃ、喜平次、本丸からの眺めは」

 隣に立ち、黙って遠くをみつめる景勝に話かけた。

「景観もみごとですが、どうやったらこの城は落とせるのかを、考えておりました」

 歩いて初めて分かることだが、尾根道は二人が擦れ違うのがやっとであった。その道の向こうには曲輪がある。曲輪からの攻撃に遭えば一溜りもない。次々に射倒され、谷底に転落させられる作りなのだ。大軍で攻めても落とすのは容易ではないことを、景勝は改めて痛感していた。

「その通りじゃ。それが分かっていたから、儂は無理な攻撃を避けた」

「それが昨晩の結果に繋がるのですね」

 横から口を出したのは与六兼続だった。

「与六、不満か」

「いいえ、味方の損耗なく、この難攻不落の城を手に入れたのですから、驚いております。ただ、これまでの御実城様の戦とは一味違うと思いまして」

「生意気なことを言う」

 謙信は苦笑いするしかなかった。確かに与六の指摘通りなのだ。

「儂はな、与六。かつては越後の国と民を守るための戦に徹してきた。他国に攻め入ったのは、無論懇願されたからでもあるが、決してそればかりではない。攻め入らなければ、必ず攻め入られることが、分かっていたからだ。だから、攻め入ってもこれまでは、領土拡張は必要最小限しかやってこなかった。それを世間は、義戦と褒め称えた。しかし、その結果はどうだ。謀反人は出る。他国では、味方と信じていた国衆も離反する。この繰り返しでしかなかった。何よりも他国の民は豊かになっていない。そこで儂は悟った。隣国も儂の領土に組み入れ、それを配下の国衆に与え、越後と同じように少しずつ豊かな国にし、他国の民も安心して暮らせるようにしなければならないことを、だ。そのためには、多少儂が嫌いな汚い手にも染めなければならない、とな」

 謙信の話は終わったが、景勝も兼続も黙ったままだ。特に、普段であれば、すぐに口を開く兼続が黙ったままなど薄気味が悪い。

「どうした与六。いつものような元気がないぞ」

「そうではございませぬ。畏れながら、つい先ほどまで、御実城様は神に違いない、と思っておりました。それが、今のお話を伺いし、我々と同じように、悩みもがき苦しむ生身の人間なのだ、と分かったからでございます」

 謙信はまた笑った。

「儂は神などではない。弱い人間だから、神や仏を信じ祈る。助けを求めすがりたい。御仏の心に少しでも近づきたい。その答えが儂にとっては出家だった。ある意味では、一向宗徒と何ら変わらぬ。ただ、唯一違うとすれば、信仰は心の内にのみあるべきもの、と信じて疑わないことだ」

「含蓄深いお言葉ですね」

 景勝がぽつりと呟いた。

 御実城様は峻烈なまでに、自らを厳しく律する御方なのだ、兼続はこう思いながら口には出さなかった。

 そこに、河田長親がやってきた。

「準備が整いました」

「よし、軍議じゃ。その方らも参るぞ」

「はいっ」

 二人は謙信の後に続いた。

 軍議席上には、七尾城の重臣三人の緊張した顔も揃っている。天正五年九月十六日、巳の刻(午前八時)を少し回っていた。

「先ず、儂が今分かっていることの全てを皆に話そうと思う。その後で何かあれば言って欲しい」

 謙信は一度全員の顔を見渡してから続けた。

「斎藤下野守(朝信)と山浦源吾(国清)が攻めている加賀国境の末森城は、一両日中に陥落する。昨日、下野守からの報せがあった。これまで頑強に抵抗していた、土肥親真が降伏を申し入れてきたらしい。これで奥能登の松波城以外全て、我が手中に収まったことになる」

「おめでとうござる」

 口々に皆が祝いの言葉を発した。

「確かに目出度い。しかし、我らには未だ成さねばならないことがある。加賀国からの織田勢駆逐じゃ。既に柴田勝家率いる三万余の軍勢が、いよいよ加賀に入ったという。一昨日、金沢御坊から報せを受けた。未だ、南部に留まっているらしいが、いつ北上してくるか分らぬ。我らは先を読んで南下し、これを迎え撃つ。ここまでで何かあるか」

「我らの出陣はいつ頃になりますか」

 直江信綱だった。

「末森城の落城が分かり次第だ。いつ号令をかけても良いように準備しておけ」

「織田勢は三万余とのことですが、我が軍勢は一揆勢を含めてどれくらいになりましょうか」

「一揆勢約五千を加えれば、我らも三万余となろう。しかし、戦は数ではないぞ、平三郎。軍略が全てと言っても良い」

「畏れ入ります」

 柿崎平三郎晴家だった。景家亡き後、柿崎家当主として、この能登攻めに参陣している。

「宜しいでしょうか。この場でお報せ申し上げたい儀がございます」

 意外な人物からの発言だった。七尾城の温井景隆である。

「どうぞお話くだされ」

「有難う存じます。実は昨晩、長続連を誅伐する前に、聞いた話がございます」

「ほう、それは何かな」

「ひとつは、織田信長殿に援軍を求めた使者というのが、続連の実子でした。つい先日までは、孝恩寺の宗顓という僧侶でしたが、既に還俗を果たし、此度の柴田勝家軍に加わっているとのことでございます」

「となると、この城が我らの手に落ちたことを知った場合、御三方は敵討ちの対象となるわけか。此度の織田攻めへの参陣は、遠慮頂くことが賢明ですね」

 河田長親が謙信に向かって進言した。

「もとより、御三方に参陣頂くつもりはない。流行り病の後始末もある。鰺坂備中守の普請を脇から支えて貰わねばならぬ。それに今一番大事なのは、城内の人心の掌握じゃ。我らが城を占拠したことで、不安に思っている者も数多いるであろう。それらをなだめ、我らと気持ちを一にするには、御三方の力が必要じゃ。よいな、遊佐殿、温井殿、三宅殿」

 謙信は敢えて一人ひとりを名指しで確認した。

「むろん、不満などあるわけがございません。山内殿の心細やかなご配慮に、ただただ感謝申し上げる次第です。かくなるうえは、新たな城代となられた鰺坂殿を支え、普請と復興に尽くして参ります」

 代表して続光が返答した。

「温井殿、まだ話があるのでござろう」

「畏れ入ります。柴田勝家殿率いる三万余の大軍のことですが、仲間割れがあったようなのです」

「ほう、それは実に興味深い。如何なることであろう」

 やはり、柴田勝家と羽柴秀吉は仲違いであったか。謙信はある程度のことを知っていながら、この件は敢えて初めて聞くふりをしようと思った。ここは、温井景隆に花を持たせようとの、謙信の細やかな心配りだった。

「信長殿が総大将として、自ら兵を招集したのならば、ともかくとして、ほぼ同格の柴田殿が総大将とあっては、人の気持ちとしては複雑なものがありましょう。それに加えて、戦術を巡って対立があった模様で、近江国・長浜城主の羽柴筑前守秀吉殿などは、柴田殿との言い争いとなり、どうやら陣を引き払ったらしいのです」

「なるほど、敵は一枚岩にあらず、か」

「御意」

「我らにとっては吉報じゃ。よくぞ報せてくれた。礼を言う」

「お役に立てて光栄でございます。最後にもうひとつ」

「何なりと」

「長屋敷には織田方の間者が入り込んでいた模様です。ご存知でしたでしょうか」

「それは知っていた。既に我が手の者が全員を始末していると報せを受けている」

「やはりそうでしたか。それを聞いて安堵いたしました。もし他にも間者が紛れ込んでいて、逃していたら、昨夜のことが全て織田方に筒抜けとなってしまいますので」

「温井殿」

「何でございましょう」

「儂は嬉しい。貴殿の言う通り、敵の間者を一人でも逃がせば、我らの動きが知られてしまう。これからの作戦にも大きく影響しかねない。貴殿は長続連殿と真剣に対峙しながらも、今こうして我らに、様々大事な報せをもたらしてくれた。それだけではない。全ては、これから進める我が軍全体のことを憂いてのことだ。今日まで開城を我慢して待った甲斐があった。儂は喜んで御三方を、我が軍団の一員として歓迎したい」

「有難き幸せ」

 温井景隆は言葉以上に、心底から感激していた。これまで苦労が報われた気がした。こうして、心の通った新たな主君に仕えることが出来るのは、何物にも換え難い喜びだった。そして、心密かに誓っていた。今後、何があっても上杉家を裏切るまいと。

 翌九月十七日、末森城主の土肥親真が正式に降伏を申し入れてきた。これで加賀国に入っても後顧の憂いがなく戦える。

 謙信は直ちに加賀国に向けて全軍進発を命じた。


 秋の冷たい長雨に霞む先のむこうに、一軒の古びた家が見えた。何年か前に襲った飢饉のせいで、田畑を捨て一家離散した者の家なのか、所々が朽ちかけている。手取川から一里ほど北に進んだ場所に、その家はひっそりとした佇まいで建っていた。  

 織田方の間者が、その空き家を拠点としているらしいとの情報は、昨日、金沢で知ったばかりだった。

 話は数日前の十五日に遡る。

 七尾城での任務を終えた幻次ら十一人は、敵の抜け道から城外に離脱した。七尾城から南に一里ほど進んだところで、早速、敵の間者らしい者一人を発見した。

 幻次は全員を手で制止し、散らばるよう指図した。その者は三十間ほど先にいた。 農夫に身をやつしているが、こんな夜中に道端に佇んでいるのは不自然すぎる。

 幻次は近寄って声をかけた。

「こんなところで何をしている」

 その男は突然の誰何に驚いた。音もたてず気配もなく、気づいた時には傍にいるのだから無理もない。慌てて逃げようにも、既に周りは幻の者に囲まれている。その男は観念するしかなかった。

 長く城外の探索に当たっていた者に確認したが、案の定、織田方の間者に間違いなかった。ただ、その者は能登の人間であり、足が速く、しかも長時間走れるということが評判で、銭で雇われた者だった。

 その男からは次の者が待機している場所を聞き出して後、直ちに処断した。その後も加賀国境までは同じ手が使えた。芋づる式に間者と居場所が特定出来たからだ。しかし、加賀国内に入ると勝手が違った。

 これまでと同じように誰何すると、突然懐から取り出した手裏剣を、複数投げつけてきたのだ。このままでは逃げ切られてしまう。幻次は咄嗟に小刀を投げつけた。その刀は逃げたその男の太腿に命中した。しかし、駆け寄った時には、舌を噛み切ったあとだった。 

 投げた手裏剣は一人の手下の頬を掠めただけで、全て外していた。七尾城内での闘いの教訓がここで活きていた。

 幻次は悲観していなかった。難航すると思われた能登における掃討が、想定よりも早く終わったことで、これからは加賀での争闘に、全てを注ぐことが出来る。

 幻次ら十一人は、予め集合場所として決めている金沢に向かった。向かった場所は加賀における幻の者の拠点である。一向宗徒の集会所でもあるその家を、一年前から借り上げて、諜報活動を行ってきた。そこには、その日の探索を終えた八人が顔を揃えていた。未だ着いていないのは一人だけだ。

 加賀における探索方に与えた任務は、敵の間者の隠れ家を突き止めること、及び織田勢の動向を捕捉することだった。

 敵の隠れ家でもあり拠点としている所は、二箇所であることを既に掴んでいた。

ひとつはこの金沢であり、御坊近くの一軒家らしい。大胆にも我らの懐深く入り込ん でいた。そこは主に探索が中心で、能登の情報も金沢に集め、それを越前の北庄に報せているらしい。

 そして、もうひとつが手取川から北に位置する古びた空き家だった。ここは忍びの技を使う手練れが、十人ほど出入りしているとのことである。金沢の拠点と連絡を取りながら、必要に応じて、北庄までの護衛を担っていた。

 幸いなことに、こちらの動きは一つとして知られていない。あとはどう潰すかの方法を考えればよい。

 そう思っていた矢先だった。加賀国の南部を探索していた者が、大事な報せを持って舞い戻って来た。それは、柴田勝家を総大将とする織田勢三万二千の大軍が、加賀国を北上中とのことであった。加賀に入っても、大聖寺川以南に留まっていると思っていたが、いよいよ動き出したのだろう。

 折から降り出した雨により、進軍は遅れそうだとはいえ、三日後には手取川の手前にある敵の拠点、和田山城に入ることは確実視された。

 こうなると一刻の猶予もない。敵の間者を殲滅したうえで、謙信に織田勢の動きを報せに走らなければならない。

 幻次は二十人を二手に分けた。金沢の拠点には七人で向かう。直ぐさま、その隠れ家を襲い、中に居る者全員を始末後、その場所に隠れとどまり、戻って来た順に一人ずつ片付ければよい。残りの十三人が手練れの拠点に向かうことになった。

 そして、幻次は十二人の手下を従えて、今、その家を囲んでいる。つい先ほど、十人目が隠れ家の中に入ったところが見えた。徐々に間合いを詰めて家に近づく。気配を消すのは全員お手の物だ。

 昨日朝から降り出した雨は、激しさを増すばかりで当分止みそうもない。冷たい雨は徐々に体力を奪う。いくら奇襲とはいえ、冷えた体での戦いでは、敵に有利に働きかねない。幻次は速攻を決断した。

 傍らにあった石を家の戸口に投げ込む。その瞬間、戸口に向かって走っていた。

「何者じゃ」

 戸口に不用意に出て来た男の胸を突き差した。血飛沫が舞う。相手の身体を蹴り倒し、刀を素早く抜いた。

 異変に気づいた敵が次々に出て来た。二人目も、戸口の横に回って、出て来たところを頭から刀を振り下ろした。これで二人、残り八人を十三人で仕留めればよい。一旦、幻次は引き下がった。勝手の分からない家の中での戦いだけは、絶対に避けなければならない。

 やがて、残りの八人全員が抜刀して出て来た。

 背丈が六尺もあろうという敵の頭と思しき大男が、雨音にも負けない声で叫んだ。

「差し詰め上杉の飼い犬であろう。まあよい、相手になってやる」

 剣の腕前は相当とみた。下手をすれば自分も殺られるかもしれない。

「あの頭は俺が殺る。皆は七人を頼む」

「しかし、お一人では」

「よい。もし儂が殺られたら、その時は全員で討ち取れ」

 この会話を聞いていた敵の頭が、幻次の方に向かってきた。

「お主が頭目か。なかなか手強そうだな、面白い」

 二人の刃が交叉し火花が散った。重い斬撃が幻次の体を襲った。なんとか踏みとどまり、その刀を押し返す。二度三度と打ち合った。手が痺れた。このままでは殺られてしまう。四度目、一歩素早く踏み込んだ。間合いを詰め、鍔迫り合いになった。

 ここしか勝ち目はない。刀を渾身の力で押し返した瞬間に、幻次は胴を目掛けて素早く横に切り込んだ。手には重たい感触だけが残っている。振り返ると敵の手から刀が離れ、足から崩れるように倒れ込むところだった。大きく息を吐きながら近づいてみる。既に息は絶えている。危なかった。今まで手合わせした中で最強の敵だった。

「お頭」

 手下の声で我に返った。残り七人も全員で仕留めていた。手傷を負った者が三人ほどいるが、全員命に別状はなさそうだ。

 一層激しさを増して降り続く雨が、敵の死体から溢れ出る血を洗い流してくれている。

「帰るぞ」

 幻次は一言だけ告げた。


「敵の動きはどうなっている。七尾城からの報せはまだか」

 和田山城の柴田勝家は苛立ちを隠せなかった。

 天正五年九月二十一日のことである。越前国・北庄城を発ち、既に十日近くが経過していた。上杉謙信が能登国・七尾城を攻囲したまま動かず、という報せを六日前に受けて以来、全ての報せが途絶えてしまっていた。

「いったい間者どもは、何をやっているのだ」

「ひょっとして、一向宗徒が行く道々を塞いでいるのではなかろうか」

 丹羽長秀がひらめいたように言った。

「そうだとしても、中には腕の立つ者や忍びの術を使う者もいる。押し通ろうと思えば、然程、無理なことでもあるまい」

「何か異変があったのでしょうか」

 今度は前田利家が口を開いた。

「異変とは何だ。加賀には二十人という大人数を間者として放っている。七尾城にも五人、城外にも五人が入り込んでおるのじゃ。それが一網打尽に殺られるなど、俄かには考えられぬ。何らかの報せがあって然るべきだろう」

 焦燥と怒りの矛先を、どこに向けたらよいか分らぬ勝家は、利家に八つ当たりを始めた。

「つべこべ言っても始まらぬ。今更、間者の報せに頼っても仕方あるまい。我らは天下の織田軍ですぞ。上杉謙信など恐れるに足らず。先ずは北上あるのみと存ずるが」

 滝川一益が勝家をけしかけた。

「滝川殿、謙信を侮ってはなりませぬ。よもや、永禄四年の信州・川中島をお忘れではあるまい。戦では、あの武田信玄ですら、叶わなかった相手ですぞ」

 丹羽長秀がすかさずたしなめた。

「そのうえ、これから先の松任城、津幡城、高松城は全て敵方の居城であり、それらを看過して北上するのは危険過ぎます」

 佐々内蔵助成政が更に自重を促した。

「この後に及んで臆病風邪か、内蔵助。敵方の出城なんぞに怖じ気づいて何とする。我らは三万二千の大軍だぞ。攻めてきたら捻りつぶすことなど、造作もないわ。一日野営の後に、末森城に入れば済む話じゃ」

 あくまで強硬路線の一益は、一歩も引く様子はない。

「しかし、折からの長雨で、手取川は増水しております。とても渡河出来るような状態ではございませぬ」

「内蔵助、頭を使え。お主が見ているのは目の前の下流じゃ。上流まで迂回すればよいだけの話ではないか。それに空は回復してきておる。水は徐々に引き始めるはず。左様な心配は無用というものだ」

 一益は佐々成政の慎重論を一喝した。

「権六殿、このままではいつまで経っても、意見は纏まらぬ。総大将たるお主に決めて貰おう。下知なされよ」

 痺れを切らした長秀が、勝家に判断を委ねた。

「その前に一言宜しいでしょうか」

 前田利家だった。

「ここには様々な考えを持つ方々が集まっております。北庄での羽柴殿の離脱に始まり、今の今まで、我らは一枚岩とは言えません。このままでは、いくら大軍を擁しているとはいえ、戦場での勝利は覚束ないと思われます。ましてや、敵は軍神とも怖れられる上杉謙信です。ここは柴田殿が決めたことに皆が従い、力を合わせて戦おうではありませぬか」

「元より儂はそのつもりじゃ。又左に言われるまでもない」

 言い訳がましい一益の一言だった。

「皆の気持ちはよく分った」

 勝家が一呼吸を置いて、自らの策を告げた。

「出立は明朝、卯の刻(午前六時)。東に移動しながら、浅瀬が見つかり次第、全軍で手取川を渡河する。一気に北上したいところだが、ここは一旦様子をみてから判断したい。松任城の南、水島郷辺りに一旦陣を敷く。そこからは斥候を出しながら、注意深く北上する。必要があれば都度皆には相談する。よいな」

 勝家は内心、未だ見ぬ敵である謙信への恐怖に怯えている。また、総大将としての重圧に、今にも押し潰されそうな自分を、他から悟られぬよう必死に糊塗していた。


 幻次は急いでいた。

 織田勢が加賀国・手取川の南、和田山城まで迫っている。早ければ、今頃は入城しているかもしれない。この報せを一刻も早く謙信に届けたい、その一心だった。

 雨の中の死闘後、一度金沢の拠点に立ち寄った。金沢でも既に、敵の間者全員を始末し終えていた。能登の末森城も味方の軍門に降り、謙信は南下を続けているということも、そこで掴んだ情報だった。

 今から津幡城に向かえば、謙信に報せることが出来ると、即座に判断した幻次は、その後一目散に駆け続けていた。

 ここ十日余りはろくに寝ていない。それでも体は不思議と動いている。一時は死を覚悟した。それほどの強敵だった。力技では完全に負けていた。後から考えれば、胆力と速さが勝敗の決め手だった気がする。今はただ、全ての任務をやり遂げようという使命感だけが、自分を突き動かしているに違いない。

 読みは当たった。謙信は全軍を率いて津幡城に着到していた。

「幻次か。よくぞ生きて戻った。首尾は如何であった」

 幻次の無事を喜んだ謙信は、直ちに人払いを命じた。

「敵の間者全てを始末いたしました。能登と加賀には、今、織田の間者が一人もいない状態です」

「そうか、やってくれたか。手下の犠牲はどうじゃ」

「多少の怪我人はおりますが、命を失った者はおりませぬ」

「それは何よりであった」

「有難う存じます、それよりも火急の報せを持って参りました」

「申せ。織田勢の動きであろう」

「はい。敵の軍三万余が既に加賀国深く侵攻しております。今頃は手取川の南、和田山城に入城しているものと思われます」

「そうか、思ったよりも早い動きだな」

「はい」

「敵は我らの動きを掴んでいるか」

「全く掴まれてはおりません」

「わかった、よくぞ報せてくれた。これから全軍で松任城に向かう。あとは敵の出方次第じゃ。この報せは無駄にはせぬ。必ず織田勢を撃破してみせる」

「そのお言葉を聞きたくて、急ぎ駆けつけました」

「うむ、その顔は暫くろくに寝てはおらぬ、とみえる。ゆるりと休むがよい」

「いいえ、直ちに金沢に舞い戻ります。手下が新たな敵の動きを掴んでいるはずです。もう一度松任城まで、お報せに参上いたします」

「分かった。気をつけて行け」

「ははっ」

 幻次が去った後、謙信は直ちに陣触れし、全軍で松任城に向かった。

 天正五年(一五七七年)九月二十二日、この日は朝方の晴れ間が嘘のように急変し、午後からはまたもや雨模様となっていた。

 敵は我が軍が、目と鼻の先の松任城まで、進軍してきていることを知らない。未だに、七尾城の陥落すら掴んでいないはずだ。

 一方、味方は織田方の動きを、全て捕捉している。早朝、和田山城を発し、東へと迂回しながら、手取川の浅瀬を渡河し、未の刻(午後二時)には水島郷に陣を張ったことまで、逐一幻次から報せを受けている。

 松任城から南に二里とないところに、織田勢が集結しているのだ。敵の斥候は見つけ次第、幻の者が始末していた。

 明朝の出撃は全軍に伝達済だ。この雨では、互いに火縄銃を使うことは出来ない。敵の背後には手取川が控えている。天運はどこまでも謙信に味方している、としか思えない。怖いくらいに全てが順調に回っていた。こういう時こそ、落とし穴や見落としがないか、注意する必要があるが、いくら考えても見当たらない。

 謙信はひとり静かに、馬上杯で口を潤しながら、愛用の琵琶・朝嵐を奏でていた。大戦を前に不思議と心は穏やかだった。

 ばちを置き、馬上杯を片手に酒で喉を潤す。戦場における謙信にとっては、最も安らげるひと時でもあった。

「御実城様、宜しいでしょうか」

 入って来たのは河田長親だった。

「如何いたした」 

「風流のお邪魔でしたら、また別の機会といたしますが」

「構わぬ、ちょうど良かった。誰かを呼ぼうと思っていた。お主も一杯付き合え」

 長親にも盃が渡された。

「あらためて用件を聞こう」

「今後の加賀国について、でございます。御実城様は加賀の統治について、如何お考えなのでしょうか」

「先を見越しておるな」

「いいえ、ただ隣国の越中を預かる者として、今後大いに関りが増えると思いまして」

「加賀は一部の拠点を除いて、今まで通り、金沢御坊の支配下に置こうと思う。当面はそれが良かろう。ようやく同盟が成り、此度の戦も、互いに協力してきたからこそ、ここまで順調にきたと言える。ここで敢えて、金沢御坊の神経を逆撫でするようなことをする必要はあるまい」

「それを聞いて安心いたしました」

「儂が無神経なことをすると思うか。いずれは越中も能登も、越後のように穏やかで住みやすい国になるであろう。そうなれば、一揆を起こす必要もなくなる。宗徒も、自ずと普通の民に戻れば、それが一番良かろう。加賀も少しずつ同じようにしていけばよい。ただ、焦る必要はない。儂の代ではどうか分らぬが、お主たちの代に、それが果たせれば、良いとさえ思っておる」

「たとえ冗談でも、そのような寂しいことは、言わないでください」

「心配いたすな。儂はまだまだこの通り死にそうもない」

 謙信は両手を広げて、元気なことを仕草で示した。そう言えば、以前、景綱も同じように、身振りをして見せたことが蘇った。あの時は胸に手を当てたのかもしれない。そこは記憶が曖昧だった。

「但し」

 少し間を置いて謙信は続けた。

「お主も知っておろう。儂が父とも兄とも慕っていた、直江大和守が今春亡くなった。お主と然程、歳の差がない豊守も突然逝ってしまった。人の一生などというものは、いつ終わりが来るか分らぬ。それはお主も儂も同じじゃ。ただ、いつか儂が先に逝った時は、景勝を支えてくれ。あ奴には、与六兼続というお主に勝るとも劣らぬ相棒がおる。それにお主が加われば、上杉家は安泰じゃ。よいか、その時は頼んだぞ」

「胆に銘じます」

「うむ。では明日も早い。続きは能登の七尾城に戻ってからにしよう」

 長親に向ける謙信の顔は、いつになく優しくほころんでいた。

 

 柴田勝家は起きていた。というより、ろくに眠れなかったのだ。床に就いても、昨夜から嫌な予感が、蜘蛛の糸のように纏わりついて離れない。放った斥候も一人として帰ってきていないのも気になっていた。

 やがて、その予感は的中することになる。

「ご注進、ご注進」

 大きな叫び声に飛び起きた。九月二十三日卯の刻(午前六時)近くであろうか。

 一人の斥候が戻ってきた。見張りの兵に抱えられながら、体には幾つもの刀傷を受けている。この体で生きて戻れたのが、不思議なくらいだ。

「申し上げます。上杉軍、既に松任城に集結。その数、約三万」

 勝家は愕然とした。

「何故じゃ、何故に謙信が加賀におる。七尾城を攻囲しているはずではなかったのか。七尾は既に落城したというのか」

「詳しくは分かりかねます。ただ、分かっていることは、松任城とその周辺に大軍が集まり、城には謙信の馬印である毘の旗が、雨に濡れながらも翻っているということです」

 そこまで確認しているのであれば、疑いようもない事実だ。

「その刀傷はどうした。敵の斥候に遭遇したか」

「いいえ、斥候とは思えぬほど身軽で、恐らく忍びの技を使える輩かと思われます。我ら三人をいきなり取り囲み襲って参りました。他の二人は残念ながら、その場で落命しております」

 謙信もそのような輩を抱えているのか。もしかしたら、我が方の間者は全て奴らに殺られてしまったのではないか。いいや、そんなはずはない。手練れの者が何人もいる。とにかく今はそれよりも、これからどうするかの判断が先だった。

 騒ぎを聞きつけて、陣中には動揺が広がり始めている。

 真っ先にやってきたのは、前田利家だった。

「柴田殿、ここは一旦和田山城に退いて、立て直すといたしましょう」

「いいや、ここは討って出よう。昨日から降り続いた雨で、手取川は増水しておる。このまま退けば敵の思う壷だ。慌てて逃げれば、溺死する者も多かろう。ここは文字通り背水の陣で参ろうではないか」

 こう言ったのは、後から来た滝川一益だった。

「今ならまだ間に合います。昨日と同じように迂回して、上流から渡河すれば溺死は免れるはず」

 一益の主戦論を佐々成政がまた引き戻す。結局は、先日と同じような押し問答の光景が生まれていた。

「権六殿、ぐずぐずしてはおれぬ。ご決断を急ぎなされ。こうしている間にも、謙信は直ぐ近くまで、迫っているかもしれぬ」

 丹羽長秀の助言である。

 その時だった。物見がもたらしたのは最悪の報せだった。

「申し上げます。北の方角から大軍が押し寄せて参りました」

 長秀の心配が現実となった。もう勝家に迷う時間はなかった。

「かくなるうえは討って出るしかあるまい。先鋒、滝川隊。次鋒、前田・佐々隊。第三鋒に丹羽隊。本陣が我が柴田隊。直ちにかかれ」

「柴田殿、遅くはありませぬ」

 前田利家は首を横に振り、最後の撤退の説得を試みた。

「又左、もう決めたことじゃ。行け」

 諦めた利家は、自陣へと駆け去っていく。

 勝家は小雨止まぬ中、前方に迫りくる上杉軍を、目を凝らして見つめていた。

来るなら来い、我ら織田軍団の力をみせてやる。

しかし、勝家の威勢もここまでだった。

上杉軍全体が巨大な一匹の化け物のように見えた。軍全体から湧き上がる闘気に、今にも押し潰されそうになっている。百戦錬磨と言われる自分でさえ、こんな軍勢に、今まで出くわしたことがない。言い表しようのない戦慄が、身体中を駆け巡っている。毘の旗が見えるまでに近づいてきた。総大将・柴田勝家は、今にも逃げ出したい気持ちを抑えるのに必死だった。


 織田の大軍が徐々に迫ってきた。逃げるかと思ったが、どうやら向かってくるつもりでいる。柴田勝家とやら、少しは骨のある将らしい。

 松任城を発つ前に幻次から、敵の斥候一人を取り逃がしてしまったと報せを受けた。払暁のことであれば、もう敵に知られても影響はない。始末をやり損ねた者には、案ずる必要がないことを、くれぐれも伝えるよう命じた。

 更に間合いが詰まってきた。敵の一部が恐れおののいている表情が、手に取るように分かる。引き付けるだけ引きつけた。敵の恐怖心は更に高まっているはずだ。

 謙信は右手を振り下ろした。

強弓を持った弓手による一斉射撃と同時に、第一陣の騎馬隊が突っ込んでいく。造作もなかった。騎馬隊は敵をかち割ると、直ぐさま反転した。既に敵の一部は背中を向けて逃げ始めている。そこに長槍隊を突入させた。どんどん押し込んでいく。

 前方の将は滝川一益か。必死に立て直そうと踏ん張っているが、一度崩れた軍を立て直すのは容易ではない。

 謙信は間髪入れずに総攻撃を命じた。懸かり乱れ龍の旗が掲げられる。全軍が織田勢に向かって突撃した。

 果敢に戦いを挑んでくる敵は、長槍隊の餌食となり、次々に討たれていく。織田勢が総崩れとなるまで、そう時間は掛からなかった。全軍が背中を見せて一目散に退却していく様子が、謙信の目にはっきりと映っている。

 謙信は容赦しなかった。尚も追わせ続けた。やがて、昨日からの雨で再び水嵩の増した手取川が、謙信の目にも飛び込んできた。

 ある者は甲冑を脱ぎ捨て、意を決し対岸まで泳ごうとしている。また、ある者は上流の浅瀬を求めて東に進路を変えている。

 謙信は敵兵が東に向かえないよう河田長親に命じて、兵を差し向けた。

逃げ遅れた織田勢には、もう絶望しか残っていない。やけになって一矢報いようと向かってきても、上杉軍が放った矢で逆に針鼠にされてしまう。あとは絶望のあまり、川に飛び込み、溺死するという悲惨な末路を辿るしかなかった。

 こうして、織田勢を迎え撃った手取川の合戦は、上杉軍の圧勝という形で、幕を閉じることになった。


 命からがら和田山城に逃げ帰った柴田勝家は、惨敗のあまりに、暫くは茫然自失の状態から立ち直れなかった。

 討ち取られた数は一千余、溺死した兵の数は未だ把握しきれないでいる。ここまで打ちのめされるとは、思ってもみなかった。

 わが軍に向かってきた時の、あの軍全体から湧き上がる闘気、口が裂けても総大将の立場として絶対口に出来ないが、思い出しただけでも身震いしてしまう。それに変幻自在な兵の動きと速さ、たとえ倍の兵力で挑んだとしても、全く勝てる気がしない。

 今更ながら分かったことは、七尾城が既に陥落していたことだ。信長に援軍を求めて頼って来た長続連は、去る十五日に、一族諸共滅んでおり、もうこの世にはいない。還俗した長連龍は、敗戦に加えての衝撃に、茫然自失のまま立ち竦んでいる。

 信長には如何なる叱責を受けても仕方ない。ここは一旦加賀を捨てて、越前国を死守することが先決だと判断した。

 勝家は与力である前田利家と佐々成政を呼んだ。

「謙信は必ず追ってくる。我らは明日、加賀国から直ちに撤退する」

 勝家の言葉に二人は驚いた。

「一敗地に塗れたとは言え、三万近い兵は未だ温存しております。敵に一矢報いて、この和田山城以南は死守すべきと判断しますが」

 成政が勝家を思い止めようと説得した。

「お主らも見たであろう。あの上杉軍の強さを。ここに留まっていれば間違いなく、上杉軍は、我らに再び襲い掛かってくる。内蔵助、お主は、あのような敵と戦って本気で勝てると思うのか」

「いいえ、ただ戦はやってみなければ分かりませぬ」

「やってみなければ分からぬだと。お主はそんないい加減な判断で、兵を危険に晒せと言うのか」

「そうは申しませぬが、上様への申し開きは如何なさるおつもりですか」

「既に七尾城は敵の手に落ちているのだ。上杉軍は一揆勢と合わせて、五万の兵力で向かってきた、と申し上げる。多少の誇張はあるが、我らは五万、いや最低でも七万の軍勢がいなければ、とても勝てそうもない相手だぞ。兵の増強を願い出て、あらためて北上することを言上するつもりじゃ。責めは儂ひとりで負う。安心しろ」

「確かに、あのように精強な軍は、これまで見たことがありません。ここは我らも一緒に言上する必要がありそうです。そうすれば、上様もあらためてお考え下さるかもしれませぬ」

 前田利家も勝家と同じ思いをしたようだ。

「分かりました。では、早速、丹羽殿と滝川殿には、退陣の決定を伝えて参ります」

 成政はそう言うと、丹羽長秀の陣の方に向かって足早に去っていった。

 勝家は利家と二人になったことから、昔馴染みの誼で本音を聞いてみる気になった。

「又左、お主は初めて上杉軍と対してどう思った。正直な気持ちを申せ」

「怖さが先に来ました。小便を漏らしそうになりました。出来れば二度と戦いたくない相手です」

「そうか。正直儂もそうじゃ。あのような軍勢には、百回当たっても勝てそうもないと思った。そうか、いや、お主もそうだったか」

 勝家は豪快に笑っていた。それを見ていた利家は、いつもの権六殿に戻ったことに、安堵しながらも、先ほどまで、勝家の自信喪失を心配していた自分のお人好しが、馬鹿馬鹿しくなっていた。


 九月二十三日夜、松任城は戦勝に沸いていた。念のため夜襲に備えての見張りは、怠りなく行ったうえで、久しぶりの酒盛りを許すことにした。

「織田勢など怖れるに足りず」「このまま安土に攻め込むぞ」などの威勢のいい声が、あちらこちらで飛び交っている。

 謙信は本丸に景勝と兼続を呼び寄せ、静かに盃を交わし戦勝を祝していた。

「御実城様、このまま和田山城を攻め落とし、加賀国全土も領地に加えるのですか」

 当然、兼続があまりにも直接的な表現で謙信に問いかけるので、思わず景勝がたしなめる。

「これ。与六、そのように大事なことを、この場で口にするなど無礼であるぞ」

「良いのだ、喜平次。お主達に隠しごとをするつもりはない」

 謙信は盃の酒を飲み干すと、兼続に差し出した。兼続は嬉しそうに、その盃になみなみと酒を注いだ。

「和田山城を攻めるつもりはない」

「えっ」

 声に出したのは兼続だが、謙信の意外な答えに、景勝も口を半開きにして驚いている。

「よいか、加賀は未だ金沢御坊が支配する一向宗の国だ。此度の戦も一向宗との共闘で、楽に勝つことが出来たことを、決して忘れてはならぬ。和田山城から南は金沢御坊の差配に任せようと思う。ここで全てを我らが下したとなると、金沢御坊が我らにあらぬ不審感を抱かぬとも限らぬ。もしも、そうなれば、これまでの努力が水泡に帰してしまう恐れすらある。我らはいつ織田勢の来襲があっても慌てることなきよう、この松任城までを当面確保しておけば十分じゃ」

「では、加賀以南には進出しないとお考えですか」

 珍しく景勝が自ら口を開いた。

「そうではない。明日にも織田勢は加賀から越前国・北庄に逃げ帰るに違いない。我らは手取川の水が引き次第、城には目もくれず、奴らを越前まで追撃するつもりじゃ。しかし、この空模様だ。北庄城攻めの前に、初雪となることも頭に置いておく必要がある。その時は些か無念ではあるが、此度の追撃はそこまでとなろう」

「多少の雪ならば、我らは慣れております」

 あくまで北庄城攻めを強行したい景勝に対して、謙信が釘をさす。

「駄目だ、糧道が長く伸び過ぎる。この際、無理は禁物だ。それに敵国内では、如何なる罠が仕掛けられているか、分かったものではない。但し、敵国である越前にまで、一度踏み込むことは、非常に大きな意味を持つ。我らがその気になれば、いつでも越前くらい攻め寄せることが出来るのだ、ということを思い知らせるにはいい機会だろう。さすがの信長も懲りて、暫くは加賀国を攻めようなどとは思うまい。とにかく織田勢を、当分は越前に逼塞させることが一番じゃ」

「そこまで考えが至りませんでした。軽率でした」

「この機会に二人には、教えておいたほうが良さそうじゃ。我らは戦人いくさびとではあるが、その前に政事を正す者でもあることを、決して忘れてはならぬ。越前攻めよりも、先ずは越中や能登に安寧と繁栄をもたらし、越後のように、民が安らかに暮らせるようにすることが大切じゃ。そのことは儂から既に、河田豊前守と鰺坂備中守には命じており、二人は早々に着手している。民の暮らし向きを考えぬあるじは、どんなに戦上手であっても、主としては失格じゃ。お前たちも今のうちから、そのことをしっかりと頭に置いておくように」

「胆に銘じます」

「うむ、儂は越中と能登の足元をしっかり固めて後に、あらためて越前国に討って出るつもりじゃ。その前に関東遠征だ」

「小田原攻めですね」

「そうだ。今度こそ氏政の息の根を止めてやる。これまでの越山とは違うぞ。来春、大軍を率いて出陣する。兼続は初めてとなろう」

「はい。それを考えると、今から心が躍ります」

「与六、遊びに参るのではないぞ」

「無論でございます、喜平次様。ただ、未だ見知らぬ土地への憧憬は、皆が等しく抱いている気持ちではありませんか」

「与六も生意気なことを言うではないか」

 謙信は盃を口に運びながら、言った言葉とは裏腹に、満足そうな表情で二人を見つめている。

「御実城様は過去に二度の上洛を果たしておられます。次の上洛はいつ頃になりそうですか」

「与六は儂を急かせるのう。早くとも、越前国から織田勢を駆逐した後になる。いずれ備中国・鞆の浦に動座された公方・義昭様を、お迎えせねばなるまい」

「それも楽しみです。京も是非一度見てみたいものです」

「与六、その前に大事なことを忘れてはおらぬか」

「織田信長との決戦ですね」

「そうじゃ。信長との決戦となれば、此度のように簡単ではない。双方が死力を尽くした戦いとなろう」

「その決戦はどの辺りになりましょう」

「激突するとすれば北近江辺りか。信長が安土に巨大な城を築いておるのも、儂への備えらしい」

「しかし、近江国といえば敵の出城も数多あり、敵に分があるのではありませぬか」

「近江国は二度目の上洛時、坂本に長く滞在しているから、多少の土地感覚は持ち合わせておる。それに河田豊前守は近江の出じゃ。石山本願寺からの加勢も考えれば、我らが一概に不利とは言えぬ。きっと、五分と五分の戦いになる」

「御実城様が勝つに決まっております。毘沙門天様のご加護がある御実城様が、負けるはずがございません」

「与六、左様な過信が最も危うくするのだ。常に人は謙虚でなくてはならぬ」

「申し訳ありません」

「まあよい。儂をそこまで信用してくれているのは、決して悪い気はせぬ。儂もやるからには、勝たねばならぬと思っている」

「その後に上洛ということですね」

「与六、御実城様はそなたを京に連れて行くとは一言もおっしゃられてはおらぬ」

 景勝は、些か調子づいた兼続の軽口を、またもや窘めた。

「喜平次様、そのような意地の悪いことを言わないで下さい。御実城様、お願いですから、上洛の折は是非、この与六兼続をお供にお加えください。お願いです」

 こう言って、兼続は謙信に酒を進めた。

「案ずるな。その時は二人とも一緒だ」

 謙信は顔を綻ばせながら、数年後に果たす三度目の上洛に思いを馳せていた。

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