第17話 争覇の章 *落城への階~七尾落城

*落城へのきざはし


 天正五年(一五七七年)六月、あらためて能登国・七尾城攻めに向かおうとした謙信に、またもや訃報が舞い込んできた。

 三条城主・山吉豊守の急死だった。僅か三十六歳という若さである。

 謙信が越中能登への遠征に当たり、暫く春日山城の留守居役を任せていたので、三条に戻って日が浅かったはずだ。

 その日は久しぶりに領内を見聞し、何事もなく帰城していたらしい。夕餉を運び入れようと声をかけても返事がない。不審に思った近習が居室を覗き見たところ、文机に顔を伏して倒れている豊守を発見したとのことだった。発見した時には、既に事切れており、全く手の施しようがなかったらしい。

 これで、謙信は支えてくれる二人の巨頭を、相次いで亡くしてしまったことになる。そして、礼泉尼となった結は、夫と弟を立て続けに失ってしまっていた。

 豊守には子がいたが、未だ幼く三条城主を任せる訳にはいかない。そこで京から呼び戻したばかりの神余親綱を、城主として三条に派遣することにし、山吉家は木場城主に領地替えさせることにした。

 神余親綱はこれまで京において、雑掌として朝廷や幕府との交渉役を担い、また青苧の取引でも、国元の蔵田五郎左衛門尉との緊密な連携で、大いにその手腕を振るってきた。

 しかし近年は、信長の山城国支配が強まるにつれて、自ずと活動の幅が狭まり、その役割も徐々に縮小してきていた。

 そこに信長との断交という決定打が加わってしまった。そのまま京にいては、命すら狙われかねない。そこで謙信は、商いを昔から取引のある商人に、全てを委ねることとし、親綱を越後に引き上げさせていたのだ。

 神余親綱は春日山城の本丸である、実城に呼び出されていた。そこに袈裟を纏った法衣姿の謙信が現れた。

「儂はもうすぐ能登に参る」

「七尾城攻めでございますね」

「そうだ、金沢御坊と協力し、出来れば加賀まで切り取る。お主には春日山城の留守居役を命ずる」

「ははっ、承りました」

「それから、既に聞き及びのことと思うが、儂が戻り次第、三条に行って貰う」

「有難き御役目なれども、山吉殿のご遺族が主を失ったうえに、領地替えではあまりに不憫でなりませぬが」

「その気持ちは儂も同じじゃ。しかし、嫡男であった盛信が早逝し、もう一人の子も景長と名乗らせ、形ばかりは元服させたが、未だ幼子でとても、蒲原の要である三条は任せられぬ」

「しかし、木場への領地替えとなれば、減封は免れますまい」

「それも仕方あるまい。ただ、一部の家臣は儂が引き取るつもりでいるから、暮らし向きに不自由はさせぬつもりじゃ」

「それを伺い安堵いたしました」

「相変わらず、お主の心根の優しさは、変わらぬと見える」

 謙信の顔に笑みが浮かんだが、それも直ぐに消え、真剣な面持ちに戻った。

「知っての通り、三月には大和守を、そして此度は丹波守(豊守)を相次いで失うことになった。これまで、丹波守が揚北衆への楔の役割を果たして参ったが、今度はその役目をお主に任せる他ない」

「承知しております。京暮らしが長いとは申せ、もともとは越後で生まれ育ちました故に、揚北衆の難しさは、決して忘れてはおりませぬ」

「揚北衆は独立意識が極めて強い。戦では心強い味方だが、未だに儂の言うことを聞き入れぬことがあるから、正直手を焼いておる。お主には、今まで京で危ない橋を幾度も渡って貰ったが、今度はその代わりに、揚北衆と儂の間を繋ぐという、難しい役割を担って貰うことになる。頼んだぞ」

「無論でございます」

 謙信はあらためて、親綱の顔を見た。確か四歳年上だから五十二歳になるはずだ。頭はすっかり白髪が目立ち、顔にも深く刻まれた皺が、これまでの苦労を物語っているようだ。

「小次郎殿」

 謙信は珍しく親綱を別名で呼んだ。

「何でございましょう」

「決して無理だけはしないでくれ。正直言って、儂はもう我が重臣を失いたくはない。お互いにもう若くはない。儂が上洛した頃とは違う。どうか体だけは労わってくれ」

「有難き御言葉。痛み入ります。御実城様こそ、能登攻めが近づいております。どうか御身大切に。戦勝をご祈念申し上げます」

「うむ。留守中は任せた」

「ははっ」

 謙信は親綱に盃を取らせ、注がれた酒を共に一気に煽った。


 ちょうどその頃、能登の七尾城内では、予期せぬ大変なことが起きていた。

 疫病が蔓延していたのだ。原因は糞尿の処理にあった。

 天正五年五月、河田長親は七尾城惣構えの外側を全て焼き払うよう命じた。その際に、残っていた相当数の民、つまり平時は商工を生業とする人々の一部が、惣構えの内部に、慌てて駆け込んだのだ。

 水源が確保されているので、飲み水は問題ない。食料も城内の備蓄と逃げ込む時に持ち込んだもので、ある程度は凌げる量を確保している。

 しかし、惣構えの内部、つまり武家屋敷や城内では、民の排泄物を処理するほどの厠を用意しているわけではなかった。その結果、城内の至る所で糞尿放置が横行してしまう。それに輪をかけたのが、夏の暑さだった。城内は鼻を覆うほどの激臭で溢れてしまう。その不衛生がもたらしたのは、激臭だけに止まらなかった。

 それが疫病の発生である。疫病は忽ち城内全体に広がり、人々の命を次々と奪っていった。まさに七尾城内は危機的な状態に陥っていた。

 この状況を見かねた遊佐続光は、再び重臣同士で今後の対応を話し合うことにした。続光の他は、長続連、温井ぬくい景隆、三宅長盛といった顔ぶれである。

続光は、あらためて謙信への降伏と臣従を提案した。

「病による死者は、民を合わせると既に三百人を超える。重病人はこれとほぼ同数の二百八十人。既に限界を超えておる。これ以上の籠城は無理であろう。降伏を申し入れようと思うが如何であろうか」

 温井、三宅の両氏が頷くなか、親・織田派の続連だけは、依然として強硬に反対の立場を崩そうとしない。

「あくまで徹底抗戦あるのみ。今更、開城などあり得ぬ。降伏するくらいならば、今すぐに討って出て、全員討ち死にした方がましじゃ」

 続連の主張に対して、反論したのは三宅長盛だった。

「それならば、貴殿とその一族だけが討って出ればよいではないか。我らは降伏に賛成じゃ」

「討って出る、と言ったのは物の例えじゃ。それだけ降伏には反対じゃ、ということだ」

「しかし、このままでは戦うどころか、全員、病の餌食になるだけですぞ」

 今度は温井景隆が諭すように言った。

「我らはその病で、次期当主に担ごうとしていた春王丸様まで失ってしまった。このうえ、貴殿は如何しようとお考えか」

 この時点で畠山家の血筋は絶えてしまっている。

「いいや、ひとつ方法がある」

 続連が自信ありげな表情で応えた。

「それは如何なる方法か」

「民と病人と家族は全て、高屋敷から締め出して、下の武家屋敷に住まわせて隔離する。病人以外は全て高屋敷から上の屋敷に住まわせる。新たに病に罹った者は全て外の屋敷に移って貰う。これでいずれは病も無くなろう」

 高屋敷の外から惣構えまでは、一般の武家屋敷である。そこに病人を全て押し込めようという考えだった。

「それは病人と民を全て見殺しにするとの同じではないか」

 長盛がいきどおって言う。

「それも仕方あるまい。先ずは御家を存続させることこそ大事」

「民を見捨てて何が御家か。貴殿は己の身が可愛いだけではないか。己だけが良ければ、それで良いと言うのか」

 続連の身勝手な言葉に、思わず長盛は食って掛かった。

「何を無礼な、もう一度言ってみろ」

 興奮した続連を制したのは遊佐続光だった。

「我らが喧嘩腰で何とする。落ち着いて話し合おうではないか」

「ひとつ伺っても宜しいでしょうか」

 今度は温井景隆が続連にただした。

「高屋敷より上に下級武士を住まわせる屋敷はない。如何しようとお考えなので」

「それは倉があるであろう」

 確かに城内には武器蔵や兵糧蔵などを備えているが、とても全員が寝泊まり出来るような場所はない。

「全員が寝るのは無理でございます。それに布団も枕もない」

「野宿も仕方あるまい」

 続連は平然と言って退けた。

「やはり、貴殿は己が良ければ、他はどうでも良いとお考えの方のようだ」

 長盛の怒りは収まりそうにもない。

「止さぬか」

 続連が怒り出す前に、続光が制した。

「もうひとつ、申し上げたい」

 温井景隆は努めて冷静に、続連に対して反論するつもりだ。

「もし、そのような手段に出ればどうなるか、お分かりにならないのですか」

「どうなると言うのじゃ」

「夜陰に乗じて脱走する兵が、後を絶たぬことになりましょう。それこそ、我らは戦わずして、負けをみすみす認めるようなものです」

「それほどまでに言うのであれば、この話は取り下げぬでもない。しかし、上杉の軍門に降ることだけは、断固として反対する」

 長続連は、この一点だけは譲歩するつもりがない。

「しからば何といたすおつもりか」

 いよいよ、遊佐続光の番だった。もう続連の本音を引き出すしかない。

「織田信長殿に援軍を乞うつもりだ」

 他の三人は耳を疑った。代表して続光が発した。

「これまでも貴殿は、信長と内通していたはずではないか。我らはそれを見て見ぬふりをしておった。それでも、今に至るまで援軍を派遣してこないということは、七尾城に興味がないか、他の優先事項があって手が回らないか、のどちらかであろう。この期に及んでも、織田信長殿を頼るおつもりか」

「以前と今では事情が違う」

「どう違うと言うので」

 今度は温井景隆が続連に質す。

「謙信は既に能登国の大半の城を手中に収めてしまっている。もし、この七尾城が陥落すれば、一向宗徒が支配する加賀国を通り越して、直ちに越前国に攻め入るであろう。それを信長殿が看過出来るとお思いか。今度こそ、必ず援軍を差し向けてくれるはず」

 得意げに話す続連に対して、遊佐続光が反論した。

「もし、援軍を差し向けたとしても、加賀の一向宗徒が黙って通すとお思いか」

「今や、飛ぶ鳥を落とす勢いの信長殿の軍勢じゃ。見事蹴散らして、駆けつけてくるに違いあるまい。そうなったら上杉軍は、我ら城兵と織田勢の挟み撃ちの危機を迎える。撤退する他に途はあるまい。これにて我らは解放され、万々歳ということになると思うが」

「そのように上手くいくとは思えませぬ」

 続連の持論に景隆が水を差した。

「それはどういうことじゃ」

「信長は信用出来ぬということです。貴殿の言う通り、この城が無事解放されたとしましょう。その時、我らが、今のまま城に留まれるとお考えか」

「それは当然、そうなるだろう」

「果たしてそうでしょうか。難攻不落と言われて久しい城です。そのような城をみすみす旧主に預けたままにするとは思えません。ましてや、主たる畠山の血筋は、既に途絶えております。信長殿であれば、自分の家来を入れるか、破却して能登の別の場所に新たに築城したうえで、我らを配置換えにするのではないでしょうか」

「それは上杉とて同じではないか」

 景隆の思わぬ冷静な反論に遭い、狼狽した続連の半ば捨て台詞だった。これに続光が黙っているわけにはいかない。

「謙信殿は断じて左様な不義理はいたさぬ。それはこれまでの関東や越中、信濃での仕置きが証明しておる。頼ってきた者には支援を差し伸べ、降伏してきた者にも、必ず一度は寛大で慈悲深い判断を、下されておるではないか」

「過去がそうだからといって、この城にも同じ判断を下すとは限るまい」

 こうなると続連の言葉は苦し紛れでしかない。そこに遊佐続光が、続連にとって耳の痛い話を蒸し返した。

「いいや、これには根拠がある。昨年の降伏を促す書状には、畠山義春様を当主と迎えるようとの進言があった。謙信殿の下には、越後の名家である上条家の養子となった、畠山家の御血筋がおられる。春王丸様を失った今、その御方を主と仰ぎ、名門畠山家を存続させることで、必ず我らの安泰が図られるというものじゃ」

 更に、その続連に追い討ちを掛けるように、今度は三宅長盛が語り始めた。

「織田信長の近年の所業には、目に余るものが多過ぎる。比叡山延暦寺を焼き討ちして、僧兵とは関係のない、老若男女も皆殺しにするなど、人の心を持った者の行為とは言えない」

「それは比叡山が朝倉義景殿を匿い、結託したからであろう」

 遊佐続光も負けてはいない。

「それだけに止まらぬ。滅ぼした北近江・小谷城主の浅井久政・長政父子の髑髏どくろ頭部に金箔を施し、酒を飲んだというではないか。とても人間の所業とは思えぬ。更に降伏を申し入れた長島一向一揆二万の老若男女を、宗徒だというだけで、火攻めにして皆殺しにするなど、常軌を逸した遣り口は目に余るものがある。そのような御方には、近々必ず天罰が下されると思わぬか。それでも、貴殿は織田殿の援軍を乞うと言われるか」

「いずれ織田殿の身に天罰が下さるかなど、我らには関係なきこと。今どうやって、この危機を乗り越えるかを考えているのだ。よいか、我らは今、生きるか死ぬかの瀬戸際におるのじゃ。今は強大な力を持つ織田殿を頼るというのが当たり前の策であろう。何故、お主ら全員が、上杉の肩を持つのか、儂には理解出来ぬ」

 これが続連の悲痛な叫びでもあり、心の底から湧き出た本音だった。

「確かに、今の織田殿には勢いがある。京や堺も抑えておる。しかし、西には公方様をお迎えした毛利がおり、石山本願寺がある。先だっては毛利水軍が、織田の水軍を打ちのめしたという。そして、東には上杉謙信という、今や戦の神とも崇められる巨頭がいる。それらが手を結び、信長を追い詰めている以上、決して信長一強と決まったわけではない。むしろ戦となれば、上杉殿に軍配が上がるのは、先ず間違いあるまい」

 つい先ほどまで、感情的に続連と対立していたとは思えない、三宅長盛の冷静な言葉だった。

「左様なことを今更言われても遅いわ」

 続連の投げやりな一言に他の三人は驚いた。何が遅いのか、それは続連が続けて放った一言で明らかになった。

「一昨日の晩、既に信長殿宛の使者を出しておる。今頃は海路、西に向かっておるはずじゃ」

 なんと、続連は他の重臣に断りもなく、勝手に行動を起こしていたのだ。続連の家人の一人が、城の西側の急斜面を下り大谷川沿いに進み、遠回りをしながらも無事港まで辿り着き、続連に僧に書状を渡していた。

「信長殿は越前に危機が迫っているとなれば、必ず柴田殿に命じて大軍を送り込んでくれよう。我らは、その織田殿の援軍が来るのを待とうではないか」

 こうなると、長続連の完全な開き直りだった。今までの話し合いは何だったのか。三人は失意のままに、その場を後にするしかなかった。

 その夜、三人は密かに温井景隆の屋敷に集まった。もちろん、続連に知られることは憚られる謀議のためである。

 本来は筆頭家老である遊佐続光の屋敷に集まるところだ。しかし、遊佐屋敷は本丸を出たところに位置し、どうしても他の目についてしまう。万が一にも、続連に知られることがあってはならなかった。

 その点、二の丸近くの温井屋敷は、比較的目が届きにくい場所にあり安心だった。

 もちろん、首謀者は遊佐続光である。

「こうして、再度お集り頂いたのは他でもない。対馬守(続連)のことだ。これ以上、奴の独断専行を許すことは出来ぬ」

「同感です。織田贔屓びいきは以前からのことで、仕方ないと諦めておりましたが、我らに断りもなく援軍要請などあり得ませぬ」

 即座に三宅長盛が反応した。

「しかし、どうしようというのですか。このままでは早ければひと月のうちに、織田勢が進軍して参りますぞ」

 温井景隆も、親上杉派ではあったが、織田軍が来るとすれば、どうなるか予想がつかず、ただ困惑している。

「いや、ひと月ということはあるまい。柴田勢だけならせいぜい一万程度。それで謙信殿に立ち向かうほど愚かではない。軍勢を揃えて北上するまでは、確実にふた月あるいは三月を要するであろう」

 遊佐続光の冷静な判断だった。

「しかし、その間にも流行り病が、どこまで広がるか見当もつかぬ。我らには一刻の猶予もありませぬぞ」

 長盛が焦って言うのも尤もな話だ。疫病は治まる気配すらなく、今も感染拡大を続けている。

「我が結論を言おう」

 続光が意を決したように口を開いた。

「対馬守を斬る」

「しかし、どうやって。用心深い対馬守殿を殺めるのは、決して容易ではありませぬぞ」

 温井景隆らしい一言だ。

「確かにそれが難しい。しかし、今は無理でも、こちらが隙を見せれば、必ず向こうも隙をみせる時が来よう。その時には一気呵成に動く。対馬守だけではなく、屋敷にいる一族郎党全員を討ち滅ぼした後に、すぐさま開城する。もはや、我らに残された道はそれしかない」

「こちらが隙をみせると言っても、なかなか難しいことですぞ」

「それは貴殿と儂は信用されておらぬから難しい。しかし、普段から冷静で、決して真っ向から対立していない温井殿ならば話は違う」

 続光にはすでに思い描いた策があるらしい。

「よいか。これから温井殿には、時をかけて少しずつ、対馬守との距離を詰める動きをして貰う。そして、機会をみて二人だけの謀議と称して、極秘の宴に誘う。ひとりでいる対馬守を仕留めた後、武装した我等の手勢全員で長屋敷を襲う」

「なるほど。しかし、距離を詰めるきっかけが難しゅうござる」

「それも儂に考えがある」

 その後も三人の謀議は続けられ、それは深更に及んでいた。

 

 それから数日後、本丸の一室には再び集まった四人の重臣の姿があった。

「此度は温井殿からのお声がけとは珍しい。何事であろうか」

 事情を知らない長続連が口を開いた。

「過日、対馬守殿からご提案のあった、流行り病に罹った者の区分けの話でございます」

 温井景隆が話し始めた。他の二人は、初めて聞く素ぶりで耳を傾けている。

「ほう、それは貴殿たちが、声を揃えて反対したではないか」

「仰せの通りです。しかし、その後屋敷に戻り、考え直したのですが、良い案を思いついたので、ご足労願いました」

 もちろん、これは遊佐続光の入れ知恵に他ならない。

「お聞かせ願おうか」

「確か、対馬守殿から伺った案は、民と病人と家族は、全て高屋敷から外の武家屋敷に住まわせて隔離する。病人以外は全て高屋敷から上の屋敷に住まわせる。こういうことで間違いござりませぬか」

「その通りじゃ」

「確かにこのままでは無理がございます。しかし、武家屋敷をもう少し細かく、区割りしては如何でしょうか。病人とその家族の区画、民の区画、その他の武家の区画と分けるのです。そして、相互に近づくことがないように、一定の居住並びに、通行禁止区画を設けるのです。如何でしょうか」

「それは良い考えだ。それにしよう」

 自分の考えを組み入れた景隆に、続連は微笑みかけながら賛成した。

「それに、これ以上、流行り病が広がらぬように、交替で武家屋敷の外れに、大きく深い溝を掘りましょう。糞尿はその場所以外で済ませることを禁止するのです」

「それも妙案じゃ。よくぞ我が案を土台に考えたものじゃ」

「いいえ、これも全て対馬守殿の卓越したお考えを基礎にして、思いついたまでのこと。つくづく感服いたした次第でござる」

「いや、それほど褒められたものではないが」

 遊佐続光は続連の表情を横目で探った。その表情はやはり、まんざらでもなさそうだ。

「他の御二方は如何でしょうか」

 ようやく、景隆が続光と長盛に話しかけた。反対があるわけがない。

「異議なし」

「異議なし」

 この日の疫病対策をきっかけとして、温井景隆は、少しずつ長続連との距離を縮め、これまでの蟠りの解消に努めていくことになる。


 その同時刻だった。信長は安土城本丸御殿で、長続連の使者に会っていた。

天守閣は普請の最中だったが、本丸御殿は既に完成している。その本丸に通された使者は、目を丸くして驚く他なかった。全てが色艶やかで、至る所に金細工が施されている。この世の贅を全て集約したと言ってもいい。絢爛けんらん豪華という言葉そのものだった。

「名を申せ」

 信長の言葉に、僧侶姿のその使者は答えた。

「能登国・孝恩寺の住持、宗顓そうせんと申します」

「この書状には、貴殿が長続連殿のご子息とあるが、それはまことか」

「仰せの通りでございます。三男故に、幼き頃より寺に預けられております」

 後の長連龍つらたつである。

「一刻も早く援軍を乞うとあるが、それほど急を要するのか。七尾城は難攻不落の城であり、兵糧さえあれば、何年籠城しても、十分に持ち堪えると聞いておるが」

「御仏にお仕えする身の拙僧には、仔細は分かりかねます。しかしながら、城内では流行り病で亡くなる者が後を絶たず、織田信長公による援軍にすがり、一刻も早く開城したいというのが、父の意向と聞き及んでおります」

「もし儂が援軍を断ったらどうなる」

「それも分かりかねます。しかしながら、もしも七尾城が陥落すれば、上杉勢は一向宗徒と手を組んでおりますので、一挙に越前まで攻め上るのでは、との巷の噂でございます」

「坊主の割に案外詳しいではないか」

「畏れ入ります」

「この書状、確と読んだ。いずれ、謙信とは戦わねばならぬ。越前まで攻めて来るとあれば、是非もなきこと。むろん、援軍には応えよう。しかし、儂にも考えがある、暫し待て。それまで貴殿は、安土見物でもしながら、ゆるりと休むがよい」

「畏れながら申し上げます」

 宗顓は信長の怖さを知らない。

「何じゃ」

「我が父は一刻も早い援軍を必要としております。何卒、お聞き入れ頂きますようお願い申し上げます」

 普段であれば一喝するところの信長だったが、その日は余程機嫌が良かったとみえる。

「そなた、還俗したいのであろう」

 さすがに、宗顓は即答をためらった。その顔を見て信長は笑っていた。

「答えずともよい。その顔にちゃんと書いてある。いずれそなたには、我が書状を持参して、越前国の北庄に下向して貰う。それからは、城主の柴田権六勝家に従って、能登に向かうがよい。それまで安土に留め置く。よいな」

 急変した信長の有無をも言わせぬ鬼気迫る表情に、宗顓は圧倒されていた。

「承知仕りました」

 宗顓はその一言を口にするのがやっとだった。

「もうよい、下がれ」

 信長のその一言で、宗顓はすごすごと引き下がる他なかった。

「儂に物申すとは、なかなか胆の据わった奴とは思わぬか、五郎左」

 信長は傍らに坐していた、丹羽五郎左衛門尉長秀に話しかけた。この時の長秀は安土城の普請総奉行として、常に信長に近侍している。

「なかなかに面白き坊主と心得ます」

「畿内の平定が先じゃ。能登への援軍の前に、北から謙信に揺さぶりをかけてみるか」

「北からとは、出羽の伊達輝宗殿でしょうか」

「そうじゃ。ただ、輝宗も慎重な質ゆえに、単独では決して動こうとしない」

「とすると、越後国内の揚北衆のいずれかにも内通を誘うということですな」

「察しがよいな、五郎左。本庄繁長に声をかけるよう、輝宗には促すつもりじゃ」

「しかし、本庄殿と言えば、確か八年程前に謀反を起こし、謙信に帰参を許された人物ではありませぬか。果たして応じますでしょうか」

「それはやってみなければ分からぬ。しかし、一度背いた者は、往々にして二度目もあり得る。あとは伊達に任せる他あるまい」

「なるほど。それでは早速手配いたします」

「うむ、急げ」

 こうして十三日後に、伊達輝宗の密書と共に、信長の書状を受け取った本庄繁長だったが、これを一笑に付して、一切採り合うことはなかった。

 繁長は謙信に帰参を許されたその時から、自らの至らなさを思い知り、悔い改めて忠誠を誓っている。今後は何が起ころうとも、謙信と上杉家に尽くそうと心に決めていた。

 その二通の書状は、繁長の手によって、謙信の下に届けられることになり、信長の調略が結実することはなかった。


 天正五年七月、謙信は再び能登に向けて進軍した。

 本庄繁長からは、信長からの内通の誘いがあった報せを受け取っている。繁長が翻意せず、内通工作が失敗したことが分かった以上は、信長もいよいよ実力行使しかないはずだ。こうなると七尾城の、一日も早い攻略が急がれる。景綱に加えて豊守の急逝という、思いがけない不幸な出来事のために、能登出陣が遅れてしまったが、あとはこの遅れを、如何に挽回するかしかない。

 謙信は七尾城を南方に見上げる天神河原に本陣を敷き、早速軍議を催した。

「豊前守、これまでの戦況を言ってくれ」

「ははっ」

 謙信が帰国の間の総司令官は、河田長親が担っている。

「城の開城工作も、長続連殿らの強硬な反対によって、未だ実現してはおりませぬ。遊佐続光殿からの密偵の話では、長一族を根絶やしにするしかないと決めたようで、その下拵したごしらえをしているとのことでございます」

「その下拵えとは何か」

「長続連殿は実に用心深く、人を簡単には信じない質とのことです。重臣の中では唯一織田派ゆえに、これまでは、なかなか誅する機会すら見いだせずにおりましたが、温井景隆殿が翻意したように繕い、今は続連殿との関係修復に当たっている模様です」

「それで如何するというのだ」

「機会をみつけて、続連殿を温井屋敷に誘い出し、饗応を装い、遊佐殿はそこで一挙に片を付けるつもりでおります」

「わかった。騙し討ちは儂の好むところではないが、これ以上時をかけることは出来ぬ。止むを得まい。ところで城内の流行り病のほうは如何した。城下に火をつけたことで、思わぬ仕儀となってしまったが」

「一時はどうなることかと思いましたが、沈静化に向かっている模様です。惣構えから高屋敷に至る武家屋敷一帯を区分けし、病人を隔離することで、ようやく活路を見出したようです。未だ安心は出来ませぬが、暑さも収まるに連れて、やがては、収束の方向に向かうものと存じます」

「それを聞いて少し安堵した。それでは、これから我が策を言う」

 謙信のその一言に、参集した諸将が、一斉に顔を上げた。

「一度、総攻撃を仕掛ける。正確には仕掛けたふりをする」

「それは、どういうことでございますか」

 思わず、斎藤朝信が口を開いた。

「全軍で惣構えと蹴落川方面に討って出る。但し、遊佐続光には予め報せておく」

「しかし、その攻撃の加減が分かりませぬ」

 今度は山浦国清がいぶかしがった。

「よいか、我らの兵に犠牲を出してはならぬ。一向宗徒には後詰めに徹して貰う。この戦闘には参加しないよう、予め同意を取り付けておくことだ。我らの攻撃は強弓と火縄銃のみとする。惣構えには矢楯で防御しながら慎重に近づくが、敵の攻撃に晒されぬよう、一定の間合いは保つ。たとえ、城内に隙が出来たとしても、そこを突いてはならぬ。但し、惣構えの前線には最初、長続連が出て来るよう仕向ける。その時だけは本気で攻撃することを許す。次に出てくるのは温井景隆であろう。ここでは死者を出さぬよう加減する。あくまで本気の攻めと見せかけねばならぬ故に、惣構え攻めの総指揮は儂が取る。蹴落川への攻撃は豊前守に任せる」

「ははっ」

「同じように攻撃は銃と矢攻めのみじゃ。強弓は不要だ。城兵に届かぬ距離か、または当たらぬように、上に向かって放つのだ。銃は反対の山に向かって撃て。一人数発で良い。全将兵に徹底してくれ。よいな」

「承知」

「しかし、これは何のための総攻撃でございますか。全く意味をなさいと思われるのですが、こう思うのは我一人でしょうか」

 鰺坂長実が言うのも尤もな話だ。この策の意味が分かっているのは、長親以外に数人いるかいないかであろう。

「長続連を討つ機会をつくってやる」

「どういうことでしょうか」

 その声の主は直江与兵衛尉信綱だった。この戦いから、景綱の後継として謙信に従軍していた。

「遊佐続光には予め、攻撃の日付と刻限まで報せておく。続光には蹴落川の守備に着くよう指示する。それに三宅長盛も従うだろう。そうすると、惣構えの正面には、後から戦支度を終えた長続連の軍が守りにつくはずだ。その後詰めとして温井景隆がつけばどうなる」

「続連殿は大いに喜ぶことでしょう」

 聞きなれぬ声の方に目をやると、若武者が末席に坐している。上杉景勝に付き従い、軍議への参加を初めて許された樋口与六兼続だった。

「与六、続きを皆に説明してみよ」

 謙信は、この機会に兼続を試そうと思った。謙信の意を受けた兼続が、堂々と自らの説を披露し始める。

「長続連殿にとっては、これまで、遊佐続光殿の味方と思っていた、温井殿との距離が徐々に縮まりつつある中で、自分と同じ正面の惣構えを守備してくれるのですから、これほど嬉しいことはないでしょう。恐らく、温井景隆殿も遂に同心してくれたかと、勘違いするのではないでしょうか。そんな気持ちの変化の後に、温井殿が自分の屋敷に、続連殿を誘い出すのです」

「しかし、どうやって。用心深いと言われる続連が、他の屋敷に出向くかどうかは怪しいものだ」

 直江信綱を含め、軍議に参加している者のうち、未だ半数は半信半疑と思われた。

「どうでしょう。例えば、本来、序列としては下の温井殿が戦支度に遅れ、後詰めに回ったお詫びに饗応したい、と言えば悪い気はしないと思うのですが。これまで重臣の中では、孤立していた長続連殿ですので、それを良い機会と思い、完全に自分の味方に取り込もうと考えるのではありませんか。それがしが同じ立場であれば、そういたしますが」

「なるほど」

 皆が兼続の説明に感心して唸るなか、謙信が更に付け加えた。

「与六、もうよいぞ」

「ははっ」

「確かに慎重な続連じゃ。一人での誘いとなれば如何かと思うであろうが、嫡男の綱連や家来数名も可と言えば、先ず断る理由はない」

「御実城様、その時期はいつ頃になりましょうか」

 河田長親だった。

「流行り病がもう少し落ち着いた頃がよかろう。豊前守はその辺りを引き続き、遊佐殿と探ってくれ。儂の見立てでは、あとひと月といったところじゃ」

「畏まりました」

「それから、斎藤朝信と山浦国清の二人には、加賀国境の末森城の攻略を命ずる。兵三千と一部の一向宗徒を率いて明日出立せよ」

「承知」

「よいか、他の皆はよく聞いてくれ。引き続き警戒は怠るな。馬も駆けさせろ。調練も交替で行え。七尾城の次は恐らく、織田勢との戦になる。気を引き締めてかかれ」

「おう」

 全員の声が揃い陣幕の中に響き渡った。

 その晩、景勝と兼続は謙信の陣内に呼び出された。

 何故呼び出されたか分らぬ二人は、緊張した面持ちで勧められた胡床に腰掛けた。

 その二人に向かって、謙信は柔らかな物腰で話し始めた。

「何事かと思ったであろう。心配いたすな。これから、こうして二人に面と向かって話すこともそう多くあるものではない。そう、ふと思い立ち、呼び出したのだ」

 二人は少し安心した表情で謙信を正面から見つめている。

「喜平次は、今日の軍議の中で、与六が話したことは、最初から分かっていたのか」

「はい、分かっておりました」

「うむ。お主もそういう顔をしておったので一応聞いた迄じゃ。では、儂が皆の前で与六に話をさせたことを、どう思っておるか」

「皆に与六の存在そのものと、若輩ながらも才覚に秀でていることを、皆の前で示したかったのではありませぬか」

「その通りじゃが、もうひとつある。与六は分かるか」

「ひょっとして、御中城様の近臣としての我が存在を、重臣の皆さんに周知して貰いたいと、考えられたからでしょうか」

 喜平次景勝は、春日山城の二の丸を与えられ、この頃から御中城様と尊称されるようになっている。

「うむ、分かっておったか。今頃、それぞれの陣内では与六の噂で持ち切りのはずじゃ。喜平次景勝には、与六兼続という中々の切れ者が傍におる、とな。与六の名声が上がれば、それは自ずと喜平次の名声にも繋がる。これからも与六は遠慮するな。喜平次も与六を押さえ込んではならぬ。儂は一向に構わぬ。お主たちは幼い頃から一緒に育ってきた仲で、気心も互いに知れておろう。二人が力を合わせれば、怖いものは何もない。そうやって二人には、儂の後の越後を背負っていって欲しいのじゃ。よいな」

 二人は黙って頷いた。

「御実城様」

 言ったのは与六兼続だった。

「今のお言葉は大変嬉しくもあり、正直申し上げて荷の重さも感じます。それに、御実城様の遺言のように聞こえてしまい切なくもあります」

 その与六の正直さに、謙信の顔は思わず綻んでいた。

「そうか、遺言のように聞こえたか。それならばそれでよい。但し、大丈夫じゃ。まだまだ儂は死なぬ。いや、死ねぬ。これからまだやらねばならぬことがある」

「織田信長との決戦ですか、上洛ですか」

「それもある」

「小田原攻めですね」

 珍しく景勝が自ら口を開いた。

「うむ。とにかく、心配いたすな。ただ、今お主らに言ったことは、生涯決して忘れてはならぬ」

「はい、天地神明に誓って」

 景勝と兼続はお互いの目と目を合わせていた。

「話はこれだけじゃ。下がって休め」

 二人が去った陣幕の中にひとり残った謙信は、不思議な感覚に襲われていた。それは肩の荷を一つ下ろした時のような身軽さに似ている。謙信は暫くの間、その余韻に浸っていた。


 越前国・北庄は大混乱に陥っていた。

 天正五年(一五七七年)八月、織田信長の命により、織田方の主だった武将が、続々と集結してきたのだ。滝川一益、丹羽長秀。羽柴秀吉、佐々成政、前田利家といった錚々たる面々が、一箇所に集められたのは、二年前の長篠城を巡る設楽原の合戦以来である。

 それに美濃や若狭の国衆も加わり、よく言えば活気に溢れているのだが、悪く言えば、まさに「混乱ここに極まり」であった。

 これらを統率するはずの総大将・柴田勝家は、戦にかけては猛将として名高いが、大軍の差配となると素人同然である。これまでに経験が多くないから仕方ないのだが、それが許される立場でもない。

 各武将の陣地区分け、兵糧や秣、水の手配から厠まで、戦以前のこととして、次から次に発生する課題に対処しなければならない。その場しのぎが通用したのは最初だけで、軍勢が三万を超える時点では、勝家自身が、もうお手上げ状態だった。与力である前田利家と佐々成政も、勝家に振り回されている有り様である。

 その勝家の姿を見るに見かねて、手助けしようと勝家のもとを訪ねたのが、近江国・長浜城主である羽柴秀吉だった。

 そもそも、勝家は成り上がり者の秀吉が大嫌いである。木下藤吉郎からの改姓改名に当たっても、自分の苗字から一文字貰ったなどという、見え見えの機嫌取りに、正直虫唾が走る思いであった。おまけに勝家の性分は頑固一徹ときている。秀吉とは、犬猿の仲のように、そりが合うわけがない。

 一方の秀吉も、好き好んで勝家の手助けをしようと、申し出ているわけでは決してなかった。手助けをしないことには、自軍の将兵が困るから、仕方なく下手に出ようとしているに過ぎない。

「修理亮殿(勝家)、お手伝いいたすことがあれば、遠慮なく申しつけくだされ。諸事慣れぬことばかりで、大変でござろう。お察し申し上げる。それがしなどは、昔から戦の周りの細かいことばかりを仰せつかって参った故に、かように些末なことには、やり慣れており申す。さて、何から手をつけて参ろうか」

 こう言われた勝家は、最初から喧嘩腰である。

「藤吉郎、そなたに頼むことなど何もない。引っ込んでおれ。これくらいの差配、儂一人で十分じゃ」

「しかし、事実、我らは未だに陣地の割り当てすら、受けてはおりませぬ。これから、加賀や能登に攻め上るにも、この状態が続くようでは、肝心な戦の前に、将兵の士気が萎えてしまいまする。それは、決して我らだけではございませぬ。どうか、意地など張らずに、この藤吉郎に何なりとお命じくだされ」

 最後の一言が拙かった。勝家を完全に怒らしてしまった。

「誰が意地を張っていると申すか」

「失礼があったのであれば、どうかお許しくだされ。しかし、このままでは、我らの軍全体が立ち行かなくなりますぞ」

「今後に及んで儂を脅すと申すか」

「決して脅しではございませぬ。事実を申しております」

「もうよい、とにかく帰れ。そなたの助けなど必要ない」

 ここまで言われては、さすがの秀吉も限界だった。

「そこまで言われるのであれば、明日までに全ての割り当てをお願いいたす。それが無理であれば、残念ながら上様にお報せする他ござらぬ」

「何が上様じゃ。殿に媚びへつらい出世してきた、お主になど分かって堪るか。とにかく帰れ」

「いくら柴田殿とは申せ、我慢なりませぬ。それでは我ら羽柴軍は勝手にさせて頂きます故に、一切の文句はお受けいたしませぬ。どうかご承知おき願いたい」

「おう、勝手にいたせ」

 かくして、秀吉は北庄城から南の愛宕山に陣取り、自軍の将兵の英気を、養うことのみに専念した。まさか、六年後、この山に柴田攻めの本陣として、再び登ることになるなど、この時の秀吉は夢にも思っていないことだった。

 それから数日の後、勝家から軍議の招集がなされた。天正五年も早や、九月を迎えようとしている。

 完成したばかりの北庄城本丸には、織田家の名だたる武将が、一堂に会していた。

「それでは軍議を始める。むろん、主題は加賀と能登攻めをどうするかだ。先ず、皆の忌憚ない意見を聞こうと思う。先ずは、今の戦況を、前田又左衛門から説明してもらう」

 勝家の話に代わって、前田利家が話始めた。利家は、越前一向宗との戦いから、勝家の与力として従軍している。

「先年の上杉謙信殿と石山本願寺・蓮如殿の和睦以来、一部を除き能登と加賀国は、ほぼ謙信殿の勢力下と言えます。しかし、その謙信殿に属さない代表格が、能登国の七尾城であり、此度はその重臣である長続連殿から、援軍を求められております。上杉勢の七尾城攻囲は既に、八か月余りに及んでおり、もしも、七尾城が陥落するようなことになれば、この越前も自ずと危うくなります。それを危惧した上様が皆さまに命じられ、こうして参陣頂いた次第です」

「しかし、七尾城と言えば、難攻不落で知られる天然の要害。水源も確保しており、兵糧さえ確保しておれば、数年は持ち堪える城というではないか。如何に軍神と恐れられる謙信殿でも、そう容易くは、落とすことなど出来ないであろう」 

 こう言ったのは滝川一益だった。

「それがそうでもないようです。城下を焼かれ、一部の民が城内に逃れたために、糞尿処理が追いつかず、流行り病のために、城内では相当数が亡くなっているようなのです。加えて、家臣団は一枚岩にあらず、現在は謙信殿への降伏賛成派が多数を占めており、一刻の猶予もない状況となっております」

「それは拙い。急いで出陣しなければならぬ」

「お待ちください」

 滝川一益の出陣賛同に対して、水を差したのは羽柴秀吉だった。

「流行り病は収まったのでしょうか」

「夏も去り、ようやく収まりつつあるとのことです」

 どうやら、勝家よりも、与力の利家が詳しく情勢を把握しているらしい。

「しかし、未だ完全に収まっていないとすれば、我らの将兵とて危なくありませんか」

「藤吉郎、臆病風にでも吹かれたか」

 勝家があざけるような表情を秀吉に向けた。

「いいえ、これはあくまで、これからあり得ることを述べた迄です。柴田様は最初にご自分でおっしゃったことをお忘れか。間違いなく、皆に忌憚のない意見を聞く、とおっしゃいました。その忌憚ない話を、自ら遮るような言動は、切に慎んで頂きたい」

 ぷいと横を向いた勝家に、助け船を出したのは前田利家だった。

「しかし、今は病人との区画を設け、臨時の厠を設けるなど、失敗の教訓を踏まえて工夫をした結果、次第にその効果が出ている模様です。涼しさが増すにつれて、やがては収まるものと存じます」

「では、その流行り病を、我らがあまり気にする必要はないと言うのですな」

「左様、心得ます」

「わかりました」

「ところで、七尾城内は親・上杉派が主流とのこと。内紛の可能性はないのだろうか」

 秀吉に替わって言い出したのは丹羽長秀である。

「それは何とも言えませんが、今のところは、その懸念はないと思われます」

「その根拠は」

 利家と長秀の応酬が続く。

「温井景隆殿という重臣がおりまして、依然は親・上杉派だったようなのですが、この頃は一定の距離を置いて、徐々に長続連殿の考えに近づいているようなのです。力の均衡が崩れ、必ずしも親・上杉派が有利とは言えぬ以上、内紛の可能性は低いものと考えます」

「なるほど」

「果たしてそうでしょうか」

 長秀の納得とは反対に、またも反論したのは秀吉だった。

「七尾城の主は、かつては京の三管領を務めた御家の畠山殿。その主君を追放し、また毒殺の噂まである家臣団ですぞ。そのように一概に信用して良いものでしょうか」

「藤吉郎、そなたは何が言いたい」

 またも勝家は秀吉に対して、挑戦的な言葉を発した。

「それがしは一軍の将たる者、例えそれが極めて僅かであっても、あらゆる可能性を念頭に置きながら、判断することが肝要ということを、申し上げたいだけでござる」

「確かに筑前守殿の言う通りでござった。それがしの軽率な物言いはお詫びする」

 またも間に入ったのは前田利家だった。

「いいや、又左衛門殿が謝る必要はござらぬ。あくまでも、ここは軍議の場。皆で考えを出し合うことこそが一番必要であって、どなたかのように、一々目くじらを立てられては、進む話も進まぬ」

「おい、藤吉郎」

 思わず立ち上がった勝家を、佐々成政と利家が宥めた。

「ところで又左殿、お主は七尾城の情勢に詳しいようだが、何故そのように知っておられる」

 勝家と秀吉の対立により、険悪となった場を元に戻そうと、皆は必至である。その先頭を切って、滝川一益が利家に問い質した。それは実のところ一番、皆が不思議に思っていたことでもあった。

「安土の上様が手配した間者からの報せでございますよ。長続連殿の使者が救援を求められて以降、上様は七尾城内に、数名の間者を密かに送り込んでいるのです。能登の城外には他に数名、加賀にも既に二十人ほど潜ませております」

「そういうことか」

 滝川一益は、蓄えた顎鬚に手をやりながら、利家の方を見てしきりに感心している。それを尻目に秀吉は尚も続けた。

「皆に迷惑を掛けぬよう、ここからは又左衛門殿か内蔵助殿に伺いたい」

 内蔵助とは佐々成政のことである。成政もこの時、勝家の与力を命じられていた。

「何なりとお答えいたそう」

「では先ず、我らが能登に向けて進軍中に、万に一つ、七尾城が陥落の憂き目に遭っていた場合、何とするおつもりか」

「それは加賀国辺りで落城を知った場合を、想定してのことでしょうか」

 佐々成政が訊ねた。

「左様」

「そうであれば、上杉軍の動向を確認のうえ、どうするか適宜判断する他ないと存ずる。もしもそうなった場合は、城内の間者からの急報が必ず入るはず。それから判断しても、決して遅くはありませぬ」

「なるほど、しかし越前を一歩出れば、あとは一向宗徒がどこで待ち伏せしているか分らぬ国に、足を踏み入れることになります。如何なる罠が待ち構えているかも知れず、慎重に進軍する必要があります」

「それは斥候を増やして確認しながら進軍すれば、済む話かと存ずるが」

 今度は前田利家が答えた。

「一向宗徒は民の間に紛れ込んでおります。いや普段は民なのです。いくら斥候を増やしても、どれだけ意味があるか、分かったものではありませぬ。皆さんは長島一向一揆での苦戦をお忘れではあるまい。柴田殿も滝川殿も、その時何があったか、何が行われたのか、全てご存知のはずです。同じことを繰り返してもよいと、お考えなのでしょうか」

 秀吉の懸念は的を射たものだった。信長と長島一向宗徒との戦いは熾烈を極め、織田勢も信長の弟をはじめ、多くの将兵を犠牲にしている。その仕返しと見せしめのためであろう、信長は投降した一向宗徒二万人を焼き殺すという、残忍極まりない行動に出ていた。秀吉はそのような悲劇が二度とあってはならないと思っていた。

 この秀吉の言葉には、さすがの柴田勝家も黙り込むしかない。勝家も滝川一益も、信長の命とは言え、宗徒を焼き殺した張本人なのだ。

 秀吉の主張は更に続く。

「そのうえ、加賀国には金沢御坊が控えております。御坊とは名ばかりの、石山本願寺同様の巨大な城郭ですぞ。もし、我らが上杉軍と対峙中に背後から襲われでもしたら、どうなるとお思いですか。上杉勢と宗徒の挟撃に遭い、大敗は免れないでしょう」

「筑前守殿は、七尾城を見捨てろということでござるか」

 いかにも、一本気の前田利家らしい発言だ。

「見捨てろとは言ってはおらぬ。ただ、むやみに進軍することが、如何に危険かを説いておるつもりじゃ」

「しかし、危険ばかりを気にしていては、我らの務めが果たせぬと存ずるが如何か」

「危険を極力減らしながら、慎重に進めても良いのでは申しておる。ではあらためて、又左衛門殿と内蔵助殿に訊ねよう。加賀や能登の実査はどこまでお済であろうか」

「未だ大聖寺川以南でござる」

「大聖寺川までとは加賀国の入り口、南部の僅かな地域でござろう。我らにとって、他は未開の地ですぞ。地の利は敵が握っているのに、いくら大軍を進めても、これでは無謀過ぎます」

「藤吉郎、そなたは上様の命に従えぬと申すか」

 遂に堪忍袋の緒が切れた柴田勝家が、顔を赤らめて秀吉に食って掛かった。

「そうは申しておりませぬ」

「しかし、先ほどから黙って聞いておったが、お主は加賀能登への進軍を行わないための、方便を繰り返しているとしか思えぬ」

「軍を進めるにしては、事前準備と確認があまりに杜撰だと申しております」

「何だと。我等とて、上様の命をひと月前に受けたばかりじゃ。左様な時間などないわ」

「しかし失礼ながら、柴田殿には越前国を上様から頂戴してから、二年という長い月日がございました。よもや、この立派な北庄の城の普請ばかりに、気を取られていたわけではありますまい」

 ここまで来ると、もう二人の言い争いを止める者は誰もいない。さすがの前田利家も、お手上げだった。

「知ったような口を叩くな。お主のような臆病者に言われる筋合いではない」

「臆病者で結構でござる。それによって、上様からお預かりしている大切な数千と言う将兵の命が、無駄に失われないのであれば、喜んで臆病者の誹りをお受けしましょう。果たして皆様は、どちらが上様の命に従っているとお思いか」

 秀吉が訊いても答える者などいるわけがない。二人のある意味、子供じみた言い争いに、付き合うつもりはない。

「藤吉郎、左様な問いかけなど無駄じゃ。そもそも、この戦の総大将は儂じゃ。それに従わぬということは、すなわち軍令違反ということになる。そのうえ、お主は武士にとって、一番大事な気持ちが欠けておる。それは何か分かるか」

「分かりませぬ。分かろうとも思いませぬ」

「そうであった、お主は元々武士ではなかったな。であれば仕方あるまい。それは義の心じゃ。弱き者が助けを求めているのを、知らぬふりをすることこそが不義であり、武士としてあるまじき行為なのじゃ」

「例え不義であっても、正しい戦の仕方はあるはずです」

「もうよい。お主と話をしていても一向に前には進まぬ。ならば申してみよ。お主の正しい戦とはどうすれば良いと思っておる」

 勝家は腸が煮えくり返りそうな怒りを押さえ込み、これが秀吉に与える最後の機会だと自分に言い聞かせた。

「先ずは加賀国南部より、じっくりと我らの支配を固めながら、北上して参るのが上策と判断します。柴田殿以外は、この土地に慣れておりませぬ。これからは寒さとの勝負にもなります。我らは北国の寒さには、不慣れでございます故に、これからの戦にも支障を来すかもしれませぬ。一向宗徒の動きも牽制しながら、徐々に攻め込むべきと存じます」

 秀吉の話を聴いた勝家は一笑に付した。

「そんなことをやっていては、来年になっても能登国など進むことは出来ぬ。ここは多少の危険は覚悟のうえで、北上しようと思うが如何かな」

 勝家は他の皆の顔を伺うが、全員が下の方か天井を見上たままで頷く者はいない。全員は勝家と秀吉の策の間で揺れていた。ある意味では双方に理がある。どちらが正しいとは、一概には言えない状況だった。

 そんな時に秀吉の叫んだ一言が拙かった。

「皆の衆、ここで柴田殿に従い、例え戦に勝ったとしても、柴田殿の手柄にしかなりませぬぞ。恐らく我らには、何の褒美もありませぬ」

「筑前、お主は褒美欲しさに参っているのか」

 滝川一益を怒らしてしまった。褒美が欲しいのは誰もが同じだ。しかし、それだけでもない。武士のとしての矜持がある。それが頭から抜けた秀吉の失言だった。もともと武士ではない秀吉だが、織田軍団を率いる部将の一人としては、決して許される一言ではなかった。

「儂は柴田殿と行動を供にする」

 最初に言ったのは丹羽長秀だった。

 その後からは次々と丹羽長秀に追随するだけとなった。結局、秀吉の策に乗ろうとする者は誰一人としていなかった。

「分かりました」

 秀吉はひとり立ち上がった。

「そこまで皆の衆が堅物とは知らず、今まで主張して参ったそれがしが愚かであった。但し、それがしは、柴田殿に従軍することは出来ぬ。いや、例え従軍したとしても、どこかで諍いを起こすに違いない」

「藤吉郎、待て。早まるな」

昔の名で気軽に呼べるのは、かつて長屋暮らしを共にした前田利家である。

一度、利家の顔に眼を向けた秀吉は、軽く笑みを浮かべると、首を横に振って告げた。

「羽柴筑前守秀吉、今この時をもって、この戦から手を引かせて頂く。我が軍勢は直ちに退陣し長浜に帰参する旨、ここにお届けいたす」

 その言葉通り、秀吉はこの日のうちに、越前国・北庄の陣を引き払い、居城の長浜へと帰ってしまった。


  *七尾落城

 

 東の空がうっすらと明るくなってきた。

 天正五年(一五七七年)九月八日払暁を迎えている。

 謙信の下に遊佐続光からの報せが届いたのは三日前である。疫病がほぼ沈静化しつつあるとのことだった。朝晩はかなり冷える日が多い。この分ならば、流行り病も近日中に完全収束するに違いない。

 織田勢の動きも、気になりはじめた。越前国・北庄には、既に三万を超える大軍が集結しているらしい。北上して来るのは時間の問題かもしれない。

 羽柴秀吉なる部将が、率いてきた全軍と共に離脱していた。何があったかは分かっていない。戦術の決定に当たり、内部で対立があったのかもしれない。内輪揉めであれば、こちらにとっては好都合だ。

 いずれにせよ、七尾城攻略が急がれた。

 遊佐続光には、総攻撃の日を三日後の今朝と伝えてある。城内重臣の中で知らないのは、長続連だけのはずだ。遊佐勢と三宅勢は、蹴落川に直行する手筈になっている。惣構えには故意に遅参した温井景隆が、後詰めに入れば第一段階は成功となる。 後はこの総攻撃が仕組まれたものと気づかれずに、やり遂げなければならない。

 未だ夜が明けぬ寅の刻(午前四時)、密かに惣構えに向けて移動を開始し、全軍の配置は既に完了している。城方の見張りは遊佐と三宅の家来が担っているから、気づかぬふりをしてくれている。彼らの役割は、攻撃開始と同時に城内に触れ回ることだ。

 一斉に放った銃が轟音とともに火を噴いた。

 惣構えへの攻撃の合図だ。長一族を含む一部の城内将兵は、今頃慌てて戦支度に追われているのだろう。

 遊佐勢と三宅勢は、ゆっくり蹴落川に移動を開始した頃か。

 先鋒の指揮は喜平次景勝に任せた。この戦仕掛けの意図は十分に分かっている。景勝の補佐役として、傍らには上田衆の栗林政頼と樋口兼続も控えている。万が一にも手違いはあるまい。

 長続連が率いる軍勢に対しては、本気の攻撃を許可している。温井勢との前線交替以降の攻撃では、決して死者を出してならぬことも、予め将兵一人ひとりに徹底している。

 銃声を聞く限り、惣構えの前線に出てきているのは、長続連勢に間違いなかった。苛烈な攻撃が続いている。

 時折、一斉にあげる鬨の声も、あたかも本気で総攻撃を仕掛けているかのような、演出に一役買っている。後方に控え、惣構えへの攻撃の様子を伺う謙信の表情には、自ずと余裕の笑みすら浮かんでいた。

 一方、蹴落川にも河田長親率いる三千の兵が陣取っている。むろん、渡河するつもりなど毛頭ない。遊佐続光勢と三宅長盛勢が到着次第、火縄銃の発砲を合図に、お互いに届かぬ間合いから、矢を撃ち合う手筈になっている。

 続光と長盛が蹴落川の対岸に着いたのは、卯の刻(午前六時)であった。ほぼ予定通りの着到だ。

 続光は蹴落川に向かう途中、長続連の屋敷に使者を走らせている。その使者は、甲冑を身に着けながら、慌てて出てきた続連に向かって告げた。

「以前、物見から受けた報せによれば、上杉勢は蹴落川の周辺を探り、水位を測っていたとのこと。よって、いち早く支度を終えた遊佐勢と三宅勢は、渡河の阻止に向かうので、正面の惣構えの指揮は長殿にお任せいたす、とのことでございます」

 これで怪しまれる材料のひとつは消したことになる。

 惣構えの方角から聞こえる銃声を耳にしながら、続光と長盛が並んで対岸を見渡した。

「ご覧なされ。あの旗は謙信殿のものではないか。御自ら、蹴落川に出馬ではあるまいか」

 長盛が紺地の中に、白抜きの日の丸旗を見つけ、慌てて続光に話かけた。

「いや、謙信殿であれば、毘の旗も必ず傍にある。あれは謙信殿から拝領されたものであろう。旗の主は河田豊前守長親殿じゃ」

「なかなかの智将と、誉れ高い河田殿であったか」

 対岸から大音声で叫ぶ声が聞こえた。

「放て」

 反対の山の斜面に向けた銃口が火を噴いた。その声を追いかけるように矢が目の前にバラバラと降ってきた。その矢は五間ほど前に全て落下し、味方への損害は確認されない。

 謙信からの内報通りだった。指令は将兵の全員に浸透しているようだ。今の攻撃で続光の不安は払拭された。例え、謙信の命とはいえ、いつ何が起こるか分からないのが戦だ。万が一に備えて、戦支度は万全にして蹴落川近くまで降りてきたが、幸いにして、その支度は無駄になったようだ。用意した矢楯も、後方に引っ込めた。

 遊佐続光は余裕の表情で指令した。

「我が方も負けるな。矢を射よ。但し、上杉勢の手前に落ちるよう上手く加減するのじゃ。決して本気で狙ってはいかん」

 三宅長盛も負けていない。

「よいか、我らが解放される日は近い。今日はそのための儀式と心得よ。細心の注意を払って射かけるのじゃ。もしも、上杉勢に怪我をさせるものがいたら、即刻その者の首を刎ねる。心して懸かれ」

 こうして数回、両軍による矢の撃ち合いが繰り返されたが、死傷者を生むことはなかった。

 やがて、対岸の将が蹴落川近くまで歩み出て、軍旗を振る様子が確認出来た。これが予め報らされている攻撃終了の合図だった。

 予め決めていた十人の徒士に傷当ての白布を巻かせて、怪我を偽装した。

 直ちに引き上げを命じようと、上杉勢の方を見ると、対岸に届いた矢を回収している様子が確認された。

「さすがは天下に名の轟く上杉軍よ。我が方から放った矢を回収し、補充するとは天晴れな心掛け。よし、我が軍も見習い矢を回収せよ」

 遊佐続光が直ちに指令した。すると、三宅長盛が何かを思いついたようで駆け寄ってきた。

「我らの戦闘が嘘と知られては拙い。矢楯を一列に並べて、上杉方の矢を射たうえで持ち帰りましょう」

 長続連に対する目くらましでしかないが、なかなかの妙案だ。直ちに矢を回収し、矢楯に向けて射ると、確かになかなかの激戦を偽装出来た。これで怪しまれる材料の二つ目は解消出来るだろう。

「惣構えでは、温井殿が上手く立ち回っていれば良いが」 

 北の方角を見ながら長盛が、少し心配そうに呟いた。

「景隆殿のことだ、きっと上手に立ち回っているはずじゃ。この役回りは儂や貴殿では、決して果たせぬ。成功を信じて待つといたそう」

 続光はこう言い返した。それは、自らに言い聞かせる言葉でもあった。

 その惣構えでは、長続連が上杉勢の猛攻に耐え、味方の将兵を叱咤激励していた。

「慌てるな。敵は近寄ってこぬ。この惣構えに近寄れば、上から追い落とされることくらい分かっているから心配ない。矢楯に隠れて耐え忍べ」

 そう言った瞬間だった。続連の耳元を一発の弾丸がかすめた。

「御家老様、ここはあまりに危険でございますので、どうか後方にお控えください」

 家来が慌てて、続連を後方に退けた。続連は未だに冷や汗が止まらない。

 ここまでよく守ってきたつもりだ。矢玉に当たって亡くなった家来は五人に留まっている。怪我人も掴んでいる範囲で、八人程度だ。火矢が飛んでくることも予想し、大量の水桶を用意していたことも、延焼の被害を最小限に食い止めてこられた要因だ。

 そこに後詰めを務めていた温井景隆が、続連の姿をみつけて駆け寄って来た。

「長殿、遅参となり申し訳ござらぬ。支度に手間取り、長殿に先鋒をお任せする次第となってしまいした。怪我人の手当もございましょう。ここからは我らに前線をお任せくだされ」

「なんの、貴殿の屋敷は、ここまで来るのに手間取ることは承知しておる。自ずと我らよりも遅くなるは必定故に、左様な気後れは無用でござる。それよりも、こうして惣構えの防御に馳せ参じて下されたことが、何よりも嬉しき限り」

「城を守り抜きたい気持ちは皆同じでござる。ここに参ったのは当然のことで、格別のことをしたわけではござらぬ」

「されど、貴殿も遊佐殿と行動を伴にして、蹴落川に向かうのでは、と案じておりました故に、そのように邪推した自分を今は恥じ入るばかり」

「そんなことよりも、敵の攻撃は続いております故に、これ以上死傷者が増える前に、さあ急いで交替いたしましょう」

「されば、此度は遠慮なく、その情けに縋らせて貰おう」

「そうしてくだされ。我らはいつでも前進する準備は出来ております」

 数分後、長続連率いる守備隊と、温井景隆率いる軍勢が入れ替わり、惣構えの最前線に、温井家の家紋を表した軍旗が翻った。


 それから二日後、謙信の下に遊佐続光からの密書が届いた。

その受け渡しは、幻の者一党の頭である幻次が担っている。急峻な山腹も難なく上り下りを繰り返していた。最初は戸惑いを見せた続光も、今では幻次をすっかり信頼しているらしい。

 総攻撃による敵の死傷者は二十人程度で、その大半が長続連の家来衆だった。温井景隆の家来も数人矢傷を負った、との報せだった。

 その矢傷は続連率いる軍勢との入れ替えの時に負ったものであり、仕方のない結果と言える。むしろ、僅かながらも温井勢にも怪我人が出たことで、攻撃の信憑性が増すことに繋がっていた。

 いよいよ、温井景隆が動くらしい。長続連を屋敷に招き、饗応する約束を取り付けることが出来れば、後は実力行使あるのみだ。

 ただ、用心深く慎重な性格の続連が、どう動くかが未知数だった。景隆の感触では、相当二人の距離は縮まっている、とのことだ。 

 密書を読んでいる間も幻次には、その場に止まらせている。これから大きな役目を与えなければならなかった。

 謙信は読み終えた続光からの密書は全て燃やしている。その時も密書が燃える炎を見つめながら、幻次に対して口を開いた。

「幻次、忙しくなるぞ」

「はい」

「儂が何を命じようとしているか分かるな」

「おおよそは」

「では、言ってみろ」

「あくまで予測であり、それを口にすることはありません。我らは主に命じられたことを、ただ完遂するのみ。亡き先代からもそう、きつく教えられて参りました」

「そうか。そう言えば、九月十日、今日が親父の命日であったな。亡くなってもう何年になる」

「十六年になります」

 ちょうど、この日が幻蔵の十七回忌に当たる。

「八幡原での激闘から、もうそんなに経つか。その時戦った信玄も、今はこの世におらぬ。この世の移り変わりも早いものだ」

「はい」

「ではこれから、お主、そして今、能登と加賀まで率いている幻の者に命ずることは、その八幡原の戦い以来の厳しい任務となる。心して臨んでくれ」

「承知いしました」

「先ず、お主なら以前から気づいておろうが、織田の間者が城内の長屋敷とその周辺に紛れこんでいる。何人じゃ」

「織田殿が差し向けた者かは存じませぬが、屋敷内に二人、その周囲に怪しきものが三人でございます」

「やはりそうか。遊佐続光から、見慣れぬ怪しい者が数人、長屋敷を出入りしているという報せがあったが真実らしいな」

「他にいないか、今探索中で、確定次第お報せするつもりでした」

「それはよい。責めているのではない、安心しろ。先ず、その人数とその者を特定しろ。一両日中だ。よいな」

「はい」

「近日中に城内で、長一族とその一族一党を、全員抹殺する騒動が勃発する。その騒動に合わせて、間者全てをお主たちの手で全員仕留めよ。決して討ち漏らしてはならぬ」

「予め始末することも可能ですが」

「それは駄目だ。長続連は極めて用心深く慎重だという。異変を感じ取られたら拙い。あくまでも同時にやれ」

「承知いたしました。ところでその騒動とは、どのようなものでございますか」

「温井景隆殿が、長続連を饗応のために屋敷に招待する。そこで先ずは続連を始末した後、遊佐・三宅・温井家の全員で長屋敷に踏み込む。汚い手に染めることになるが、これが一番犠牲の少ない方法だ。それに、そろそろ織田勢が動き始めるだろう。いつまでも七尾城ひとつに、手を焼くわけにはいかぬ」

「これで事情が把握出来ました。実は昨夜、織田殿の間者が城外と連絡を取っている、抜け道を捕捉しました」

「よくやった。そこを押さえれば、討ち漏らすことは先ずない。城内の異変を、決して織田方に感づかれてはならぬ」

「ご安心ください。その時は我が手の者数人を、抜け道付近に配置して、全員始末いたします」

「任せた。ただ、此度はこれで終わりではない」

「能登と加賀の織田方間者の殲滅ですな」

「そうだ、どれ位の数が入り込んでおる」

「未だ不確定ながら、能登の城外に五人、加賀では二十人ほどが暗躍していると思われます」

「信長の奴、本腰を入れて来たな。幻の者は何人いる」

「我が手の者で今使えるのは十五人ですが、越中より五人を呼び寄せ、既に加賀での探索を開始しております」

「幻次もその人数に入っているのか」

「はい」

「厳しい戦いになるぞ」

「元より承知のうえでございます。今こそ、これまで御実城様から頂戴して参った御恩に報いる時、と皆が心得ております。どうぞご安心ください。その二十人は我が一党の中でも、手練れ揃い。必ずや、ご期待に沿う成果を、御実城様にお見せいたします」

「なかなかの自信ではないか」

「この時のために、皆が鍛錬を積み重ねて参りました」

「そうか。これから七尾城陥落の後は、幻の者には先行して動いて貰わねばならぬ。今から話すことを心して聴いてくれ」

「何なりと」

「我らは能登国で未だ敵対する末盛城を落として後に、そのまま軍を加賀国に進める。もし、織田勢が北上してきた場合は、直ちに捕捉して叩き潰す。そのためには、我らの動きが織田方に知られぬよう、予め敵の目を欺く必要がある。我らが加賀に入る前に、織田方の間者全てを葬ってくれ。お主たち幻の者一党の働きがなければ、この目論見は難しい。先ずは七尾城内を含む能登の十人、そして次が加賀の二十人じゃ。もしも、能登国内の十人を討ち漏らすことがあれば、必ず加賀の間者に伝わってしまう。ことは慎重を要する。加賀の間者二十人とて、何人かは手練れがいることを覚悟してくれ」

「もとよりそのつもりでございます」

「策はあるのか」

「はい。城内の任務が完了した後は、敵の抜け道を辿ります。その先には必ず敵の間者が潜んでいるはずです。その者を捕らえて、次の間者の居場所を吐かせます」

「なるほど。それを次々に上手くやっていけば、少なくとも能登の間者は全て潰せるという算段になる」

「はい、しかし加賀ではこの手は使えないと踏んでおります。それで越中の五人には、加賀に先行して潜らせました」

「何のために」

「敵の潜伏場所を特定させるためです」

「そこを襲撃して一網打尽か」

「はい」

「そう上手くいくか。敵は伏兵を潜ませているかもしれぬ」

「むろん、想定の中に」

 謙信の脳裏には、過去の苦い経験が浮かんでいた。暫くの沈黙の後、一言ぽつりと呟いた。

「儂は信州・八幡原でお主の親父を、みすみす死なせてしまった。あの時、もっとやり方がなかったかと、今になっても考えてしまうことがある。あの時儂が、もっと手下を北信濃に増やして、配置するよう言っていれば、あるいは死なずに済んだかもしれぬ」

「いいえ、先代は幸せだったと思います。御実城様から頂戴した役目を全うして逝ったのですから、何の後悔もなかったと思います。左様な考えは今後一切お捨てください」

「いや、捨てられぬ。忘れようと思っても忘れられぬ。だから、もう同じ思いはしたくない。ここで約束しろ、必ず生きて戻ることを」

「承知しました、と言いたいところですが、こればかりはお約束出来ませぬ。何があるか分らないのが、我ら忍びの宿命でございます」

「それは分かったうえで言っておる」

「御実城様の今のお気持ちだけで十分でございます。お役目を見事果たし、あらためてこうしてお目にかかれますよう、幻の者一党の頭として、務めを果たして参ります」

「頼んだぞ」

「ははっ」

 やがて、幻次の姿は天神河原の闇の中に吸い込まれていった。謙信は暫くの間、その闇をただ静かに見つめていた。


「長殿、お待ちくだされ。折り入って、お話がございます」

 七尾城本丸主殿の背後から、続連に声をかけたのは温井景隆である。天正五年九月十一日、重臣たちが、それぞれの屋敷に戻ろうとしたその時だった。つい先ほどまで、先日の上杉軍からの攻撃による損害状況を持ち寄り、今後の防備を話しあっていたところだ。

「温井殿か。何かございましたかな」

「いや、三日前の戦の御礼をあらためて申し上げたくて、お止めだていたしました」

「左様な御礼など無用でござる。戦場でも申し上げた通り、御礼を言いたのはこちらの方。お気になさることではござらぬ」

「いいえ、長殿のご家来衆の中には、亡くなられた方も多数いると先ほど伺い、やはりここはお悔やみを含めて、あらためて申し上げるべきと存じました。当家は、先鋒に就いて暫くの後、上杉勢が攻撃を諦めて撤退したお陰で、数人の怪我で済んでおります。正式に御礼を申し上げねば、気が済みませぬ」

「それは時の運というもの。仕方ござらぬ。それに貴殿が交替して下されたお陰で、怪我の措置を早く行い、命を取り止めた者もおります。こちらこそ、感謝している次第」

「そうおっしゃって頂けると、少しは気が楽になります。如何でございましょう。かような場所で立ち話というのも気が退けます。一度、御礼を兼ねて、当屋敷にお越し願いたいのですが、如何でございましょう。互いに胸襟きょうきんを開いて、一献交わしながら、今後について話し合うというのは」

「それは遠慮いたす。左様なことが、遊佐殿に知られれば、貴殿のお立場が悪くなるのではござらぬか」

「それは心配ご無用というもの。あくまでも細やかな内密の催しです。他家に漏れ伝わることはございませぬ。それに近頃、それがしには、既にお察しかもしれませぬが、遊佐殿よりも、長殿のお考えが正しいと思えて参りました。万が一、知られたとしても、差し支えなどあろうはずがございませぬ。」

「敵の夜襲に対する警戒は如何なさるおつもりか」

「それは遊佐殿か三宅殿が警護番の日にすれば問題ござらぬ。それに、未だ流行り病を警戒して、敵が夜襲を仕掛けて来ることは先ずないと思われます」

「なるほど。それでも、貴殿の屋敷で馳走になるというのは気が引ける。どうであろう、我が屋敷でよければいつでも宜しいが」

「それはなりませぬ。亡くなられたご遺族も屋敷内に顔を出すでしょうし、その方たちの手前、今は自粛なさるべきです。それに、最初に申し上げた通り、これは先日の戦の御礼でもあるのです。温井家として長殿をおもてなしするべきと、屋敷の皆が申しております。此度はどうか、この景隆の顔を立てては頂けまいか。もちろん、次の機会は喜んで、長殿のお屋敷にお伺いいたしましょう」

「しかし、我が家来衆が何というか」

「なるほど。確かにこれまでの当家と貴殿の関係は、疎遠でございました。これには何か裏があるのではないかと、お疑いの方もいることでしょう。しからば、こういうことでは如何でしょうか。綱連殿はじめ数人のご家来衆を、従えてお越し頂くというのは。当家は一向に構いませぬが」

「そこまでおっしゃるのであれば、断る理由はなさそうですな。されば喜んでお伺いするといたしましょう」

かたじけない。ただ、そのうえで、ひとつお願いがございます」

「はて、それは何かな」

「一献交わすのは、続連殿と二人だけの部屋でお願いしたいのです。お互いに重臣として、他に聞かれては拙い極秘の話もございます。もちろん、お連れの皆さまにも、別室で饗応の宴を用意させて頂きますので、ご安心ください」

「確かに、それは貴殿の言う通りじゃ。儂もそれには全く異論がない」

「有難う存じます。それでは四日後の九月十五日、酉の刻(午後六時)に当家屋敷でお待ち申し上げます」

「承知いたした。それではこれにて御免」

 温井景隆は礼を尽くして頭を垂れた。頭を上げた時には、もう続連の姿はなかった。

 その晩、長屋敷では、続連が嫡男の綱連に、温井屋敷に招かれたことの仔細を話し、対応を相談していた。

「父上、本当に大丈夫なのでしょうか。何かの罠ではありませんか」

「それは儂も最初は疑った」

「それはそうでしょう。これまで、温井殿は遊佐殿の言うことに従ってきた方。それが数か月前から急に父上に接近してきた。何かあると疑うのが当然です」

「しかし、儂もどういう訳での心変わりなのか、一度話を聞いておる。それは納得出来る自然な考えであったわ」

「どういうことですか。お聞かせください」

「理由は単純明快。要するに、これからの時流は、織田信長殿であり上杉謙信ではない、と見切ったということじゃ」

「なるほど、温井殿も勝ち馬に乗りたいということですか。それは分かり易い」

「そうであろう」

「ただ一つ、解せないことがあります」

「それは何じゃ」

「先日の上杉軍の攻撃です。我らが先鋒を務めた時は、矢玉の攻撃は容赦ないものでした。それが温井殿に替わった途端、攻撃が止んだではありませぬか」

「途端ではあるまい。四半時は続いておろう」

「それに蹴落川に向かった遊佐・三宅両軍の矢楯には相当矢が刺さっていた割に、怪我人しか出ていないと言います。我が家人が申すには、本当は怪我人すらいなかったのでは、と言い出す者までおります」

「ということは、この前の攻撃は何か他に意図があったということか」

「それは分かりませぬ。ただ用心するに越したことはありません」

「分かった。それでは十五日はお主も連れて行く。それから腕の立つ奴も三人選べ。五人で参ろう」

「そんなに大勢で押しかけても良いのでしょうか」

「それは心配要らぬ。先方から複数人でも構わないと言ってきておる。但し、饗応を受ける部屋は、儂とは異なり別室のはずじゃ。お主にも聞かせられない内密の話もあるからな。なに、宴が始まれば何事もなかったと安心するに違いない。儂からは温井殿に五人で参ると予め報せておくことにする」

「宜しくお頼み申します」

 綱連が引き下がった後も、続連は自らに言い聞かせるように呟いていた。

「大事ない。心配いらぬ」


 謙信の下に、長一族討伐決行の日時と詳細がもたらされたのは、翌々日の九月十三日夜である。

 予め武装した温井家の家人が、隠れ部屋に分かれて潜み、合図とともに続連と家来に刃を向ける手筈らしい。続連の他は嫡男の綱連に加えて、家来の三人を、警護に連れて来るとのことだった。その三人は恐らく手練れの者に違いない。

 その後、武装した遊佐続光と三宅長盛が率いる家人二百五十は、続連ら五人が屋敷に入ったことを確認して温井屋敷を囲み、討ち損じがないよう万全を期すとのことだ。

 当初の警戒心を解くために、饗応の宴は行うらしい。突撃の合図は、景隆が酒の追加を告げた時だという。その頃には、続連もすっかり心を許し、酒と肴、そして景隆との話に興じているはずだ。

 続連と綱連ら四人を饗応する部屋は出来るだけ離し、物音が聞こえないよう配慮することも付記してあった。用意周到な企てだ。これならまず、討ち損じることはあるまい。

 温井屋敷内の五人を仕留めた後は、直ちに温井勢を入れた家人三百三十が、長屋敷を襲い全員を始末するというものだった。

 謙信の思いは複雑だった。この計画は確実に成功するだろう。しかし、もう一方では、自らの主君を追放し、また毒殺した時も、このように抜け道のない罠に陥れていたのかと思うと、背筋が凍る思いだった。

 しかし、この企ての黒幕は、紛れもなく自分である。味方する七尾城の重臣は、我が意向に沿って手を下す、言わば実行犯に過ぎない。一人だけ蚊帳の外で、事態を俯瞰するような見方は決して許されない。これまでも幾度か開城する機会を与えたにも関わらず、それを拒んだのは長続連を中心とする親・織田派の輩なのだ。謙信はあらゆる思念を振り払い、ここは冷酷に徹する他なかった。

 九箇月に及んだ攻城戦の結末は、実にあっけないものになるであろう。全てを鎮圧が完了したことを確認した幻次が、狼煙のろしを上げる手筈になっている。それが開城の合図だ。あとは粛々と大手道から入城するだけだった。

 謙信は、雲一つない空に浮かぶ、月明りに照らされた、七尾城の曲輪群を見上げていた。やがて、城の上空を飛び去る雁の群れが、海の方角に向かって飛び去って行く姿が目に入った。

 長きにわたったこの軍営も、ようやく終焉を迎えようとしていた。


「ようこそお越し頂きました。お足許に不自由はございませんでしたか」

 長続連ら一行が到着したと耳にし、温井景隆は自ら門前まで出迎えた。

「なんの。今日は月明りが一段と明るく、道を照らしてくれておる。あたかも我らの行く末を、暗示するかのように思え、まことに愉快この上ない」

「続連殿も、なかなか上手い例えをなさいますね。まさに我らにとっては吉兆でございます」

 続連ら一行を屋敷内に案内しながら、景隆は作り笑顔で応えた。

 暫く屋敷の奥に進み、一つの部屋に綱連ら四人を通した。

「四人の皆さまには、こちらで召し上がって頂きます。既に膳も用意しておりますので、どうぞお気楽にお過ごしください。続連殿は別部屋にご案内いたします。二人で内密の話もございますので、どうぞこちらへ」

 ここまでは事前の話として伝わっており、異論を挟む余地はない。しかし、嫡男の綱連は念のため景隆に一言訊ねた。

「お二人での話はどれくらいの時を要することになりますかな」

「一時もすれば全て終わります。それに、もしも途中で御父上にご用向きがあれば、お世話いたす我が家中の者に、遠慮なくお申しつけくだされ。直ちに取り次ぎましょう。なあに、話が盛り上がって時が足りないような時は、この部屋に参って、皆で飲み直しと致しましょう。その時は、内密の話などという気難しいことはなしということで」

 景隆は淀みなく応えた。これまで、何を言われても良いように、想定問答を用意し、繰り返し応える練習をしてきた成果だった。

「丁重なるお気遣い、痛み入ります」

 景隆の話に綱連もすっかり安堵したようだ。その時、一番胸を撫でおろしたのは、温井景隆その人だった。

 続連と景隆の宴の間は、更に奥に進んだところに用意してある。多少の物音がしても、綱連らの部屋に届くことはないはずの場所を選んでいた。

「先ずは一献」

 双方の盃に酒が満たされ、それを二人は一気に飲み干した。

「いやあ、美味い。こんな美味い酒は何年ぶりでござろうか」

「それは大袈裟な。遊佐殿や三宅殿とは、仲良く酒盛りをしていた、という噂は耳にしておりますぞ」  

「確かに仰せの通りです。しかし、それはかつてのこと。それがしが長殿と懇意にしていることを、お二人は決して快く思っていない様子。最近では公の場以外では、言葉を交わすことすら憚られておるようです。ささ、今宵は飲み明かしましょう」

 景隆は更に酒を勧め、続連の盃を満たした。

「ところで温井殿は、先日の上杉勢の攻撃は、如何なる意図があっての攻撃と思われるか。儂にはどうしても解せないのだが」

 続連の疑問は尤もなことだ。無論、景隆は分かっているが、真実を言うはずがない。

「それはそれがしにも分かりかねます。しかし、謙信殿が再び着陣してからというもの、目立った動きはありませんでした。一度距離を測り、自軍の損害を最小限に止めたうえで、こちらの防御がどれくらい強いのかを矢玉で試したのでは、と思うのですが。そうでなければ、あのように短時間で引き上げることはないと思うのです」

「なるほど。もしそうであれば、次の一手はどう来るとお思いか」

 続連は盃を口に運びながら、景隆を見つめている。

「それが分かれば苦労は致しません。ただ、いくら、戦では天下一とも言われる謙信殿ですら、この城を攻めあぐねているのですから、然程心配は無用と心得ます。無論、決して油断は出来ませぬが」

「いずれにせよ、織田殿には早く援軍に来て貰わねばならぬ。もう一度、催促するとしよう」

「織田殿の援軍はいつになるのでしょうか」

 ここは敢えて期待する口調を心掛けなければならない。今後の情報としても、知っておきたい話だ。

「実は以前、話をした安土への使者というのは、孝恩寺の宗顓そうせんという者じゃが、それは儂の息子じゃ。その宗顓が信長殿の許しを得て還俗したらしい。今はつらたつと名乗って、越前国・北庄城で、北上の機会を待っていると聞いている」

「そうでしたか」

「先日、届いた報せによれば、北庄での軍議が二転三転してまとまらず、難渋しているらしい。信長殿より総大将として命を受けた柴田勝家殿の下では、なかなか足並みが揃わないというのだ」

「それは何故でしょうか」

 景隆にとっては初めて聞く興味深い話だった。この話が聞けただけでも、敢えて饗応の席を設けた甲斐がある。謙信への良い土産話になると思った。それに続連は外部との連絡網を持っている。遊佐続光が謙信と繋がっているように、続連も織田信長や柴田勝家と連絡が可能なのだ。つまり、それはこの城内に、織田の間者が入り込んでいる、ということの証に他ならない。

「詳しくは分らぬが、我らへの援軍を巡り、どうやら意見が纏まらなかったらしいのだ。特に近江国・長浜城主の羽柴秀吉殿なるお方と、柴田殿が大喧嘩の末に、羽柴殿は独断で帰ってしまったという」

「左様なことは軍令違反として処罰されるのではありませんか」

「恐らくは何らかのお沙汰が、安土から下されるはずじゃ。しかし、それは我らには関係のないこと。一日も早く援軍を派遣して貰わねばのう」

「仰せの通りです」

 景隆は盃を置いた。ちょうど酒が空になったところだ。

「おい、誰か酒を持って参れ」

 景隆は一呼吸を置いて、少し声を張り上げた。

「ついつい、話過ぎてしまったわい。この話は貴殿以外誰にも話してはおらぬ。息子の綱連も知らぬ話じゃ。くれぐれも内密に頼む」

「むろん、承知しております」

 その時、続連の背後の襖が静かに開いた。

「お持ちいたしました。ごめん」

 その一言と同時だった。脇差と思しき小刀が、続連の背後から左胸を深く突き刺していた。続連の胸から勢いよく飛び出た血は、そのまま正面に坐する景隆の顔と小袖の、辺り一面を朱色に染めた。

 続連は何が起こったのか分からない。胸の辺りが異常に熱い。自分の視界がゆっくりと景隆の顔を離れて天井に移動した。これはやはり謀られたのか。おのれ、景隆。叫ぼうとしたが声にならない。意識が遠のいていく。やがて続連に訪れたのは、漆黒の暗闇だった。

 ちょうど同じ頃、温井屋敷の別の部屋でも、惨劇が起きていた。

 綱連と家来三人は、案内された宴の間に、同じ方向一列に設けられた席に座り、互いに酒を酌み交わし、膳に用意された肴に手をつけていた。向かいの上座と思しき場所にも二つの席が設けてある。恐らく密談を終えた二人が、後から来て着座する席を予め設けているに違いない。怪しいところは何もない。

 肴といっても籠城以来九箇月であり、さすがに庭先でつくった野菜に手を加えた程度の粗末なものだ。しかし、戦時にあっての饗応は、久しぶりでもあり、正直有難かった。

 最初は警戒と緊張を纏い、臨んだ宴席だったが、それも酒が進むにつれて、気が緩んでくるのが人のさがというものだ。綱連はすっかり安心しきっていた。

 それでも脇差は差したままで、大刀も左に置き、万が一の備えだけは怠ってはいないつもりだ。

 後方の閉められた襖の外から声がした。

「お酒の追加をお持ちしました」

 静かに襖が開いた。

「それは有り難い」

 振り返らずに箸を持ったまま言った、綱連の胸を大刀が貫いた。何事が起きたのか。横の家臣に目をやると、全員の胸に刀が突き刺さっているのが見えた。激痛を伴った熱さが胸を襲った。められた、そう思うと同時に意識が薄れていった。

 五人の謀殺は、用意周到の準備が効を奏したとはいえ、終わってみれば、驚くほど呆気ない幕切れだった。

 三人の手練れにも、刀を抜く間すら与えていない。一人だけ咄嗟に大刀に手を掛けたようだが、鯉口を切っていない刀は抜けない。温井家の家人が下した刃の前では、無力でしかなかった。

 景隆は浴びた返り血を拭き取り、すぐさま屋敷の外を固めた遊佐続光と三宅長盛を屋敷内に呼び寄せた。二つの部屋は血の海で、既に修羅場と化していた。そこに転がっている死体は、間違いなく、先ほどまで生きていた長続連・綱連父子とその家人の亡骸だった。

 続光ら三人は、五人の死体を並べて合掌した。それがせめてもの罪滅ぼしだった。

 死体の検分を終えて屋敷外に出ると、予め編成された温井家の家人を合わせた、三百三十人が待ち構えている。

 遊佐続光は皆の前で叫んだ。

「たった今、我らは奸族、長続連とその子綱連を討ち取った。これから、全軍で長屋敷を襲い、一人残さず始末する。よいか、女子供にも容赦はするな。情けをかければ、必ず禍根を残すことになる。心を鬼にしてかかれ。今日で苦しかった籠城は終わる。我らは新たな主として、上杉謙信殿を迎える。これはそのためのみそぎの戦いでもある。いざ、参らん」

 皆の本心は決して心地よいわけがない。顔見知りはもちろん、中には家を越えて親しい者もいるに違いない。その全員をこれから、いわば騙し討ちに向かうのだ。続光はそんな皆の気持ちを察すればこそ、自らの大義を掲げる必要があった。

 長屋敷は本丸の東側にあり、一段低い位置にある。一旦、本丸の高さまで上り、調度丸の脇道を通って、そこを道なりに進むと長屋敷に到達する。その屋敷を目指して、全軍が一列縦隊で進んだ。

 先頭に立って進むのは遊佐続光である。遊佐家の武装した家人がそれに続く。その次を進むのは三宅長盛とその家人である。両家合わせて二百五十人が、屋敷内の戦闘を担うことになっている。

 後から続く温井景隆率いる八十人は、屋敷の周りを囲み、一人も敷地の外には出さない覚悟だ。

 屋敷内では主が留守でもあり、多少気が緩んでいるに違いない。続光は逸る気持ちを必死に抑えながら進んだ。

 長屋敷が見えてきた。門は閉ざされているが、門兵が二人立って待ち構えている。

 続光は駆けながら、刀の鯉口を切り抜刀した。

「何事か」

 門兵の誰何が早いか、続光はその一人に刀を振り下ろし、もう一人にはその刀で、下から切り上げた。

「とどめは任せる。木槌きづち

 そう叫ぶと木槌を抱えた屈強な男が二人進み出て、門を叩き壊し始めた。

「急げ」

 屋敷内でも、物音に気づいた気配がする。ようやく、中のかんぬきが壊れた音がした。すぐさま、続連は門を蹴破り、敷地に突入した。

 ほぼ同時に屋敷内から長家の家来が一人出てきた。異変に気づいたその者は、すぐさま振り返ると、屋敷内に向かって大声で叫んだ。

「曲者じゃ、であえ、であえ」

 慌てて屋敷内に戻ろうとする背後から、続光は駆け寄り、袈裟懸けに刀を振り落とす。

「ぎゃあ」

 まさに断末魔の叫びとともに、その者は血飛沫ちしぶきを上げて倒れた。

「踏み込め」

 続光は後ろを振り返り、後を追ってきた家来衆を次々に屋敷内に導いた。勢いをつけるために、皆を先導してきたが、ここまでやれば、後は任せればよい。

 後から来た三宅長盛も、一言かけると屋敷内に躍り込んだ。

「先鋒のお務め、おみごとでござる。あとはお任せくだされ」

 長屋敷は頂上から下に三つの敷地で構成されている。

予め練った戦法はこうだ。先鋒の遊佐勢が頂上の屋敷まで、刃向かう者を蹴散らしながら、駆けあがり、殲滅後に下の屋敷に移動する。三宅勢は下の屋敷を殲滅した後に真ん中の屋敷を攻める。まさに上と下からの挟み撃ちだった。おまけに屋敷を遠巻きに温井勢が固めているから、討ち漏らしようがない。

 屋敷内の家人は百五十人足らずで、主は既にこの世にいない。しかも、そのうち女子供を除けば戦えるのはせいぜい七、八十人といったところであろう。それを武装した総勢二百八十人で攻めるのだから負けるわけがなかった。

 長屋敷内は忽ち阿鼻叫喚の様相を呈した。屋敷内の至る所が血の海と化し、それはまさに地獄絵図の如き有様だった。

 全てが終わったのは、亥の刻(午後十時)も迫る刻限である。やがて、遊佐続光のもとには、温井景隆と三宅長盛が集まってきた。

「ようやく終わりましたな」

 最初に発したのは景隆だった。その一言に長かった一日の気苦労が表れていた。

「ああ、終わった」

 続連の返り血を浴びた顔は、まさに阿修羅の如き形相だった。

「何人かは虫の息でしたので、とどめを刺して楽にしてやりました。もう生きている者は一人としておりません」

 一番後に集まった長盛の言葉だった。頂上の屋敷から虱潰しに検分したうえで、下の屋敷まで戻ってきたのだ。

「怪我人はどうじゃ。当家は八人だが」

 続光が訊く。

「当家は九人です」

 遠巻きを固めた温井勢に怪我人はいない。合わせて十七人の怪我という結果は、予想より少なく済んでいた。

「ひとつ宜しいかな」

 そう言ったのは景隆だった。

「何かありましたか」

「実は当屋敷の庭先に五人とは別の、見知らぬ死体が転がっておりました。それが、みごとな胴払いで仕留められておりまして」

「それはきっと、謙信殿が儂の下に遣わしている者の、手によるものであろう。切られた者は、恐らく織田の間者じゃ」

「もし、その者を逃していたら」

「そう、長屋敷に駆けこまれ、温井屋敷でのことが事前に洩れだけでなく、織田方にも知られることになったかもしれぬ」

 続光は安堵した様子で付け加えた。

「間一髪で乗り切れたようだ」

「我らには運も味方しているようですな」

 景隆もほっとした様子で呟いた。

「よし、屋敷全てに火をかけよ」

 命じた続光の表情に、一切の躊躇がなかった。

 

 時は少し遡る。幻次は一人の男を、背後から息を殺して見張っていた。以前から目をつけている者の中の一人である。

 密かに温井屋敷の様子を探ろうとしている。その者は、長続連の一行の後を追い、塀を難なく超えて、今は庭の中に潜んでいた。忍びの技を心得ている者だ。中の異変に気がつけば、間違いなく長屋敷に駆け込み、報せることになるだろう。そうと分かれば、真っ先に仕留めなければならない相手だ。

 幻次は、この日十人の手下を従え、各要所に配している。長屋敷に六人、抜け道の各所に四人という内訳だ。残りの四人は加賀に先行させた。既に越中の五人と合流しているはずだ。

 この男は自分の手で始末しなければならない、そう幻次は直感した。相当の手練れであるうえに、忍びの技も使えるとすれば、手下の腕では太刀打ちできない恐れがある。

 やがて、温井屋敷内の喧騒が、外にも漏れ伝わってきた。案の定、その男は屋敷内で何が起こったのかを確認するなり、立ち去ろうと塀に近づいた。

「おい、待て」

 幻次の誰何すいかで何が起きたか悟ったその男は、振り返りざまに抜刀し、その刀を幻次に対して振り下ろした。

 それを紙一重で横に体をかわした幻次は、構えていた刀を素早く横に薙いだ。手ごたえは十分だった。その男は口から血を吹き出し、その場にどっと倒れた。

 危なかった。一呼吸遅ければ、ここに横たわっているのは自分だったかもしれない。そう考えると、久しぶりに冷や汗が出てきた。

 考えている時間はなかった。幻次もひらりと塀を越え、屋敷回りを固める兵の横を音もなく通り過ぎて、長屋敷に向かった。

 急ぎ戻った長屋敷は、幸いにして未だ変わった様子は見られない。あとは全軍突入の後に、外に逃れようとする間者四人を始末することだった。

 暫くすると、長屋敷内でも掃討が始まった。逃げることにかけては、奴らは玄人に違いない。どういう手段で逃れようとするのか、皆目見当がつかないのだ。

 全軍突入から半時ほどが過ぎた頃のことだった。

 織田の間者らしき四人が、ひと固まりになって出てくるのが分かった。どうやら、武器は小刀のみのようだ。最悪一人だけでも城外に逃れて、任務を全うとしようとしているに違いない。

 それを許すわけにはいかない。幻次を筆頭に幻の者七人が、あっと言う間に、その四人を囲んだ。包囲を縮めようと、にじり寄ろうとした瞬間に、仲間のひとりが肩を押さえて腰を落とした。手裏剣だった。

 ここにも一人忍びの技を使う者が混じっていたのだ。これ以上、放置できないと判断した時、既に幻次の身体は反射的に動いていた。

 間合いを詰めて飛び上がったかと思うと、抜いていた大刀を、その手裏剣遣いの者の頭から振り下ろした。ガツンという確かな手ごたえと共に、その者の身体は、地面に吸い寄せられるように崩れ落ちた。

 周りに目をやると、他の三人も血を流して倒れている。手下がほぼ同時に始末していた。

 手裏剣を見舞われた手下は、幸い腱を外していた。血止めをすれば、これからの争闘に支障はなさそうだ。

 ここでの働き場所はもう残っていない。密かに屋敷を抜け、あとは狼煙を上げるだけだった。遊佐続光と一度目があった。離れた場所から一部始終を見られていたのかもしれない。幻次は目礼するだけで、その場を後にした。

 山を下り暫くすると、背後で大きな炎が上がるのが見えた。


 謙信は七尾城本丸方向から、火の手が上がるのを見上げていた。その炎は段々と大きくなり、天を焦がしていく。きっと長屋敷が燃えているのであろう。

 その火柱を遠くに見上げながら、作戦の成功を確信すると同時に胸を撫でおろした。

 どんなに用意周到な企てだとしても、実際に何が起こるか分からないのが戦であり現実だ。これまでも、想定外の出来事によって、何度も苦い思いをしてきた。正直、その炎を見るまでは、気が気ではなかった。

 時を置かずに、幻次の手による狼煙が上がった。織田方の間者の始末も含め、全てその使命を全うしたという証だ。

「おめでとうございます」

 声の主は傍に控えていた河田長親だった。顔は依然として固い表情のままだ。

「うむ。豊前守もよくやってくれた。しかし、これからが正念場じゃ」

「いよいよ加賀ですね」

「そうだ。織田勢が近々北上して来る」

「我が上杉軍の怖さを、思い知らせてやりましょう」

「そうじゃな」

 謙信の顔は南の方角を見つめていた。 

 直ちに陣払いを命じた謙信は、七尾城に向かった。

 七尾城の城門は既に開かれ、大手道には遊佐続光、温井景隆、三宅長盛ら七尾城の重臣が揃い、鎧姿のままで謙信を出迎えた。新たな主に対する敬意と歓迎の表情を取り繕いながらも、さすがに疲労の色は隠しようがない。

 いわば、騙し討ちであり同士討ちであった。心身ともに、想像以上の消耗があったに違いない。

 謙信は儀礼的な顔合わせだけを済ませ、予定していた軍議を翌朝に先延ばすことにした。


  

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