第6話 端境の章 *関山権現~上野原~信濃守護
*関山権現
一方の近臣衆は、突然の出奔宣言に動揺が激しく、気持ちの整理がつかぬまま、宗心の独壇場を許してしまっていた。
もちろん、宗心の決意が並々ならぬもので、自分たちだけではどうすることも出来ない、と判断したからでもある。
しかし、そのことは、宗心の翻意を諦めた訳では決してなかった。皆はその晩一睡もせず、夜明け前から密かに動き始めていた。
吉江忠景は与板の直江実綱のもとに、庄田定賢は坂戸の長尾政景に、そして戸倉与八郎は長慶寺・天室光育和尚のもとに、宗心の書状を抱えて馬を走らせた。
一刻も早く到着したいが、馬の全力疾走では、一里も持たずに馬が潰れてしまう。そこで、急く気持ちを堪え、駆け足と並足を交互に繰り返して走らせることにした。これは庄田定賢が考えた馬の操縦走法だった。
これが,事の他上手くいった。一番遠い上田庄の坂戸城にも、翌日の午の刻には到着し、宗心の出奔という現実を、長尾政景に伝えることが出来ていた。
宗心の出奔から数えて翌々日の夕刻、春日山城の評定の間には、十人の姿があった。長尾政景、直江実綱、天室光育、そして近臣旗本衆である彌太郎、新兵衛、孫左衛門、源蔵、与八郎、定賢、忠景の七人である。
宗心が書き残していった書状から、その決意の固さを読み取り、いずれの顔にも事態の深刻さが伺えた。
その場の重苦しい空気を晴らそうと、口火を切ったのは天室光育だった。この時、既に齢八十七歳という超高齢の光育であったが、国の一大事とばかりに、老体に鞭打って駆けつけていた。
「殿は幼き頃より、こうと決めたら誰が何と言おうが貫き通す、鋼のような心根の持ち主じゃった。それが良い方に転べば百人力、いや千人力じゃが、その裏返しは頑固一徹、何人なりとも手に追えぬことになる。此度はその後者の最たるもの、まこと困ったことになったものよ」
「光育様には、殿に翻意して欲しい旨の書状を一筆お書き願えませぬか」
直江実綱が願い出た。
「それは容易きことじゃが、拙僧が書状を認めたとて、それだけで翻意するとは、とても思えぬ」
尤もな光育和尚の返答に、再び沈黙の時が訪れる。
暫くの後に口を開いたのは、長尾政景だった。
「全ての国衆から、争いごとや訴訟で殿の心を悩ますことは金輪際行わない、反逆しない、反逆に加担しない、という起請文を取って差し出すというのは如何であろうか」
一旦、話を区切り、皆の表情を見回しながら、思いついたように更に続けた。
「いや、それだけでは足りぬ。起請文などは紙切れに過ぎぬ、と考える者がいるかもしれぬ。我ら二人を含め、身内の者を質として、殿のもとに差し出すというのは如何か。その発起人として儂が先導しよう。儂が先年まで殿と対立していたことを知らぬ者はおらぬ。その儂が先導する、ということは、他の国衆への圧力にもなろう。殿としても、翻意の材料になると思うのだが」
「それは実に妙案じゃ。しかし、それでは時間が掛かり過ぎる。手分けしてもひと月はかかろう。
そうこうしているうちに、殿が高野山に入ってしまっては、連れ戻しようもなくなってしまう」
実綱の考えは確かに道理だ。それは承知のうえで、更に政景は続けた。
「仰せの通りでござる。されば火急のこと故に、此度は与兵衛尉殿とそれがしの連署にて、必ず全ての国衆から起請文を取り、質も差し出させることを認めて血判を押す。その起請文を光育和尚殿の書状とともに携えて、殿を追いかけようと存ずるが如何であろうか」
「なるほど。しかし、それでも、殿が翻意してくださるかは、やはり心許ない。何かもうひとつ、説得する大きな材料が欲しいのだが」
宗心のことを一番深く知っている、実綱の言葉だけに説得力がある。一同は腕を組み天井を見上げて考え込んでしまった。
どれほど時間が流れただろうか、気がつくと、先ほどから実綱は中座してしまっている。与板から引き連れてきた、家来からの耳打ちがあってから、未だ戻っていない。いくら考えても、これ以上の妙案など浮かぶはずがない。こうしている間にも、宗心は一歩、また一歩と、この春日山から遠ざかっているのだ。それなら、一か八かの賭けに出るしかない。ついに痺れを切らした小島彌太郎が口を開いた。
「如何でござろうか。これ以上考えても時間の無駄というもの。先ずは殿を追いかけて、考えついたことを全て、殿にぶつけることが先決と心得るが」
全員が首を縦に振ったその時だった。
「暫し待たれよ。」
その声の主は中座していた直江実綱だ。少し慌てている様子の実綱が、続けてその口から出た言葉は、俄かには信じられない内容だった。
「大熊備前守朝秀、謀反」
実綱は、このところ、大熊の動きが怪しいことを掴んでいた。宗心から任されている幻の者に命じて、様子を探らせていたところ、ほぼ確実な証拠が揃ったとのことだ。
「それは真実でござるか。まさか大熊殿が」
長尾政景は未だに信じられない様子だ。政景の「まさか」には理由がある。
大熊家先代である父・大熊政秀は、もともと親景虎派の代表格である。景虎の守護代擁立に尽力した有力国衆の一人であり、直江実綱・本庄実乃とともに、三老臣とまで言われた人物だった。
その後、朝秀の代となった今も、段銭方という国の要職を務めており、宗心からの信頼も厚いという噂である。
それに比べて、宗心に忠誠を誓って日が浅い、上田長尾氏の長である政景が、大熊朝秀の謀反など何かの間違いでは、と勘繰るのも至極当然だった。
「残念ながら、真実に相違ござらぬ。我が手の者が、朝秀居城の
「その書状には何と」
「準備整い次第挙兵する旨が、明白に読み取れる内容でござる。また、他の手の者が、城内に忍び入り、様子を探ったところ、密かに戦支度を進められていたようで、ここ一両日は、慌ただしさが増しているとのこと。謀反であることは、今や疑いようがござらぬ」
「しかし、何故でございましょう」
厚遇されているはずの大熊が、何故謀反を起こすのか、政景には到底理解出来ない。
「しかとは存ぜぬが、上野家成殿と下平修理亮殿の間で、何やら土地を巡る争いがあると聞いておるが、その裁定に不満があるのかもしれぬ。また、殿が出奔したことは、ここにいる我らのみの知るところにて、漏れ伝わるはずはござらぬ。しかし、この城内に大熊に通ずる間者がいるとすれば話は別でござる。我らの動きが、その者から大熊に報せが行ったとすれば合点がいく。これはあくまで想像でしかないが、武田から寝返りの誘いを受けていた大熊が、殿の出奔を契機に、早計にも見限ったということは十分考えられる」
「なるほど、しかし、多少の不満があるにせよ、親の代から受けてきた大恩を
珍しく政景が人前で憤っている。
「しかしながら、それも全ては殿を引き戻してからのこと」
この実綱と政景の会話を聞いて、反応したのは天室光育だった。
「これはひょっとすると、上手くいくかもしれぬ。」
どういうことなのか、何故上手くいくのか、全員は分からず首を捻るばかり。
光育は静かに続けた。
「殿の義侠心や正義感は尋常にあらず、並外れて強いのは皆が承知のはず。拙僧からの書状や、お二人の血判状を携えて説得するにあたり、大熊殿謀反の話を耳にすれば、あるいは殿が闘争心を取り戻すきっかけになるかもしれませぬぞ」
「おお、そうなれば、災い転じて福となす、とはまさにこのこと」
光育の言葉に一縷の望みを見出した近臣を代表して、金津新兵衛が声を上げた。
「だが、大熊の挙兵の時期が気になる。直江殿は、それがいつ頃と思われるか」
政景の懸念は当然だ。もし、宗心が翻意して戻る前に挙兵されてしまえば、本当にどうなるか分からなくなる。実綱は、既にその辺りも、多少は報せを受けているに違いなかった。
「恐らく、稲の刈り取った後の八月で間違いはあるまい」
その実綱の予想に少し安堵しながらも、政景は皆を急かすように言った。
「それでも、一刻の猶予も許されぬ。殿に翻意のうえで戻って頂かぬことには、この越後は立ち行かなくなるぞ。彌太郎殿、殿の所在はまだ掴めないのか」
彌太郎は近臣衆で相談し、宗心の出奔を幻蔵に伝えて、密かに追わせている。
「残念ながら、未だ掴めてはおりませぬ。しかしながら、皆さまが書状や起請文の準備を整えている間に、何らかの報せが入ると思われます」
彌太郎は応えながら、目配せを実綱に送った。それで全てを理解した実綱が、その場を総括して言った。
「それでは、その報せを待つとして、我らはいつでも出立出来るように、急ぎ所持万端整えようではござらぬか」
その一言で、皆の気持ちは固まった。
やがて、彌太郎の言う通りとなった。天室光育の書状、そして直江実綱と長尾政景の血判を添えた起請文が整うことを待っていたかのように、幻蔵から報せがもたらされた。
今、宗心がいるのは、信濃や越中ではなかった。意外にも、妙高山麓にある修験寺・関山権現だった。関山権現は、かつて弘法大師空海が、真言修行の道場として開いたのが、起源と言われている。
宗心は、この地で武士という俗物から、修行僧として心身を浄めたうえで、聖なる地・高野山に向かおうとしていた。
宗心所在の確認が入るや、長尾政景は即座に判断した。
「ここは、最も若輩で、歳の近い儂が説得に参ろう。我が命に代えてでも、必ず殿を説得して連れ戻す所存。直江殿には、この春日山に止まり、大熊備前守をはじめ、他の国衆の動向を探りながら、殿が戻り次第、討伐軍を出兵出来るよう差配願いたい。小島殿と金津殿、そして黒金殿は、儂と伴に同道くだされ。我らの動向を決して悟られぬよう、全て隠密裏に進めるが肝要。多勢での動きは禁物につき、この四人で参ろうと思う。秋山・戸倉殿・庄田殿・吉江殿の四人は、直江殿に従い、諸事円滑に準備を進めて頂きたい。如何であろう」
「委細承知した」
実綱の腹の底から発した声に対して全員が頷いた。ようやく希望の光が見えてきた、と思った。
翌日、長尾政景ら四人は関山権現にいた。
季節は夏の真っ盛りを迎えている。
四人の到着は既に宗心の耳に届いているが、会おうとすらして貰えない。使いの小坊主が、申し訳なさそうに、断りの文句を並べるばかりだった。
「帰れ」「帰らぬ」の押し問答が、使いの小坊主の口を介して、翌日まで続いていた。
この間、他の修行僧はと言うと、我関せずのふりをしてはいるものの、実のところは興味津々だった。名乗らぬまでも、恐らくは何処かの重臣と思われる四人の武士が、押し問答を繰り返しているのだから、当然の成り行きだった。
しかし、目前に坐する押し問答のもう一方の当事者が、まさか国の主とは誰も思っていない。日を跨いでの騒ぎには、さすがに四人に同情する者が多く、「せめて会うだけでも」と入れ替わりで、宗心を説諭してくれるようになった。
当初は頑なに拒んだ宗心だったが、他の修行僧に対して、これ以上迷惑を掛け続けるわけにはいかない。
宗心が四人の前に姿を現したのは、既に日没に近い夕刻であった。
「何をしに来たのかは、分かっている。しかし、儂は何を言われようとも翻意はせぬ。諦めてこの場を立ち去るがよい」
こう言い放ち、修行の場に向かって踵を返した宗心に対して、長尾政景が大声を投げかけて引き止めた。
「暫しお待ちくだされ。翻意頂けるかはともかく、せめてこちらをご一読くだされ」
政景が先ず差し出したのは、天室光育和尚からの書状だった。
その書状には『其の方が戻らなければ国が亡ぶことは必定。それは、其の方が一番分かっているはず。春日山の主を務められるのは、其の方をおいて他におらず。どうか年老いて余命短い師の願いに耳を傾けて欲しい』という師匠からの切なる願いと心の叫びが認めてあった。
およそ書状の内容を予想していたとは申せ、やはり人生の師の一人と仰ぐ、天室光育からの書状は堪える。しかし、その戸惑いを振り切るように、宗心は再び口を開いた。
「和尚様の想いは確と承った。心苦しさは何もない、と言えばそれは嘘になろう。しかし、儂の気持ちが翻ることはない。新五郎殿(政景)が儂に代わって国を治めれば、決して国が滅びることはない。皆が新五郎殿の下に合力すれば、儂がひとりいなくなったとしても、亡ぶような弱い越後ではないはずじゃ」
「いや、それは違いますぞ」
政景は宗心の言い分に対して、すぐさま、言葉をかぶせるように反論した。
「数年前までは、確かにそれがしは親父とともに、上田長尾という家風と格式に
「それは儂のもとでも同じではないか。事実、今も国衆の小競り合いは絶えることなく、訴状が尽きることはない。それは儂の政事に不満があるということ。儂は国を統べる者として相応しくない、という
ここまでは、政景が予想していた通りの宗心の言い分だった。
「決して同じではございませぬ。昨今の近隣諸国の情勢は、実力ある盟主の下に纏まりつつあり、その盟主は平気で弱小の隣国を併呑することが罷り通っております。越後が大国とは申せ、小競り合いを繰り返しているようでは、早晩、甲斐や相模といった強国に侵略を許してしまいます。それらの強国に対抗するには、それがしのような並の将では到底敵いませぬ。この越後で他国の不逞の輩に対抗出来るとすれば、それは殿おひとりしかおりませぬ。これをご覧下さいませ」
政景は懐からもう一通を取り出して宗心に差し出した。直江実綱と二人で認めた起請文である。
そこには『以後、謹んで臣従し、二心を抱かず』の文言を含む、宗心に対する忠誠を誓う内容が、血判つきで認めてあった。
「直江・本庄殿らと共に、これと同じ起請文を国衆全員から、必ず殿に差し出させます。二度と国衆同士の詰まらぬ争いは行わないこと、決して二心を抱かず臣従することを、誓わせてご覧に入れます。それだけではございません。全員から質として身内を春日山に差し出させます。無論、我らも例外ではございません」
この起請文は宗心を翻意させるまでには至らずとも、頑なな心を解きほぐすには十分な効果があった。起請文は、記した内容を神に誓うという性質のものである。もし破った場合は、天罰が下るものと、当時一般的に信じられていた。とりわけ、信心深い宗心に対する起請文であり、心が動かないはずがない。
そのうえ、起請文だけではない。人質という「保険」まで付けて従わせるというのだから、宗心にとっては、文句をつけようがない条件なのだ。
その起請文を読んだ宗心の表情は、想像通り、幾分和らいだものになっている。その様子から、好機と読み取った政景は畳み掛けた。
「殿、しかし、先ほど申し上げた国衆全員のなかには、唯一の例外者がおります」
「誰なのか、その例外とは」
不思議そうな目をして、政景を見つめている。
「実は大熊備前守殿謀反の兆しあり、それは直江殿が掴んでいる情報から、万が一にも間違いはございません」
その人物の名を聞いた宗心は、案の定、信じられないという表情だ。
「大熊家は先代から、よく儂を支え仕えてくれている一族ではないか。儂は備前守の代になっても、その恩顧に報いてきたつもりじゃ。その備前守が何故に反旗を翻すのか」
ここまでは政景が用意した脚本のように事態が動いている。宗心以外は誰もがそう思っていた。
政景は予め用意していたことを返答するだけでいい。
「詰まらぬ領地争いの中でも、下平修理亮殿と上野家成殿の争いは、殿を大いに悩まし、此度の出奔の一つのきっかけになったのでは、と勝手に推察しております。この争いに関して、大熊殿は古くから誼のある下平殿に、強くお味方しておられたようなのです。大熊殿が殿に対して、下平殿への有利な裁定を行って欲しい旨を、一度仄めかしたことがあるとお伺いしました。しかし、結果は上野殿に有利な仕置きが下されたことで、自身の面目が潰されただけではなく、殿から自分は軽く見られている、と勝手に誤解したのでございましょう。その不満を抱えたところに、武田の魔の手が忍び寄った、とすれば合点が参ります。そして、決め手は殿の出奔の噂でしょう。我らは一切口外しておらず、今も殿の出奔は最高機密事項として厳秘を貫いてはおりますが、城内に大熊の息がかかった間者がいないとも限りませぬ」
「備前守にとっては『渡りに船』というわけか。利に敏い奴らしいと言えば、さもあらん。それにしても、武田晴信という男、信濃を手中に収め、越後を分断するためであれば、手段を選ばずということだな」
この発言などは、完全に国主としての発言に戻っている、そう感じた政景は更に続けた。
「その武田を食い止めることが出来るのは、殿をおいて他にはおりませぬ。殿の指揮のもとで国を挙げて戦うことこそが、唯一越後を守る手段でございます。どうか再考翻意くだされ」
政景以下四人は、諸手をついて頭を垂れた。
「皆の気持ちはよくわかった。面を上げよ」
「それではお聞き入れくださるか」
「いや、それは出来ぬ」
思いも寄らぬ宗心の返答だった。
「ここまでお分かりになりながら、それは何故でございましょうか」
手の内を出し尽くしてしまい、説得に窮した政景は、この一言を発するのがやっとだった。
「皆は儂を買いかぶり過ぎじゃ。儂でなくとも、いや、新五郎殿ならば、甲斐の武田になど負けはせぬ。儂は一度決めて口にしたことを、軽々しく変えることはしない。それに、これまで詮無きこととは申せ、戦で
この宗心の言葉に、これまで宗心と政景のやり取りを、黙して聴いていた一人の男が口を開いた。それは金津新兵衛である。新兵衛の形相には鬼気迫るものがあり、その言葉にも魂が宿ったかのような迫力で、宗心に訴えかけた。
「殿は民をお見捨てになるか」
「なにっ」
この新兵衛の言葉が、宗心にとって痛恨の一言となった。新兵衛はまるで魔物に取り憑かれたかのように、息つく間もないくらいの速さで、自らの想いを宗心に向けてぶつけた。
「殿は乱れた越後を平らかにし、豊かな民の暮らす国を目指して、今日まで歩んで参ったのではありませぬか。また、それを実現させるために、毘沙門天様や御仏に誓いを立てて、煩悩を捨て去り、愛しい方さえ妻帯することを諦め、今日まで突き進んできたのではございませんか。我らは、その殿自らの幸せを犠牲にしてまでも、目指す理想の実現に向かってひた走るお姿を、後ろから必死に追いかけ、こうして今日まで付き従って参りました。我らにとって、殿は誇りであり、生き甲斐でした。今、このような国の危急存亡の時に、民を捨てて仏門に入っても、決して御仏がお喜びになるとは思えませぬ。殿のため、いや国や家族を守るために、死んでいった者たちの魂も、決して浮かばれることはないでしょう。確かに戦に殺生はつきものです。血で血を洗う戦から目を避けて遠ざけたいというお気持ちは、痛いほどわかっているつもりです。我らも本心は同じです。しかし、殿はこれまで一度として、私利私欲のための戦をしてはおりませぬ。全てやむを得ずに及んでの戦であることは、我ら全員が知っております。避けられる戦は避けてきたことは、ここにおわします新五郎政景殿が、一番ご存じのはずです。毘沙門天様の化身となり、我ら一同を統べ、敵対する不逞の輩から国を守り、民を富ますことが出来るのは、唯一ここにおわします貴方様だけなのです。どうか、どうか、再考翻意ください。我らは殿をお連れ戻すこと能わずして、おいそれと城に戻る気はございませぬ。もし、この願いがお聞き届け頂けぬ時は、それ相応の覚悟が出来ております」
「儂を脅すか」
親兵衛の迫力に押され、たじたじとなった宗心に対して、新兵衛が更に続ける。
「いいえ、脅しではございませぬ。我らの生死など、取るに足らない
新兵衛はもう我慢出来なかった。いや、新兵衛だけではない。四人全員の目には、いつの間にか涙が溢れている。
宗心も俯いたまま、顔を上げることが出来ない。
いつの間にか、外は闇に包まれ、煩く競って鳴いていた蝉の声も止んでいた。気を利かした小坊主が灯を灯しに来た。皆が俯いたまま黙している様子を
「新五郎殿」
ようやく、顔を上げた宗心は政景に目を向けた。
「それでは、お手数をお掛けいたすが、全ての国衆から起請文を差し出すよう、お手配願いたい」
「おう、それでは」
宗心は言葉にする代わりに大きく頷いた。
「彌太郎、新兵衛、孫左衛門」
「ははっ」
「もはや、是非もあるまい。皆の望み通り、春日山に戻ることにする。彌太郎と孫左衛門は帰城次第、大熊を討つ手筈を整えよ。これを最後の内乱にしなければならぬ。不本意ながら、此度は大熊備前守朝秀を許すわけにはいかぬ。新兵衛には春日山城の拡充普請を命ずる。国衆から送り届けられた質は丁重に扱い、供の者を含めて、住み心地の良い住居を拵えるよう頼む。仔細は蔵田五郎左衛門尉と相談のうえ進めよ。良いな」
「御意のままに」
新兵衛は喜びで笑顔が溢れている。
「それにもう一つ、皆には伝えておきたいことがある」
「それは何でございますか」
政景が怪訝そうに訊ねた。
「今日限り、法号の宗心を捨てる。
宗心あらため景虎の決意に、「鬼小島」の異名を持つ彌太郎の目が再び潤んでいる。それを隣で見た孫左衛門が、すっかり安堵の表情でからかった。
「鬼の目にも涙とは、まさに今の彌太郎のことじゃ」
一同にようやく、和やかな笑いが広がった。
*上野原
宗心あらため景虎による前代未聞の出奔劇は、こうして幕を閉じた。
『災い転じて福となす』という諺があるが、結果的にこの事件を境に、長尾景虎が名実ともに越後国主としての権力を、完全掌握することになった。
この権力の集中と掌握こそが、景虎の果断な戦闘指揮の下で戦国最強を誇る、越後軍団の原動力となったことは間違いない。
むろん、この裏づけとしては、各国衆から差し出された人質の存在を、忘れることは出来ない。
景虎は各国衆との主従関係をより強固にするためにも、彼ら人質を丁重に扱い、城内に仕える者や将兵と同じように処遇した。
この時期から、景虎は人質が住みやすい居住地と環境の整備を目指して、春日山城の拡張普請を急速に進めている。それがやがては、春日山全体が難攻不落の一大要塞の呈を成す迄に至るのである。
春日山城に帰還した景虎は、直江実綱をはじめとする出奔を知る城中の者たちから、温かく迎えられた。特に歳の近い庄田定賢や吉江忠景などは、嬉しさと安堵のあまり、涙で顔が皺くちゃになる程だった。
景虎の心の中は、気拙さでいっぱいだが、ここは平静を装うしかなかった。直ちに大熊朝秀討伐の軍議を招集し、対応に当たることから着手した。
「此度の備前守謀反は、殿より受けて参った大恩を反故にしたばかりではない。愚かにも、敵対する武田晴信の口車に乗っての仕業であり、今後二度と繰り返さないためにも、断固厳しい態度で臨む必要があると考えるが如何か」
軍議席上では、数日間、春日山城の留守を預かり、水面下で大熊討伐軍の編成準備を進めていた直江実綱が、こう口火を切った。
「同感でござる。殿は如何お考えか。もし、大熊備前守が降伏を申し入れて参った場合、帰参をお許しになるお気持ちが、有るや無きやについてお尋ねしたい」
実綱の発言を受けて、こう後押ししたのは、駆けつけていた本庄実乃だが、これに対し景虎は迷わず即答した。
「此度、武田に通じた者を許せば、たとえ質を取っていたとしても、同じことを繰り返すに違いない。儂は罪のない質を殺めるような非道は、行ってはならないと思っておる。それに北条丹後守の時のように、備前守を擁護する者もおらぬ。ましてや、備前守は先代から引き継ぎ、段銭方という国の要職に就いていながらの謀反である。これは、儂への裏切りであると同時に、国への裏切りでもあるという意味で罪は重い。よって、備前守に帰参を許すつもりは毛頭ない」
景虎の考えが二人の宿老と同じである以上、もう議論の余地はなかった。
「惣左衛門尉、ここへ参れ」
景虎が庄田定賢に命じた。
「今、儂が動けば大熊が警戒する。此度はそなたに儂の名代を命ずる。既に大熊に内通する者は捕らえたとは言え、我らの動きを悟られてはならぬ」
景虎不在の間、春日山城を預かっていた直江実綱は、幻の者を使って内通者の洗い出しを進めていた。すると、「景虎翻意し帰城」の一報が入って、城内が緊張から解かれる中、一人不審な動きをする者が、幻の者の網に引っかかったのだ。既にその者は処断されている。
「密かに戦支度を整え次第、兵を率いて上野家成のもとへ向かえ。此度の謀反の一因は、上野との土地争いにある。よって、儂の名のもと、家成には大熊備前守朝秀討伐軍の先鋒を命じよ。出来れば、備前守を生け捕りにして儂の下へ連れて参れ。じゃが、生け捕りに拘る必要はない。討ち果たしても構わぬ。判断はお主に任せる」
「承知いたしました。では、戦支度が整い次第、出立いたします」
弘治二年(一五五六年)八月、こうして大熊備前守朝秀討伐軍は春日山城を発した。
やがて、大熊朝秀も景虎帰還を知り、慌てて武田晴信に援軍を乞うが、一向にその返事はなかった。
そのうちに、上野家成を先鋒に、庄田定賢率いる討伐軍が、箕冠城に向かって迫っていることを察知した朝秀は、城を捨てて越中国境に向かことにした。そこで武田晴信にあらためて「信濃から越後に攻め入って欲しい。自軍は越中国境から攻め入るので、春日山城を挟み撃ちにしよう」との書状を送るが、やはり返事は梨のつぶてだった。
そもそも武田晴信には、越後国内に援軍を派遣する気など毛頭ない。
過去二度にわたる川中島での交戦で、痛い目に遭っている晴信である。ましてや、土地勘のない敵地・越後にのこのこと出向き、自ら損害を被る危険を冒すはずがなかった。
寝返りによる越後国内の分断と弱体化こそが、晴信にとって最大の目的であり、寝返った大熊のことなどは、もともと将棋の駒ひとつ程度にしか考えていない。
そうとは知らぬ大熊朝秀は、越中国境の西浜口に陣を敷いて、晴信からの吉報を待つが、そこに庄田定賢率いる守護代勢が、急迫しているとの報せが入ったから堪らない。
両軍は
大敗を喫した大熊朝秀が、命辛々落ち延びた先は、甲斐国の武田晴信のもとだった。
これに一番驚いたのは、他ならぬ晴信である。内通を
大熊朝秀も、城を捨てて、追われる身となった自分に、もう行く先など残っていない。一か八かの大博打で、晴信の懐に飛び込んだのだ。
しかし、ここが武田大膳太夫晴信という人間の大きさであり、
敵方の将が、自ら懐に飛び込んできたことで、これまで知り得なかった越後の情勢が、容易に知り得るようになる。また、未だに抵抗して降っていない信濃の豪族に、自分が寛大な人間であることを、知らしめる良い機会だ、と判断したのだ。
晴信は躑躅ケ崎館に落ち延びてきた大熊朝秀を前にして、優しく声をかけた。
「これは、これは、大熊殿。よくぞ逃れて参られた。貴殿の援軍要請に応えようとしたが、なかなか兵が集まらぬ。稲の刈り入れ時期故に、兵の招集に手間取っておったが、そうこうしているうちに、大熊殿の敗戦を知り、身を案じておったのじゃ。先ずはご無事そうで何より。お疲れでござろう、この甲斐は山国故に、何のお構いも出来ぬが、ゆるりと休まれるがよい」
出兵の準備などしているわけがない。全てが嘘で塗り固めた言葉だったが、敗戦と長期に及ぶ逃避行のために、心身ともに疲れ果てている朝秀にとっては、何よりの有難い一言だった。
「面目次第もございませぬ。敗軍の将に対して、かくも温かいお情けを掛けて下さるとは、何という寛大なお心でございましょう。この大熊備前守朝秀、本日のことは一生心に刻み置きます」
「いやいや、当然のことを言った迄のこと。お気になされませぬよう。ところで大熊殿、如何であろう。今は何も考えられぬかもしれぬが、儂に仕えてみる気はござらぬか。無論、今までのように、城持ちとは参らぬが、食うに困らぬくらいの扶持は差し上げるつもりだが」
朝秀の心の内はまさに
「有難きお言葉、喜んでお仕え申し仕上げます。かくなるうえは、生涯を通し、御家に誠心誠意ご奉公申し上げる覚悟にて、宜しくお頼み申し上げます」
こう言うと、余程嬉しかったのであろう、晴信の前で地面に額がつくほどに、ひれ伏す朝秀だった。
この時の朝秀の言葉に、嘘はなかった。大熊朝秀は、後に、晴信によって譜代並みの扱いを受け、終生武田家に尽くすことになる。やがて二十六年の時を経て、多くの裏切りが出る中、朝秀は一切迷うことなく、武田家滅亡に殉じ、天目山の露と消えることになる。
一方、駒帰で大勝した庄田定賢は、景虎から感状を授けられると同時に、大熊朝秀が担っていた
これまで、国衆が担っていた税の徴収を、側近に集約したことは、景虎の財政基盤をより一層強固なものにするという点で、極めて大きな意義があった。また、このことは景虎の下で人材が育ち、他の国衆の力を借りずに、国内統治が行えるようになった
明けて弘治三年(一五五七年)一月二十日、景虎は信濃の更科八幡宮に願文を捧げた。
『
景虎の晴信に対する当初の感情は、ここまで拗れたものではなかったはずである。
しかしながら、合戦に及べば逃げる、避ける、を繰り返し正々堂々と戦う気がない。更に北条や大熊といった諸将を唆して、謀反を起こさせるなど、卑怯極まりないことを平然とやってのける。これらの繰り返しによって、徐々に歯痒さと怒りが増幅し、この時期には
清廉潔白で真っ向勝負の景虎の性分とは、全く相容れない行いを晴信が繰り返す以上は、当然の帰結でもあり、景虎の苛ついた気持ちが、この願文に表れている。
越後の国内情勢が落ち着きを増すほど、景虎の眼は自ずと国外へと向けられる。その最たる国が、目と鼻の先くらいに近い信濃だった。
しかし、このような景虎の願文をあざ笑うが如く、武田晴信はまたもや動き始めた。
二年前に普請拡張した葛山城を、武田軍が急襲し、これを攻め落としたという報せが、春日山城にいる景虎のもとに届いたのは、弘治三年(一五五七年)二月だった。
葛山城は寝返った栗田永寿が籠る旭山城に対抗して、拡張した山城である。
調略を得意とする真田幸隆によって、葛山城を守っていた落合遠江守が武田方に寝返り、晴信の重臣である馬場民部の軍勢を、城内に手引きされたとあっては一溜りもなかったらしい。
守将の落合備中守と、援軍の将であった小田切駿河守は城内で敢なく討ち死にし、援軍を試みた長沼城主の島津忠直は、たまらず大蔵城に逃れたという。
景虎の怒りは凄まじかった。遣り口があまりにも汚すぎる。
「姑息にも城方を調略して、城に引き込むなど卑怯千万。断じて許せぬ。今度こそ戦に引きずり出して決着をつけてやる」
こう言い放つと景虎は直ちに陣触れを発した。
ところが、時期が悪い。陰暦二月下旬は雪も溶け、稲作に向けての準備期間に入っている。
急な兵の招集には身動きが取れず、景虎の陣触れといっても、応じられない国衆ばかりだった。
それは、直参並みの直江実綱や本庄実乃をはじめ、今や親戚筋筆頭の長尾政景ですら、同じ有り様だった。
その結果、多少の兵が追い付いてくると予想し、先に進発していた景虎の思惑は外れ、信濃国境で立ち往生することになる。
戦国時代の兵は、未だ兵農分離が進んでいない。つまり、農閑期の出稼ぎ兵が多く、越後も例外ではなかった。最も早く兵農分離を進めた織田信長でさえも、その実現はもう少し後になる。
恐らく、今回は冬から用意周到に準備を重ねて、計画的に出兵した武田晴信のほうが一枚上手だった。降雪量の違いはあれども、越後と信濃の雪解け時期はほぼ変わらない。
景虎が国境付近で、兵の招集に苦心している間に、晴信軍本体を加えた武田勢は、更に侵攻を進める。遂には、景虎の親戚筋に当たる高梨政頼の居城・飯山城まで、押し寄せていた。
飯山城は単なる親戚筋の居城に止まらない。越後とは目と鼻の先に位置する重要拠点である。もし、この城が武田の手に渡るようなことがあれば、まさに喉元に刃を突きつけられた危機的な状況に陥ることになってしまう。
再三の援軍要請にも関わらず、遅々として参陣しない景虎に対して、城を守る高梨政頼はもう手段を選んでいる時ではなくなっていた。遂に脅しとも取れる内容の書状を送りつける。それは「これ以上、城を守ることは出来ぬ。ご出馬が遅れるようなら止むを得ない。敵方に城を明け渡すしかない」という内容だった。
景虎にしても、今度こそ武田晴信の息の根を止めてやる、と意気込んで臨んだ出陣にも関わらず、思うように兵が集まらない。業を煮やしているところに、政頼からの書状だから堪ったものではなかった。こうなったら止むを得ない。
「寡兵であろうとも構わぬ。義叔父上を見殺しには出来ぬ。飯山の落城を阻止せねば、末代までの恥となる。参るぞ」
景虎は、わずか兵二千足らずで飯山城に急行した。弘治三年(一五五七年)も、早や四月を迎えうとしていた。
ところが、景虎急行の報を耳にした晴信は、すぐさま飯山城の攻囲を解き、一旦塩崎城まで引き下がってしまった。晴信は景虎の軍勢が未だ寡兵であることを知らないはずがない。
相手が寡兵でも長尾景虎である。正面切っての戦は、相当の犠牲を覚悟しなければならず、敢えて回避したのだ。大軍を動員した晴信だが、その内訳は信濃と甲斐の半農の出稼ぎ兵が大半である。
ここで大量に死傷者を出すことは、農業生産力の減少をも意味し、それだけは絶対に回避しなければならない。また、特に、傘下に入って間もなく、いつ離反するとも限らない信濃兵の損耗は、極力避けなければならなかった。
いずれにせよ、これで飯山城の危機は遠ざかった。飯山城に入った景虎は、高梨政頼に遅参を詫びるとともに、飯山の地からあらためて越後の諸将に参陣を呼び掛けた。
すると、今度は越後の各地から続々と諸将が参陣し、兵の数も瞬く間に七千五百にまで膨れ上がる。もともと諸将が景虎の参陣要請を拒んでいたのではない。兵が集まらないだけなのだ。田植え作業を終えた兵をかき集めた諸将が、これ以上の遅参は拙いとばかりに、慌てて駆けつけてきた結果だった。
ようやく態勢が整った景虎は、全軍で信濃を南下し、山田城・福島城・長沼城といった敵方の出城を次々と攻略し、その勢いのまま善光寺平へと向かった。
景虎勢が横山城に入ったのは、弘治三年(一五五七年)四月十八日のことである。横山城は善光寺のすぐ隣の小高い丘に並び立つ平山城である。
この時の善光寺は、既に魂の抜けた、単なる建造物になっている。本尊の善光寺如来像は武田の手にわたり、他の重要な仏像仏具は越後善光寺に移してしまっていたからだ。しかし、巨大な建造物を戦時に利用する価値は十分にあり、景虎はこれに着眼した。
もちろん、信心深い景虎が、城として利用するはずがないし、その用途にも適しているわけではない。善光寺の建物を横山城に収容できない将兵の寝所代わりとして利用したのである。
景虎はこの善光寺・横山城を拠点として、その南西に位置する旭山城を再建させた。ここは一昨年の和議の際に破却させた城である。栗田永寿の寝返りがなければ、もともとは越後勢の重要拠点としていたところだ。葛山城が敵の手によって焼失した今となっては、武田勢を牽制する意味でも、旭山城の再建が急務だった。
景虎の目的は、この旭山城再建により、善光寺・横山城との二方面から、南にいる武田晴信に向けて、いつでも攻撃出来る態勢を整えることだった。
以降、景虎は塩崎城に留まっている晴信に対して、しきりに挑発するが、一向に出てくる気配がない。越後勢が余程隙を見せるとか、指揮系統に緩みが見つからなければ、到底攻めてきそうもなかった。
弘治三年五月十日、景虎は自らの苛立ちを紛らわすかのように、今度は晴信討伐の祈願文を、飯山の小菅山元隆寺に奉納した。
しかし、そのような景虎の焦燥をよそに、相変わらず晴信の動く気配が感じられない。
業を煮やした景虎は、遂に自ら全軍で動いた。向かった先はなんと、八幡原を越え、晴信が陣取る塩崎城を西に見ながら、更に南進した坂城だった。
坂城に到達するには、かつての村上義清の居城である葛尾城より更に南に進まなければならない。第一回目の対戦時に攻め立てた、荒砥城を西に望む場所に位置する。
まさに敵の懐深くまで入り込んでの対陣だった。
景虎としては、これが武田晴信に対するぎりぎりの挑発だった。しかし、今度こそと思えたこの策にさえ、晴信は動こうとしなかった。
その代わりに、景虎が幻の者から入手した報せは、全く反対方向からの軍勢接近だった。
北条氏康が派遣した援軍三千五百が、上野国を経て、信濃国・上田に向かって急行しているという。総大将は北条家臣団のひとりである北条綱成らしい。晴信からの要請に従ったものだ。その標的はもちろん景虎である。
上田と坂城の距離は直線にしておよそ三里しか離れていない。北条軍は、もう目と鼻の先に迫っている状況だった。
晴信はこの時、諸手を上げて喜んだ。まさか景虎がわざわざ坂城まで南下してくるなどとは、思ってもいない。このまま北条軍が北上すれば、景虎軍の背後を襲うことになる。つまり、晴信勢が北から攻めることで、景虎を挟撃出来る千載一遇の機会が転がり込んできたのだ。
一方の越後勢は、袋の鼠であり、全滅も覚悟しなければならない。景虎は直ちに陣払いを命じた。夜陰に乗じて、密かに坂城からの離脱を開始し、早暁には塩崎城のはるか東に位置する妻女山麓を抜け出ることに成功していた。
翌朝、無事善光寺・横山城へと辿り着いた景虎は、間一髪で危機を脱出したことになる。一方の晴信は、景虎を討ち取る最大の機会を逸してしまった。
弘治三年六月二十三日のことだ。これは西暦で言うと八月十一日にあたる。言うまでもなく真夏である。晴信は遠路援軍としてやってきた北条綱成を丁重に労うが、問題は暑さ対策である。越後勢を挟撃する機会が失われた段階で、援軍を活かす最大の策は既に失われてしまっているが、このままでは、炎天下の中で長々と対陣させる羽目になってしまう。晴信は北条勢を荒砥城と葛尾城に分けて配置することで、事なきを得ていた。
一方、横山城に戻った景虎も、南方の晴信に目を光らせながら、柿崎和泉守景家に兵二千を与え、野沢城の市河藤若を攻めさせたが、なかなか落城には至らない。野沢城は、北信濃にあって武田方の楔とも言える城であり、ここを攻略する必要があった。敵のお株を奪って、高梨政頼を通して調略も行ったが、応じるまでには至っていない。
こうして、甲越両雄の読み合いや策略が、嚙み合うことなく、謂わば、空振り続きの状態が続き、またもや、徒に月日だけが過ぎていった。
季節はまたもや、秋を迎えていた。此度の対陣も既に五か月に及ぶ長期となり、再び兵も倦み始めている。
ここに来て、さすがの武田晴信も焦り始めた。
もう、駿河の今川義元に対して、仲裁の労を願うという訳にはいかない。起死回生の手はないか考えてはいるが、相手が相手だけに簡単には思いつかないのだ。
晴信は弟の典厩信繁と、野田城を守る
「されば殿、もうすぐ霧の深い日が訪れます。北条軍には城に留まって貰い、後詰めを任せて、その払暁に、この塩崎城から軍を進発させ、善光寺・横山城を襲うという策は如何でしょう。先ず、東に軍を動かし、尼巌砦の麓で小休止の後に、暫し千曲川沿いに進みます。上野原の手前で反転して、横山城を急襲するという道筋ならば、先ず敵に気づかれる心配はございません」
周辺図を指で動かしながら、飯富兵部が自らの戦術を示した。
「しかしそれでは、敵方の
典厩信繁が危惧するのは尤もだ。景虎の怖さを一番知っているのは典厩なのだ。
「むろん、その危険があるのは重々承知のうえです。そこで、軍を二手に分けるのです。一方は髻山砦を牽制する軍であり、もう一方の本軍は善光寺・横山城を目指します。これで挟撃の懸念は払拭されましょう」
「確かに挟撃は避けられる。しかし、越後勢の動きは変幻自在。これまでも煮え湯を飲まされておる。慎重に考えるべきと思うが、兄上は如何か」
典厩信繁は、晴信の考えを求めた。
「典厩が心配する気持ちはわかる。かく言う儂も同じ気持ちじゃ。しかし、恐れていては何も進まぬ。兵部の策を基とするが、横山城攻めの後詰めを、儂が引き受けるというのはどうじゃ。つまり、第三軍として、本体から東側に少し距離を置いて陣構えする。もし、敵が迂回して我が本隊の側面を襲うような動きがあれば、それを封じ込めることが出来る。これでどうじゃ、典厩」
「なるほど、その陣構えであれば、敵の如何なる想定外の動きにも、臨機応変の対応が可能となります」
典厩の返答に対し、満足そうに頷くと、晴信は軍の編成を語り始めた。
「主力は兵八千で善光寺・横山城を攻める。典厩、そなたが大将じゃ。先鋒は馬場民部とする。馬場民部には戦の才覚があるとみている。それを試す良い機会だ」
馬場民部とは、馬場民部信房のこと、後の馬場美濃守信春である。
「飯富兵部、そなたには髻山砦を兵二千で牽制してもらう。主力から外れるのは、些か不満かもしれぬが、戦況を見極めながら、時と場に応じた立ち回りが出来るのは、そなたを置いて他にはおらぬ」
「承りました」
「儂は兵三千を率いて後詰を務める。主力本隊から少し離れて進み、越後勢の変幻自在とも言える動きに備える。これで総勢一万三千じゃ。深い霧が出るのは、朝晩が冷える秋晴れの日と決まっておる。真田にいつが良いか探らせよ。また、全軍にはいつでも進発出来るように、戦支度を整えさせよ」
晴信はようやく腹を決めた。
弘治三年(一五五七年)八月三十日払暁、予想通りその日は霧が深かった。辺り一帯に立ち込め
ている、霧の中を総勢一万三千の武田軍が、塩崎城を静かに進発した。
この時、景虎は未だ武田軍の動きを知らない。
しかし、妙な感じが纏わりついて離れない。夜明け前から早くに目が覚めてしまっていた。その後もなかなか寝付けない。何のせいかが分からないというのは、自分の記憶には今までにないことだった。
どれくらい経ったのだろうか、外に人の気配がする。覗いてみると、そこには片膝を立てて控える幻蔵がいた。
「どうした、何かあったか」
「武田大膳太夫、本日払暁、塩崎城を進発。総勢一万三千。進路を東に取り、今は尼巖砦の麓で小休止中との伝令でございます」
「そうか、なかなかの大軍だな。やっと動いたか。奴の狙いは読めたぞ。我らに気づかれぬよう、
霧を利用して、そのまま軍を北上させて後、一気に進路を西に変えて、この横山城を襲うつもりに相違あるまい」
「先ず、間違いはないかと」
「よくやった。攻め寄せてくる方向はおよそ見当がつくが、今日の霧は一段と深い。更なる詳細の動きを掴み次第、また報せてくれ」
「ははっ」
幻蔵は立ち上がると、その姿は忽ちのうちに、濃い霧の中に消えていった。
景虎は直ちに主だった将を、叩き起こして招集した。軍議などと悠長なことをやっている場合ではない。一刻を争う一大事なだけに、一方的に敵の動きと戦法を通告した。
「敵が動いた。その数およそ一万。その数から、狙いはこの横山城に相違ない。恐らく、髻山の砦を牽制しつつ、我らに悟られぬよう霧に乗じて、北東から攻めてくるという算段だろう。そこで我らは先読みして、ここ上野原に陣を敷く。全軍七千五百で敵を迎撃する」
景虎は図面を指で動かしながら、幻蔵の知らせをもとに敵の動向を伝えた。
敢えて、敵兵の数は少なく伝えた。ここ横山城に控える兵の総数は約八千、守兵五百を除く実質の戦闘員は七千五百である。
戦は事前の気構え次第だ。敵の総数を聞いて怖じ気づく将兵がいなとも限らない。それに武田晴信の慎重な性格から推し量れば、恐らく後詰の兵として三千程度は割くとみた。これまでの戦いぶりから考えても、不測の事態に備えて軍の編成を行っているだろう。実質一万という兵数も、あながち間違いではないはずだ。
「全員に急ぎ兵糧を取らせろ。戦支度が整った隊から順に進発じゃ。言いたいことがあれば、今言ってくれ」
「殿、此度はひとつお願いがございます」
その声の主は長尾政景だった。
「何でござろう、新五郎殿」
景虎は平時の物言いとは区別し、「義兄上」とは言わない。正式な席上や戦場においては、あくまで国主であり、総大将として接しなければ、諸将に示しがつかないからだ。
「これまでの戦において、時には留守居役を仰せつかり、また時には陣中において後詰を承ることが多くございました。しかしながら此度の戦は、我が上田長尾衆の武名を、ここ信濃においても轟かせる絶好の機会と存じます。ついては、この新五郎政景が、先陣の命を賜りとう存じます」
「よくぞ申された。では、本日の戦、先陣は上田長尾勢といたす。存分なお働きを期待しておりますぞ」
この二人のやり取りを、他の国衆は目を丸くして聞いていた。まさか、景虎が同族一門の筆頭である政景に先陣を言い渡すなど、他の国衆にとっては想定外のことである。
実はこのやり取りは、事前に二人の間で仕組まれたものだった。
時は数週間前に遡る。
政景は善光寺・横山城本陣に景虎を訪ねていた。
「この戦、またもや膠着が続きますなあ。両軍ともに決め手を欠いております。このままですと、先年の戦のように、冬を前にして双方痛み分けとなる公算が大きいのではございませんか」
「いや、敵は必ず動くとみております。我が軍も辛いが、敵はもっと辛いはず。甲斐からの長期遠征で、兵の士気を保つのが容易ではないはずです。それに信濃衆の多くは武田の軍門に下って未だ日も浅く、まこと信用できるのは真田幸隆くらいでしょう。他の信濃衆の信頼を繋ぎとめておくためにも、このまま一戦もせずに、のこのこ引き下がることは出来ぬはずです。そこに、我ら、越後勢の付け入る隙が、生まれると踏んでおります」
毎度のこととは申せ、景虎の戦場における読みの深さには感心させられる。そう思いながら、政景は続けた。
「なるほど、確かに敵の身になってみれば、簡単には引っ込みがつきませぬか。それであれば、殿、ひとつお願いがございます」
「あらたまって何でございましょう、義兄上」
「おそらくは、次が一戦に及ぶ最後の機会でございましょう。その先陣を我が上田衆に賜りたいのです」
「なんと、それは」
政景からの急な申し入れに、景虎は一瞬戸惑うが、直ぐに気を取り戻した。
「義兄上を、さような最前線に身を晒させてしまうことは出来ませぬ。義兄上は副将としての立場で戦を指揮して貰わねば困ります。それに、もしものことがあれば、姉上や卯松に合わせる顔がございませぬ」
その景虎の反対を遮るように、政景は尚も粘り拘った。
「殿のご配慮には感謝申し上げる。しかし、我が上田衆にも、戦にかける意地と矜持があるのです。此度こそは、越後に『精強なる上田衆あり』と世に知らしめねば、儂の、いや上田衆全員の気が済まないことを、どうかご理解頂きたい。それに、これは同族一門を優遇している、という他の国衆の密かな不満を、抑えるためでもあるのです」
確かに、これまで景虎は、政景と上田長尾家に対して、細心の心配りを行ってきている。その心配りに対しては、政景も十分に結果で応えてきているが、今、政景に言われた通り、確かに他の国衆の視点に立った配慮が、多少欠けていたことは認めざるを得ない。
「義兄上、
「なるほど、それなら他の国衆から、妙な詮索もされずに済むということですね。突然、一方的に殿から先陣の指名があれば、何かあったのでは、と勘繰られるのが常ですから、敢えて無用な火種を自ら作る必要はない。それでは、その時が参りましたら、自ら進んで先陣を申し出ることにいたしましょう」
政景は満足そうな笑顔を景虎にみせ、景虎も目を細め静かにうなずくことで応えていた。
弘治三年(一五五七年)八月三十日卯の刻(午前六時頃)過ぎ、越後勢は長尾政景を先鋒とする陣
を上野原に敷いた。陣形は魚鱗である。
その頃、武田勢は尼巖砦の麓で小休止を終え、千曲川沿いから西南方向に位置する横山城に向
けて、ひたすら進軍中だった。
そこに先行していた斥候から晴信のもとに注進が入る。
「申し上げます。越後軍、既に上野原に陣を敷き、我が軍勢を待ち構えている様子。霧で確かな兵数は計りかねますが、大軍であり、ほぼ全軍で押し出してきたものと思われます」
晴信は直ぐに百足隊を招集した。
「拙い、典厩と飯富兵部を呼べ。一旦、進軍を止めるよう全軍に伝えよ」
晴信の伝令が方々に飛んでいく。
やがて、前方を進み本隊を指揮する典厩信繁と、髻山牽制隊を率いる飯富兵部が、晴信のもとに駆けつけた。それぞれの大将を呼び戻すということは余程のことだ。何か異変が生じたことは疑いがなかった。
「典厩、兵部、策は破れた。敵は善光寺・横山城にはおらぬ。既に上野原に陣取って、我らを待ち構えておる。よいか、これから我らは足色を落として、ゆるりと進軍し、上野原手前で霧が晴れ、見通しが利くようになるまで待機する。かくなるうえは、我らは全軍で、上野原に待ち構える敵と一戦交えるしかあるまい。飯富も我ら後詰も、本体に合流する。飯富隊は本体と我が後詰の間に入ってくれ。もし、敵が横から本隊を襲ってきた時は、指示を待たずに直ちに出撃して構わぬ。但し、勝手な抜け駆けを許してはならぬ。本隊では、全て典厩の号令で動くことを全軍に叩き込め。あとは必要に応じて、儂が後方から下知する」
急ぎ、二人が駆け戻っていく。
それにしても、長尾景虎とはまこと恐ろしき奴よ。こちらが裏をかくつもりが、危うく敵の策にまんまと嵌められるところであった。あのまま進軍していれば、我が軍本隊の右翼が側面から襲われていた。相当の犠牲が出たのは間違いない。まさに間一髪であった。
晴信は胆を冷やしながら、心の中でこう呟いていた。
霧が徐々に薄くなるにつれて、敵の全容が掴めてくる。一万余の敵兵が待ち構える戦場は壮観と言うしかない。長尾政景は馬上にあって、軽く武者震いをした。幸い誰にも悟られていない。
敵も我らが上野原に陣取ったことに気づき、側面からの攻撃で撃破するという策はもう取れない。両軍が正面から睨み合って、戦機を伺っている。
焦るな、新五郎。先陣に逸ってはならぬ。むやみに突っ込むような愚を犯しては敵の思うつぼとなる。それにしても、なかなかの堅陣だ。攻め手が見つからぬ。ここは我慢比べか。しかし出る。必ずどこかに綻びが出る。それを見逃すな。
政景は根気強く敵陣を凝視し続けた。
いつの間にか、陽は高く上り、秋色に染まった上野原を照らしている。
政景は敵の先鋒に、些か落ち着きのない一人の侍大将を見つけ目で追いかけていた。先ほどから頻繁に馬を左右に回わしている。あれは自らの逸る気持ちを、必死に抑えている証だ。
「伝令」
いざ、こちらから仕掛ける場合は、景虎に伝える手筈になっている。
「殿に急ぎ伝えよ。これから、あの左右に激しく動いている武者の隊に嗾けてみようと思う。その動き次第で道が開けるかもしれぬ。その時は存分に働きくだされ、とじゃ。行け」
「委細承知」
伝令を受けた騎馬武者が、景虎の待つ本陣に駆け去っていく。それを目で送りながら、政景は引き連れてきた軍勢を前に大音声で叫んだ。
「皆の者、よく聞け。我らはこれから、あれに見える敵の先鋒に仕掛ける。弓手は儂の号令で前に出よ。矢が届く間合いに入ったら、急ぎ三本を射かけるのだ。敵は気が逸っているから、必ず誘いに乗ってくる。敵が突出すると同時に、我ら騎馬隊は二手に分かれ、一旦後方に散ると見せかけて反転し、左右両方向から挟撃する。槍隊は弓隊と速やかに入れ替わり、騎馬隊での攪乱の後を、正面から叩けるだけ叩け。その後のことは戦況をみて判断する。よいか、この戦は我らの働き次第で決まる。我ら上田衆の武名を轟かせる絶好の機会と心得よ。しかし、絶対に抜け駆けは許さぬ。全員、儂の指令に従え。良いな」
「おう」
上田衆の掛け声が地響きのように後方の本隊に伝播した。
敵の動きが慌ただしくなってきた。
先鋒を承った馬場民部は、典厩信繁からの突撃指令を待っているが、一向にその気配はない。
幾度となく、後方に陣取る典厩信繁に伝令を送っても、返ってくるのは、未だ待て、の指令のみだった。
その血気に逸り、焦れている馬上の姿が、敵将・長尾政景の眼に止まっていることなど、知る由もない。勇猛果敢で知られる馬場民部少輔信房は、この時齢四十三を迎え、壮年の域に達していたが、侍大将としての経験は未だ乏しい。逸る気持ちが何気ない動作に表れていた、としても仕方がなかった。
この時の典厩信繁は、横山城急襲の策が破れた以上は、正面切っての決戦は回避しようとしていた。これまでの苦い経験が蘇り、積極策には慎重にならざるを得ない。
とは言え、こうして大軍同士が対陣しているからには、信濃国衆の手前、一戦も交えずに退ける状態でもない。また、睨み合いが続くなかでの、軍の退き方が難しいことも知っている。下手をすれば、退くところを襲われて総崩れになる危険すらある。
先鋒の馬場民部からは矢の催促を受けているが、その都度、戦機は未だ熟さず、と追い返していた。
気づけば、陽も高く上り、午の刻(正午)を迎えようとしている。まさか、このまま夜を迎えるわけにもいかない。そもそも、今日に限っては機が熟することなどないのかもしれない。
典厩信繁は、一度目を閉じて一呼吸を置き決断した。
「馬場民部に伝令、頃合いを見極めて攻め立てよ、とな」
赤色の具足を纏った百足隊の兵士が駆け去り、馬群の中に消えていった。
それと同時だった。遥か向こうの敵方から、矢が降り注ぐように射かけられ、味方の先鋒に吸い込まれていく。先手を打ち、仕掛けたのは越後勢だった。
しまった。一呼吸遅れたか。
「源五郎、真田隊と共に兵を率いて、直ちに馬場民部を援護せよ」
源五郎とは高坂弾正虎綱の幼名である。高坂弾正は真田幸隆隊と共に前線に急行した。
思った通りだった。敵の先鋒がまんまと誘いに乗ってきた。長尾政景は敵の突出してきた騎馬隊を、挟み込むように馬を回し攻め立てた。
しかし、なかなか思うようには崩せていない。敵将は開戦前の様子とは打って変わり、冷静に指揮しているようだ。騎馬隊をしっかり左右二手に分けて応戦してきている。
このような騎馬隊同士の混戦状態では、どうしても槍隊の働き場が失われてしまう。目の前の敵を打ち払いながら、どうしたものかと考えあぐねていると、急に前方の敵が崩れて抵抗が薄れた。
庄田惣左衛門尉定賢率いる騎馬隊が、鋒矢(ほうし)の陣形で敵の側面に突っ込んでいたのだ。
戦の定石では、旗本が総大将の陣取る本陣を離れて、戦の最前線に回るなどはあり得ない。しかし、この景虎の采配こそが、戦に関して天賦の才を持ち、その右に出る者はいない、と言われる所以だった。
この奇襲によって崩れた馬場民部隊に、長槍隊が総攻撃を仕掛けたから、武田軍は堪らない。
しかし、総崩れとなるかに見えたのも、ほんの一瞬でしかなかった。
急行した高坂弾正の隊が、崩れかけた先鋒を吸収しながら、上手に後退させており、攻撃の波が伝わりづらくなっている。
そこにまた新手の軍が加わった。旗印は六文銭、真田幸隆の軍勢である。逆に越後勢を挟撃に入る構えだ。政景は一旦軍を退こうとするが、攻めの勢いを簡単には止められない。このままでは味方に大きな犠牲が出てしまう。それを阻止せんと、猛攻を仕掛けたのが、直江実綱軍と柿崎景家軍だった。挟撃態勢に移っていた真田軍を左右から搾り上げてきた。こうなると、真田軍も退かざるを得ない。
その頃合いをみて景虎は、直ちに退き鐘を命じた。
景虎は横に大きく広がった戦場を
一方の武田信繁も、これ以上の犠牲は望んでいない。越後軍の退却に合わせて、全軍に撤退を命じた。
やがて、両軍の間には半里ほどの距離が生じ、またもや双方は睨み合いに入った。既にこの時、陽は大きく西に傾いている。
両軍にこれ以上戦う気はなかった。申の刻限(午後四時)を迎えると、申し合わせたかのように双方が後方から順に軍を退き、酉の刻(午後六時)には、上野原から完全に人の気配が消え去っていた。
横山城に戻った景虎は、先鋒を担った長尾政景を、早速本陣に招き寄せて、その功を労った。
「新五郎殿、先鋒の大役、見事でございました。今日の戦で我が方が挙げた首級は、凡そ四百五十に対して、失った兵の数は百足らずでございます。あの乱戦の中で、これだけの戦果はなかなかのもの。さすがは精強を誇る上田衆です。」
景虎の賞賛を、政景は素直に喜べない。
「敵の先鋒、馬場民部とやら、なかなかの強者でした。軍の動きも敵ながらあっぱれ。庄田殿の援軍があればこそ崩せた相手で、我らだけでは如何ともいたし難く、きっと往生していたでしょう。さすがは殿の采配と、あらためて感服しております。それに高坂隊に加えて、真田隊が迫ってきた時は、正直これまでかと観念しました。その時も、直江殿と柿崎殿に救われ申した。ご両人の援軍がなければ、どうなっていたかと思うと、今思い出しても鳥肌が立ちます」
「いいや、戦は全軍で挑んでこそ、勝機が掴めるというもの。先鋒を周りが支えるのは当然の務めというものです。新五郎殿が戦機を見極めて、先端を開いてくれたからこその勝ち戦でござる。それに、あの難しい引き際を、ほぼ無傷で撤収出来たのは、お見事と申し上げる他ありません」
同席していた直江実綱が、些か不満げな政景を慰めてくれた。しかし、その言い分は的を射ていた。戦場においては特に、撤退が一番難しいことは、誰もが知る常識だ。日頃の鍛錬と、兵の操縦術が要求される。その意味でも政景の采配には、事実目を見張るものがあった。
それでも、政景は、この程度の勝ち戦で納得できるものではない。開戦前から、この一戦に賭ける意気込みは、並々ならぬものがあった。
「殿、またの機会があれば、是非とも再度先鋒を仰せつかりたい。今度こそ、敵を圧倒してご覧に入れましょう」
景虎はこの時、何故か政景が生き急いでいるように思えてならなかった。一種の危うさを感じていながらも、やはりそれを口にすることは憚れた。政景には、直江実綱と同様に、自分の片腕としての役割を期待しているし、充分にその力量もある。自身が出奔騒動から、こうして国主の座に舞い戻っているのも、政景の働きが大きい。戦での手柄などは、他の国衆に任せればよく、あくまで二の次でよかった。
「何とも頼もしきお言葉。いずれ、その時が参りましょう」
こう言って政景を見つめ、その場を取り繕うしかない景虎だった。
同じ頃、晴信は全軍を率いて、尼巖砦に向かっていた。弟の典厩信繁と
一晩を砦で過ごし、翌日、塩崎に帰城するつもりだった。
「なかなか、敵の虚を突くというのは至難の業のようじゃ」
晴信が真っ直ぐに前を見ながら信繁に話かけた。
「まこと、左様でございます。我が軍の動きを事前に察知していたのでしょう。腕利きの忍びを数多く抱えているものと思われます」
「しかし、それは我らの三ツ者も同じであろう」
三ツ者とは武田晴信(信玄)が抱えた隠密集団の総称である.
「仰せの通りです。しかしながら、戦の折には敵の忍びの相当数が、この北信濃に入り込み、複数の組に分かれて、連携を取りながら動き回っている様子です。なかなかその正体を掴ましては貰えません」
それを聞いた晴信は、暫く何事か考えている様子だ。こういう時の晴信に対しては、再び口を開くまで待つしかない。
「いま、三ツ者の総数はどれくらいか」
「およそ六十人と聞いております」
「ならば、ここ数年で倍に増やせ。銭は使って構わぬ。腕の立つ者を集めよ。戦の折にはこの信濃に集めて、敵と思しき者を捕捉次第、抹殺していく他あるまい。頼んだぞ」
「承知仕りました」
「ところで、民部と源五郎の働きぶりは如何であった」
「二人とも、なかなか良い働きぶりでした。馬場民部の用兵はしぶとく、敵の先鋒である長尾越前守政景も、相当手を焼いたものと思われます。景虎旗本隊の庄田惣左衛門尉なる者に攪乱されていなければ、ほぼ互角の戦いでした」
「毎度とは言え、景虎という男、想像を超える突飛な策を弄する奴よ」
「全く。その後の槍隊の攻撃も侮れません。高坂隊と真田隊が少しでも遅れていれば、お味方が危うく大きな損害を被るところでした」
「兵四百五十の損害で済んだのは、不幸中の幸いと言うべきか。それにしても、景虎を何とかしなければ、一向に信濃攻略が進まぬ。いずれは雌雄を決する他あるまい」
晴信は嘆息しながらも、この時、やがて迎えるであろう、景虎との決戦の日を覚悟していた。
遠くに見えていた尼巖砦の
「明日は一雨降りそうです」
典厩信繁がぽつりと呟いた。
双方ともに、この上野原での激突が限界だった。秋は深まる一方で、朝晩の冷え込みが増すばかり。これでは兵の士気が下がる一方だ。何よりも二度目の長期対陣により、望郷気分が将兵の間に蔓延している。顧みれば、此度も双方半年余りの、不毛とも言える月日を費やしてしまっていた。
景虎にとっては、旭山城の再構築と確保が唯一の成果で、北信濃の守備態勢を固めた後に、九月早々に帰国の途につく他なかった。
一方の晴信も、景虎帰国後、川中島以南の支配固めと論功行賞を行い、十月に甲斐へと引き上げた。
但し、武田晴信はただ帰国した訳ではない。尼巖砦の麓を蛇行するように流れている千曲川を、堀として利用した城を築くよう、高坂弾正に命じていた。
晴信は、北信濃の支配を盤石にし、越後勢を駆逐するには、西側の塩崎城だけでは物足りないことに気がついていた。そこで、東側の平地に一大拠点を築き、越後勢の南下を防ぐために、手を打った結果が、この築城命令だった。後の海津城である。
こうして、三度目となる川中島での対戦も、上野原での衝突以外は、双方擦れ違いのまま終結を迎えた。
しかし、これまで三度にわたる対戦にも関わらず、一向に決着がつかないという甲越双方の鬱憤は、時の経過とともに蓄積されて増幅していく。また、その後の数年間の晴信と景虎の動向が、鬱憤の増幅に拍車を掛けることにもなった。それがやがて、永禄四年九月の一大血戦へと、両者を導くのである。上野原の合戦は、あくまでも、その前哨戦に過ぎなかった。
*信濃守護
この頃、名を義藤から改めた室町幕府第十三代将軍足利義輝は、未だ近江国・朽木谷での
むろん、朽木谷での暮らしに満足し、安穏と日々を過ごしているはずがない。この時、畿内覇者として権勢を振るい、まさに我が世の春を謳歌していた、三好長慶打倒を模索しながら、密かに入京の機会を伺っていた。
義輝は再度入京を果たすに当たっては、朽木稙綱や六角承禎といった近江国の有力諸将の助勢だけでは、巨大勢力を誇る三好勢に対抗するには、心許ないと考えている。つまり、遠方国の有力武将を含めた反三好勢力の結集と、三好包囲網の形成が必要不可欠と判断していた。
その中でも特に、先年上洛を果たし、雑掌・神余親綱を通して、幾度も
弘治三年(一五五七年)十二月、年の瀬が押し迫る頃、義輝は政所執事である伊勢貞孝と、朽木谷の主であり、義輝を庇護している朽木稙綱の三人で、如何にして景虎を上洛させるかを、真剣に密談していた。
「公方様、長尾弾正少弼景虎なる越後の主は、聞きしに勝る傑物でございます。公方様がご執心なのも、いちいち頷けます。先年の上洛の折の評判は、小耳に挟んではおりましたが、まこと義侠の
それまでは、越後の田舎者としてあまり知ろうともせずに、興味を示してこなかった朽木稙綱だったが、景虎の噂や評判を集めた結果がこうだった。ケチをつけようがない。
「予がかねてより言っていることを、ようやく分かってくれたか。しかし、長尾弾正景虎は単なる義侠の漢と片付ける訳にはいかぬ。越後は上野国や信濃国に接しているが故に、自国の防衛ということも念頭に置いたうえでの、国外出兵であろう。しかし、その方の言う通り、奪い返した領地領民を、全て元の主に全て返還しているとは、
義輝の想いに対しては、政所執事の伊勢貞孝が水を注さざるを得ない。
「公方様、しかし、長尾弾正を上洛させるのは、至難の業と心得ます。たとえ弾正が上洛を望んだとしても、甲斐の武田大膳太夫晴信が、それを黙って見過ごすはずがございません。つい三月ほど前まで、信濃国・善光寺平で甲越両軍が戦っていたというではございませんか。既に対戦は三度に及びながら、双方相譲らず未だに決着がついていないとか。もし、長尾弾正が越後を留守にして上洛したと武田が知れば、北信濃から越後への侵攻を企てるは必定でございます。そのような不安があるうちは、長尾弾正の上洛が叶うことはないと存じますが」
「然らば何とすればよい。何か良い方法はないものか」
些か憤っている義輝に対して、伊勢貞孝は待っていました、と云わんばかりに、平静を装い、自案を提示した。
「妙案がございます。以前から武田大膳太夫は、甲斐守護に加えて、信濃守護への任官を欲しております。その申し入れを呑み、信濃守護に任ずることを条件として、公方様が甲越両者の和睦仲裁の労を取り持つ、というのは如何でございましょうか」
それを聞いた義輝は驚いた。
「信濃守護には、未だ小笠原長時がおるではないか。ましてや、長尾弾正がそれを快諾するとは、とても思えぬ。余が武田を信濃守護に任ずるということは、信濃の支配権が甲斐に移ることを、公式なものとして認めることに他ならぬ。つまり、長尾弾正が正義と信じて疑わない、信濃国衆を助勢するための出兵が、不義という理屈になる。そもそも左様な話を、長尾弾正が受け入れるはずはなかろう」
「公方様の仰せは尤もなれども、武田大膳太夫を納得させて、長尾弾正を上洛させるには、この伊勢殿の策しか残されていないと心得ますが」
傍で聴いていた朽木稙綱が、ここぞとばかりに伊勢貞孝の案を後押しした。稙綱の賛同を得て勢いづいた貞孝が更に続けた。
「公方様、これには裏がございます。武田大膳太夫を信濃守護に任ずるのは、ほんの
「そのように任官を軽々しく考えることは罷りならぬ。それにその方が言う通り、武田が信濃守護に拘っているのであれば、一旦許した以上、易々と撤回を受け入れるとは思えぬ」
「しかしながら、それではいつまでも長尾弾正の上洛は叶いませぬ。そこまで公方様が拘るのであれば、長尾弾正上洛の折には、それより大きな馳走があることを、予め約すれば宜しいのでは」
伊勢貞孝の反論は意味深だった。
「その馳走とは」
「関東管領職でございます」
「なにっ」
義輝は絶句したが、貞孝は尚も続ける。
「現在の関東管領は山内上杉憲政でございます。長尾弾正が越後で庇護していることは、ご存じの通り。しかし、管領とは名ばかりにて、嘆かわしいかな、長きにわたり、有名無実の職に成り下がっております。そこで長尾弾正に関東管領の職を継がせるのです」
「しかし、関東管領は代々、山内上杉家が継ぐことになっておる。越後の長尾家は、その家来筋に当たるもので、越後守護代である弾正が、管領職を継ぐことを簡単に許すわけにはいかぬ」
義輝の言い分は至極当然なものだ。
「長尾弾正を、山内上杉憲政の養子にしてしまえばよいのです。そうすれば、何ら問題はありませぬ」
「なるほど、それは妙案じゃ。しかし、いくら上杉家が名門とは言え、長尾弾正がそう易々と長尾の名跡を捨てて、従ってくれるかどうか」
「そこは公方様が納得させる他ありませぬ。関東管領となれば、関東出兵の大義名分を得るのみならず、立場は甲斐・信濃守護を兼任する武田晴信の上位に当たりますぞ。決して、否という返事はないものかと」
「うむ、確かにその通りじゃ。では、早速、その方向で話を進めるがよい。京にいる神余
ようやく合点がいった足利義輝は、甲越講和の話を前進させるよう、得意満面の伊勢貞孝に命じた。
しかし、この妙案と思えた策も、政所執事の伊勢貞孝が、事もあろうに話を進める順番を違えた結果、一時頓挫してしまう。
本来は、先ず越後の雑掌である神余親綱を通して、景虎に本意を伝えて内諾を得た後に、武田晴信に対する信濃守護職補任の御内書を発するべきところである。ところが、伊勢貞孝は晴信に対して、先に伝えてしまったから、もう始末に負えない。
これが明けて弘治四年(一五五八年)一月のことであるが、こうなったのには裏事情があった。
以前から武田晴信は、正式な将軍義輝に対する陳情とは別に、政所執事である伊勢貞孝に対して、信濃守護職補任の後押しを願い出ていたのだ。むろん、高価な献上金品を添えての陳情である。
将軍義輝が越後
当然、貞孝は『しめた、この機会を逃す手はない』と、内心では、にやにやしながら、義輝に策を授けた結果が、この始末である。順番さえ違えなければ、景虎が諾と返事をするか否かはともかくとして、何の問題もなかったはずである。
しかし、人とはいつの時代も浅はかなもの。更なる
この話が、味方の信濃衆から越後にもたらされ、景虎が激怒したのは言うまでもない。
むろん、神余親綱を通して、晴信信濃守護補任の説明、晴信との和議と上洛要請、関東管領職継承の話が、後から正式に伝達されたが、景虎は到底これを受け入れることは出来なかった。
もし、上洛して欲しいのであれば、そもそもの順番が違う。取引道具として関東管領職就任を目の前にチラつかされるのも不本意であり、また関東管領職そのものを冒涜するものである、と全く取り合うことはなかった。
もちろん、景虎が将軍家に対して直接的表現で上洛を拒否することは誠に畏れ多いことだ。そこで病を理由に上洛は平癒の後、と先延ばす旨の回答に留めるしかなかった。
この失策の張本人である伊勢貞孝は、数年後、義輝によって政所執事を更迭されるのだが、この時も、自身の失策を将軍義輝に報告していない。後日、景虎上洛の折に、この事実が露見し大いに叱責を食らうことになる。
一方の義輝は、かねてより神余親綱を通して、あれほど自分への忠誠を誓い、謁見を望んでいる景虎が、何故かくも消極的で、上洛の話が頓挫しているのか、不思議で仕方がない。
そうこうしているうちに、今度は京で義輝の逆鱗に触れる事件が勃発した。弘治四年(一五五八年)二月に、朝廷が将軍義輝に何ら相談することなく、元号を永禄に改元してしまったのだ。
本来、改元は朝廷と幕府、すなわち将軍義輝と協議のうえ、行うことが慣例となっている。この慣例を無視して、こともあろうか朝廷が、在京の三好長慶と相談のうえ、勝手に改元してしまったのだ。義輝が激昂するのは当然だった。
怒りの矛先は当然、三好長慶に向けられる。義輝は、景虎の上洛を待つことなく、朽木氏や六角氏の支援を受けて遂に、朽木谷で挙兵した。これが永禄元年(一五五八年)三月のことである。
挙兵後、自らの拠点を一歩進め、坂本に拠点を移したまではよかった義輝だったが、当初味方と目された諸将の離反の憂き目に遭ってしまう。この結果、戦況は一進一退の繰り返しで、必ずしも芳しいとは言えなかった。
しかし、敵方の三好長慶は、自らが置かれている状況を冷静に見定め、この場合、決して力で義輝をねじ伏せようとはしなかった。いつまでも将軍家と敵対することは得策ではなく、このままでは、全国の有力諸大名から、反感を食らってしまうと判断したからだ。これ以上、歴史に悪名高い人物として名を残したくない、という気持ちも働いたかどうかは定かではない。
ともあれ、三好長慶は六角承禎を動かし仲介役になって貰い、将軍義輝との和議を成立させることに成功する。
これが永禄元年(一五五八年)十一月のことである。将軍義輝は五年ぶりの入洛によって、ようやく室町御所での幕政を実現させる運びとなった。以降、義輝は自身の権力基盤を確固たるものとするために、仕切り直しで景虎上洛の話を進めることになる。
一方の景虎は、晴信の信濃守護補任などは言語道断とばかりに、その怒りの感情は収まるどころか、日に日に勢いを増すばかりだった。
永禄元年(一五五八年)三月の雪解けを待って、景虎は直参の兵に、村上義清や北信濃の高梨政頼・須田満親勢らを加えて、信濃国の奥深く攻め入った。
この軍事行動は、これまでの三度にわたる川中島周辺における合戦とは、性格を異にしており、武田晴信との決戦を意図したものではない。
信濃国は甲斐の武田に隷属するものではなく、国を追われた身とは申せ、信濃守護職はあくまでも小笠原長時である。信濃の諸国衆が、自領を取り戻すために、景虎は加勢して戦っているということを内外に示す、いわば示威的軍事行動の色彩が強いものだった。
しかも、前年の半年にわたる長対陣から数えて、未だ半年余りしか経過していない中での、急な出兵である。これから農繁期を控える時期と相俟って、兵の招集もままならぬことは承知のうえで景虎は動いた。この時の景虎が、如何に怒り心頭だったかがわかる動きだった。
この景虎の行動に対して、武田晴信は極めて消極策に出た。それは信濃諸将に対して『城門を固く閉ざし、如何なる挑発にも乗ってはならぬ。息を潜めて、越後勢が立ち去るのを待て』という通知だった。兵の招集が困難なのは晴信も同様である。まして、信濃守護の地位を将軍家から公式に認められた以上は、この時期に、越後勢に対抗して出兵する意義は極めて希薄だった。
このような晴信の対応は、景虎もある程度は念頭に置いていたが、信濃諸城の無反応ぶりには、ほとほと閉口していた。どんな誘い水を投げかけても、城内からは音ひとつとして聞こえてこない。火矢を投じても、予め準備していた水桶で、鎮火させる動きしか感じられないのだ。
堪忍袋の緒が切れた景虎は、上田の地よりも更に南下し、今や完全に武田領と化した海野の地まで軍を進める。怒りの矛先は、その地一帯の小砦に向けられたのだが、被害は民家や田畑にも及んでいた。
景虎勢はその一帯を次々に放火して回り、その都度気勢を上げることでしか、晴信の信濃国守護補任に抗議する術はなかった。そこに、景虎や北信濃勢の忸怩たる思いが表れている。
越後国外とは言え、罪のない民を苦しめることになったことは、景虎にとっては極めて不本意であったに違いない。しかし、ここまで挑発の限りを尽くしながら、武田に味方する信濃諸将が応じないのであれば、民の怒りの矛先は、自分たちを守ろうとしない領主にも向いていく。そこまで計算しながら、断腸の思いで命じた行動だった。
この景虎の行動を、現代人の我々の感性で、残虐非道と指摘することは容易だが、当時の戦略や常識からは、決して外れたものではない。敵方の土地の農作物、特に田に植えたばかりの稲が、少なくともその年に収穫出来ないということは、武田方にとっては大打撃なのは間違いない。ましてや、信濃や甲斐は海に面しておらず、四方が山に囲まれ、当時は特に未開の不毛な土地が多い国であり、他の収入源に限りがあるという意味でも、その効果は絶大だった。
それに加えて、景虎が予測した通り、民の怒りは越後勢に向けられると同時に、弱者である民を一切守ろうとせずに、傍観静観を決め込んだ武田に味方する領主に対しても、向けられたという点で、その心理的波及効果は計り知れないものになった。
こうして、景虎は信濃における一方的な示威的軍事行動を終了させ、春日山城に帰還した。永禄元年(一五五八年)五月のことである。
帰還した景虎を待っていたのは、京の雑掌である神余親綱だった。親綱は将軍足利義輝直筆の御内書を携えていた。この時の将軍義輝は未だ坂本の地にあって、京への復帰を伺っている状態にある。
この御内書は、政所執事の伊勢貞孝が自身の失策を糊塗したまま、景虎の機嫌を直して貰うために、将軍直筆の書状を送ることを提案し、神余親綱に持ち帰らせたものだった。
御内書は、義輝の率直な気持ちが、書面全体に反映したものになっていた。景虎の病を気遣う文面で始まり、病が癒えた後には是非とも上洛して、自分を補佐して欲しいという思いが溢れた内容だ。また、関東の今後についても直に話し合いたい、信濃守護補任についても取り消す意向だ、とも認めてある。
むろん、景虎の病は晴信の信濃守護補任への抗議と、上洛延期を示唆する方便に過ぎない。
この義輝の真摯な気持ちに、景虎が感激しないはずがなかった。
事実、将軍義輝は三好長慶との和睦が成り、京に返り咲いて直ぐさまの永禄元年(一五五八年)十一月に、武田晴信に対して御内書を発している。
それは晴信が依然として北信濃において長尾勢との小競り合いを続けていることから、すぐさま停止するようとの内容である。また、信濃守護補任は、越後との和睦が大前提であり、直ちに争いを止めなければ、守護補任を取り消すという厳しいことも付記してあった。
むろん、晴信が信濃における自身の軍事侵略の正当性を言い連ねて、将軍の御内書に対しても、一切取り合わなかったことは言うまでもない。
一方、将軍義輝の本意と真心を御内書の文面から汲み取った景虎は、神余親綱に返書を持たせて、坂本にいる義輝に送り届けさせた。その返書とは、信濃における争いを棚上げとし、翌年を目途として上洛を果たしたい旨を明記したものである。
未だ入洛出来ていない将軍義輝が、大いに喜んだことは言うまでもない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます