第5話 端境の章 *蒼衣~離反~出奔

*蒼衣

 

 明けて天文二十三年(一五五四年)は、前年の慌ただしさが嘘のように一転していた。景虎改め宗心のは、平穏な日々が続いている。

 一昨年の関東出兵、昨年の信濃出兵に上洛と、まさに東奔西走の日々が、まるで嘘のように感じられた。しかし、繰り返すが、それはあくまで表向きの話である。その陰では、宗心の与り知らぬところで、越後包囲網が着々と構築されつつあった。

 その代表が同年三月に、甲斐・相模・駿河の三国間で締結された三国同盟である。武田・北条・今川という三国の太守が、実子同士の婚姻を交わすことで成立した、いわば人質を取り合っての血縁同盟だった。

 この同盟成立によって、甲斐の武田と相模の北条は、背後を突かれる心配なく、それぞれ信濃と北関東の攻略に向かうことが出来る。何よりも共通の敵である長尾宗心に対して、連携した戦いが出来る。一方、駿河の今川も同様に後顧の憂いなく、三河から尾張、美濃へと軍を進めることが出来るのだ。

 この利害関係が見事に一致した三国の政治的軍事同盟は、永禄三年(一五六〇年)の桶狭間における今川義元の憤死まで、極めて有効に機能し、その後も、信玄による駿河侵攻までの長年にわたり、謙信(宗心)を苦しめ続けることになる。

 同盟締結後に早速、武田晴信が動いたのは、南信濃の制圧だった。佐久、伊那、木曽といった反武田勢力を一掃することに成功した晴信は、以降、本格的な北信濃制圧に向かうことになる。むろん、その前段階としての常套手段である、北信濃・越後の国衆に対する寝返り工作を打つことを忘れていなかった。

 宗心は、じわじわと迫る魔の手の存在を、幻蔵の手の者から報せを受けていた。しかし、少なくとも今のところは、そのような甘い誘いを信じて、不穏な動きを取る不届き者はいないとみていた。当面は注意深く監視を続けるしかない。

 時間をつくっては毘沙門堂に独り籠り、越後と隣国の平安と繁栄、そして民の安寧をひたすら祈る日々を送っているが、その実態は決して穏やかとは言えない。

 越後国内では依然として、僅かな猫の額ほどの土地を巡り、国衆同士の詰まらぬ争いが絶えずに、宗心を悩み苦しませている。

 上洛の時に誓いたかぶった隣国の仇敵討伐の気持ちも次第に薄れ、全てが虚しいものに思えてきてならない。

 宗心は、詰まらぬことを少しでも忘れようと、酒を飲んでは琵琶を奏でた。しかし、酒が進むと、どうしても思い出してしまうのは、蒼衣の面影と美しい笛の音色だった。

 いっそこのまま、仏門に身を投じてしまおうか。清胤法印に師事することも叶った今、決して出来ぬことではない。越後も統一の呈をなし、上野や信濃の国衆にも一応の義理は果たした。帝への拝謁も叶い、もう俗世への未練は何もない。儂の役割は十分に果たしたであろう。ここが引き際かもしれぬ。

 このような厭世的な気持ちになるのは、一度や二度ではなかった。

 宗心は自らが詠んだ「祈恋きれん」と題する和歌を思い出していた。


 つらかりし人こそあらめ祈るとて 神にもつくすわがこころかな


神に対する神聖な思いの歌でもありながら、祈っても叶わぬ想い人がいるという恋心が隠されている。その想いを断ち切ろうともがく、青年景虎(宗心)の切ない気持ちが表現されている。

 越後の秋は朝夕の寒暖差が増すにつれ、山々の紅葉が色づきを増していく。その年も、春日山の木々は、赤色や黄色の濃淡を色鮮やかに際立たせ、眺め観る人の目を楽しませていた。

 儚く散った銀杏の葉は、参道を埋め尽くし、黄金色に染めている。その美しさに心を奪われながらも、その日に限ってはどうも心が騒がしい。妙なわだかまりだけが、宗心にまとわりついて離れないのだ。いったいそれが何なのか、どうしても分からない。大乗寺から戻った申の刻(午後四時)の出来事だった。

 本丸前に秋山源蔵が一人、神妙な面持ちで立っているのが見えた。源蔵は宗心の姿を確認すると急ぎ駆けつけて、すぐさま胸元から白いものを取り出し、黙ったまま神妙な面持ちで、宗心に差し出した。

 与板城の直江実綱からの書状である。不吉な予感がした。それを慌てて広げた。

 そこには、去る九月十六日巳の刻(午前十時)、与板城に戻っていた蒼衣が、静かに息を引き取ったと記してある。

 宗心には何が何だか理解出来ない。蒼衣は善光寺ではないのか、何故与板にいるのか、何故死ななければならなかったのか、全てが吞み込めない。

 それらは全て実綱の書状が教えてくれた。

 蒼衣は今年になって労咳(結核)を発症していたらしい。善光寺に迷惑を掛けるわけにはいかず、密かに与板に戻っていたとのことだった。

 実綱は、幾度も宗心に報せようと思ったが、宗心の心を惑わしてはいけない、と何度も蒼衣が泣いて止めたことも認めてある。春から夏にかけては、滋養のあるものを食べたせいか、一時は元気を取り戻したらしい。しかし、それも束の間のことで、夏風邪が重なり、それからというもの、身体は衰える一方で、遂には帰らぬ人になってしまったとのことだ。今際の際には、かすか声で「弾正様」と一言、それが最期だったと結んである。

 宗心は心の中で叫んだ。


 蒼衣、何故そなたは与板に戻ったことを報せてくれなかった。そなたに会えるならば、儂はどこへでも駆けつけた。

儂をひとり置いて何故こんなに早く逝ってしまったのだ。

最期にせめて、せめて一目会いたかった。もう一度だけでよい、そなたが奏でる美しくも儚い笛の音が聞きたかった。

互いの思いが通じたあの夜、この国に安寧が訪れ、儂の願いが叶うように祈り続けると、あれほど約束してくれたではないか。

約束を果たさず逝ってしまったそなたを、もう儂は叱ることさえ出来ぬ。

儂はそなたのために何もしてはおらぬ。何もすることが出来なかったことが、今悔やまれてならぬ。儂はこれからどうすればよいのだ。

愛しいそなたがいないこの世でどうやって、どうやって儂は。


 どれくらい、時が経過したものか。

 気がつくと、実綱からの書状は涙で濡れ、文字も滲んでしまっている。

日は暮れて、いつの間にか雲の合間に、上弦の月がぽっかりと浮かんでいた。その月明りさえ、今日に限っては煩わしい。宗心はこの世の無常を嘆き、堪えようのない寂寥感に苛まれていた。


 *離反

 

 年を越しても、宗心の心が癒えることはなかった。

そんな傷心の宗心に、追い討ちをかけるような事件が勃発した。

 天文二十四年(一五五五年)一月、未だ雪深い春日山に届いたのは、安田景元からの注進である。

安田城の隣に城を構える同族の北条きたじょう丹後守高広が、武田晴信の裏工作にまんまと乗せられ、謀反を企てているという。

 まさに春日山城内を揺るがす大激震である。

 晴信が小賢しい手を使うことは分かっていたが、それに乗る国衆がいるとは何と愚かなことか。

せいぜい、越後の半分を分け与えるなどという甘い条件を餌に、北と南からこの春日山を挟み討ちにしよう、などという謀略を持ち掛けられているに違いない。

 よりによって、北条丹後守が何故。儂に不満があるのか、それとも欲深なのか。孤立無援になることくらい何故分らぬ。そもそも、武田勢が越後に攻め入ること自体が出来る情勢にはない。今、晴信が狙っているのは、越後の分断と揺さぶりだということが、判断出来ぬ丹後守ではあるまい。

 一方で、宗心は自身の慢心を恥じていた。

 今の政事に、少なからず不満を持つ国衆がいるとしても、謀反を起こす程の者はいないだろうと、と高を括っていたのも事実だった。幻の者一党への探索指令も、信濃や上野を中心とする隣国が主で、近頃は国内の動向探索が少し手薄になっていたことは否めない。

 暫くすると、安田景元に続いて、直江実綱からも注進が続いた。幻蔵には直ちに真偽を確認するよう、先ほど向かわせたばかりだ。内通は事実に間違いないのだろう。しかし、心の片隅では内通が嘘であって欲しいと願っている自分がいた。本音のところでは、今、北条丹後守を失ってしまうことは大きな痛手だった。

 宗心は幻蔵の報せを待たずに、先ずは詰問状を送ることにした。北条丹後守に弁明の機会を与えようという温情である。しかし、待てども暮らせども返事は来ない。いたずらに日々が過ぎるばかりだった。

 やがて、幻蔵からは、既に北条城は戦支度に大忙しとの報せが入った。ここで謝ってくれば、不問に付することさえ考えていたことが、全て無駄となってしまった。

 天文二十四年(一五五五年)二月、北条高広挙兵の報せと同時に、宗心は自ら出陣し、瞬く間に北条城を攻囲し降参させる。

 城崎城主の柿崎景家と安田景元と共に、北条城に入った宗心は、投降してきた北条高広に対して直接詰問した。

「丹後守、そなた程の切れ者が何故、晴信が如き狸の口車に乗ってしまったのじゃ」

「如何なる理由を述べても詮無きこと故に、存分にご処分くだされ。ただ、全て我が一存でなしたる事にて、責めは我一人のみ負う覚悟。どうか、他の者には寛大なるお慈悲を賜りますよう、

お願い申し上げます」

「見上げた覚悟じゃ。お主一人の首で済ませろということか。まあよい。ところで、晴信が何と言って謀反を迫ってきたのじゃ。よいか、此度のことは、お主が考えるほど、単純ではないぞ。

他国の敵に唆されて謀反を起こすなど、この越後では二度とあってはならぬ。そのためにも、沙汰の次第はともかくとして、お主には全てを話して貰う。その答えの内容如何によっては、お主の願いを叶えてやらぬでもない」

 ここまで、目を閉じて宗心の話に耳を傾けていた丹後守だったが、目を開くとしっかり宗心をみつめ語り始めた。

「然らば申し上げます。他の国衆も何人かが同時期に挙兵する手筈となっている。それと同時に武田勢が北信濃から越後に攻め入る。それで春日山を挟み撃ちにしよう。成功の暁には、他の国衆への分配もあるので、越後国内とはいかないが、北信濃の水内・安曇の二郡を任せるとの提示でした」

「しかし、実際は誰も挙兵せず、当然信濃からの援軍もなく、孤立無援となったわけか」

「はい、仰せの通りでございます」

「武田の目的は我ら越後の分断であり、それによって我らの力を削ぐことだ。今、越後に攻め入る気など毛頭ない。我らの力が弱まった後に、ゆっくりと漁夫の利を得ようという魂胆に過ぎぬ。それくらいの魂胆が読めぬそなたでもあるまい」

「申し開きのしようもございませぬ」

「まあよい。正直に全てを話したことで、お主が言う通り、他の家臣は全て放免とする。問題は丹後守の処分だが、どう思う」

 宗心が顔を向けたのは、第一の注進者である安田景元だった。

「畏れながら申し上げます。北条と我が安田の家は同族にて、殿も十分にご存じの通り、先代・先々代の頃から守護代家に専心お仕えして参りました。此度の騒動を起こしたことは、十分万死に値する仕業であり、申し開きの余地がないことは明々白々でございます。しかしながら、此度は双方ともに一本の矢を放つことなく、犠牲を一人も出しておりませぬ。敵の狙いが我らの分断であり弱体化であれば、丹後守を処罰することこそ、敵・武田晴信の思うつぼと心得ます」

「和泉守はどう思う」

 宗心は次に柿崎景家に問うた。

「全く同感でございます。此度、北条殿に対し寛大な措置を下して頂ければ、今後は一意専心、忠義を尽くして殿にお仕えするものと存じます」

「しかし、そのような甘い裁断では、新たな謀反が起こらぬとも限らぬ。どうじゃ」

「いいえ、むしろ殿が寛大な措置を下すことで、他の国衆も一層の忠心を誓うものと心得ます」

「そうか」

 宗心は北条高広に顔を向けた」

「では言い渡す。城内での謹慎蟄居を一か月とする。此度のことは儂に対する裏切りであり、越後の国に対する反逆じゃ。本来、お主の一命をもって償っても、決して足りるものではない。されど、ここに同席する二名の申す通り、此度のことを悔い改めて国のために尽くことで、一生をかけて償ってもらうことにする。以後励め」

 既に斬首は免れぬことを覚悟していた高広だけに、驚きを隠せない。 

「では、これまでの通りということでしょうか」

「そうだ、それとも何か不足があるのか」

「いいえ、あまりにも寛大な措置に、ただただ驚いております」

「正直を言えば、お主の才覚が惜しい。これからの越後には、お主の力が必要じゃ。こうして、二人が助命嘆願してくれて助かった。二人には後でしっかり御礼を言うがよい。また、このことを生涯忘れずに、越後のために尽くせ。但し、二度はないぞ。しかと心得よ」

「この御恩、生涯忘れませぬ」

「うむ」

 こうして、北条高広の謀反は速やかに鎮圧されたが、宗心はあらためて、武田大膳太夫晴信という敵への憎しみを募らせていた。この憎しみと怒りを晴らすには、次の対戦で晴信を撃破するしかない。宗心は来るべき決戦に思いを馳せ、心密かに闘志を漲らせていた。

 

 北条城での仕置きを終えて、春日山に帰城した宗心のもとにもたらされたのは、北信濃の異変だった。

 善光寺別当の分家である栗田永寿が、武田晴信に内通し、旭山城に立て籠もったというのだ。旭山城は言うまでもなく、越後方の出城である。そこに弓数百張と火縄銃百丁も持ち込んだというから、従前から内通していたとしか考えられない。

 そこに、更なる驚天動地の報せが舞い込んでくる。その栗田永寿が、事もあろうか、善光寺本尊である阿弥陀如来像を、武田領の祢津村に動坐してしまったというのだ。

 宗心の怒りは、遂に頂点に達した。

 晴信の悪行は止まることを知らぬとみえる。盗人猛々しいとは、まさに武田晴信のこと。北条高広にせよ、栗田永寿にせよ、人心を唆すだけでなく、善光寺の御本尊様まで掠め取るとは、神をも怖れぬ鬼畜の所業としか言えない。 

 宗心はすぐさま戦支度を下知した。

 天文二十四年三月、武田晴信が甲府を出立し北信濃に向けて進軍しているとの報せが、幻蔵からもたらされる。

 しかし、宗心は出陣の機会を慎重に見極めた。敵が旭山城を抑えている以上は、此度の戦が短期で終わるとは、およそ考えられない。

 宗心は長期対陣に耐えられる兵糧や兵、そして城の普請人員まで手配させた。春日山を発ったのは四月半ばである。宗心は北國街道を進み、北信濃・善光寺の隣に構える横山城に陣を配した。

 一方の武田晴信は犀川の対岸に陣を敷いて越後勢を牽制した。その数七千名、旭山城には栗田永寿率いる兵三千が籠っている。

 むろん、宗心は犀川を渡渉して、直ちに戦うつもりなどは毛頭ない。安易に武田軍本体に向かっていけば、旭山城の敵に背後を突かれ、挟撃に遭うことは目に見えている。

 宗心は善光寺別当であり、栗田家本家の寛明を横山城に呼び寄せた。

 栗田寛明は、分家の永寿が裏切っただけでなく、本尊の如来像まで奪われてしまっては、宗心に会わせる顔がない。申し開きのしようがなく、ただ宗心の面前で詫びるしかなかった。

「そのことはもう詮無きこと故に結構です。今日、お越し頂いたのは、他にお伺いしたいことがあってのこと」

「はて、その聞きたいこととは、果たして如何なることでございましょう」

「この辺りの地形について詳しく知りたいのです。実は旭山城に対抗する城を築こうと思っておりますが、この付近であれば、いずこの山が良いとお考えでしょうか」

 栗田寛明別当は広げられた図面を暫くの間、腕を組みながら凝視し考え込んでいたが、やがて一点を指で指した。

「ここが良いかと存じます。ここには、確か落合氏の小さな砦が築かれているはず。普請を施せばなかなかの城として、お味方のために機能するかと存じます」

「やはりそうですか」

 別当が指したところは葛山である。

 葛山は旭山城の北を流れる裾花川を挟んで、約半里ほど北に位置し、その頂上は、旭山を約十五間(二七M)ほど見下ろすことが出来る高さであり、築城には絶好の立地であった。

 宗心が別当寛明に尋ねたのは、あくまで念のための確認だった。宗心自身も新たな築城を考えた場合、最初に思い浮かべたのがこの葛山だった。しかし、どこに築城するかが、此度の戦の行方を左右するだけに慎重を期する必要がある。そこで、現地の地形を熟知している別当寛明に、何の先入観も持たせず、白紙の状態で訊ねた結果、葛山で一致をみたのだ。

 宗心は、この葛山城を突貫工事で普請拡張し、軍勢を配置した。これで旭山城は背後に敵である越後勢を抱えることになり、動きが取れなくなった。葛山城への軍勢配備によって、武田晴信の目論見は、御破算となってしまったのだ。

 こうして、後顧の憂いをなくした宗心は、いよいよ晴信に決戦を挑むべく、犀川北岸に軍を進めて陣を敷いた。

 両軍の対峙から数日後の七月十九日、越後勢は犀川の浅瀬を渡渉し、武田勢に決戦を仕掛けた。

 しかし、二年前に煮え湯を飲まされている晴信は、徹底して決戦を回避した。越後勢が進めば一斉に軍勢を後退させ、先陣同士の小競り合いすら、避ける慎重ぶりだ。

 葛山城の整備と軍勢配置によって、旭山城兵による挟撃の機会を失った晴信としては、正々堂々の正面攻撃など念頭にない。むしろ、軍規として、越後勢の如何なる誘い水にも乗ってはならない旨を、予め全将兵に厳命していた。

 宗心が故意に隙をみせて、幾度となく攻撃の誘いを仕掛けるが、晴信はそれを罠と読んで、一向に動こうとしなかった。苛立ちを隠せない宗心だったが、逃げ回るだけの相手とあっては、どうにも手の打ちようがない。

 こうして、甲越両軍は戦況の進展がないまま、いたずらに月日だけが経過し、とうとう季節は秋を迎えていた。

 つい先日までは、茜色の空に数えきれないほど、飛び交っていた無数の赤とんぼも、いつの間にかその姿を消し、冷たい秋風が吹き荒ぶばかりとなっている。朝晩の寒さも日一日と増すばかりだった。

 ただでさえ長期の対陣により、両軍将兵の疲弊は凄まじい。心身は蝕まれ、士気は下がる一方だった。

 特に武田軍は、甲斐からの兵站が長く伸びきっている。そのため、北信濃出兵の度に、衛生的な兵糧を安全に確保することに、神経を擦り減らしてきたが、この時は兵糧そのものが欠乏し、もう手の打ちようが、なくなっていた。

 むろん、味方の信濃国衆から徴収することは可能だが、必要以上の負担を強いることは出来ない。彼らに不平や不満を持たれることだけは、何としても避けなければならなかった。折角、長年を費やして、味方に取り込んだ信濃国衆に離反されては、それこそ、元も子もなくなってしまうからだ。

 対陣が百五十日を超えて、九月を迎える頃には、最初に武田軍が音を上げてしまっていた。兵糧は行き届かず、方々で不満と悲鳴が聞こえてくる。遂には、夜陰に紛れて密かに脱走する兵も出始める有り様だった。

 一方の長尾軍も、あまりに長い対陣で倦んできていた。兵糧があれば、それで良いというものでもない。兵の多くは半農半士の身分であり、稲の刈り時期もとうに過ぎ、望郷の念を募らせる兵の気持ちを、抑え込むのに必死の状態だった。

 その実情を耳にしても宗心には、この一戦に期するものがある。自ら退陣するという選択肢はは全く考えられない。苦肉の策として行ったのが、参陣している国衆から「兵の不平を抑え込んでも、最後まで戦い貫く」という趣旨の「誓紙」を取ることだった。

 しかし、宗心の執念もここまでだった。

 宗心の陣中にもたらされたのは、越前国・朝倉宗滴(教景)が見罷ったとの訃報だった。

 朝倉宗滴は現・朝倉家当主である義景の従曾祖父であり、義景の父・孝景が早逝したことで、隠居後も義景を補佐し、死に至る直前まで、事実上の越前国主として絶大なる影響力を及ぼしていた。

 一昨年、宗心(景虎)が滞りなく上洛に漕ぎつけられたのも、宗滴と誼を通じてきたことが大きく影響している。

 此度の信濃出陣に当たっても、朝倉宗滴が加賀国内に出兵し、一向宗徒の動きを牽制してくれていたお陰で、後顧の憂いなく、正面の晴信との対峙が出来ていた。

 石山本願寺の証如との関係が、改善されたからと言って、加賀・能登・越中の一向宗徒との間は依然緊張関係にある。そこで、信濃出陣に当たって、宗心は朝倉宗滴に対して予め、加賀侵攻を要請していたのだ。

 宗滴は、この時既に七十九歳という老体に鞭打っての加賀出陣だった。結果としては、無理が祟り寿命を縮めてしまったことになる。加賀の陣中で倒れ、その後の手厚い看病の甲斐もなく、去る九月八日に、帰国した越前国・一乗谷の館で息を引き取ったとのことだった。

 この宗滴の死は、越後の西側の国境が危機に晒されてしまうことを意味している。越中から一向宗徒が押し寄せてくる不安を抱えたままで、これ以上対陣を続けるのは、あまりに無謀だった。

 こうなると、決戦に拘ってきた宗心も、さすがに和議・退陣の可能性を探らざるを得ない。

 そこ届いたのが、駿河国の今川義元による仲裁の使者だった。既に限界を迎えていた武田晴信が、密かに水面下で動き、義元に和議の仲裁を要請していたのだ。

 この和議の提案を、宗心は受け入れた。天文二十四年改め、弘治元年(一五五五年)十月十五日のことである。

 和議をすんなりと受け入れた理由は、宗心の考えていた条件を、ほぼ満たすものだったからに他ならない。その条件とは、栗田永寿が籠る旭山城の破却と、北信濃の豪族である須田氏・島津氏・井上氏らの旧領復帰だった。

 つまり、宗心の和議条件全てを呑んでまでも、和睦せざるを得ないほど、晴信は追い込まれていたことになる。一刻も早く和睦して甲斐に帰国しなければ、信濃・甲斐の諸将の反発が免れない段階にまで、事態は深刻化していた。むろん、晴信の根底には、北信濃侵攻は来年以降、再開すればよいだけのこと、という強かな考えがある。

 とは言え、武田晴信にとっては、長尾宗心という強敵を前に、信濃全土の攻略が、一筋縄ではいかないことを、嫌と言うほど痛感した対陣になった。

 一方の宗心も、今回こそは晴信を決戦に引きずり出して、雌雄を決しようと意気込んで臨んだ出陣である。和議の一方的な条件全てが受け入れられたことで、一応の体面は保てたとは言え、費やした月日や軍費、動員した将兵数を考えても、またもや肩透かしという結果に、後味の悪さだけが残るものとなってしまった。

 こうして、双方が不完全燃焼のまま、第二回目となる川中島の対戦は終わりを迎えることになった。

 なお、宗心は帰国に際して、善光寺大御堂に安置されている本尊一光三尊の如来像を持ち帰り、越後府内に善光寺を建立したうえで、これを祀っている。晴信への対抗策であり、このまま信濃善光寺に安置していても、全て晴信に持ち去られてしまう、という危機感からのやむを得ぬ措置だった。

 

  *出奔しゅっぽん


 弘治元年(一五五五年)十一月二十七日、坂戸城の長尾政景と宗心の実姉である綾との間に、二

人目の男子が誕生した。一人目の男子は残念ながら早逝しているので、待望の嫡男誕生だった。

 生まれた子の幼名は卯松、後の上杉景勝である。

 一時は一触即発の敵対関係にあった、上田長尾家との和議から、既に数年が経過している。今

や、長尾政景は直江実綱と共に、宗心を支える頼もしい片腕となっていた。

 関東出兵に際しての道路普請や、上洛時や信濃出兵時の留守居役を中心として、政景の力量は宗心のもとで多岐にわたり、如何なく発揮されていた。

 肝心の宗心は、北信濃から戻っても、未だに絶えない国人間の争いに辟易し、ある種の自信喪失と厭世気分で、最悪の精神状態にあった。

 そんな中での甥子である卯松の誕生は、人としての幸福を実感出来る唯一の喜びであったに違いない。

自らは、妻帯せず子もいない。幼い頃に父親を亡くし、父の愛情に触れる機会が少なかった宗心は、甥子の卯松誕生を、我が子のことのように喜び、そして可愛がった。

 上杉謙信は生涯の中で、何人かの「人質」を養子として迎えている。謙信はそれぞれの養子に対して、一切分け隔てせずに接した。また、最後までに継嗣を決めることもせずに、全員に深い愛情をもって、慈しみ育てている。

 これは謙信自身が、幼少期に受けた林泉寺や瑞麟寺での教育や薫陶、またそこで育んだ独自の「御仏の前での平等感」に類似した考えに基づくものかもしれない。

 しかし、そのような謙信の「親心」など、誰も知る由もなかった。養子本人はもとより、養子に仕える近習の誰もが、「世継ぎとしての薫陶を受けている」と勘違いしたはずだ。

 やがて、正式に継嗣を決めることなく、謙信が急死したことで、国を二分する「御館の乱」が勃発し、国中に戦火が広がったことは周知の通りである。謙信の「親心」が、本人の最も望んでいない悲劇をもたらしてしまったことは、残念の一言に尽きる。

 さて、弘治二年(一五五六年)を迎えても、宗心の気持ちが、厭世気分から立ち直ることはなかった。卯松の誕生を喜んだのも束の間のことで、気鬱は一層深まるばかりとなっていった。

 このところは、わずかな時間でも毘沙門堂に逃れるように籠り、俗世の煩わしさを、出来る限り避けようとしている。

 宗心の様子を傍で見ている、小島彌太郎や金津新兵衛などの古参の近臣衆は、特に気になって仕方がない。

「殿は近頃、何を考えているのか全く分らぬ」

「時折、目も虚ろで、これまでの鋭い眼光は、影を潜めてしまわれた」

「何を話かけても、上の空の時が多い」

「一点だけを見つめて、何か思い詰めているようだ」

「あの、他を圧するほどの気迫は、いったいどこに消えてしまったのだ」

「もしかしたら、蒼衣様の死が、今になって堪えているのではないのか」

「いや、そのことは既に気持ちの整理が出来ているはずじゃ。もっと心の奥底に潜む何かが、殿を惑わしているのではないか」

などと、不安な声を挙げればきりがない。近臣の間では堂々巡りを繰り返すばかりで、まるでらちが明かない。

 この日も、近臣同士が声を掛け合い、集まってはみたものの、何らこれといった打開策が、見いだせないまま、頭を抱えるばかりだった。

「ここは与兵衛尉殿や坂戸の新五郎殿にお頼りする他あるまい」

 自分たちだけでは、もうどうしようもない。直江実綱と長尾政景に登場して貰うしかない、と小島彌太郎が腹を決め、その発言に一同が首を縦に振ったその時だった。

 毘沙門堂から戻った宗心が姿を現した。

「皆に話がある」

 その顔は無精ひげで覆われ、とても一国の主とは思えない風貌だ。ここ数日間は、毘沙門堂に籠りっきりで、近臣すら近づくことを許されていなかった。

「思うところがあって、儂は出家することにした。明日、高野山に旅立つ。儂の跡は上田の新五郎殿(政景)にお任せする」

 その言葉に、近臣一同は呆気にとられ、ただ茫然とするばかりだ。

 暫くして、我に返った金津新兵衛が、ようやく口を開いた。

「殿、それは単なる出家ということですよね。隠居などという冗談は、どうかお止めください」

「いや、冗談などではない、本気だ」

 その一言で全員が一斉に異を唱えた。

「殿、それはなりませぬ」

「高野山への参拝を否定するつもりはありません。出家して頂いても結構です。しかし、隠居は困ります。引き続きこの国の長として、我らの主として、引き続き越後国を治めてください」

「殿がいなくなったら、我々は生きてゆけませぬ」

「この国がどうなっても宜しいのですか」

「甲斐や相模の属国に成り下がりますぞ」

「訳をお聞かせくださいませ」

 最後に言った黒金孫左衛門の言葉を受けて、宗心は堰を切ったように話始めた。

「儂はほとほと疲れた。つくづくこの俗世が厭になったのだ。今は亡き兄上の跡を継ぎ、儂は今日に至るまで、この国のことだけを考えて、身を賭してきたつもりだ。私心や邪心で国を動かしてきたことがないのは、皆が一番分かってくれていると思う。毘沙門天様や御仏に、皆が安寧で豊かに暮らせる国づくりが出来るよう、願をかけて妻帯も諦めた。上野・武蔵・信濃への出兵も義のため、そしてこの越後を外敵から守り抜くためであり、上洛の理由もしかり。ところがどうじゃ。儂の願いをよそに、国衆同士がほんの僅かな土地を巡って争いを繰り返し、訴えが絶えることがない。遂には、他国の甘い誘いに乗って、裏切り者も出る始末じゃ。国中が浅はかな私心に溺れ愚かなことに、それを悔い改めようともしない者で溢れている国を、これから儂にどうしろと言うのだ。儂の切なる気持ちを、汲み取ろうとすらしない輩が多いということは、儂がこの国の主として失格の烙印を押されたことに他ならぬ。生憎、儂はこの俗世に、未練など米一粒分すら、残ってはいない。いつかは、仏門に帰依し、残りの人生を心静かに過ごそうと思っていた。それが少し早まったに過ぎぬ。幸い、高野山・無量光院の清胤法印様とは師弟の間柄。喜んで迎えて下さるはずだ。皆には、虎千代と呼ばれた幼き頃より、本当に世話になった。これまでの忠義には礼を言っても、言い切れぬ。良き思い出、楽しい思い出も数え切れぬ。皆には本当に済まないと思う。しかし、儂の我慢にも限度がある。これ以上は国の主として止まることが出来ぬ。それほどに、儂は疲れ果てたのじゃ。ここにいる儂は、もう蝉の抜け殻でしかない。もう何を言われたとしても、儂の決意は変わらぬ。どうか儂を解放してくれ」

 頭を垂れた宗心に、近臣全員が言葉を失い、言い返すことすら出来ない。

 顔を上げた宗心は加えて伝えた。

「出立は明日早朝。ここに与兵衛尉と新五郎殿宛に書状を認めてある。皆のことも頼んでおいたから心配には及ばぬ」

 涙を堪えた全員の顔を見回して、宗心は告げた。

「さらばじゃ、皆、達者で暮らせ」

 宗心は、ひとり夜明けとともに春日山城本丸を後にした。これが弘治二年(一五五六年)六月のことである。

 長かった梅雨の季節も、ようやく終わろうとしていた。ふと城内の道端に目をやると、夜露で夏草が濡れ、朝日に照らされて光輝いている。

 宗心の姿は袈裟と法衣に身を包み、頭に被っているのは笠だけという身軽さで、足早に道を下っていく。

 昨晩は、更にもう一通の長文を認めた。それは恩師・天室光育宛のものである。師はこの時既に、林泉寺から長慶寺に移り住んでいた。

 城内のあらゆる道は、知り尽くしているつもりだ。早朝の見張り番がいない道を通り抜け、途中一切誰何すいかされることなく、城外に出ることが出来た。

 たとえ、誰かと擦れ違っても、まさかそれが国の主の宗心とは、気づくことがあるまい。

 宗心は高野山に向かうことは伝えたが、一切行程は口にしていない。煩わしいしがらみから解き放たれた気分で、足取りは軽い。春日山城を振り返ることは、一切なかった。


  

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