第4話 端境の章 *信濃へ~上洛

*信濃へ

 

 翌年、天文二十二年(一五五三年)二月十日、兄であり養父の晴景が、その四十五年の生涯に幕を降ろした。景虎に家督を譲って四年余り後のことだった。

 恐らく、数多悔いの残る一生だったことだろう。

 偉大な父・為景の後を継いでも、病弱な身体に加えて、生来の気弱さが災いとなり、越後の国衆を纏めることが出来なかったことが、一番の無念だったに違いない。

 その結果、歳の離れた異母弟に、家督を譲らざるを得ない時の忸怩たる思いは、想像に難くない。

 景虎は、先代守護代であり養父でもあった、兄・晴景の葬儀を盛大に催した。

 葬儀一切を滞りなく済ませた後に、春日山城本丸の正殿広間に、参列した全ての国衆を集め、それらの面前で、これから景虎が目指す国の在り方を堂々と宣言した。

 それは既に与板城において、直江実綱に予告した通りの内容である。

 一つ目は、弾正少弼・従五位下の官途・位階下賜の御礼のために、近々に上洛すること。そして二つ目は、今後、関東や信濃などの近隣諸国を侵略する敵(武田晴信・北条氏康)を成敗するために、出征することを厭わないこと。以上、この二つであった。特に、外征は越後を防衛する意味からも回避出来ないことを、実例を示して補足し、理解を求めた。

 これを聞いた多くの国衆は、景虎の先見性と行動力に驚き頷く一方で、「事なかれ主義」の超保守的な国人などは、景虎の外向き志向に、否定的な感慨を抱いたのも事実だった。

 この時期、越後は一応の統一を果たしていたとは申せ、決して盤石と言える状況ではない。いつまた、反乱分子が牙をいて景虎に敵対しないとも限らなかった。

 景虎はその状況を理解していない訳ではない。むしろ、それが故に、前守護代の葬儀という厳かな機会を利用して、国衆に一定の配慮を怠らず、一部には個別に根回しを行ったうえで、正式に自らの方針を掲げたのだ。

 それでも、一部の国衆が腑に落ちていないことは承知のうえだった。そもそも、全員が理解し納得することなど不可能なことだ。もう迷っている時間はない。こうしている間にも、いつ外敵が攻めてきてもおかしくはない情勢なのだ。今後の越後のことを考え抜いたうえでの決断であり、いつかは分って貰える、と割り切るしかなかった。

 言い終えた景虎は、国衆一人ひとりの表情を、静かな面持ちで見つめていた。

 ここから新たな一歩が始まる。いや、理想に少しでも近づけるために、自ら歩み始めるのだ。

 それは、いつも心は共にあると、あの夜、泣いて誓ってくれた蒼衣の気持ちに、何としても応

えようという、密かな決意でもあった。


 それからおよそ一月後の天文二十二年四月、北信濃の豪族である村上義清が、助勢を求めて春日山城を訪れていた。

 居城の葛尾城が武田勢の猛攻を受け落城の憂き目に遭い、一旦、越後へと落ち延びてきたのだ。もはやこれまでと思い、華々しく討ち死にすることも、一時は頭を過ぎったらしい。

 しかし、義清の頭に浮かんだのは、既に関東出兵で名を馳せている景虎の存在だった。このままでは、死んでも死に切れぬという思いが勝っていた。こうなれば、恥も外聞もない。景虎の義侠心に一縷の望みを繋ぎ、再起を計りたい一心が、義清を動かしていた。

 上杉憲政への対応を含め、関東における景虎の行動は、景虎なりの将来を見据えた考えがあったにせよ、傍から見れば、常軌を逸している、とみられても仕方ないものである。

 親の代から遺恨のある山内上杉氏を助けたうえに、最上級のもてなしをしている。そのうえ、関東まで出陣し、上野の国衆のために城まで奪い返して差し上げるというのは、利害を度外視したお人好し、と捉えるのが大方の見方であった。

 村上義清も、その景虎の「常軌を逸したお人好し」に期待しての援軍の懇願である。

 葛尾城はそう簡単に堕ちる城ではない。しかし、村上家臣団である大須賀・室賀・屋代・石川らの諸氏が、こぞって武田に寝返ってしまっては、もう手の施しようがなかった。

 さすがの村上義清とはいえ、万策尽きてしまい、こうして景虎の前に、願い出る羽目になっていた。

「弾正少弼殿、火急の用向きにて、かような甲冑姿のままでの目通り、ご無礼の段、何卒ご容赦くだされ。此度はかような仕儀となり、面目次第もござらぬ」

 この時、村上義清五十三歳、当時としては、既に老年の域に達している。白髪が目立ち、戦場からの急行だけあって髪の乱れは如何ともしようがないが、眼光だけは未だ失っていない。さすがに、百戦錬磨の猛将と、恐れられた風格を漂わせている。

「かつては、ご当家の縁戚である高梨殿と、敵対する仲でありながら、こうして恥を忍んでの嘆願でござる。手段を選ばず卑怯極まりない遣り口の、武田大膳太夫にもう一泡吹かせてやらぬことには、死んでも死に切れませぬ。どうか、この村上義清に、弾正少弼殿のお力をお貸し頂けないでしょうか。この通りでござる」

「お手を上げてくだされ。難敵・武田大膳太夫に、戦では二度も大勝なされた村上殿に、こうしてお会い出来たことは、わが誉れにござる。武田大膳太夫の姑息な手段の前に、かかる仕儀に及ばざるを得ない村上殿の無念さは如何ばかりかと、この弾正、衷心よりお察し申す。盗人猛々しいとは、まさにこの武田大膳太夫の所業に他なりませぬ。かかる悪行を看過することは、当家の名折れとなりましょう」

「何と頼もしきお言葉。さような労いを頂戴しただけでも、こうして恥を忍んで参った甲斐がございました。されば、我が願い、お聞き届け頂けるのでござろうか」

 村上義清の問いに、景虎は大きく頷いた。

「こうして、村上殿が自らお越しになり、援軍を乞われたとあれば、断る謂れはござらぬ。この長尾弾正少弼景虎、直ちに村上殿に合力いたす。彌太郎と新兵衛、惣左衛門尉、これへ参れ」

「ははっ」

 小島彌太郎と金津新兵衛、それに庄田惣左衛門尉が、鎧姿で進み出た。

「そなたたち三人は、すぐさま兵三千を率いて、村上義清殿に合力せよ。戦にかけては右に出る者がいないと、名を馳せておられる村上殿じゃ。村上殿の指揮の下、我が越後勢の強さを存分に示してくるがよい」

「承知仕った」

 景虎はこれより先んじて、幻蔵に信濃の情勢を探らせていた。村上義清が援軍を求めてくるのも、時間の問題であったことを予め察知している。

 手勢の出陣準備も済ませ、兵糧や補充武具をいつでも運び出せる状態である。出撃態勢は既に万全だった。

 村上義清を擁した越後勢は、直ちに出陣した。

 北信濃に押っ取り刀で取って返し、村上軍の残党と合流すると、八幡原に陣を張っていた武田勢と激突し、これを瞬く間に撃破する。四月二十二日には早くも、川中島一帯と葛尾城奪還に成功していた。

 義清が葛尾城から逃れて、わずか十三日後の電撃的な早業だった。

 春日山城に凱旋した彌太郎・新兵衛・惣左衛門尉は、景虎に対して、直接目にした北信濃と武田軍の印象を直ちに報告した。

「葛尾城の奪回、ご苦労であった。村上殿も、これほど早く取り戻せるとは思っていなかったであろう」

「もちろんでございます。それよりも驚いたのは武田勢でしょう。我らが思いも寄らぬ速さで攻め入ったのですから、此度は我が軍の敵ではありませんでした」

 彌太郎が自慢げに応えた。

「それにしても、武田勢の手ごたえのなさには、些か拍子抜けしてしまいました」

 新兵衛がいぶかしんで呟く。

「此度の軍勢の中に、武田晴信はおりませんでしたので、まともな戦は避けたのでしょう。それに、我らの進軍の速さが想像以上でしたので、戦支度を整える間もなく、撤収するしかなかったのだと思われます。ただ、撤収はみごとなものでした。恐らく、軍の中に晴信が信頼する将がいて、上手く指揮を取ったのだと思われます」

「いつものことながら、惣左衛門尉の分析は的を射ておる。確かに、挙げた敵の首級は、わずかに二百であり、上手くいなされた感がなくもない」

 彌太郎が庄田定賢の視点の鋭さに感心しながら、伸びた顎鬚あごひげを手で撫でている。

「なるほど。やはり、武田は侮れぬ敵だな。晴信がこのまま指をくわえて見ているとは思えぬ。早々に態勢を整えて、北上してくるはずじゃ。その時は、正々堂々と決戦を挑むのみ。いつ戦になっても良いように、引き続き備えを怠ってはならぬ」

 景虎の一声だった。

 外では、梅雨の長雨が、城内の草木の色を一層色濃く潤しながら、いつ止むともなく降り注いでいた。

 

 その時期は思ったより早くやってきた。

 天文二十二年(一五五三年)七月、武田晴信が自ら八千の兵を率いて、再び村上領に軍を進めてきた。すると、今度は越後勢のお株を奪うような速さで、義清が立て籠もる塩田城をはじめ、他の村上方の出城や砦を次々に攻略していく。

 武田軍の猛攻に耐えかねて、命からがら塩田城を脱出した村上義清は、再び助けを求めて、春日山城へと、落ち延びる他なかった。

「早くも、甲斐の狸が洞穴からのこのこ出てきたか。まあよい。そうであるならば、二度と立ち上がれぬよう、徹底的に叩き潰すまでのこと。村上殿、此度は儂が自ら出陣いたす故に、道先案内役をお願いいたそう」

「おお、御自らの出陣とあれば、これほど頼もしいことはござらぬ。是非とも先陣を賜りとうござる。必ずや、敵の先兵を蹴散らしてご覧に入れましょう」

 景虎は大きく頷き、勢揃いした近臣衆の顔を見回した。いずれの目も意気揚々と輝いている。

「いざ」

 景虎の声が大きく城内に響き渡った。

 天文二十二年(一五五三年)八月、景虎は村上義清を先導役として、自ら兵六千を率いて信濃に侵攻した。

 越後国境を越えて飯山城に一泊した景虎は、翌日、飯山街道から北國街道へと軍を進める。右手に善光寺を眺めながら南下すると、味方の最前線拠点である旭山城に入った。

 景虎は幻蔵からの報せで、晴信が塩田城に入っていることを、既に把握している。

 すぐさま軍議に入った。翌朝には犀川を渡渉し、川中島へと軍を進め、敵が北上してきた場合、直ちに決戦を挑む旨を伝えた。

 進軍順と道筋、渡渉場所や陣構え、休息箇所に至るまでの詳細は、近臣である秋山源蔵に命じて説明させた。

 この一戦に失敗は許されない。絶対に勝たなければならない。景虎は万が一でも聞き間違いのなきように、源蔵から説明があった詳細を、諸将に復唱させる徹底ぶりだった。そして、各自陣に戻った後には、末端の兵に至るまで、全員への周知を厳命した。

 ただ、このように、戦の前の厳しさを叩き込むだけでは、兵の力がいざという時に発揮出来ないことも、景虎は知っている。その夜は兵糧の他に全将兵に対して、一杯の酒を振る舞い、武威を鼓舞することも忘れてはいなかった。

 各陣から将兵の活気あふれる声が、漏れ聞こえてくる。景虎は近臣衆と手分けをしながら、各陣営を見回った。夜襲への備えも抜かりないようだ。士気にも緩みがなく、良い緊張感に包まれている。

 見回りを済ませた景虎は、ひとり櫓に上り、善光寺を見下ろしていた。遠くに見えるかがり火が、漆黒の夜に、うっすらと善光寺を浮き上がらせている。

 あそこに蒼衣がいる。それを考えると、どうしても胸のざわめきを抑えられない自分がいた。

旭山城は善光寺を山から東に見下ろす位置にあり、南には犀川が流れている。

景虎は知らないでいる。景虎出陣の話を耳にした蒼衣が一日中、景虎の無事を祈り続けていることを。そして、この瞬間も旭山に向かって、一心に祈り続けていることを。

「殿、ここでしたか」

 その声の主は、直江実綱だった。きっと、櫓の上にいることを聞いて、様子を見にきたのに違いない。

「善光寺は、目と鼻の先じゃ。されど、蒼衣に会うことすら許されぬ。親であるお主もじゃ」

「俗世を去り仏門の道を選んだ以上は、詮無きことと諦めております。しかし、本音を申せば、蒼衣の行く末が心配でもあります。今はただ、心安らかに過ごしていることだけを望むばかり」

 景虎は善光寺の別当である栗田寛明と、書状で幾度もやり取りする仲ではある。しかし、いくら実綱の娘とは言え、世を捨てた尼僧のことを聞くことは憚れる。これからも、それが変わることはないだろう。

「与兵衛尉は、儂が心を乱していないか、案じて来てくれたのであろう。それには及ばぬ。ただ、明日の決戦を控えて、些か心が昂っておるのも事実。お主の顔を見たら、少しは落ち着いてきた気がする」

「このような顔でも、役に立つことがありそうですな。それがしも、殿のお顔をみて安心いたしました。お身体にさわらぬよう、殿も早くお休みくだされ」

「分かっておる」

 実綱は櫓を降りても、やはり景虎が気がかりだった。蒼衣のことで戦に支障を来すことなど、ないことくらいは分かっている。ただ、未だに蒼衣への想いを絶ち切れていない、景虎が不憫でならなかった。

 一方の景虎も、蒼衣のことを口にして、些か後悔していた。しかし、忘れなければならないと思えば、思うほど思い出してしまうのだ。このままでは一晩中、善光寺を眺めていそうだった。櫓を降りて禅を組み、邪念を掃うことにした。

 いつの間にか、静けさが辺りを包んでいる。どうやら、将兵は寝静まったようだ。夜襲に備えた見回り兵の鎧が、擦れ合う音だけが、時折聞こえてくるだけだ。

 暗闇のなか、景虎は一人邪念と向き合い戦っていた。


 翌早朝、景虎は旭山城にわずかな守兵を残し、全軍で下山した。

 天文二十二年(一五五三年)八月三十日のことである。

 幻蔵からは既に、犀川の渡渉を拒む敵の埋伏はない、との一報を受けている。昨晩のことが嘘のように、景虎の頭は冴えわたり、神経も研ぎ澄まされている。

 景虎軍は旭山を下山して後、山裾の道を西に向かって進み、茶臼山の麓を流れる犀川の浅瀬を選んで渡渉した。その場所は小市の渡しと呼ばれているところだ。予め、城の守兵に調べさせてある。

 更に、小松原・岡田へと南進したところで、斥候からの注進を受けた。敵は北國街道を北上し、篠ノ井(布施)方面へと進軍してきているらしい。その数約六千余。兵の数は五分と五分だ。

 景虎は迷わず、すぐさま敵への急襲を命じた。全軍での総攻撃だ。犀川を渡渉した時から、既に臨戦態勢を取っている。

 恐らく、敵も我が軍を捕捉した頃に違いない。しかし、まさか、この瞬間に総攻撃を食らうとは、夢にも思っていないはずだ。

 こういう時の指揮の迷いは禁物だった。一瞬の判断で相手の意表を突けるかどうかが、勝敗を分けると言っていい。

 馬上から敵の姿が見えてきた。

「旗」

かがり乱れ龍』の軍旗を押し出す。総攻撃の合図だ。

 景虎は駆けながら晴信を探した。

 敵兵が間近に迫る。驚きと恐怖が混ざり合った表情が見て取れる。そのまま突っ込んだ。馬の勢いが勝っている。そのまま突き切り、すぐさま反転し、また突っ込んだ。

 味方は騎馬隊でかち割った武田勢を、包み込もうとしている。しかし、態勢を立て直した敵兵が挟撃に移ろうとしていた。そこに味方の長槍隊が突っ込む。景虎軍が用いる槍は春日槍とも呼ばれる長槍である。その長さは三間(約五メートル)もあったというから、こんな槍で叩かれ、あるいは突かれたら敵は堪らない。その勢いは凄まじく、敵を圧倒し始めた。景虎を先頭に旗本騎馬隊が、雄たけびとともに、更に敵をかく乱していく。 

 どうやら、軍勢の中に晴信はいないらしい。

 しかし、指揮している敵の大将も、なかなかの指揮の腕前だ。総崩れとならないように、踏ん張りどころでは、越後勢の攻撃を上手くかわし、兵を収拾している。いつの間にか、後方ではしっかり迎撃態勢を固めており、これ以上迂闊うかつに追うことは危険だった。

 景虎は馬腹を蹴り反転すると、退き鐘を命じた。

 自軍の撤収も鮮やかなものだ。潮が引くように敵から離脱していく。景虎は再び、晴信の姿を探したが、やはり見当たらなかった。

 晴信が本陣に掲げるという「南無諏方南宮法性上下大明神」の旗と「孫子四如」の旗が、どこを見渡しても、見つけることが出来ない。

 別名「風林火山」の旗とも呼ばれる「孫子四如」の旗は、紺地に金色の文字で「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」を表わしたものとして有名で、近隣諸国に知れ渡っていた。

「あれが百足むかで隊か」

 赤地に百足を模った軍旗を背負った騎馬が、方々を駆け回っている。あれが速やかな態勢の立て直しに、一役買っているらしい。

 傍らに控えている黒金孫左衛門が、敵の動きの見事さに驚嘆して呟いた。

「敵も侮れませぬ。並みの軍勢であれば、総崩れは免れぬところを、速やかな撤収で損失を最小限に食い止めております。このような指揮が出来るのは、大膳太夫殿ともう一人だけです。恐らく、敵の大将は大膳太夫の弟君である、典厩てんきゅう信繁殿と思われます」 

 武田晴信の実弟にして、晴信の片腕と称された人こそ、武田左馬助信繁である。左馬助という官職は唐名で典厩ということから、皆からは通称で「典厩殿」と呼ばれていた。

「うむ、油断ならぬ大将とみた。晴信だけでなく、今後は弟の動きも注視する必要がありそうじゃ。今日の戦はこれまでだ。全軍引け」

 敵味方が、隙を見せることなく後退し、双方の間隔が四半里に広がったところで、景虎は声をかけた。

「与八郎」

 すぐさま、戸倉与八郎が横に並ぶ。

「敵は一旦引いても、このまま甲斐に引き下がることはあるまい。今日の負け戦を挽回しないことには、信濃国衆からの信望を失わぬとも限らぬ。次は必ず晴信自らが、指揮を取って出てくるはずだ。よって、我らは、これから犀川を背に丹波島に陣を敷く。お主は旭山城と連絡を取り、荷駄隊を指揮して、兵糧が滞らぬよう確保せよ。また、万が一に備えて、幻蔵にも見張りを命ずるが、くれぐれも荷駄隊が襲われることのないよう、警護も怠るではないぞ、良いな」

「承知」

 与八郎が馬を反転させ、駆け去っていく。

 今日の篠ノ井では勝利したが、あくまで緒戦でしかない。敵の首級も四百五十余と、決して満足出来る戦績ではなかった。

 景虎は、次こそ武田晴信が全軍で北上してくると読んでいる。敵は信濃兵を含めれば、一万を下ることはあるまい。数に頼んで攻めてくれば、こっちのものだ。景虎は次こそ敵を八幡原に引き込み、一大決戦を挑もうと目論んでいた。


 武田晴信は川中島から遥か南に位置する塩田城にいる。

 この緒戦の敗北は、晴信にとっては、景虎が考える以上に大きな衝撃を受けていた。舞い戻った弟の典厩信繁から敗戦の様子を聞き、地団駄を踏んで悔しがっていた。

 長尾景虎などは、自分より九つも年下の若造ではないか。しかも、軍勢は典厩が率いていたにも関わらず、いとも簡単に牛耳られたとあっては、その悔しさは生半可なものではない。

「まことに、そのような動きをしたのか。にわかには信じられぬが」

「はい、その動きの速さたるや、ただ茫然とするばかりでした。その後から、今までに感じたことのない恐怖が、全身を襲ってきました。恐らく大半の将兵が同じ思いをしたはずです。我を取り戻し、軍を立て直そうとした時には、既に敵の騎馬隊に蹂躙じゅうりんされており、あとは只ひたすら混乱の収拾に追われる始末でした」

「篠ノ井の一帯は、もはや我が勢力下にある。よもや、そのように急襲されるなどとは、誰も思ってはおるまい。それにしても、よくぞ四百五十の首で済んだものよ」

 確かに、典厩信繁の指揮でなければ、損害は少なく見ても、その倍以上であったはずだ。

「いいえ、負傷者も五百を超えております。それに対して、我が軍が挙げた敵の首級はわずかに二十。完敗です」

「そう自分を責めずとも良い。儂が指揮していても、結果は同じだったであろう。それより、敵の様子をもう少し詳しく話してくれ」

「速さだけではありません。動きも変幻自在で、全く先が読めませんでした。陣頭指揮も見事と言うしかありません。号令ひとつで全体が素早く動きます。しかも統率が取れており、つけ入るすきが見つかりませんでした。日頃から余程の調練が課されているものと思われます。最後に撤収とみせかけて、罠をしかけようとしましたが、そんな小手先の策には嵌る相手ではない、と思い直し諦めました」

「打つ手はなしか」

 晴信は腕を組み、暫く考えこんでしまう。

長い沈黙の後に顔を上げた晴信は、信繁の顔をしっかり見て下知した。

「敵には村上義清、我らには信濃衆がいるから、地の利は五分と五分。兵力は我ら一万に対して、越後勢は多く見ても七千と我らが有利。二度も同じ手を使うほど馬鹿ではあるまいが、急襲には備え、守りを固めたうえで、敵の隙を探る他あるまい。あれこれと考えても始まらぬ。何事も百聞は一見に如かず、と言うではないか。今度は儂が陣頭で指揮を取る。出立は明後日朝の寅の刻(午前四時)とする。万事怠りなきよう全軍に言い渡せ」

 冷静を取り戻した晴信の表情をみて、安心した信繁は踵を返した。もうじたばたしても始まらない。相手は魔物ではなく、生身の人間なのだ。明後日は開き直って戦に臨むしかない、と覚悟した。次第に肩の力が抜けて、いつもの自分を取り戻していた。


 景虎は、次第に薄くなっていく霧の彼方に、浮かび上がる大軍を目にしていた。

 その軍には整然粛々という表現が相応しい。この肌がヒリヒリするような感覚は、いつ以来であろうか。

 善光寺平と云われるこの地域一帯は、犀川と千曲川を中心に、支流を含めた川から発生する川霧によって、秋の晴れた朝は一面が覆われると聞いていたが、まさにその通りだ。

 地元の百姓の話によれば、最も霧の濃い日になると、巳の刻(午前十時)までは、この一帯が霧で覆われ、三間(約五メートル)先は全く見えぬほどらしい。

「やはり、攻めて参りましたな。殿の予想通りじゃ」

 すぐ後に控えた小島彌太郎が、思わず呟いた。

 眼を凝らすと、敵のはるか後方に孫子四如の旗「風林火山」が霞んで見える。今度こそ武田晴信自らが、陣頭指揮を取っているのは間違いなさそうだ。

 胡床から、すくと立ち上がった景虎は、右手に青竹を掲げ振り下ろした。それを合図に、たちまちのうちに陣形が動き始める。

 一方の武田軍は、鶴翼の陣形に広がり始めた。先ずは守りを固めて、こちらの攻撃をいなしながら、隙を突こうという魂胆だろう。

 一昨日のような奇襲が通じないのは百も承知だ。その思いは敵も同じか。目の前にいるのは、甲斐の武田大膳太夫晴信なのだ。一瞬の隙も許されない。

 景虎は前後左右の全方向に、神経を研ぎ澄ませる。

 やがて、弓矢の射程距離に入った。双方の軍から放たれた矢が、雨のように交差しながら降り注ぐ。しかし、矢除けの楯のおかげで、両軍ともに損害は少ない。

 景虎は長槍隊を前に押し出した。両軍が正面からぶつかる。敵味方の兵が交錯しながら、戦闘は徐々に激しさを増してきていた。

 それでも、戦況は動かない。どっちつかずの膠着状態で、双方が一進一退を繰り返している。

 突如として、敵の左翼が乱れた。

 霧を利用して、東から回り込んでいた柿崎景家率いる騎馬隊が、敵の鶴翼前方を矢のように突き刺したのだ。

 大きく崩れる、かに見えたのはほんの一瞬でしかなかった。敵は騎馬隊を上手くいなして、回り込んでいる。なかなかの捌きだった。

「馬引け」

 景虎が大音声で、旗本馬廻衆に叫んだ。

 すぐさま馬上の人となった景虎は、青竹を再び振り下ろした。

「懸り乱れ龍」の旗が陣頭に立てられる。右翼からの攻撃に備えた軍だけを留め、残る全軍で押し出した。

 鋭いやじりのように、先頭を走る騎馬隊が突っ込み敵を攪乱する。その後から歩兵が入り込んだ。敵の左翼は完全に浮足立っている。敵の右翼は味方の留め置いた軍勢に牽制されて、動きが取れないようだ。やがて、敵の左翼の混乱が全軍に波及し、堪らず雪崩を打って後退し始めた。斃れる敵の数も増えてきた。

 もう一息だ。しかし、完全に崩し切れていない。我が軍の勢いを上手く吸収して、力を削いでいるのは一昨日と同じ光景だ。

 我が越後勢と同じように、集団戦を想定した調練が、日頃から相当課されているに違いなかった。やはり、侮れない強敵だ。

 これ以上の深追いは危険だと直感した。如何なる罠が隠されているか想像もつかない。直ちに兵を退かせた。

 たちまち、両軍の間に半里ほどの距離が空いた。しかし、両軍から発せられる闘気だけは、全く衰えを知らない。

 両軍譲らずにらみ合いが一刻ほど続いた辺りで、先に動きがあったのは武田軍だった。

 後方から南に向かって兵を退き始めたのだ。「風林火山」と「南無諏方南宮法性上下大明神」の旗も徐々に小さくなっていく。

「殿、追撃しましょうか」

 逸る黒金孫左衛門が後方から叫んだ。

「いや止せ、無駄だ」

 今日も、一分の隙さえ見当たらない見事な退陣だ。調子に乗って追撃すれば、確実に包み込まれる。恐らく全滅は免れないだろう。

 景虎も兵をまとめた。兵の損害は五十六人と報告があった。味方が挙げた首級は五百余だった。

首実験後を済ませた後で、景虎は諸将に向かって告げた。

「明日は先ず、荒砥城を奪回する。その後も、武田勢の動向を見極めながら、諸城の奪回を目指す。もし、武田晴信が再度挑んでくれば、今度こそ奴の首を狙うまで。我らは今日も勝利したが、油断は禁物じゃ。夜襲への備えも怠ってはならぬ」

 やがて、戸倉与八郎より、怪我人全員を旭山城に収容し終えた、との報せが届いた。

 将兵には馬の手入れとまぐさを与えるよう命じた。兵糧を取るのはその後だ。辺りはすっかり暗くなっている。

 ふと空を見上げると、そこには澄んで雲一つない満天の星空があった。

「明日も霧か」

 思わず景虎は呟いていた。


「またもや、煮え湯を飲まされてしまったようだな」

 晴信は本営とした塩田城に戻っていた。両手を広げて小姓に鎧を解かせながら、弟である典厩信繁に語りかけている。 

「正面からの力押しなら、多勢に無勢であり、我が方に分がありました。ましてや陣形は鶴翼です。しかし、崩されようがないという常識が、此度は全く通用しませんでした」

「うむ、霧を利用した騎馬隊の埋伏とは、儂も警戒すべきであった」

「景虎の戦は、全てが我らの想定を超えております。速さもさることながら、あの錐揉きりもみのように鋭い突っ込みは、一切の迷いを捨てた鬼神の仕業としか考えられません。此度も、あの『龍』の軍旗を目にした時は、身体全体に鳥肌が立ちました」

「典厩もそうか。実は儂もじゃ」

 晴信は鎧を解き終えると、直垂ひたたれ姿のまま据えられた胡床に、どっかと腰かけた。

「此度も、撤退の判断が少しでも遅れていれば、味方の損害は計り知れないものとなっておりました。兄上のみごとな采配で事なきを得ました」

 信繁は何度拭いても止まらない汗を拭いながら、興奮が収まらない様子だ。

「いつもは儂よりも沈着冷静なお前が、そこまで口数が多くなるとは、余程度肝を抜かれたようだな」

「ええ、何とも厄介な大敵が現れたものです」

「まあ良い。今後、景虎と対決する場合、正面からの戦は避けなければならぬ。それが分かっただけでも、此度はよしとしようではないか」

 晴信は既に落ち着きを取り戻した様子だ。

「しかしながら、このままでは信濃の諸氏が、敵方に寝返らぬとも限りません。既に切り取った城も、これから攻め落とされることも覚悟することが必要かと存じます」

「そう急かずともよい。越後の冬は甲斐よりも長く、雪の量も比べ物にならぬ位に多いと聞いておる。城などは越後勢が帰った後で、また攻め落とせばよいではないか。ここは根競べ、我慢比べじゃ。ただ、信濃諸氏からは、寝返りせぬよう、質とともに起請文を差し出させよう」

「では直ちに」

 晴信は更に続けた。

「越後は景虎の下で、ようやく一つに纏まったというが、その実態は未だ一枚岩にあらず。一部の国衆には、反感がくすぶっておるそうじゃ。となれば、越後の内部から切り崩すのが良策というものよ。正面切っての戦ばかりが勝負ではない」

 そう言うと晴信は不敵に笑みを浮かべた。

「しかし、兄上、景虎のことです。野戦での決着を仕掛けてくるに違いありません。どんな手段で兄上を戦場に引きずり出そうとするか、分かったものではありませぬ」

「今から心配しても仕方あるまい。その時はその時じゃ。上手くあしらえばよい」

「確かにその通りですね」

「喉が渇いた。水を持って参れ。典厩の分も忘れるな」

 直ぐ傍にいる小姓に声をかけた。慌てて駆けていく小姓を見て晴信は呟いた。

「あいつは駄目だ。気が利かぬ」

 甲斐に戻ったら、新たな小姓を傍に置こう。晴信はそう思っていた。


 篠ノ井での急襲に次いで、八幡原で武田軍を撃破した景虎は、破竹の勢いそのままに、軍を進める。荒砥城から青柳城、そして虚空蔵山城を、次々に攻め落とした。

 更に武田晴信が籠る塩田城を素通りし、武田方の支配地域深くまで侵攻して、苅屋原城を攻め立てた。

 それは晴信を誘い出そうという意図があっての攻城だったが、肝心の晴信自身が動く気配すらみせない。

 既に晴信は、景虎と勝負する気が失せている。晴信が信濃衆に命じたのは、越後勢に奪われた荒砥城への夜襲だった。晴信の目的は越後軍の退路を遮断することである。

これには、さすがの景虎もお手上げだった。晴信との決戦を諦めざるを得ない。折角攻め取ったばかりの荒砥城が危ないことを知った味方の将兵に、動揺が走った。これでは決戦どころの話ではない。仕方なく、全軍に撤退を命じた。

 景虎は旭山城に全軍を引き上げた後に、守りを固めたうえで、帰国の途についた。天文二十二年(一五五三年)九月二十日のことである。

 山の紅葉の色も日毎に深まりをみせ、既に朝晩の寒暖差が身体に堪える季節を迎えていた。

 一方の武田晴信は、山々に初冠雪の便りが聞こえる季節になって、なおも信濃に止まっている。奪い取った旧村上領を固めるためだった。甲斐への帰国は十月下旬だった。景虎よりも約ひと月ほど信濃に留まっていたことになる。その時既に、景虎の姿は京にある。

 ともあれ、第一回目の川中島における両雄の戦いは、こうして収束を迎えた。


  *上洛


 景虎は上洛の途についていた。

 川中島での戦いを終えて、休む間もなく春日山城を発つことになった。率いる兵も二千と、決して少なくはない。

 留守中の政務は、直江与兵衛尉実綱に一切を任せることにした。また、関東と奥州への監視と守備は、坂戸城の長尾政景に託している。 

 上洛の準備は、在京の神余親綱と連絡を取りながら、留守居役の直江実綱と蔵田五郎左衛門尉を中心に、かなり前から進めてきている。国衆の一部には、その過密日程を危ぶむ者もいたが、景虎にとっては、あくまで予定通りの動きでしかなかった。

 直江津の港から越前の敦賀までは、船による海路での移動を選択した。その後は陸路、京を目指すことになっている。

 むろん、他国を無断で通過するわけではない。事前の他国工作は用意周到に進めてきたつもりだった。

 最難関は、一向宗徒の動きを如何に封じ込めるかであった。海路移動とは言っても、一向宗徒の国とも言える越中・能登・加賀の各港に立ち寄る必要がある。

 長尾守護代家と一向宗徒との確執や因縁は、父祖の代から根深く、景虎の代に至っても何ら解消されたわけではない。

 一向宗徒の多くは民であり、普段は他の民の中に紛れ込んで生活している。つまり、その気になれば、民に混じった宗徒が、船に細工を施し沈没させることや、火をかけて航行不能にすることくらいは、決して難しくはないはずだった。

 宗徒が武装して正面切っての戦いに挑んでくれば、鎮圧する手筈も考えようがある。しかしながら、民の中に紛れ込んで、遊撃的な隠密行動を取られてしまっては、なかなか太刀打ち出来ない。それは、今も昔も変わらない現実である。

 上洛に当たって無駄な争いを、極力回避したい景虎は、予め一向宗総本山である石山本願寺・証如に使者を遣わした。その内容は、景虎の上洛を宗徒に一切妨害させないことを条件として、父・為景が禁止していた越後国内での一向宗布教を許可するというものであった。証如はこれを喜んで受け入れた。

 また、敦賀から陸路上洛するに当たっても、越前の朝倉義景に対して使者を送り、領内通行を丁重に願い出て、了解を取り付けている。

 もともと、越前国守護の朝倉家と越後守護代長尾家とは、青苧の流通を通して、古くからよしみを通じている間柄である。領内通行を願い出て、否という返事はそもそもあり得ない話だった。しかしながら、越前国守護である朝倉家の格式は高く、それを景虎も十分に認識している。予め十分に礼を尽くすことで、無用な摩擦を回避したい、というのが本音だった。

 朝倉義景は、越前国朝倉家の第十一代目当主に当たる。景虎より三歳下の二十二歳ながら、前年には将軍・足利義藤(義輝)から、義の一文字を賜っているほど、将軍家との厚誼がある。その義景を差し置いた形で、遠国の、しかも守護代でしかない景虎が、上洛するというのだから、その内心は決して穏やかとは言えなかった。

 しかし、朝倉家には、その義景を上手くなだめる重鎮の存在があった。それが、政務補佐役であり、従曾祖父である朝倉宗滴(教景)である。宗滴は景虎の礼に対して報いることが、名門・朝倉家の当主としての取るべき態度である、と義景を説き伏せた。そして、京までの道先案内を自ら申し出ることをも、吞ませていた。

 むろん、道先案内の申し出などは、あくまで形式的なものとして、景虎は丁重にお断りしたうえで、改めて感謝の意を表した。

 全ての障害を解消した景虎は、こうして春日山城を出発し、海路上洛を目指すことになったが、最後に大きな難題が残されていた。それは人力の及ばない天候である。

 この時期の日本海は晩秋を迎えており、大荒れが心配だった。しかし、この時は天候すら景虎に味方していた。

 珍しく穏やかな小春日和が続き、海は穏やかで敦賀湾までの船旅は、極めて順調に進んだ。

 こうして、景虎は上洛に当たっての、目の前に立ちはだかる障害を、一つひとつ解決し、最後は天の恵みにも助けられ、遂に念願の上洛を果たすに至る。天文二十二年(一五五三年)十月のことである。

 当時の京の民衆は、謂わば「野次馬根性」で沿道に押し寄せた。はるばる越後という遠国から、のこのことやってきた田舎侍の一行を、一目見て虚仮にしようという魂胆である。

 つまり、「芋侍、越後の山猿」見たさに、半ば冷やかしで集まった群衆である。しかし、二千の軍勢を引き連れた、景虎の威風堂々とした姿を目にするや、たちまち、手のひらを返したように、一行を褒めそやし、京の民は熱狂することになった。

 何せ、馬上の武将から徒士に至るまでの全軍が、一糸乱れずに整然と行軍していく姿など、応仁の乱からこのかた、目にした例がないのだ。ましてや、景虎を筆頭とする武者たちの、きらびやかな今風の具足と衣姿である。京の民衆が一瞬にして心を奪われたのも、無理からぬことであった。

 当時の京の都は、戦乱に次ぐ戦乱で街は荒廃し、治安の維持さえままならない状態である。各所での小競り合いは日常茶飯事のこと、野盗や賊徒の類いは、昼夜を問わず横行する始末で、京とは名ばかりの廃墟の街と化していた。

 そのような中で、越後の軍勢が上洛する話など、甚だ迷惑な話でしかない。どうせ、田舎者が物見遊山で、やって来ては、好き放題に荒らし回って帰っていく程度にしか考えていないのだから、仕方のないことだった。

 ところがどっこい、それが全くの杞憂で終わるとは、誰も想像していない。越後の将兵が乱暴狼藉を働くどころか、行動規範が徹底されており、全員が節度と礼節を弁えた者ばかりなのだから驚くしかない。

 景虎ら越後勢一行は、一転して京の人々に大歓迎されることになり、その上々の評判は、忽ち畿内全域に知れ渡ることになった。

 かくして上洛を果たした景虎が、最初に向かったのは京の御所である。

 何よりも真っ先に、後奈良天皇への拝謁を果たし、弾正少弼・従五位下任官への御礼言上という、表向きの目的を果たす必要があった。

 もちろん、帝に拝謁し御礼を言上したいという、景虎の純粋な願望に嘘偽りはない。しかし、もう一つの目的を果たすことが、大きな意味を持っていた。

 京常駐の雑掌である神余親綱は、この目的実現に向けて、朝廷の有力公家との接触を図り、巧みに事前の裏交渉を進めてきた。

 それは天皇側近の公家衆に近づき、献上の金品を納める見返りとして、景虎の過去の軍事行動が、朝廷の意向に基づくものとして追認頂くと同時に、予想される今後の国内外における軍事対抗措置をも、全て正当化して貰うことである。

 当時の朝廷や公家は、長く続く武家政権の下で、かつて所有していた土地や田畑すら失われ、困窮を極めていた。日々の食事すらままならぬ中にあって、古の栄華を誇った御所も、方々が朽ちていても、その修理費用すら捻出することが困難な懐事情だった。

そんなところに、景虎から沢山の献上金品である。天皇とその側近はまさに諸手を挙げて、大喜びしたに違いない。

 景虎は天皇への拝謁に当たり、御剣と天盃を下賜された後に、広橋大納言を通して戦乱鎮定の綸旨を賜った。

「住国(越後)及び隣国に於ける敵を治罰し、宜しく忠を一朝に尽くすべし」というものである。

 これによって、景虎は北条や武田という隣国の宿敵を討伐するという、大義名分を得たのであり、これこそが、上洛に際して景虎が欲した一番の成果だった。これで、前の将軍家に加えて、朝廷からも景虎の軍事行動が公認されたことになった。

 景虎の上洛目的のもう一つが、足利将軍との接触だったが、これについては叶えることが出来なかった。この時、将軍義藤(翌年、義輝に改名)は、三好長慶との戦いに敗れて、近江国(滋賀県)朽木谷に逃れており、会いたくとも会える状況ではなかったのだ。

 三好長慶は、下剋上の象徴的人物でもある。もともとは管領である細川晴元の家来衆のひとりに過ぎなかった存在だった。それが自らの才覚を駆使し、徐々に勢力を伸ばし、遂には阿波・淡路・播磨、そして山城をも手中に治める、大大名として君臨するまでになっていた。

 そうなると、まさにやりたい放題である。邪魔な将軍や管領は京から駆逐することなど、いとも簡単にやってのけてしまう。

 もちろん長慶は、景虎の京での動向を逐一掴んでいる。天皇への拝謁などは、田舎者の物好きがすることと、気にも留めなかったが、むしろ京の民衆の評判の高まりが、じつに不愉快でならなかった。

 しかし、家来衆に対しては、表立っての衝突を、厳に慎むよう自重を促している。既に、景虎の華々しい軍功は、幾多の山河を越えて、畿内にも轟いている。関東や信濃における戦では、それぞれ北条や武田といった強敵を相手に、負け知らずの奴などと戦いたくない、というのが本音だった。

 小癪な奴とは思っても、そのうち越後に帰るのだから、今だけ我慢する他ない、と家臣にも言い聞かせる長慶だった。

 但し、最も大事なこととして、こうも付け加え、その命令を徹底させていた。

「よいか。上洛期間中に、足利将軍家との接触だけは、絶対に阻止しなければならぬ。もし、これを許せば、今後は諸国の大名が将軍家を担いで、我らを排除しようという動きにならぬとも限らぬ。朽木谷に至る沿道には、護衛目的と称して兵を配置し、蟻一匹たりとも入れぬように固めるのだ。越後の動きには目を光らせよ」

 長慶はこうして景虎と将軍義藤の接触を妨害し、書状のやり取りすら徹底阻止した。

 一方の景虎も、長慶の姑息な動きは察知していながらも、強硬手段に訴えることは、自重するしかなかった。

「三好長慶の奴、どこまで公方様を愚弄ぐろうするつもりじゃ。己を弁えぬ不届き者とは奴のことに他ならぬ。甲斐の武田といい、相模の伊勢(北条)といい、また三好も然り。この世は私利私欲に走る悪の権化のような輩が、蔓延はびこる巣窟へと成り下がってしまったようじゃ。だが、儂はそのような奴らを絶対に許さぬ」

 景虎の怒りを、目の当たりにした雑掌の神余親綱は、堪らずに諫言かんげんした。

「殿、よもや、京で一戦に及ぶなど、断じてなりませぬぞ」

 親綱は日頃、景虎と接触しているわけではない。景虎の言動の本気度合いが分かっていないが故の、危惧であり諫言だった。景虎はそのような暴挙に出る程短慮ではない。

「心配には及ばぬ。この京で、儂が畏れ多くもさような、宸襟しんきんを悩まし奉ることを行うわけがなかろう」

「そのお言葉をお伺いして安心いたしました」

「たとえ、京を離れて一戦に及ぶとしても、地の利は三好にある。そのうえ敵は大軍を擁しておる。それに比べて我が軍勢は、精鋭とは言えわずか二千。決して十分な軍備とは言えぬし、長期戦ともなれば、兵糧の問題も出てこよう。越後を長期留守にすることも情勢が許さぬ。少なくとも今は、その時期にあらず、ということだ」

「さすがは我が殿でございます」

「しかし、儂は此度諦めたに過ぎぬ。決して、未来永劫諦めたというわけではない。儂はそう遠くないうちに、あらためて上洛を果たすつもりでいる。やがて我らが帰国を果たせば、朽木谷との往来も容易となろう。京ではおぬしだけが頼りじゃ。命の危険を伴うこともあろうが、公方様との接触を続けてくれ。将軍・義藤様は、この日の本において、唯一無二の大切なお方じゃ。次の上洛では、必ずお会いしたうえで、儂の真の心をお伝えし、お支えしたいと思う。頼んだぞ」

「承知いたしました。この神余、身命を賭して」

 親綱の畿内における奔走はこの後も、長年にわたって続くことになる。

 

 天文二十二年(一五五三年)も、早や十一月半ばを迎えている。景虎は神余親綱を従えて、堺に向かった。

 その途中、石山本願寺に立ち寄り、証如に対して、上洛の挨拶と称し、献上の品々を贈り届けることが出来た。駿馬と太刀一振り、それに香銭として銭千疋という気遣いようである。

 一方の証如もなかなかの役者である。後日、返礼として太刀一振りと緞子、それに縞織物などの見事な品々を、景虎の下に贈り届けていた。

 むろん、景虎が返礼の品そのものに、喜んでいるわけではない。これまで、敵対関係にあった一向宗総本山である石山本願寺との、事実上の和睦が成ったのも同然、と判断したからに他ならなかった。

 しかし、この期待がやがて、糠喜びだったことを景虎は知ることになる。数十年続いた拗れた関係が、一朝一夕に修復するほど、事は単純ではなかった。

 さて、堺に着いた景虎は、越後府内との違いに、目を丸くして驚くしかなかった。街中には見るもの聞くもの全てが、初めてと言ってよい光景が広がっている。

 当時の越後府内一帯は、長尾家の繁栄とともに、港での交易や商いが盛んであり、全国でも有数の港湾商業都市として栄えていた。従って、街の賑わいそのものが、景虎を驚かせたわけではない。

 堺の街中には、鉄砲伝来以降にやってきた南蛮人と思しき商人や、耶蘇教(キリスト教)の布教を目的とした宣教師らの異国の人が、至る所を何食わぬ顔で歩き、何やら理解出来ない言語を使い、会話を飛び交わしている。その異人の目や髪の毛、肌の色、背の高さ、衣服や履物全てがまるで自分たちと違い過ぎるのだ。

 周囲に目を移せば、南蛮風の異国情緒漂う教会や建物が、各所に乱立しているにも関わらず、それが見事街中に溶け込んでいる。

 堺という都市の、活気だけにとどまらない、異国の文化をいとも簡単に受け入れる柔軟性や、その住人の商魂のたくましさに、景虎はただ驚嘆するしかなかった。

 景虎が右に左に目を奪われながら、最初に訪いを告げたのは千宗易のもとである。後に正親町おうぎまち天皇から利休という号を与えられるその人は、その時既に、茶の道で天下に名を馳せていた。景虎は、以前からこの上洛の機会を逃さずに、茶の道を極めたそのお方に、師事しようと狙いを定めていた。

 景虎は幼少期から、寺における修行以外に、書や和歌はもちろん、琵琶や能、笛といった芸能、そして茶の湯も嗜んでおり、既に当代一流の文化人としても名を馳せている。

 一方の千宗易も、茶人としての顔とは別に、堺を代表する商人のひとりでもあり、堺の南宗寺に参禅している。宗易が熱心な仏教徒であることを、予め親綱から聞いていた景虎は、南宗寺の総本山である臨済宗大徳寺・徹岫宗九てっしゅうそうきゅうを通して、予め宗易との面会の了解を得ていた。

「ようこそ、遠路はるばるお越しいただきました。弾正少弼殿につきましては、数々の武功に加えて、此度の京における評判が、この堺まで漏れ伝わっております。こうして、お会い出来る日を心待ちにしておりました」

「有難き御言葉。何の伝手もない田舎者にて、徹岫宗九様に仲立ちをお願いして、ようやくお会いすることが叶いました。非礼の段、何卒お許しください」

 景虎のへりくだった挨拶に、宗易は笑顔で応えた。

「弾正少弼殿は武人としてのご力量も秀でておられるが、乱世にあっては、まことに稀有なお方と、お見受けいたします。じつに信心深く、信義というものを大切になさり、教養人としての品格も備えておられる。この宗易ごときに、あらためて茶の道の教えを乞うなど、無用と心得ますが如何でございましょう」

「いいえ、あくまで田舎作法にございますれば、上洛の機会には是非とも、宗易様にご教示願いたいものと、かねてより念じておりました。その願いがこうして叶い、今はただ感無量でございます」

「ご謙遜とは存じますが、委細承知仕りました。ところで、弾正少弼殿、茶の道以外にも、こうしてお越し頂いた別の目的が、あるのではござりませぬか。例えば、この堺で大量に仕入れたい品があるとか」

「宗易様は全てをお見通しのようです。むろん、茶の道を極めたいという気持ちに、嘘偽りはございませぬ。このように、宗易様のお点前を拝見しているだけでも、お伺いした甲斐がございました。もう一つの目的は、宗易様のもう一つのお顔、大店を持つ商人としてのお姿にすがりたいと存じました。実は、宗易様が最も信の置ける、『種子島』を扱う方への、橋渡しをお願いしたいのです」

 手を止めた宗易は、景虎の顔を直視している。

「やはり、お求めの品は火縄銃でございましたか」

「かような場で、きな臭い話になってしまい、申し訳ございません。後ほど、お話しようと思っておりましたが、お見通しとあれば仕方ございません、申し上げましょう。『種子島』の伝来で、これからの戦は、様変わりするはずです。弓矢や槍、刀だけでは、到底太刀打ち出来ない時が、間近に迫っております。我が越後も仇敵から守るには、この機会にどうしても大量に仕入れる必要があるのです。どうか、我が願いをお聞き入れ頂けないでしょうか」

 諸手をついて願い出る景虎に、宗易はにこやかに笑みを返した。

「お気持ちは承りました。生憎あいにく、手前どもでは、武器や武具といった、殺生に関わる物の商いを遠慮しております。しかしながら、些か知己もございますれば、一服ご所望の後に、然るべきお方のもとに、ご案内いたしましょう。手前からけし掛けてしまいましたが、今はそのことを忘れて、茶の香りとともに、心安らかにひと時を過ごしください」

「宗易様のお心遣いには、心より感謝申し上げます」

「どうぞ召し上がりください」

 宗易の手によって点てられたお茶の香りが、何と芳しいことか。景虎は、まさに至福のひと時を味わい楽しんでいた。

「当代随一と謳われる、宗易様のお点前を拝見出来ましたことを、我が一生の誉れといたします」

 冬の空風が茶室の口戸を、かたことと揺らした。越後はもう根雪の時期に入っている。

 景虎は春日山に降り積もる雪景色を、懐かしく思い浮かべながら、また一口茶をゆっくりと流し込んだ。


 宗易が景虎を連れ立って訪れた先は、今井宗久が構える大店だった。

 今井宗久は、千宗易に並び称される茶人であったが、納屋業を営む他に、鉄砲や玉薬を取り扱い巨万の富を得ており、堺を代表する豪商に成長していた。

 千宗易が雇っている使いの者が、一足先に宗久のもとを訪れ、景虎来訪とその用向きを伝えている。

 今井宗久は景虎を出迎えると、いかにも商人らしい満面の笑みで応対した。

「ようこそ、お越し頂きました。長尾弾正少弼様と言えば、今や我ら下々の者でも、知らぬ者はおりませぬ。当代随一の弓取りと、お噂されている方ではござりませぬか。そのようなお方にお越し頂けるとは、この宗久も鼻が高こうございます。手前どもでご用立て出来るものであれば、何なりとお取り揃えいたしましょう」

 それを聞いた景虎は、単刀直入に話を進めた。

「では、我が贖いたい品を率直に述べましょう。宗久殿、欲しいのは『種子島』を三百丁。今すぐに五丁、叶うことならば十丁を所望したいのだが如何であろうか。残りは来年になっても致し方ない。ここに控える神余親綱が、我が名代として京に常駐しておるので、仔細はこの者と詰めて頂きたいのだが」

「お待ちくださいませ。いくら長尾様のお頼みでも、それは急すぎるお話。今すぐに都合出来るのは、近江の鍛冶屋から納められたばかりの三丁のみでございます。今、鍛冶屋に発注している分は、先約のお武家様の分でございますので、とても無理なお話です」

「それはいずこの家中からの注文ですか」

 思わず、身を乗り出すように、神余親綱が問いかけた。

「神余様、それはたとえ口が裂けても申し上げられませぬ。商いは銭取引とは申せ、互いの信用のうえに成り立っております。お取引頂いているお方の、不利になるようなことを申し上げることは、商い人として自らに失格の烙印を押すようなもの。如何に弾正少弼様のご家来であっても、それだけは無理な話です。何卒ご容赦くださいませ」

 宗久の言う通りだった。商人には商人の矜持というものがある。それを忘れ、つい夢中になり過ぎた自分を、内心恥じて親綱は詫びた。

「確かにその通りでした。商いは互いの信用が第一。夢中になるがあまり、余計なことを口走ってしまいました。どうか、粗忽者の戯言とお忘れ願いたい」

「そのようなお詫びなどには及びませぬ。ご理解いただければ、それで宜しいのです」

 その返事と表情から、宗久が気分を害していないことを感じた親綱は、仕切り直しとばかりに続けた。

「いま、お伺いしたことで、既に『種子島』が知れ渡り、競うように買い集められていることが分かりました。そのことが知れただけでも、我が殿に随行して堺に来た甲斐があったというものです。宗久殿、それでは、その直ぐにお譲りいただける三丁と玉薬を貰い受けましょう。それで残りの二百九十七丁は、いつ頃頂戴出来るでしょう」

 その問いに対する宗久の答えは意外なものだった。

「それだけ沢山のご所望となると、今年はおろか、来年でも難しゅうございます。再来年の春頃には何とかご都合出来るかと。申し訳ございませんが、それが手前どもでお約束出来る精一杯でございます。何卒、ご猶予を頂きますよう」

 宗久の回答を聞いて、次に口を開いたのは景虎だった。

「そこまで手間と日数を要するものとは、知らぬこととは申せ、恥じ入るばかり。では、こうではどうであろう、宗久殿。五丁ずつでも、十丁ずつでも構わぬ。その都度、この親綱のもとに届けて貰うというわけには参らぬか」

「それはもちろん、否というはずがございませぬ。さすがは弾正少弼様。戦だけではなく、商いを通して、越後の国を富ませているというお噂はまことのようですね。畏れながら申し上げれば、お武家様の中には、我が命令を聞けぬと申すか、と言わんばかりに無理難題を押し付ける方が少なくありません。そのような方々と違って、長尾様は実に柔軟なお考えをお持ちのようです。この今井宗久、長尾弾正少弼景虎様のために、一肌でも二肌でも脱ごうと存じます。一日でも早く火縄銃を納めるよう、尽くして参りましょう」

 堺商人の心意気に触れた一方で、その怖さも知った景虎と親綱だった。何気ない発注と納期の交渉を行う中で、自分たちの人となりを試されていたのだ。

 後日談として、最後の火縄銃が神余親綱を経由して春日山に届いたのは翌・天文二十三年(一五五四年)秋のことだ。つまり、今井宗久は、約束よりも半年ほど早く全てを納品したことになる。  

 その翌年の第二回・川中島の戦いにおいては、越後勢が初めて火縄銃を実戦使用している。これは、宗久の粋な計らいのお陰と、景虎が実戦配備を急いだ結果だった。

景虎は、銃が納品補充される都度、その数量に倍する人数の兵に対し、繰り返し調練を課して、銃の扱いに慣れさせたからこそ、成し得たことだった。

 むろん、火縄銃の使用が、戦の趨勢に影響したかはともかく、大いに武田軍への対抗と、牽制に役立ったことは言うまでもない。

 

 景虎が堺からその足で次に向かったのは、紀州・高野山である。神余親綱を京に返しての一人旅であった。

 高野山・金剛峯寺、言うまでもなく、弘法大師が開祖である真言密教の聖地・総本山への旅路である。

 景虎の宗教観は極めて独特である。景虎は、御仏の教えには様々な解釈があることを大前提として、柔軟に考えている。一宗派が唯一無二などという、狭い世界観には最初から懐疑的だった。それ故に、自らも一宗派に帰依することには、全く固執していない。

 長尾家の菩提寺は、曹洞宗の林泉寺である。景虎が幼少期に、この林泉寺で天室光育の薫陶を受けたことは言うまでもないが、高野山は真言宗、そして先に触れた大徳寺は臨済宗である。

 長尾景虎(上杉謙信)というひとりの人間は、宗派を越えた広い意味での「御仏の道」の中に、己の進むべき標(しるべ)を模索していたのではないか。彼の生涯は、戦という修羅の道を歩まざるを得ない自らの宿命を受容しながらも、その一方では、宿命に抗い「人としてのあるべき姿」を模索し追い求めた「求道者の足跡」に思えてくる。

 天文二十二年(一五五四年)十二月、景虎はこの時代にあっては数少ない、非武装地帯である高野山を、一路目指し歩き続けていた。

 そこに一国の主としての姿はない。俗世の衣を脱ぎ捨て法衣を纏い、頭には漆黒の陣笠を被り、左手には数珠、右手には「國宗」の銘を有する戒杖刀かいじょうとうを携えていた。

 その目指すところは無量光院である。高野山は山全体が総本山金剛峯寺の境内であり、一山境内地と云われている。景虎が向かう無量光院も、その高野山内に点在する百を超える子院の一つである。

 かねてから親交のある第三世住職・清胤せいいん法印には、既に書状で伝えてある。景虎は春日山城内の真言宗・大乗寺で、長海和尚から真言密教の教えを授かっており、その伝手で清胤法印との誼みを通じていたのだ。

 参道より仰ぎ見る大伽藍や、そびえ立つ金堂に大塔、立ち並ぶ寺院を目前にして、景虎の心は密かに騒ぎ高まる。

 無量光院は金剛峯寺正面に向かって、右隣り奥に位置していた。

「弾正少弼殿、お待ち申し上げておりました」

「ようやくお会いすることが出来ました、法印様」

「弾正少弼殿が御仏に帰依なさるその真の心は、これまでに頂戴した数多くの書状から、伝わって参りました。拙僧こそ、こうしてお目にかかれる日を、一日千秋の思いでお待ちいたしておりました」

 清胤が景虎を迎える目元からは、涼やかな中にも優しさが感じられる。

 景虎はこみ上げる興奮を抑えることが出来ず、自らの存念を一挙に吐露し始めた。

「こうして罷り越した目的はただ一つ、法印様の弟子のひとりにお加え頂きたい、ということの一念のみでございます。ご存じの通り、この身は生まれ持った定めに抗うことなく、仏法の精神とは相反する、殺生の世界に身を置く者でございます。もう後戻りは出来ぬ、修羅の道を歩んでおります。これからも、この道を歩まざるを得ません。しかしながら、それは自らが信ずる正義と仁愛を貫くため、と我が身に言い聞かせております。帝より賜った官途位階も、自身の驕りや名誉のためではなく、越後の国の人心を我が下にまとめ、平らかにするための手段と心得ております。しかしながら、現世では欲望や嫉妬という、人の煩悩や権謀術数が渦巻いております。争いは絶えることがありません。我が目指すところの、争いのない世の実現などが、本当に出来るのか、疑心暗鬼の日々でございます。また、自らの行動を日々振り返ると、それが正しいのか、慈愛の心が不足していないか、という疑問が頭をもたげて参ります。過ちに気づき、慙愧の念に苛まれることもしばしばです。このような未熟者でございますが、どうか弟子の末席に加え、悟りの境地の入り口にお導き頂きとうございます」

 清胤は、その景虎の一気呵成の吐露にも動ずることはない。口元に穏やかな笑みを湛えながら、包み込むような慈愛に満ちた眼差しで応じた。

「貴殿の真っ直ぐな心の声を聴かせて頂きました。貴殿はまことに崇高な理想をお持ちです。しかしながら、ご自身のお立場と俗世の現実に挟まれ、悩んでおられる。このように純粋で生真面目なお武家様は、誠に稀有でございます。いや、きっと貴殿の他にはおられますまい。出家される方はいても形式ばかりで、実のない御方が大半とお見受けしております。中には出家を政事の道具としか思わない方もいます。殆どのお武家様は矛盾を顧みずに、平気で殺生を行い、日々何事もなく過ごされる方ばかりでしょう。これは少々言い過ぎましたかな。弾正少弼殿、悩みや苦しみの中から、きっと悟りや無の境地が見えて参るはずです。これからも、自らを律し御仏に寄り添い、お仕えください」

 景虎は清胤法印の偽りのない言葉に魅了されていた。いつの間にか肩の力も抜けている。

「本音を申せば、何もかも捨て去り、このまま法印様の弟子の一人として、御仏にお仕えしたいとさえ思っております」

「その思いだけで十分です。御仏もわかって下さるでしょう。弾正少弼殿は、越後のみならず、この日の本にとっても、なくてはならない大切なお方。そのようなお方を、拙僧がお預かりするなど、決して出来ることではございませぬ」

「であれば、せめて弟子の一人として末席にお加え頂けましょうか」

「それは申し上げるまでもないことです。こちらこそ、宜しくお頼み申します」

 清胤法印は景虎の前で合掌し、深々と頭を垂れた。これが、「求道者」景虎(謙信)と清胤法印との、生涯にわたる子弟関係の始まりだった。

 景虎が急ぎ高野山から京に戻ると、次に訪れた先は臨済宗大徳寺である。釈迦が悟りを開いた日と言われている十二月八日に、前住持第九十一世・徹岫宗九に参禅するためだった。

 むろん、律儀な景虎が、千宗易との面会に際しての、仲介の労に報いるために他ならない。徹岫宗九は景虎の来訪を大いに喜び、法号「宗心」を授けている。

 これ以降、有名な隠遁騒動までの二年半にわたって、景虎あらため「宗心」と名乗り、花押まで変えることになった。(本書でも、この期間を宗心と表記する。)

 京を中心に、畿内を奔走し、越後に帰国したのは年末の歳も押し迫った時である。こうして、宗心(景虎)にとって、様々な出来事に追われた天文二十二年が暮れていった。

 

  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る