#2「その手をはなれて、この地でめざめて。」
腰の水筒に溜めた水が、半分ほど無くなった頃であった。
「……何だ、これは」
男は岩肌のゴツゴツした岸辺で、信じ難いものを目にしていた。
海岸に打ち上げられた傷だらけの黒い棺に、細身の子供が突き刺さっている。読んで字の如くだ。横向きに倒れた棺に、縦に子供が突き刺さっている。
多分、アホか妖怪の類だ。あるいは、この子供を棺から引っこ抜いた者が選ばれ勇者となり、魔王討伐の旅に出るのかもしれない。
「って、大丈夫かお前! おい!」
男はすぐに冷静さを取り戻して、棺に刺さった子供の胴を抱え、力を込めた。海を渡ってはるばるこの国に来たのは、「祝い子と呪い子」などという変わった風習を調査するためだ。決して勇者の誕生を見届けるためではない。
「うぐっ……んん」
無理矢理上に引き上げると、子供はすぐにずぼっと抜けた。出てきた黒い髪の少年は、あろうことかこの状況で眠りかけていたらしい。「まだ寝かせろよ」なんて二言目に言いそうな調子で声を漏らし、彼は逆さに引っ張られたまま目をこすった。
「……はっ!? ここは……うわっ!?」
「よーし、その反応はちゃんと人間だな。落ち着け」
ようやく状況に気づいたのか、少年は急に慌てたそぶりを見せ、濁った赤い瞳で辺りをきょろきょろし始めた。
「も、もしかして、あなたもおれを殴るのか!?」
「初手でその質問何? お前の知り合い、初対面で人殴る奴がいんの?」
素早く顔を手で覆った少年に、男はそう答えた。だって、殴る理由も意思もない。
「ああ……殴らないのか。良かった、あなたは良い人だ」
男が手を離すと、少年は逆立ちの状態からひゅっと体をひねらせて着地した。
15歳ぐらいだろうか。声からして明らかに男だが、細身だし随分と身長が低い。もしかすると、十分に食事も出来ていな──いや、そんな質問は野暮か。男はそう思い、喉元に浮いてきた言葉を飲み込んだ。
「ガキんちょ、お前名前は? なんでこんな所に打ち上がってた?」
「おれはニア。えっと………………"しょけい"とか言って、何故かこの箱に閉じ込められて、海に沈められた。荒波の中で重りが外れて、ここに流れてしまったみたいだが」
「ギャングの殺し方!?」
「ギャ……なんだ?」
「いや、何でもねえよ……」
さては、とんでもない爆弾を拾い上げてしまったか──男の胸の奥で、危険信号と後悔の念がその存在感を増していった。顔の火傷や手の傷、ボロボロの黒い服なんかも、なんだか意味深に見えてくる。
「あー、俺はジャック。ジャーナリストのジャックだ。じゃあな、気をつけて帰れよ」
「ああ、本当にありがとう。ジャックのおかげで助かった。では」
良かった、このまま離別できそうだ──ジャックは安堵しながら踵を返した。疑問は色々と残るが、裏社会の匂いがする以上、軽い気持ちで踏み込むのは得策ではない。
「そうだ、ジャック」
「あ?」
最後の挨拶か、あるいはお礼の品でもあるのだろうか。ジャックは振り返った。
「おれの帰り道は、どっちなんだろうか?」
「クソ……ギャングに消されたらテメェを恨むからな……」
「? 何だか分からないが、すまない」
粗暴に振る舞っていても、根底に持つ優しさを隠しきれない。頼まれるとついつい頑張ってしまう。ジャックはそういう人間で、そんな自分の性分を厄介に思っていた。
そして案の定、今回もニアに手を貸したくなってしまい。
「ほら、これが地図だ」
手頃な岩に座り込んで、ジャックは手持ちの地図を広げた。
「ほら、お前の家はどこだよ」
「? 分からない。おれのいた所はどこだろうな」
「……まさかお前、自分がいた町の名前も知らない、とかじゃねえだろうな?」
「知らないぞ」
「15とかだろ!? お前!」
「むっ、全然違う! 14歳だ!」
「一緒だ一緒!! クソッ、レノ聖国ってここまで教育水準低かったのか……!?」
「レノ? ああ、それは知ってる!」
「あ? この島国、レノ聖国をか?」
「ああ、俺が暮らしてた国の名前だ。どうだ、褒めても良いぞ」
「褒めるほどじゃねえよ」
「がーん……」
「普通口で言わんだろ、それ」
とにかく、それなら良かった。ニアは海を渡ってしまったわけではなく、レノ聖国を出てまたレノ聖国に帰ってきたのだ。それなら帰る手がかりも、すぐに見つかるだろう。
「アーニャが教えてくれたのに…………そうだ、アーニャは!?」
「うおっ、何だ?」
亀のようにゆったりしていたニアが、突如豹変して迫ってきた。その様子に呆気に取られながら、ジャックはなんとか聞き返す。
「アーニャだ、アーニャ!! 俺の……俺の恩人で、伝えなきゃいけないことがいっぱいあるんだ!! どこにいるんだ!!」
「だぁー、落ち着け馬鹿野郎! 悪いがそんな奴知らねえよ!」
『祝い子』という称号しか認知していないジャックは、ニアの肩を掴んでそう呼びかけた。抵抗する力の弱さに驚かされたが、ニアがやがて落ち着きを取り戻すと、そんなことはどうでも良くなった。
「……すまない。分かった、ありがとう」
濁った赤い瞳を、さらに影が包む。だけどニアは精一杯取り繕った微笑みと共にそう言い返した。
「あーっと……」
さっきから情緒不安定気味で、対応に困ってしまう。ジャックは億劫ながらも、次のセリフを考え、そして口を開いた。
「腹、減ってねえか?」
ぐー。そんな間抜けな音が、ジャックの発話とほぼ同時に聞こえてきた。
「そういえば、そうだな。おなかが空くのは慣れているけれど、食べ物を食べた方が元気になれるんだ」
「いや知っとるわ。んじゃ……とりあえず、近くの町まで歩こうぜ。そっから、そのアーニャって子を探す方法を考えんぞ」
「ああ。冒険だな! 楽しみだ!」
ニアはすっと立ち上がった。ジャックもやれやれと溢しながら、ゆっくり岩から重い腰を上げる。
「んな大層なもんじゃねえよ」
「待っててくれ、アーニャ……」
「聞いてねえし」
すたすたと歩き出すニアの後ろで、ジャックはまた溜め息を吐くのだった。
『……やめておけ、旅の男。運命の犠牲になりたくないのならな』
「あ?」
ふと、どこかから響いた声。ニアの声色とは違う声が、心に直接響くかのように、ジャックに向けられた。
「ジャック? 行かないのか?」
「いや。ちょっと待ってろ」
運命の犠牲。
「んなもん、俺はとっくになってるよ」
そのフレーズに対して、ジャックはそう言い残すと、それっきり考えるのをやめて歩き出した。
かくして、定められた滅びへの歯車は狂い始める。その滅びの定めを彼らが知るのは、もう少し先の話なのだが。
Near my heart-処刑された忌み子だけど、何故か生きてたので呪いも悪習もこの手で断ち切る- @Cat7_cat7
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