後編


 * * * *


 次の日には

 __イヤダ

 と書かれていた。


 * * * *


 その次の日には。

 __シナセテ


 * * * *


 その次の次の日には。

 __ウルサイ


 * * * *


 その次の次の次の日には。

 __ジブンガキライ


 * * * *


 というように、毎日飽きずに保健だよりの下に例のカタカナが書かれていた。そうしているうちに、求愛行動をする蝉が死によって強制的に数を減らされ、 中庭の藤の木は夏に区切りをつけようとしている。


 最近は、書く内容を考えるのが本当に楽しくて仕方がない。 謎の文字がよく返事をくれるようになったからだ。 何故かは分からない。 でも、 返信がなくてもこの行動が純粋に息抜きとしての意味を持って楽しいと感じた頃から急速に打ち解けた。 直近の私の書く内容は質問ばかりだが、 謎の記号はそれにちゃんと答えてくれた。


 好きな食べ物は辛いもの、遊びにいってみたい場所も有名なねずみのいる遊園地。 皆に隠しているような趣味は折り紙。 全部同じだ。


 でも嫌いな食べ物はちょっと違って、 好きな本とかも私は純文学だけど、あっちは恋愛とジャンルが異なっている。


 一度、この人と話してみたい。 そう思うのは自然なことだった。 でも、目星はつかない。


 一番の容疑者は保健だよりの存在をよく知っている保健委員の男の子だった。 誰とでも打ち解けるられるような子で、 周りに囲まれているのが当たり前みたいな子。 するときに必ず私なんかにも話しかけてきてくれたことがあって、 ちょっと背伸びして憧れもした。 そんな子が黒板の人だったら私みたいなのでも接近できるのではないのか。そんなふわふわした妄想をベットの中で何百通りと予習してみた。

  でも、全然違った。 食べ物の好みも趣味もぜんぜん違う。 頭がおかしいと今では思える空想が唐突に恥辱になったし、 残念だった。 でも、その子とその友人と話しているところを盗み聞きしたから間違いない。


 でも、他の子だとも考えられないし、分からない。 誰がどの子なのかさえも把握できていないのに、字の持ち主を探すなんて出来っこない。 それに、字に癖さえあってさえしてくれやしないのだ。 特定なんて出来っこない。


 一応、誰かは考えてはいたのだ。 クラスメイトのことをよく知らなくても、分かることが砂の粒ほどでもあるかもしれないと、ずっと探し続けていた。 でも、最近は誰でもいいような気がしてきた。 この心穏やかな時間を過ごすことができるのならばもう、誰だっていい。


 辛うじて生き残った蝉の悲痛な声を片手間に聞きながらそう、思ったのだ。


 * * * *


 でも、やっぱり神様は意地悪だ。

 今日も少しだけ寝てから、いつも通りに保健だよりをめくる。 変わっていると信じて疑わなかった。 でも、 昨日の苦手なスポーツについて尋ねて、 『スイエイ』という答えのままだったのだ。


 __なんで最初に死んじゃうなんて言ったんですか?


 前回の答えがそっくりそのまま残っていたということは、 すなわち私がなんとなく書いた質問にも何も答えてくれていなかったということだ。 もしかしてこの質問が嫌だったのだろうか。 諦めて質問を変えて、おすすめの本を聞いた。


 でも、いつまで経っても答えはなかった。


 それから、文字が変わることはなく、 保健だよりも私の作成したものから別のものへと変わっていった。 今はもう、放課後はあの黒板のことがなかった頃と同じように回っている。


 前は静かなそれがよかったはずなのに、 今はどうしてか釈然としない。 そんな屈託した想いを抱きながら塾に寄った。


 家に帰ると、顔に表情を浮かべないお母さんが出迎えた。 右頬を同じく右の人差し指で何度も叩く。 苛立ちや怒りを無理やり押し込めているときのお母さんはいつもこうだ。 その怒りを甘受しようと私は黙ってリビングの椅子に座った。

 リビングには電灯が電気を通さないため薄暗い。 それなのに、 エアコンはついているからお化け屋敷にいるような悪寒で室温異常に寒さを感じてしまう。 いつもなら家に帰ってきたらすぐに部屋に入るのだが、 今日はそんなことをしてはいけないことぐらい、じろじろとこちらを眺めるお母さんを見れば察知できる。

 対面の位置にある椅子に座ったお母さんは冷やかな目を強引に合わせる。 合わせなければならない目に、怯懦するのはいつものことだ。 そして、開演の合図だといわんばかりに息を吐き出すのも通常運転だった。


「モカ。 最近、放課後に何しているの?塾の先生から聞いたわよ。 最近は来るのが遅いって」

「ご、ごめんなさい… で、でも。」


 説教中に口答えされることを好まないお母さんに閉口していれば楽なことぐらい重々承知していた。本当だって私もこんなに震えながら口を開きたくなかった。

 でも学校で寝ているなんて知られたら、お母さんはいい顔をしないどころか 『はしたないことをするな』と叱るだろう。 必死に言い訳を考える。 でも、そんなのは意味をなさない行動なのだとすぐに悟った。


「でも? なに? お母さんに何かしら、文句をつけようっていうの?親であるお母さんに?」


 そこからは叱る対象である私にさえも目にくれないお母さんの独壇場だ。 『お母さんがあなたのことを想って言っているのに』 『どうしてあなたは気がついてくれないのよ!』 という言葉を筆頭に、バリエーション豊かな表現でヒステリックに責める。 責める。


  でも、しょうがないのだ。私が悪いのだ。 学校や塾で寝ちゃいけない。 かといって家で勉強しないわけにはいかない。 そうやって睡眠時間を無理に削っていてバランスを考えられない私が、そう私がいけないのだ。 だから、 放課後の時間を使って寝ようだなんて子供の浅ましい考えなのだ。 お母さんの期待に応えられるほど要領よくできない私が悪いのだ。


「あなたはもう少し勉強しないといけないのだから、サボってちゃ駄目よ!」

「他のことを考えている暇があったら勉強をしなさい!」

「勉強しなかったらあなたは駄目な子なの!」


 あなたを愛している。


 そう言いたいのだろう。 お母さんの顔を見るとこれで愛が伝わると信じてならないのが透けて見える。 そして、頷く私もその愛を信じている筈だ。

 でも、同時に鬱憤が溜まって仕方がない。 こんなのが愛なのか、と。 それぐらいならばミンミンと一方的に愛を垂れ流すだけの蝉のほうが思いやりのある愛を持っているのではないのか、なんて唾棄していまう。

 こんな嫌な私は、きっと地獄に行くような悪い子に違いない。

 泣きそうだ。 泣きたくなる。 泣いてしまいたい。


「とにかく、明日は早めに塾に行きなさい。」


 叩きつけるように投げられた言葉を、どうしても掬い上げることは出来なかった。


 * * * *


 お母さんに一方的なキャッチボールを強いられた次の日の放課後。

 私は油断した。 お母さんへの反抗心か、 それとも単純に度忘れか。 いずれにせよ、放課後に寝てしまっていた。 そう気がついたのは、眠気が少し醒めたとき。 また怒られてしまう。

 今度はご飯抜き? それとも説教の耐久レース? どっちにしたって、 よくない結果が迫ってきているのは間違いない。


 起きなければ。


 でも。


 ぼやけた視界。 あいまいな思考。 やわらかな観想。


 どれもがうまく、できない。


 起きなきゃ。 起きろ。 起きろよ!


 歯を食いしばると、急に思考が色鮮やかかつ明確に動き出した。


 でも、それに安堵するどころか血が急に顔から逃げ出すのがわかる。


 何故、今私は立っているのか。

 何故、今私は後ろの黒板の前にいるのか。

 何故、今私はチョークで文字を書こうとしているのか。


 今さっきまで私は机にいたのに。 机で寝ていたのにどうして寝たまま起きているのか。


『夢遊病』

『ストレスで発症する』


 どこかのなにかのマスメディアが言っていたことを反駁する。口の中が急激に乾くし、呼吸だってままならない。


 つまりは、私は寝ている間にチョークで書いて、それに起きている私が反応していたってこと? 一時的に夢遊病の症状がなかったのは、この一人遊びでストレスが軽減されたから。 そして、そのストレスの心当たりが一つしかない。


 結局、ここに書かれていたのは全て、 私のことで。好きな食べ物だって嫌いなスポーツだって全部が全部そうなんだ。


 もっというと寝ているがゆえに記号のような変な字となってしまっていたものは.... 私の本音で深層意識?


 思わず嘲笑ってしまう。 周りから見ればなんて滑稽な画なのだろう。 むしろ周りがいてくれればいいのに。 周りが嘲笑ってくれればいいのに。


 眼前の黒板をさすった。 もう、いい加減私も気づくべきだ。


 蝉の鳴き声はもう、聞こえない。


「シニタイ。」

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黒板より、アイをこめて。 むこうみず太郎 @mukoumizutaro

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