黒板より、アイをこめて。
むこうみず太郎
前編
「鴨野、寝ているところすまん。保健だよりを貼っといてくれ。お前、保健委員だろ?」
少し低いガラ声の乱入者によって穏やかな
そこでようやく何が起こったかを鈍感な頭が理解した。
「わ、分かりました。」
月に一回、 保健委員が当番で出す保健だより。 後ろの黒板に磁石を貼り付けて掲示してあるけれども、多分誰も見ていない。 そんなことは皆、 共通の意識として根付いている筈だ。
でも、誰も指摘しようとしなかったから、 今月号が存在して、 そしてその担当は私だった。
確かに、渡されたA4の再生紙の上には知っているレイアウトに予想のつく文章が羅列している。
もう一度顔を上げると、 先生は既にいなかった。 そうだろう。 今は放課後。 本来なら部活動の指導があるはずだし、 教師としての仕事だってある。そんな多忙な放課後での貴重な先生の時間を私なんかが奪ってしまったことが、 申し訳ない。 せめて与えられた仕事はきちんとこなそうと立ち上がった。
機械的な味がする清涼な空気は、 エアコンからだろうか。 誰もいないはずの教室でエアコンがついたままなのは私のせいだろうか。 甘美な罪悪感を覚えながら、後ろの黒板に近づく。
いつからか聞こえてきた蝉のけたたましい鳴き声が自然と耳に入ってきた。それが、短い生涯のうちでも自分の生を証明するようで、羨望を込めて共に泣いてしまいたくなった。 無論、そのような真似はみっともないからできない。ただ耳を傾けるだけだ。前の保健だよりから役割を終えた磁石を外して、 最新版の方を鴨の羽色の黒板へ当てようとした。
でも、 それは出来なかった。
__シニタイ
その置き去りにされたような一言が目に入ったからだ。
旧保健だよりのちょうど下の辺り。無機質なカタカナでそう書かれていた。 文字が死んでいるとでも言えばいいのだろうか。 字の癖なんてなにもない、まるで怪文書のような文字だ。
でも、 驚いたのはそれだけだ。 内容自体には特に何も感じられない。一昔前だったら冗談だとしても言うなと怒られていただろうその言葉なんて、 今は皆が簡単に冗談として使っている。 私は思ったことも言ったこともないけれども、皆が 「死」 なんて軽く笑い飛ばしているのを知っている。 もしかしたら案外冗談かもしれない。
それに、面と向かって怒鳴りつけられたならともかく、 保健だよりの下に書かれていただけ。 何もしようがない。
何も考えないでおこうと頭を振った。だが、そこでたまたま回収した、 前保健だよりと目が合って、顔を引きつらせた。 夏休み前の特集ということで、 自殺防止についての話題だったのだ。 確か、 同じクラスのもう一人の保健委員の子が作成していた。 何故も誰もいつもどことも分からない、不明瞭な文字。 でも、 保健だよりに隠されたその言葉を知っているのはきっと私と書いた人ぐらいだろう。
もしその人が思い詰めて、 誰でもいいから助けてほしいというSOSがこれだとしたら。 もし、この学校で自殺者が出たとしたら。そう考えただけでも胃が軋む。 きっといつかの未来、過去の私を責めたくなる。
ふとため息を逃して、 チョークを握る。 適当な慰めの言葉を書いていれば思いとどまるだろう。 そんな無愛想な感想を抱きながら、 硬質な音をチョークで奏でた。 高校ではチョークが汚れにくいものを使っているようだし、手を洗う必要はない。 これが終わったらすぐに一眠りできるはずだ。
蝉はまだ、愛を求めて鳴いていた。
* * * *
授業が終わり、不足しがちな睡眠を取っていた放課後。今日も誰もいない教室で一人寝ていた。この教室はいい。 私と同じ様な帰宅部はすぐ帰るし、部活のある子は鞄を持って戻ってこないか、 下校の放送が時限爆弾のように感じるまで戻ってこない。 だから、エアコンの作動音や蝉の鳴き声をBGMに、 うららかな日差しを布団にしながら睡眠を貪ることができるのだ。 いつもならの話だが。
そう、今日の眠りは長くはなかった。 エアコンがついているのに暑かったから。 風が強くて、中庭に埋められている藤の木の囁き声がうるさかったから。 いや、それだけじゃないのは、既に分かりきっている。 昨日の件が気になって仕方がないのだ。 あの文字が果たしてどうなったか。そればかりが心に染みを残す昨日は書かれていたものを消さずに、その下に慰めのお言葉を書いたから、万が一、誰かに見られる可能性のある休み時間には見られなかった。
もちろん、 周囲に誰もいない今は、見ることができる。 それは分かっている。 さっさと見て安眠すればいい。
でも、見るのが怖い。 もし、 書き主が人目を敢えて隠した文字だったとしたら、 私のしたことこそが自殺の原因になってしまっているかもしれない。そのことに、気がついてしまったのだ。 今更ながら、 肺が凍るような後悔で息が苦しくなる。
でも、既に昨日、書いてしまった。 どうしようもない。 謝罪の構文はどんなものがあったかを脳内エンジンにかけながら、後ろの黒板の前に立つ。そして、 自分で作った保健だよりに夢遊病の患者のようにふらふらした手をプリントに添えた。
だが、それまでだ。 手が震えて、 勇気も出ない。 そういえば夢遊病の人ってストレスななることもあるらしい、なんて意味不明な世間話で気をそらしてしまう。 少し力を入れて紙一枚をぺらりと持ち上げるだけなのだ。 なのにそれが、 それだけができない。 やっぱり昨日のことを忘れてしまったほうがよかったのではないのか。 気の迷いなのは分かっている。
でも、私の豆腐のように脆弱な意思が私の腕を止めるのだ。 汗がじわじわと出てきて、 喉が乾く。 諦めよう。 手をおろした。
でも、そういうとき、 風は悪戯したがる。 紙が、 風でめくれたのだ。 ぺらりなんてヤワなものではなく、勢いよく、なんの躊躇もなく。 そして、あれだけ恐れていた後ろの文字が堂々と現れた。
いきなりのことに困惑して、 一風の陣が出てきた方向を恐る恐る探ると、 窓が、 開いていた。 今日はエアコンがあまり働いていないと感じていたが、 そうではなかったようだ。 思わずエアコンに頭を下げてしまった。 いや、そんなことをしている場合じゃない。 元の体勢に戻ってから、もう一度保健だよりを捲ろうとした。 今度は躊躇なく見ることができた。 その先にあったのは、 昨日の言葉ではなく、 昨日と同じように真っ直ぐな直線の記号のような大きな文字だった。
__チガウ
つまりは私の慰めの言葉が嫌だった、ということなのだろうか。 違う、なんてチョークの粉で示されても首を傾げることしかできない。
でも、何も反応が返ってこないよりはまだよいのかもしれない。反応があったということは、あの文字を見られたことに対して抵抗がないということなのだから、否定的な言葉ではあったものの、思わず安堵してしまう。
さて、これからどうしたものか。黒板としばらく睨めっこした後、再び、適当な慰めの言葉を書いた。でも、昨日のような義務感から書くのではなく、 今日のはちょっとした好奇心からだった。
何を言ったら、この人は 『シニタクナイ』 と書いてくるのだろうか、という。
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