メメント・モリちゃん
そしてだんだん冷静になると、あれは本当に人だったのか、という疑念が生まれてきた。捕まえることに必死で相手の姿をあまり良く見ていなかった。黒髪の小柄な人だと思っていたのは、実は黒猫だったのではないか。だからあんなに低い姿勢で走り回ることができたのだ。
荒唐無稽な思いつきのようだが、それなりに説得力のある解釈のように思えた。というのも、ずっと仕事部屋に引きこもっていてスマホでしか人間の姿を見ていなかったので、サイズの感覚がすっかりボケボケになっていたのだ。
幸いなことに猫は好きだ。子どものころは両親が猫嫌いで飼うことを許してもらえなかったが、大人になったらいつか飼いたいと思っていた。仕事が軌道に乗って収入が安定したらペット可のマンションに引っ越して猫を飼うのがささやかな夢だった。
今がその絶好のタイミングなのではないか? もしあれが飼い猫だったら飼い主に返さなければならないが、そうでなければ、このままお迎えしてもいいかもしれない。少々気性が荒くても、あの猫は自分からぼくのところに来てくれたのだ。その縁は大事にしたい。
居間の方でさっきからずっと物音がしていた。外に逃げられないように、玄関のドアがきちんと閉まっているのを確認してから、ぼくは居間のドアの前に立ち「にゃにゃーん」と声をかけた。まずは警戒を解くことが肝心だ。しかしずいぶん濁った「にゃにゃーん」が出た。ぼくは何度か咳払いして、もう一度、なるべく高い声で「にゃにゃーん」と言った。そしてドアに耳を押し当てた。何も聞こえない。向こうも聞き耳を立てているのだろうか。ダメ押しのようにまた「にゃにゃーん」と言った。やはり反応はない。ぼくはそろそろとドアノブを回し、ドアを開けて中に入った。
黒猫の姿を探したが、ソファの上にもテーブルの下にも見つからなかった。束ねられたカーテンの陰にも、フローリングに敷いた楕円形のラグの下にもいない。無音の空間にぼくは「にゃにゃーん?」と呼びかけた。しかし、返事は聞こえず、ぼくの鳴き声だけがしばらくこだまのように、にゃにゃーん、にゃにゃーんと響いていた。窓が開いていて逃げられたのかと思ったが、きちんと閉まっていて鍵も掛かっていた。ぼくはわけがわからず、ソファに腰を下ろした。
「ねえ、にゃにゃーんって何?」
隣に黒髪の小さな女の子が座っていた。「うわあ!」とぼくは思わず叫んだ。さっきから漫画のキャラクターみたいな発言ばかりしている。
「今のすごくキモかったんだけどなにあれ。にゃにゃーんて。趣味? なんかの」
「君、猫じゃなかったの?」
「おじさんは目を開けたまま夢を見てるの?」
「あ、なに勝手に人んちのプリン食べてるんだい」
「おじさんの分もあるよ。ふたりで食べるとおいしいよ」
ぼくは女の子にプリンを差し出されて、いちおう「ありがとう」と言ってからスプーンと一緒に受け取った。プリンもスプーンもぼくの所有物だ。食べてみると、確かにおいしかった。有名プリン専門店からのお取り寄せ品だ。ひとりで食べてもおいしいに決まっていた。
「君、どこの小学校だい?」プリンを食べ終えてからぼくは言った。
「猫ヶ丘小学校。知ってる?」
「知らない」
「知らないのかよ。すぐ近所じゃん」
「ああ。あれ、猫ヶ丘小学校って言うんだ」
「4年3組、メメント・モリ」
「は?」
「メメント・モリ」
「外人さんかい?」
「日本人」
「なるほど。本名は森メメとか?」
「メメ子だよ。大人になったらメメントに改名するんだ」
「メメ子ちゃんはどうしてこの家に不法侵入したんだい?」
突然膝の皿をグーで思いっきり叩かれて、ぼくは悲鳴と共に脚をぴょこんと上げた。
「その名前で呼ぶな!」
「いちいちメメント・モリちゃんって呼ばなきゃならないのかい?」ぼくは膝を押さえながら涙目で訴えた。
「死を思え。しっかり噛みしめて味わいな」
強打された膝の皿をなでてみたが、幸い割れたわけではなさそうだった。メメント・モリちゃんはぼくの膝に手の平をぱしぱし叩きつけて「いたいのいたいのー」と言った。「とんでけ」まで言うのはめんどくさかったのだろう。飛んでかなかった「いたいの」が、ぼくの膝のあたりで澱んでいた。
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