メメント・モリちゃんの来襲
残機弐号
黒いバターの訪問者
この数ヶ月間、仕事でずっと引きこもっていたものだから、玄関先でその小さな訪問者を前にしたとき、ぼくはまったく声が出なかった。何もしゃべれないと人は透明人間のようになるらしい。訪問者がぼくを無視して黙ってアパートに入ってこようとするので、ぼくは玄関の壁に両腕をつっかい棒のように押しつけて、身体全体でその侵入を防がなければならなかった。
しかし無駄だった。訪問者は身をかがめ、ぼくの左腕の下をくぐって家に上がり、そのままとことこと仕事部屋に向かった。ぼくは慌てて追いかけた。そこは快適に仕事ができるように最適化したぼくだけのための空間なのだ。誰にも入られたくないし、荒らされたくない。
訪問者は仕事部屋に今まさに入ろうとしているところで、ぼくは思わず「こら!」と声を張り上げた。数ヶ月ぶりに人前で発した言葉がそれだった。しかし訪問者はおかまいなしにそのまま中に入ってしまった。追いついて中を覗くと、狭い空間を訪問者は一心不乱にぐるぐると駆け回っていた。ゴミ箱が倒れ、原稿用紙が舞い、飲みかけのカップがひっくり返りカーペットにユーラシア大陸のような黒い染みができた。ぼくは慌ててティッシュ箱から3、4枚引き抜くと染みの上に押し当てた。訪問者はそんなことお構いなしに走り続け、ぼくの視界にはほとんど黒いバターのような動線が滲んで見えていた。
その軌道を観察し、やがてパターンを把握すると、次の周回でついにぼくは黒いバターに飛びかかった。しかし訪問者はありえないほど姿勢を低くしながら、覆いかぶるぼくの身体の下をまったく減速せずに走り抜けた。襲撃が空振ったぼくは勢いで本棚に頭を強打した。幸い、硬い棚のところではなく、本の背表紙(それもハードカバーではなくソフトカバー)にぶつけただけだったので、それほど痛くはなかった。頭皮を触ってみたが、こぶにはならず、血も出てないみたいだった。
落ち着いてあたりを見回すと、訪問者はすでに部屋を出たあとだった。後を追いかけてぼくも部屋を出た。
この間、ふたりの間で交わされた言葉はぼくの発した「こら!」の一言だけだった。それ以外、ぼくも侵入者もずっと無言だった。数ヶ月ぶりに人前で発した言葉のチョイスの間抜けさに、ぼくは今さら恥ずかしさを覚え始めていた。
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