鯨鳴

 スマホの液晶を見ると、六時十五分を示していた。二回目のアラームのちょうど五分後だ。時間ピッタリ。最高の目覚めだった。父の車、高い電車、黒の葬列。変わらないはずの日常が、いつもよりも清々しい。


「ぽん〜!」


 崩れた朝の挨拶。いつもの眠そうな返事に、「いい朝だねぇ」と笑う。おぢさん学年主任の香ばしい加齢臭。いつもの味のおにぎり。理乃、奏、そして美都。四人でかたまって歩く移動教室の廊下。情けない声で繰り広げられる、祐希の失恋トーク。


 最上階に位置する美術室。いつもは怠く感じる階段も、今日は軽快に足が動く。のはさすがに幻覚だった。階段はいつも通り怠い。けど、心はいくらか軽くなっている。


 油臭い部屋に少し噎せ込んだら、顧問に背中を叩かれた。呼ばれたのは顧問の部屋準備室、通称、巣穴。


「無断欠席の言い訳は考えてあるんだろうな」


 開口一番に耳が痛かった。だがさすがにこの叱責は受け入れるべきだろう。私はできる限り大人しく謝罪する。


「ごめんね。私も思春期なんだよ」

「――ったく、お前って奴は……」


 無理だった。彼の前ではどうしても敬意が薄れる。諦めた方が気が楽だ。


「生意気?」

「自覚があるなら直してくれ」

「無理かな。生意気も全部ひっくるめて私は自分が大好きなんだ。それに、私がやりたいことも、もう分かったからさ」


 早口で顧問の追撃をかわし、私は部屋を逃げ出る。その足の行き先はもちろん、真っ白のキャンバス。まだ美術室には誰も着いていない。私一人だった。虚ろに溶け込む感覚に、精神が研ぎ澄まされる。


 私は先の摩耗した筆を持った。下描きは描かなかった。下塗りもしなかった。迷うことなく絵の具を絞り出し、私はキャンバスを彩っていく。



 ■+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+■



 私は天才じゃない。絵の才能なんてない。平凡で生意気で、変なとこで真面目な高校生。目の前の作品が完成した頃は、既に締切日当日だった。私の背後で、顧問が腕を組んでいる。


「ギリギリ、間に合ったな」

「私は真面目だからね。締切は守るよ」


 目の前の作品に目をやる。光も届かないような虚ろ。吸い込まれそうな闇の中、一匹の不格好な巨鯨が泳ぐ。巨鯨の身体には無数の塵がくい込み、酷く汚れた、『白鯨』。


「この期間にしては、よく描けてるな。ところで、このモチーフはなんだ?お前、見本も何もないでさ」


 彼の問いは無視した。ぼんやりと、熱に浮かされたように口を開く。


「……ブロッコリーさ、整形美人ってどう思う?」

「ブロッコリー言うな。……整形──まぁ、本人がいいならいいんじゃないか」

「そうだね。……やっぱりそうだ。整形は、やる本人が望んですることだ」

「……?どうしたんだ、お前。啓発本でも読んだか?」

「私は啓発本を読むような人間じゃないよ」


 私はパレットナイフで余った絵の具をこねる。徐々に色は個性を失い、何色とも言えない一つの濁った平均を生み出した。


「この絵は、展示する?」

「ん?そりゃもちろん。お前だって、展示するために締切に描きあげたんだろ?」

「……そうだよね」


 パレットナイフを強く握った。手が震えていた。原因は分かっていた。


 高揚だ。


 私は、思い切りパレットナイフを振り上げ、そしてキャンバスに突き立てた。しっかり固定してあったイーゼルは倒れることがなく、先が比較的鋭利だったパレットナイフはキャンバスを突き破る。ちょうど、巨鯨の中心に亀裂が入った。汚れた白い巨鯨に、刃先に残っていた平均色がこべりついた様は、まるで巨鯨の血液のようだった。


 放心していた顧問は我に返り、何やら大きな声で叫んでいた。恐らく、「何やってるんだお前!」あたりの怖めの声だろう。だが他人の言葉は今は必要ない。ただの雑音だ。気にする必要もない。私は、私のやりたいように生きる。今まで通りの、中途半端な真面目さで。なぁメイ、見てるか?最高の景色だろう?


 作品の被害は、一つの小さい亀裂でとどまった。それはそうだ。たかがパレットナイフで絵の具の乗った分厚いキャンバスを切り裂けるはずもない。貫通しただけ、己の筋肉を褒めるべきだろう。もちろん加害者である私は、顧問にこれでもかと言うほど叱られた。が、私が反省することももちろん無かった。加害者でありながら、私は制作者だ。本人が何をしようと、咎められる理由は『物を大切に!』くらいだろう。私が、「これが私が表現したかったものだ!」と声高々に演説すれば、この行為も少しは肯定されるんじゃないか。私には、心強い『鎧』がある。生意気だろうか。拗らせている自覚はある。ただそれ以上に気分は良い。


 顧問に作品カードを渡され、私は展示ベースのよく軋む椅子でペンを走らせる。部員は忙しそうに展示の準備を進め、顧問はそれの指揮を執って。私の裂かれた作品も、部屋に担ぎ込まれていた。出す気はなかったが、さすがにこれ以上顧問に反抗したら彼の自慢のブロッコリーが茹で卵に変わってしまうかもしれない。その原因になるのは避けたかった。それに、茹で卵では少々イジりずらい。


「小野、決まった?タイトル」


 隣に祐希が座る。本来彼も準備に尽力するべきはずだが、彼のことだ。面倒事から逃げる技術は誰よりも長けている。


「それはもう決まったけど、この説明がなァ……」

「それ、うちも迷った!地味に長いもんね」


 梨沙もそう言いながら駆け寄ってくる。「梨沙、数学だけで国語力ないもんねぇ」と言ってみると、「そうだけどさぁ!言い方!」と怒られた。笑いながら、手元の課題に意識を戻す。思ってもいないことをつらつらと書き連ねるのは得意だがそれでも面倒は面倒だ。難しい言葉を使って、素晴らしいメッセージを書いてみたとして、それで知らない誰かに中途半端な共感をされてもそれはそれで困る。とことん、私は芸術に向いていなそうだ。しばらく考えて、開き直った私は適当な言葉を並べてそれらしい文章を作成し机に置いた。


「浅間、梨沙、行くぞ」

「え、どこ行く?」

「逃げんだよ。掃除、任されたくないだろ?」


 その言葉に、祐希はニィ、と笑った。悪い笑顔だ。きっと、私も同じ顔をしている。梨沙は乗り気ではあるものの、部長としての立場と葛藤があるようだ。こういうのは、大抵引っ張れば着いてくる。梨沙の手を引きながら廊下に出ると、遠くで音楽が聞こえてきた。流行りのK─POP。きっと有志発表の練習だろう。三人で目を合わせる。行き先は決まった。「廊下を走るなー!」と言う知らない教師のお叱りが、私たちの足取りを軽くした。


 本当に心が綺麗な人というのは、極限まで心が汚されきってしまった人だ。心が綺麗だと思っている人は、まだ自分に残る人間らしい部分が隠せない。隠すところがないのだ。白いシャツにシミができると目立つが、黒いシャツだとそれは目立たない。汚れというものは見えなければ無と同然だ。市販の漂白剤だって汚れを脱色して見えなくしているだけで実際に汚れを落としているわけじゃない。


 自分が汚されている事を受け入れ、人にその汚れた部分を見せないよう、真の純粋さを作り出すことが出来る人。彼らの作り出す純粋は、自身の汚さを他人に露呈させないようにする武器だ。心が綺麗だと謳う人間の汚さをあぶりだす武器。自分の汚さを知っているから、また人の汚さも同じように知っているのだろう。


『ねぇ、あの絵のタイトルは、結局何にしたの?』


 聞き飽きた青春ソングに紛れて、脳にそんな疑問が浮かぶ。これが最後の嫌がらせだ。私は渾身のドヤ顔で言ってみせた。


鯨鳴いさなり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鯨鳴 泣鬼 漱二郎 @Jiro-26

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ