第29話 死についての思索(29)---芸術家は、今、己の首を締め上げなければならない

今日も私は正直に語らねばならぬ。

「私は、どうやって、いつ、どこで、だれと、死ぬのだろうか?」

 ということは、私にとって一番重要な問題である。

 私は、それを昔の文章を引用しながら、加筆的に思索する。

 いわば、過去の自分を否定的に批評しながら、更なる思索の深みへと向かって、その、在っている、を導いていく。

(『』で書かれた箇所は過去の文章である。その文章の一つ一つに加筆を加えていったものを⇨の後に示すことにする。過去の思索については『小説家になろう』で「死についての思索(そこのあなたは、いつ、どこで、どうやって、誰と、死にますか?)」というタイトルで公開されている)

本日の加筆箇所は「死についての思索(56)」に書かれたものである。


『全く新しい根拠に基づいた死を私は求める。自己を根拠づけるためには自己から離れていなくてはならぬであろう。自己が自己の存在根拠を考えようとするとは創造的である』


⇨行為と思惟との関係は長年、私が考え続けている思索の一つである。行為するためには思惟が必要であるが、思惟するためには行為は必ずしも必要ではない。だが、しかし行為に義務が伴うと、その行為が思惟に何かしらの影響を与えるであろう。それは檻的な影響であるかもしれない。つまり、行為の習慣が完全に思惟の閉じ込めてしまうのである。このような思惟の不自由な状態こそ、何か新しい思惟が発明されるのではないか。首を失う時にこそ、何か新しい言葉が発見されるのではないか?


『創造とは他者に向けられた想定であり、行為である。故に私は自己の現実的な様々なしがらみを破り、創造的自己へと近づいていかなければならない。可能的なものから出発して、他者のなかに陣取りながら、いずれは彼らを裏切るという必然の観点から自己の偶然的現実を形作らなければならない。『私は人間に逆襲する』という眼差しは人間の上に君臨するという欲求を示しているのではない。このような抽象的理念はどこまでも無邪気な事実なのである。これは価値の想像であって現実的ではない。『私は一人の人間も殺戮できぬであろう。故に自分自身でさえも』というのは意識の微笑である。意識は何ものも根拠づけることはできない。殺戮の自信はただ唯一殺戮の実践によって覚醒するものである。根拠の覚醒とは全て行為によって成される。全ての根拠の根源は行為的必然である』


⇨ここにあるのは明らかな行為への羨望である。芸術家の行為とは創作と同一にならねばならぬであろうが、その根本には自己を裏切るという行為が含まれている。芸術家は芸術的意図をいつか己自身から切り離さなければならない。芸術家にそもそも意図が存在するのか、という議論は哲学の世界で長年論争されてきたが、私は芸術家には意図は存在すると考える。というよりも意図があると、思い込んで在っている、という状態こそ芸術家の芸術的生活の基盤である。この思い込みの意欲がある種の才能である。


『自己の殺戮は他者の殺戮によって容易に覚悟されるであろう。戦争の論理は、事実、明晰な理性の要求に基づいている。敵の兵士を一人殺した兵士は、この時初めて自己の命の消滅を覚悟するであろう。殺すものは殺されて当然である。そのような発見は理性の明晰である』


⇨殺戮の衝撃は計り知れぬであろう。それは完全なる独自な経験として当人の思い込みを目覚めさせるであろう。殺戮の当人は危急の叫びを聴き、それを言葉として記すであろう。その叫びはくだらぬ遅滞をまぬがれた、留まりのない言葉である。おそらくそのような言葉化こそ、在っている、者の言葉の据え方である。喉元を締め付けるような死滅の寸前にある言葉を捉えなければならない。芸術家は死に接近しなければならない。己の首を、今、締め上げよ。


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死についての思索(そこのあなたは、いつ、どこで、どうやって、誰と、死にますか?) ∞(MUGEN) @MasterJun

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