第3話
あれからさらに10年の月日が経った。
「みんな、今日まで本当にお疲れ様。そして今までありがとう」
そう言って、館長は僕たちに深くお辞儀をした。20年間という長くも短い時を過ごしてきた水族館は今日をもって終わりを告げた。閉館の理由は単純なもので、入場者数の低下によって維持費を保てなくなったためだった。
7年前に起きたフィルター崩壊による浸水の影響で『水恐怖症』となった人たちが増えてしまったのが、原因の一つであろう。
館長の最後の言葉を受け、本当にこの水族館が閉館してしまったのだと実感する。
館員たちの様子は様々だった。閉館することを悲しく思って素直に泣く者、悲しく思いつつも泣くまいと唇を噛み締める者、悲しいはずなのに彼らを励まそうと陽気に振る舞う者。僕はどれに当てはまるだろうか。それは自分自身には分からない。
「隼人くん、お疲れ様」
ふと一色先輩に背中を叩かれる。彼女の言葉で僕は自分の頬を伝う大粒の涙を感じることができた。どうやら僕は泣いていたらしい。先ほどから視界が滲んでいた気はしたが、まさか泣いているとは思わなかった。
大の大人が大粒の涙を流すなんて、なんだか恥ずかしいな。そう思っても、流れる涙は止まることはなかった。カリギュラ効果が発揮した様に止めようと思えば思うほど溢れてくる。
一色先輩はしばらくの間、僕に話しかけることなくただただ背中をさすってくれた。
****
全身の水分が枯れ果てるまで涙を流した後、僕は呆然と担当エリアのソファーに座りながらガラス越しに映る景色を眺めていた。僕の担当しているエリアの魚たちは事前に別の水族館へと移動しており、水も抜かれてしまったため今は何もない虚無の空間が広がっている。
横に顔を向けると全体がガラスに包まれた空間が見える。そこも魚の姿はなく、水も抜かれているためすっからかんの状態だ。
憩いの場所を失くした僕は、まるで正気を失ったかのように全身が脱力していた。
「ハーくんっ!」
焦点の定まらぬまま、呆然と眺めているとふと見知った声が聞こえてくる。
ゆっくり顔を向けると馴染みのある顔がそこにはあった。
「来てたんだ」
「うん。多分、私から行かないと今日は帰ってこないかなと思ったから」
「もしかして……顔に出てた」
「今日の朝、すごく死んだような顔していたよ」
全然気づかなかった。それもそうか。今日一日、水族館の名残惜しさに想いを馳せていたのだ。周りのことなんか気にする余裕はなかった。
「叶恵(かなえ)は?」
「家で留守番中。『家事は私に任せてお母さんはお父さんのお迎えに行ってきて』だってさ」
叶恵は僕の娘だ。今は小学六年生で来月からは中学生になる。
今の言葉を聞かされて、叶恵は大人になったんだなと感じた。彼女にこんなみっともない姿は見せられない。
「帰ろうか?」
「うん、帰ろ」
萌香が差し出した手を掴み、僕たちは水族館を後にした。
「明日からは迷惑をかける」
「気にしなくていいよ。今はゆっくり休んで。またやりたいことができたら頑張ってくれればいいから。それまでは私が頑張るよ」
「ありがとう。萌香」
水族館を出た僕たちは最寄りの駅にたどり着くと改札をくぐり、ホームへと足を運んだ。ちょうどそのタイミングで電車が来たのでそれに乗車する。
二人きりで電車に乗るのは久しぶりで、なんだか大学生に戻った様な気分だった。
初めて萌香と会った日から20年以上も経っているなんて、月日が流れるのは早い。
自宅近くの駅にたどり着くとそこからは歩いて家へと帰る。萌香は終始静かに僕の手を握っていてくれた。私はここにいると言わんばかりに。
僕は、それをなんだかとても嬉しく感じた。
空を見上げると目に映るのは一面が青色の海だった。
海面上昇に伴い『エリア四区』を含む日本の都市全てが海中都市へと変化を遂げた。フィルター街の外の天気がどうなっているのか調べる術はない。
やがて家の周辺へと近づいてくる。
帰宅してしまうと、水族館での仕事が本当に終わる気がして、億劫な気持ちになる。逆に、家で待っている愛する娘にすぐに会いたい気持ちもある。相反する二つの気持ちの狭間でなんだか心に靄がかかった。
「ねえ、ハーくん。あれ、見て……」
アパートの階段を上ろうとすると、手を引っ張られる。
見ると萌香が空を見上げながら、その場に立ち止まっていた。なんだろうと階段を降りて、僕も空を見上げる。
その瞬間、僕は自分の瞳孔が開くのがわかった。
空に広がる青い海に射す光。その影響で青色と白色が幾層にも広がって映し出される。
それだけではない。その層を横切るように大量の魚たちが空に広がる海を泳いでいた。
そこには失ってしまった海の世界が広がっていた。
フィルターに包まれた街を囲む海の世界。それは僕が魅了された水族館での四方八方に広がる水の世界と瓜二つだった。
僕はまるで大学生の時に初めて見たあの光景を脳裏に描いた。
弱りつつあった心臓の鼓動が息を吹き返すように激しく動く。
『心が大きく揺らぐ』。今までにないほどの興奮が僕を襲った。
水族館はなくなった。
代わりにこの『フィルター街』そのものが水族館と化したのだ。
「萌香。僕、新しい仕事を見つけた気がするよ」
「ハーくん……そっか……早く見つかってよかったね」
萌香は僕を見て静かに笑みを浮かべる。
「お父さん、お母さん!」
互いに見つめ合っていると後ろから見知った声が聞こえてきた。
見ると痺れを切らしたのか、叶恵が家の外に出ており、階段越しに僕たちを見ていた。
「アパートの外で何いちゃついているの」
そう言って、僕たちの間へと勢いよく入ってくる。
「いちゃついていたわけじゃないよ。ほら、叶恵。あれを見て」
僕が指さす光景を彼女は覗く。すると叶恵は瞳を光らせ、空に浮かぶ魚たちの様子を凝視していた。それはきっと僕が大学時代に水族館であの光景を見た時と同じ様子だったのだろう。
僕たちはしばらくの間、三人で空飛ぶ海洋生物たちの様子を見続けることとなった。
【短編】フィルターに包まれた街 結城 刹那 @Saikyo-braster7
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