第2話

 あれから10年の月日が経った。


「行ってきます」


 玄関のドアを開けると、僕は部屋の方を向いて挨拶をした。


「ハーくん、行ってらっしゃい」


 玄関まで見送ってくれた萌香が僕に笑顔を向ける。抱えた子供の片方の手を持ち、僕に対して手を振らせる。二人の愛らしい姿を見ながら扉を閉めた。


 27歳の時に萌香と結婚し、翌年子供を授かった。

 特に愛情が芽生えたというわけではない。ただ、子供は欲しいと思っており、誰との子にしたいかと言われれば萌香しか思い浮かばなかったので結婚して子を授かることになった。


 萌香も僕と同じ考えだったらしい。

 もしかすると、これを愛情というのかもしれない。だが、トキメキなどの感情は一切なかったため正直なところ愛情かと言われれば否だろう。


 いつものようにアパートを出て、街の方へと歩いていく。

 空を見上げると灰色の雲が滲んで見える。フィルターを打つ雨音は数年前に聞こえなくなってしまった。


 雨が止んだわけではない。

 地球温暖化による海面上昇でフィルター街が海に覆われてしまったのだ。フィルターの外は海で満たされており、海面に雨が落ちるため、雨音は僕たちの耳には届かない。


 数十年間、ずっと聴いていた音が聞こえなくなるというのはなんだか寂しいものだった。

 フィルター街が海に包み込まれたことによって街は閉鎖空間となり、僕たちは『エリア四区』から出ることはできなくなってしまった。僕も萌香も両親が同じエリアだったので、特に気にすることはなかった。


 いつも通り、駅に行き、改札を潜ってホームに立つ。

 電車が来たところで乗車し、水族館の最寄りの駅まで赴く。

 社会人の仲間入りを果たした僕は、現在『水族館飼育員』として働いている。


 ****


 水族館飼育員の出勤時間は8時。他の業種よりはほんの少し早い時間の出勤だ。

 出勤したら最初に自分が担当している生物の健康チェックを行う。水生生物専用の健康診断器具を使って、ガラス越しに健康をチェックする。


 イルカやサメなど比較的大きな生物に関しては、血液採取などの健康チェックがある。僕の担当している生物は比較的小さな生物が多いため観察での健康診断が大半を占める。診断用のゴーグル型装置を嵌めつつ、観察を行っていく。


 装置は視界に入った生物の体温などを中心的に解析し、健康に異常のある生物がいれば赤い枠で囲ってくれる。水槽を泳ぐ魚を満遍なく観察し、解析漏れのないようにする。また装置だけに頼ることなく自分の目でもしっかり健康を害している生物がいないかをチェックする。魚の行動の微量な変化は、今もなお人の目でしか確認することはできない。


 僕の担当する区域は南館の『エリア3』と呼ばれる部分だ。

 ここには一面がガラスに覆われた道がある。10年前に初めて見た時、『心が揺らぐ』という体験をしたあの場所だ。


 道の真ん中に立つと、上下左右360度見回しながら海洋生物たちを解析、観察する。

 10年経った今でも、この場所に立つとあの時の『心の揺らぎ』が僕を襲う。ここに来た時だけは飼育員ではなく、観客になったような気分になる。


 水の上部から当てられた光によって、白と青が幾層にも重なり合う水の中を多種多様な生物たちが群れを成して泳いでいる。稀に小さな魚たちをかき分け、エイなどの大型生物がやってくる様子も見事だった。


「ひゃっ!」


 水中を観察していると、不意に脇下あたりを細いもので突かれた。観察に意識を奪われていたため、不意の攻撃に対して女の子のような声をあげてしまった。

 突かれた方へ顔を向けると、一人の女性が口を押さえて笑っていた。


 黒髪ロングのスパイラルパーマ。穏やかな瞳にくっきりとした表情筋。僕よりも年上だからか彼女にはとても色気を感じた。今の時代には珍しい女性だ。


 一色 日和(いっしき ひより)先輩。

 僕の上司であり、メンターでもある人だ。この水族館に入社する前からお世話になっているため付き合いは長い。入社当初は上司部下の関係だったが、今は仕事仲間として互いを尊重している。


「『ひゃっ!』だって。かわいい」

「……そりゃ、不意に急所を突っつかれたら、誰だって変な悲鳴をあげますよ。はぁー」

「ふふっ、ごめん、ごめん。でも、健康診断の最中に別のことに没頭するのは良くないな」


「別のことですか?」

「ええ。一回見たところをまた見てたりしてたわよ。まるで観覧客のようにね。隼人くんがここの健康診断をする時は、毎回面白い行動をするから見てて飽きないのよね。でも、ちゃんと仕事をしないのなら担当エリアを変えちゃおうかしら」

「すみません、すみません。ちゃんと仕事しますから、それだけは勘弁してください!」


「ふふっ。嘘よ。ちょっとからかってみただけ」

「もー、一色先輩って本当に意地悪ですよね」

「隼人くんをからかうのは面白いからね。私だって、誰かれ構わず意地悪しているわけではないわ」


「それが逆にタチが悪いですよ」

「んー、そう取れなくもないか。私としては別の意味合いだったんだけどな」

「どういう意味合いですか?」

「内緒。じゃあ、引き続きよろしく」


 そう言って、一色先輩は去っていった。

 彼女がいなくなったところで僕は安堵の息を吐いた。このエリアから移動することがなくてホッとした。僕がこの水族館の飼育員をすることに決めた理由がまさにこれなのだ。


 飼育員になれば、ずっとこの景色を見続けられる。そう思って、入社を決意した。

 毎日のように水族館に来てはこの光景を見ていた僕は、館内の委員から噂になっていたみたいでエリア振り分けの際に、エリアマネージャーの一色先輩の計らいでここに割り振ってくれた。だから彼女には感謝しかない。だからと言って、棒で突かれたことを許すわけはないが。


 真面目に仕事をしよう。このまま何回も注意されていたら、いつしか本当にエリア移動をさせられることになるかもしれない。僕は再び健康診断に励んだ。

 仕事は始まったばかり。これが終わったら、大型生物の血液採取・水槽の清掃・魚への餌やりとまだまだやることはたくさんある。


 今日も僕は自分に割り当てられた仕事を一つ一つ丁寧にこなしていった。

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