【短編】フィルターに包まれた街
結城 刹那
第1話
「行ってきます」
誰もいない部屋に向けて僕は挨拶をした。18年間と言う長い期間で培ってきた癖というのはそう簡単に抜けないらしい。一人暮らしを始めて2年目。家事には慣れたが、誰もいない家には未だに慣れずにいる。
アパートを出て外に出る。空にはどんよりとした雨雲が浮かんでおり、ポツポツと雨の降る音が聞こえてくる。昔は『傘』というものがあったようだが、それは僕が物心つく前にはなくなっていた。
今は頭上に浮かぶ透明なフィルターが雨から僕たちを守ってくれる。
フィルターの影響で国は大きく変わった。都道府県の概念はなくなり、今は八区で区分けされており、人口は都市部に集中する構造になっている。僕たちのいるところは『エリア四区』と名付けられている。
ニュースなどを見る限りでは、八区に区分けされた理由は二つある。一つは雨による地盤の影響で山地に住むのが困難となったため。もう一つはフィルターを作成する面積を抑えるためだ。これに対して、反対するものはいなかった。土砂災害で多くの人が亡くなったり、毎日のように傘を指すことにうんざりしていたのが要因だろう。
外に出て街の方へと歩いていくと人の姿がちらほらと見える。
太陽が当たることのない街はいつしか活気を失い、行く人々は皆揃ってテンションが低いように感じられる。人は太陽光を浴びると幸せホルモンである『セロトニン』を分泌する。幸せホルモンがどれだけ大事であったか、僕らは失って初めて気づくことができた。
最寄りの駅に辿り着き、改札を潜り抜ける。トンネルの形をした改札は顔認証システムによって人物を特定し、その人の口座から自動的に料金を引き落とす仕組みになっている。
「隼人くん、おはよう!」
ホームの椅子に座っていると、陽気に僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。見ると顔馴染みの姿がそこにはあった。茶色のミドルヘアをポニーテールに結び、白いTシャツに水色の短パンを履いている。腰部には青と白のチェックシャツを袖の部分を結んで縛りつけていた。
叶石 萌香(かないし もえか)。僕と同じ大学に通う親友だ。
彼女とは同じ学科ということもあって、いつも一緒に行動している。しかし、僕たちはカップルではない。あくまで友達という関係で、異性として意識することはなかった。
最近は男女での友達関係というのは多い。実際にメディアなどでも、『男女間の友情が以前よりも深まっている』との話題が出ていた。その理由としては、雨雲の影響で日光が遮断され紫外線を受けなくなり、男性の性欲が低下したという説がある。
数十年降り止まない雨の影響で社会環境は激変した。
それがいいことなのか。悪いことなのかは分からない。
「おはよう。今日はちゃんと時間通り来たね」
「うん。今日は絶対に遅刻するわけにはいかなかったからね」
「その思いを今日だけでなく、大学に行くときにも持っていて欲しいな……」
萌香が来たタイミングでちょうど電車もやってきた。僕たちは短いやり取りを終えると電車に乗車した。
****
「隼人くん、見て見て! サメだよ、サメ! うおー、かっちょえー!」
開館初日の『水族館』は案外空いていた。
僕と萌香はガラス越しに見える魚たちを凝視しながら話に花を咲かせていた。僕たち二人は大学で海洋生物学科に所属している。今日は勉強も兼ねて、水族館に遊びに来ていた。
フィルターの影響で海に近づくことはできない。そのため、海洋生物を実際に見る機会というのは皆無だった。他の人たちも例外ではない。だから開館初日は大盛況になるかと思っていたが、来ていた人は案外少なかった。
理由はおそらく現代病と言われる『水恐怖症』によるものだろう。数十年の雨による水災害を受けてきた人たちにとって、水族館など水の多い場所に行くのは恐怖でしかない。母方の祖母なんかは僕が海洋生物学科に入ることをとても嫌っていた。水恐怖症を患っている人にとっては、水関連の話題はNGだ。
萌香に先導され、彼女の見ているサメを注視する。
体はおおよそ僕二人分くらいの大きさのサメ。水中に光る白色の瞳孔は獲物を探す獰猛のようだった。
手首につけたデバイスを起動させ、小型カメラでサメの体を読み取る。
デバイスから微粒子が飛び出すとホロウウィンドウを作成し、解析したサメの情報が映し出される。
「クロヘリメジロザメ。メジロザメ属の一種。太平洋、インド洋、大西洋の亜熱帯から温帯に生息。日本では北海道以南で見られる。せまい水槽でも壁やアクリルガラスにぶつかることなく上手に泳ぐことができる。そのためサメを展示する際には重宝される存在。ただし、人間にとっては危険な生き物であるため注意が必要。だって」
「クロヘリメジロザメ! なんかかっこいい名前だね! 上にペリーさんとか乗ってそう」
「それだとクロフネメジロザメになりそうだね」
「じゃあ、ナイフで刺したら飛び上がるとか」
「それはクロヒゲメジロザメになりそうだね」
萌香の小ボケにツッコミながら別の魚に目を向ける。
水族館では数多くの魚が展示されている。今まで見たことのない生物たちに触れ合うことができる空間は僕にとっては至福だった。
「うおー! 隼人くん、あれすごくない! 行ってみようよ!」
水中を泳ぐ魚に目を凝らしていると不意に手を繋がれ、体を引っ張られる。見ると萌香が僕の手を握りしめ、向こうに走り出していた。僕はされるがまま彼女と一緒に走る。萌香の行く手を見ると見たことのない光景が写っていた。
「すごくない!?」
入ったのは筒状の道。地面は灰色の絨毯からアクリル板に変わっている。
すぐ右を向くと、イワシが群れをなして泳いでいる姿が見られる。それが上、そして左へと流れていた。
一面が水に包まれた世界。
イワシ以外にも多種多様な魚がいる。魚たちが見せる息のあった泳ぎは言葉にならないほどの綺麗で鮮やかだった。
「すごい綺麗だね……」
先ほどまで口数の多かった萌香は、今は小さな声を漏らすのみだった。
そういう僕は口を開けることなく呆然と立ち尽くし、目を離すことなくじっと水中を見つめていた。魚の泳ぐ水中というのはこんなにも美しいものなのか。
この日初めて、僕は『心が揺れ動く瞬間』を体験することができた。
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