めんのり丘

 返却日を大きく過ぎた本を差し出すと、司書の先生は本の後ろを確認して、少しだけ眉を顰めた。

「これ返却期限切れてますね」

「あ、ほんとですか、すみません」

 わざとらしい返答をするも、至って事務的に対応される。俺がしらを切っていることに気が付いているのか、心なしか睨まれた気がした。

 浅い会釈をして図書館を後にする。まだ講義の最中なのだろう。大学内を歩く人の姿はまばらだった。

 入学当初、あんなに周囲の生徒は大人に見えたのに。今では「あの子は一年だな」などと推測が出来るほどになっているのは、なんだか感慨深いものがある。

 就活にもキリが付き、卒論もあとは提出するばかりとなった今、こうして大学に足を運ぶこともかなり少なくなった。

 今日の様に、用事のある時しか行くことが無くなった大学は、もうすでに懐かしいような雰囲気を感じさせた。

 とはいえ、もう本の返却を済ませ、その用事は済ませてしまった。せっかくだから学食に行こうかとも考えたが、昼食には少しばかり早い。

 仕方がないので、早々に大学を出て駅を目指すことにした。

 大学の周辺は中規模な栄えかたをした街並み、そして変わり映えのしない住宅街が広がっている。幸い最寄駅は徒歩が選択肢になる程度の距離であるし、ぶらぶらと歩くのは嫌いじゃない。

 今日は行きはバスで来たし、帰りは歩いて帰ろう。

 校門を向き、歩を進める。

 すると、図書館前の5号棟の階段から、ちょうど見知った顔が降りてきた。同じ学科のOとTだった。

「あれ藤田じゃん」

「よう」

「おお、おひさ」

 大学に来る回数が減った今、必然的に友人と出会う機会も少ない。久しぶりに会った二人は少し痩せて見えた。

「これから帰るとこ?」

「そうそう、今図書館に本返しに来てて」

「ほーん。あ、今からリン八行こうと思っているんだけど、一緒に行かない?」

 ラーメンに誘ってきたTは「卒業までにあと何回食えるか分からんからなー」としみじみしている。隣のOは欠伸をしながら、所帯なげに腹をさすっていた。

 さっき見たばかりのスマホを取り出し、もう一度時間を確認する。10時42分。やはり昼飯には少し早い。

 だが、こうして友人と食事をすることも、最近はしていない。彼らとの付き合いも、もう少ししたら出来なくなる。そう思うと、時間程度の不満は無視できるものだった。

「いいね、行くわ」

 スマホをポケットへしまい、二人へ笑いかけた。




****




「さっきOが言ってたとこ行ってみね?」

 カラオケの廊下で、カゴを片手にTが言い出した。

「えぇ〜俺、怖いのやだよ」

「いやいや、だからこそでしょ! わざわざ『怖くない』って言われてんだから」

 Tの言っている場所は、既に1万円札を置いて帰って行ったOが話していた、近所の心霊スポットのことである。

 その心霊スポットは大学から少し離れたところにあって、「めんのり丘」と呼ばれている場所だった。今いるカラオケからも車で15分ほどの距離で、丘と言われてはいるものの、実際にはそれなりの広さの原っぱだという。

「そういう風に言われてんのが逆に怖いんじゃん」

「怖くない怖くない。だって幽霊とか何にも出ないんだから」

 めんのり丘、と言う名前は、自分もいつだったか聞いたことがあった。

 なんでも、「怖いことが全く起こらないのに、何故かヤバいと言われている心霊スポット」らしい。

 心霊スポットと言えば、人の声やラップ音が聞こえるとか、幽霊を見たとか、そういう心霊現象がつきものだ。

 しかし、そのめんのり丘とやらは、そうしたことは何も起こらない。写真を撮っても何も映らないし、動画を回しても奇妙な声が聞こえることもないという、少し変わった心霊スポットだった。

 そんなめんのり丘なのだが、最近、妙なことが起こったらしい。

『あそこに行った奴らの一人が、サークル来なくなっちゃってさ』

『ちょっとした噂になってんのよ』

 O曰く、サークルの後輩たち4人がそこへ向かい、内1人がそれ以来サークルに来なくなったと言うのだ。

 一応連絡は取れており、本人は「バイトが忙しくて」と言っているという。

 普通に学校に来ている他の3人は特に何も無かったと言っていて、心霊スポットに行った事が原因かも分からない。が、サークル内では、きっとめんのり丘に行ったからに違いないと実しやかに囁かれているそうだ。

「幽霊が出なくてもおかしくなった奴がいるんだろ、じゃあやっぱヤバいんだって」

「えぇーいーじゃん、行こうぜ」

 支払いを済ませる横で、Tが管を巻く。

 Tはこの手の怖い話が大好物で、これまでも時間が出来ると、度々Tは肝試しに行こうと誘ってくることがあった。

 俺は断っていたが、実際にOやその他の友人たちと心霊スポットへ向かうため、遠出することもあったらしい。

 カラオケを出てからも、Tは駄々をこね続けた。駐車場の端で腕を組み、唇を尖らせてこちらを見てくる。

 こうなるとTは無駄に頑固になる。しかも、車の運転はTがしている以上、無理に拒絶し続けると面倒なことになるのは容易に想像できた。

「はあ、わかったよ」

「え、まじ!」

「行くだけな、行くだけ」

「うぃ! 流石藤田だわ、やっぱ富士山なんだよな」

 案の定鬱陶しいノリを展開され、早くも後悔し始めた。しかし、ここで取り消すことは出来ない。大袈裟なスキップで車へ向かうTの背中を追い、助手席側に回った。

 すでに時間は6時を回り、夕暮れと薄暗さの間ほどの明るさだ。

 俺は背もたれに身体を預けながらスマホを取り出し、「めんのり丘」と検索欄に入力してみた。

 すぐに周辺の地図が控えめに展開され、その下には近くにある製造業の会社のHPが表示された。地図を拡大すると、自分たちの大学も確認できる。

 画面をスクロールしてみる。

 意外にも、心霊スポットとしての情報はヒットしていない。それ以前に、そもそも周辺の情報が少なかった。

 まあ、取り立てて有名な場所でもないし、この検索結果も、妥当と言えば妥当だった。

 今度は「めんのり丘 心霊スポット」で検索してみる。

 すると今度は何件かがヒットした。しかしそれも、SNS上での他愛のない投稿ばかりで、新たなことは見当たらなかった。

 仕方なくそのままSNSのアプリに飛び、同様に検索する。

 検索エンジンでの結果よりは多くヒットするものの、やはりというべきか、大した情報は出てこない。あそこはヤバい、とか、近くに行っただけでも寒気がする、とか。やんわりとしたことしか書かれていなかった。

「やっぱり、めんのり丘ヤバいって書いてあるなぁ」

「んもー、大丈夫だって。富士山心配しすぎでしょ」

 運転するTに声をかけるが、相変わらずの様子だ。到着までの間に飽きてくれないか、と一抹の期待を向けていたが、残念ながらそうはいかなそうである。

 再びスマホの画面に目を落とす。先程見た通り、当たり障りのない投稿が並んでいた。

 それらを見ていて、ふと、疑問に思う。

 妙な心霊スポットとして、周囲の人間にはそこそこ認知されているのに、それこそTのように怖いもの見たさで行ってきたと言っていたり、写真を投稿したりしている人が全くいないのだ。

 投稿のどれもが玉虫色というか、伝聞の形をとったものばかりで、実際に行ってみたというものはちっとも見当たらない。

 まあ、何もなさすぎて投稿する気にならなかった、と言われてしまえばそうかもしれないが。

 息を吐き、体を捻ってスマホをしまう。少し酔ってしまったのか、気分は優れない。

「あー、せっかくならデジカメ持ってこれば良かったなぁー」

 呑気なことを言っているTが、最早羨ましくさえあった。




****




 街並みを外れ、薄暗い山沿いの道をいくらか走った先で、めんのり丘に着いた。周囲は背の高い雑草に覆われていて、その向こうに月明りで照らされた野原が薄っすらと見える。

「あー、帰りたくなってきた」

「いやいや! ここまで来たなら、ねえ?」

「ねえじゃないよ」

 周囲に駐車場等の場所は無さそうで、路上駐車せざるを得ない。車を路肩に寄せ、駐車する。

二車線の道路には他に車が無く、嫌な焦燥感に駆られた。

「こういう時って反射板とか出しといた方が良いんかな?」

「はんしゃば?」

「反射板、ほらあの、三角形のやつ」

「えーいいでしょ、そんな長居するわけでもないし」

 そういうとTは、スマホのライトをつけて、雑草へと突撃していった。行くだけだ、と言ったはずだったが、まあ、十中八九こうなるだろうとは思っていた。ため息が漏れた。

 後を追うと、顔中に小さな虫が寄ってくる。途中のコンビニで、虫よけスプレーなり買っておけばよかったと後悔した。

 草を掻き分けていくと、一気に開けた場所に出る。ここが、めんのり丘だ。

 話に聞いていた通り、何の変哲もない原っぱに見える。大きく広がっていて、夜空が一望できる光景は、むしろ神秘的なものさえ感じた。

「藤田、これちょっと撮ってよ」

「えー? いやだよ」

「違う違う、動画撮ってって、俺喋るから」

「あ、そういう。まあ、それなら」

 Tに手渡されたスマホはすでに録画モードになっており、Tへと向ければ笑顔の彼の姿が映し出された。

 Tは小さく咳払いをしてから、やや低い声で話し始めた。

「みなさん、初めまして。じんかんもくどと、申します。今日はですね、この、愛知県最凶の心霊スポット『めんのり丘』にやってきています」

「っふ」

 変顔ぎりぎりに見開かれた目と、わざとらしい芝居掛かった喋りに、思わず笑ってしまう。きっと、他の心霊スポットに行った時も、同じような事をしていたのだろう。一連の動作は、妙にこなれていた。

「このめんのり丘は、少し変わった心霊スポットでして、なんと、心霊現象が起こらない、心霊スポットなんです」

「なんかマジで配信者みたいだな」

「んふふ、でしょ? マジで就活ミスってたらワンチャンそっちもあったから」

「それはやばすぎ」

 自分もそのノリに合わせているからだろうか。軽口を叩いていると、いくらか不安感は薄れていった。

「このめんのり丘では先日、大学生4名が肝試しを行い、その結果、体調不良を訴えることと、なっています。その学生は、今でも、サークル活動を、休んでいるそうです」

「うわこの配信者ウソは言ってないけど細かい事も言ってないぞ」

「心霊現象の起こらない心霊スポットで、一体何が、起こっていたのでしょうかぁ・・・」

「慣れ過ぎてちょっとやだな」

「なんでだよ、かなりクオリティ高くね?」

「だからだよ」

 やりとりが弾み、小さな笑い声が周囲に響く。ここが心霊スポットでなければ、もっと笑えた事だろう。

 そんなことを思った時である。

 スマホの動画を回していると、突然の不快感が襲ってきた。

「……んん」

「いやー実際、内定出てるとこ副業OKなんだよな。マジでワンチャン配信者デビューあるわ」

「なあ」

「うん?」

「なんか変な匂いしない?」

「え、……しなくね」

「うそ、なんか臭くない?」

 酸っぱいような、甘いような、嫌な匂いが鼻についた。

 しかし、Tはあまりピンと来ていないらしい。何度も鼻をすんすんと鳴らした後、眉を八の字に曲げて笑う。

「うーん、言われてみればするようなしないような。いやマジでわからん、俺の鼻が馬鹿になってるからかもしれんけど」

「えぇ? 絶対変な匂いするって」

 自分でも再び鼻を動かす。やはり、変な匂いだ。それも、どこかで嗅いだ事のあるような気がする。

「もしかして心霊現象かも」

「なんでだよ」

「このめんのり丘では、突然、変な匂いがするという怪奇現象が多発しているのです」

「しょうもなさすぎるだろ」

 茶化したTに、再びツッコミを入れる。しかし実際の所、臭いからなんなのだ、という話ではある。

 Tは特に気にしていないようだし、変に言い続けるのも野暮かもしれない。俺は匂いについて、それ以上は言及しなかった。

 その後、幾らかTの配信者モノマネを録画し続けた。当然素人なので、それほど話は持たない。2分ほどで「まあ」とか「えー」などが増えていき、最終的にTがかつて行った心霊スポットについての雑談になった。

「心霊スポットって、意外とそこで何があったとかはあんまり関係ないらしい」

「あ、そうなん?」

「なんか、そういうのってなんかのきっかけでそこに定着するらしくて。昔酷い事件が起きたから、とか、お墓が近いからっていうのは、全くない訳じゃないけど、メインの原因じゃない事が多いんだって」

「へぇえ」

「あと、あそこヤバいって言われてる所とかは、本当にヤバくなるらしい」

「え、そういうの幽霊も聞いてんの?」

「んまあ、聞いてるんじゃない? ああいうのはこっちに伝えたい事があるから、色々出てきてるみたいだし」

「じゃあここもそれでヤバイ言われてるのかも」

「かもしれん。ここ何も出ないけど」

 話を聞いていると、Tが思ったよりも心霊スポットについて調べているようで驚く。申し訳ないが、てっきり盛り上がるからとかで行きたがっているかと思っていた。

「ヤバいな、ガチ勢じゃん」

「いやいや、ガチの人はもっといろんなところ行ってるから」

「凄い、Tが謙遜してるの初めて見たかも」

「いやシンプル失礼じゃん!」

 騒いでいると恐怖心はすっかり鳴りを潜め、居酒屋で下らない話に花を咲かせているときのようなテンションだった。

 もう何もないし、そろそろ帰ろう。

 口に出そうとした時だった。

 Tが足を止めた。

 数歩通り過ぎて、振り返る。Tは険しい顔をしていた。

「何、どうした」

「なんか、人いない?」

 そう言うとTは、前方を指した。従って目をやるが、いまいち分からない。

「ちょっと、やめろよ」

「いやまじ、あの、なんか光ってるとこ」

 光ってる?

 Tの言葉に目を凝らす。すると、確かに原っぱの中に、小さく赤い光が見えた。そしてそれに重なるように、月明かりに照らされる人影の様なものが見えた。

 その人影は、顔に当たる部分が小さく小さく光っていて、やや過剰な猫背の姿勢をしているようだった。

 思わず顔が強張る。さっきまでの気安い空気は一瞬で無くなり、背中から冷や汗が流れるのを感じた。

 Tを振り返るとそれは彼も同じようで、険しい顔のまま目を合わせてきた。

「え、誰? なに?」

「いや分からん、でもホームレスじゃね?」

「ホームレスってこんなとこいんの?」

「知らんって」

 互いに反射的な問答を繰り返すが、答えは出ない。ただ、なんだか不味い雰囲気を共有していることは分かった。

「てかなんか光ってるの何?」

「スマホでしょ」

「スマホだともっと明るくない? それになんか赤いし」

「だから分からんから」

 質問を繰り返してくるTに、ややぶっきらぼうに答える。とにかく、ここから立ち去った方がいい気がした。

 人影の方へ振り返る。やはり、謎の光を湛えた人影が見える。

 その時、嫌な違和感を覚えた。

 先程見えた位置と、違う場所にいる。加えて、なにか動いているように見える。

 知らず知らずのうちに、後退りした。

「なんか、こっち来てね?」

「……まじで?」

「さっき見えたとこより、違うとこ居るみたいで…」

 自然に、二人とも黙りこくる。すると、一気にこのめんのり丘は、風で動く草木の音で埋め尽くされた。

 その中で。

 ざむ、ざむ、ざむ。

 不自然なほど大きく、草を踏み締める音が聞こえた。

「やっば!!」

 どちらともなく、歩いてきた方向へ全力で走り出す。ライトの付いたスマホを持ったまま走るため、目の前がチカチカと点滅した。

 車への道のりは、想像以上に距離があった。それが、ここまでだらだら喋りながらたくさん歩き続けたからなのか、危機から逃れるために走っているからそう感じるのか、それともめんのり丘だからこその心霊現象なのか、分からなかった。

 野原の縁に生えている雑草にたどり着くと、脇目も降らずに飛び込む。大股で掻き分け、道路へ転がり出る。少し遅れて、Tも草にまみれながら姿を見せた。

 そして、ふらつきながら車へ向かい、ドアノブを引っ張る。

「おい、ドア!」

「今やるって!」

 車体の向こうから焦る声が聞こえ、すぐに鍵の開く音が聞こえる。急いでドアを開け放ち、飛び込んで閉め切った。Tは覚束ない手付きでキーを差し込み、エンジンをかける。その後バックで一気に下がってから、大きく旋回して左車線に入り込んで走り出した。

 うんうんとエンジンを唸らせ、真っ暗な道を走る。Tも俺も汗だくで、浅い呼吸を繰り返していた。

 しばらくすると、お互いに落ち着いてきて、だんだん平常心を取り戻してきた。それでも車内は沈黙に包まれていて、黒い窓の外と合わせて、どこか浮いているような感覚を覚えた。

 どん。

 何かを叩く音に、体がびくつく。音は、Tの方からだった。

 どうやら、ハンドルを掌底で強めに叩いたらしい。

「分かった、煙草だ」

「…は?」

 Tは意味不明な事を呟く。目は見開かれ、口角が少しだけ上がっていた。

『めんのり丘に行った奴らの一人が、サークル来なくなっちゃってさ』

 脳裏に、Oの言っていた言葉が再生された。Tから離れるように、ドア側へ体を仰け反らせる。

「煙草だよ、絶対」

「おい、わけわかんないこと言うな」

 Tはこちらをちらりと見て、さらに口角を挙げた。そして、こちらを左の親指で指した。

「お前さっきさ、変な匂いするって言ってたじゃん?」

「え、…ああ、したけど」

「あれね、煙草だよ」

「たばこ?」

「煙草」

「ああ、それは分かるけど」

「だからそれよ」

「匂いが?」

「匂いが」

 Tはしたり顔で、今度は控えめにハンドルを叩く。どうやら、おかしくなったわけではないらしい。

「さっきの人は、煙草吸ってたんだよ。光ってたのは火種」

「…あぁ!」

 思わず膝を打つ。確かに言われてみれば、煙草のような匂いと言えなくもない。人影の光にも、納得できるような気がする。

 一つ残った疑問としては。

「じゃあなんであんなとこで吸ってんのさ」

「それは…」

 Tは一度息を飲み、吐き出す。そして、言った。

「さっきの人がやばい人だったんだろうな」

「……えぇ」

 気が抜け、助手席のシートに沈み込む。それを見て、Tは笑いの混じった声で抗議してきた。

「なんだよ、人がせっかく名推理したのに」

「いや、割と煙草はマジで名推理だったかも」

「でしょお?」

「でも最後がなあ」

「しょうがないだろ! やばい人以外にないでしょ!」

「そうだけどさあ」

 車内の空気が軽くなる。流石に行きの時ほどではないものの、幾らか恐怖は和らいだ。それに、とりあえずの形でもあの人影や匂いの正体に結論が出せたのは、精神面において大きな助けとなった。

「てかTって煙草吸って無くね?」

「吸ってない。でもゲーセンでよくコウキが吸ってるから」

「あー、教育学部の」

「そうそう、なんか普通に教職落ちたらしい」

「うそ、それはやばいでしょ」

「でも普通にゲーセン入り浸ってるよ」

 他愛のない会話が出来ることが、ここまでありがたく感じたのは初めてだった。さっきまでの緊張感が、酷く前の事に感じた。

 山道を走っていくと、次第に道のりが明るくなってくる。改めて、日常に帰ってきたような安心感に浸れる。

「ちょっとコンビニ寄って良い?」

「んお、いいよ」

 車は大手コンビニチェーンの駐車場へ入り、店舗前に緩やかに停まる。

「なんか買ってこよっか」

「いや、俺も降りるわ」

 今も一人だとちょっと怖いし。その本音は我慢した。多分、Tも察したのだろう。特に何も言わなかった。

「いらっしゃいませー」

 きっとアルバイトであろう店員の気だるげな挨拶を受けて入店する。店内ではバラバラに棚を物色し、自分がレモンティーをレジで受け取った時には、Tは既にレジ袋を提げて外で待っていた。

「悪いまたせた」

「いやいや、待ってないから」

 いつもの調子で笑うTと共に、車に乗り込む。俺はレモンティーのキャップを捻り、Tは缶コーヒーのプルタブを持ち上げた。

「そういえば、この後どうする? 送ってけば良い?」

「お、いいの。ありがてぇ…」

「うわわざとらしー。どこらへんだっけ」

「えーと、俺んちは」

 こんこんこん。

 会話が遮られる。とっさにTも自分も音の方を向いた。音はTの向こう側、運転席の窓から聞こえてきた。

 窓ガラスを挟んだ向こう側に、こちらを見つめる男が居た。スーツとメガネを見に付け、ラジオ体操のように腰をくの字に曲げながら、こちらをのぞき込んでいる。

 男は窓ガラスを再びノックした。

「すみません」

 少しくぐもった声が聞こえる。Tはこちらを振り返った。その表情には困惑と動揺が浮かんでいた。

「…なんすか」

 しばしの思案の末、窓ガラスはそのままに、男にTは問いかけた。その声は低く、舐められまいとする抵抗の意思を感じさせた。

 男は何かを取り出し、Tの前で揺らした。

「え!?」

 するとTは慌てて挿していたキーを確認し、うわー、と小さく笑った。

 前傾姿勢になってT側の窓を見ると、どうやらキーホルダーらしい黄色い蜘蛛が揺らめいている。

 Tはキーを抜いてこちらに見せてきた。

「俺の俺の」

「なぁんだよ」

 呆れを含んだ笑みを浮かべると、Tは「あー、焦ったー」と笑みを返して来る。

 そのまま、Tは窓ガラスを開けた。

「いやあ、すみません。ありがとうごがっ」

 Tがドアに押し付けられる。突然のことに、呆然としてしまう。

 すぐにさっきの男が、Tを窓から引き出そうとしていることが分かり、慌てて自分もTの体を掴んだ。

「おい。何やってんだ!」

 外の男に叫ぶ。Tも抵抗し、自分もベルトに手をかけ引っ張るが、凄い力でズルズルと引きずり出されていく。

「くそっ」

 Tの上半身がもう外に出てしまい、このままこちらから抑えることは難しい。俺は意を決し、自分も外に出ることにした。

 内側のドアノブを引く。がごっという音と共に、半ドアになる。

 サイドミラーに、ドアノブへ手を掛けたさっきのアルバイトが見えているのに気が付いたのは、その後の事だ。

 慌ててドアを内側に引く。しかし、間に合わない。強い力でドアは開かれ、伸びてきた腕に襟首をつかまれる。そのまま、コンクリートの地面へ仰向けに放り出された。

「かっぁは」

 肺の空気が衝撃で押し出され、うまく息が出来ない。何とか呼吸をしようとすると、今度は女にのぞき込まれ、口にタオルを噛まされる。何とか首を振って抵抗するが、アルバイトの奴もこちらに来て、頭を掴まれて押さえつけられた。

 腕を背中で押さえられ、強引に立たされる。車の向こうでは、Tがスーツの男に同様にタオルを噛まされ、ぐったりとしていた。

 俺は唯一自由の利く足を動かし、必死に抵抗する。後ろの奴の脛を蹴ろうと、何度も踵を振り回した。

 一度、当たった感触を得る。そして同時に、拘束が緩んだ。何とか暴れて振りほどき、口のタオルを外しながら走り出す。

 そのわき腹を、さっきの女に殴られた。

 瞬間、あばらに劇痛が走り、強い痺れを感じて動けなくなる。目を白黒させていると、今度は腹に衝撃が来る。胃の中身がせり上がり、口内を苦く酸っぱい水が満たした。

 見上げると、コンビニの明かりに照らされて、黒い何かを持った無表情の女の顔が見えた。

 その顔は、午前中に会った図書館司書の先生によく似ていた。

 飛んできた足に、眉間を捕らえられる。意識がぼやける中で、薄っすらと、めんのり丘で嗅いだのと同じ、甘い匂いがした。

 










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奴婢 低田出なお @KiyositaRoretu

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