第8話 大団円

 その日の湧川は、自分がどんな心境で過ごしていたのか、どんなことをしたのかすら覚えていない。博物館には結局行かなかった。湧川の精神状態を見越してか、それとも、自己保身の意味もあって、何をされるか分からないという気持ちがあったのか、

「今日は、よしましょう」

 ということになったのだった。

 精神的には、少しホッとした。自分でも何をするか分からないと言った精神状態だっただけに、少なくともその日一日は、人と一緒にいるのが嫌だった。

 結局、その場で別れて、彼女は帰っていったのだが、一人になった湧川は、何をどう感じたというのだろう。

 最初は、怒りと後悔だけが残った。

「どうして、あのまま怒りを抑えてしまったのだろう? そんなことをするから、怒りと後悔だけが残ってしまった。あの時、抑えたからと言って、誰が同情してくれるというのか、まわりは、まったく無視していたではないか。俺も、あの男と同類と思われていたのかも知れない」

 と感じた。

 さらに、

「あそこで怒っていれば、下手をすれば警察沙汰になったかも知れない。だが、悪いのは向こうで、こっちに非があるわけではない」

 そう思うと、何も引き下がる必要はなかったのだ。

 本当なら見せしめに、あいつを懲らしめるくらいの気持ちがあってもいいはずだ。そう思うと、自分の性格が、

「勧善懲悪」

 であることを思い出した。

 子供の頃にも似たようなことがあった。あの時は勇気が持てずに、自分の意見を言えなかった。それを見ていた母親から、

「あんたは悪いわけじゃないのよ。言いたいことがあるなら、ハッキリ言わないと後悔が残るだけなのよ。いい? あなたは悪いことをしたわけではないの。それさえしっかり分かっていれば、文句を言ってもいいことなのよ」

 と言われた。

 その時に感じたのは、

「俺は、意気地なしだった」

 ということと、

「正しければ、貫くしかないんだ」

 という、勧善懲悪の絶対性、そして、

「言いたいことを我慢すると、後悔が果てしなく残ってしまう」

 ということであった。

 しかも、この後悔は、トラウマとなって残るものであり、その頃には知る由もなかった、PTSDというものになってしまうということであった。

 後悔というものが、自分にどれだけの苦痛をもたらすことになるか、それは平面ではなく、高さのある立体である。さらにそこに、

「果てしない時間」

 が伴ってくるということになると、自分でも何をどうしていいのか分からなくなってくと。

 それが、トラウマにも繋がっていくに違いない。

 その時に確かに感じたのが、

「もう一人の自分」

 だった。

 その日の夢に出てきたのは、もう一人の自分、

「一番怖い」

 とその後から夢をそう感じるようになった存在だった。

 そんな自分が、何かを必死に訴えているが、何を言っているのか、声が聞こえない。必死になって、悔しさを叫んでいるようだ。かと思うと、次の瞬間の憔悴感は、かなり激しいものだった。

 それが後悔なのだと思うまでに少し時間が掛かった。

 それまで、後悔などしたことがなかったような気がする。そもそも、後悔するほどの決断のチャンスが、子供だったこともあってなかったことではなかっただろうか? それを考えると、

「後悔は、大人への第一歩」

 ではなかったかと思うのだった。

 そんな思いをした湧川は、それから少しして、つかさから、

「あなたには、ついていけない」

 と言われた。

 それでも必死になって追いすがったが、さらに、

「あなたはいらない」

 とまで言われたのだ。

 正直、つかさのことを最初はそこまで思っていなかったが、後悔したくないという思いから、次第に惹かれていくようになったのだ。しかも、そこで、

「つかさの秘密」

 を知ってしまったことで、自分の優位性に気づいた湧川は、それは正当な権利であり、少々のことをしてもかまわないという勘違いをしてしまったのだ。

 ストーカーまがいのことをすれば、当然、相手には愛想を尽かされるし、下手をすれば、警察に通報されるレベルである。

 しかも、他人の秘密を餌に使うなど、言語道断。勧善懲悪が、聞いてあきれるとはこのことである。

 では、つかさの秘密とは何であったが、

 それは、かつて、

「自分を試そう」

 というあざとい行動をした、えれなと再会したことから始まった。

 えれなは、その後、風俗で働くようになったのだが、そのえれなが、つかさを見て、懐かしそうに話をしたことがあった。

 最初は何のことなのか分からなかったが、普段は少々のことでは何も言わないつかさが、えれなに対して、極端に避けようとしたのだ。

 えれなが、風俗にいたことを知っていた湧川は、

「ははーん、そういうことか」

 と理解した。

 そして、完全に、

「つかさを、支配できる」

 と完全に勘違いしたのだ。

 しかも、そのことをまわりに知られたくないというつかさを守れるのは、この自分しかいないと思ったことで、つかさは、ある程度追い詰められることになった。

 えれなからも、湧川からもである。

 だが、湧川の強引な態度から、逃れようとすればするほど、粘着してきた。そこには、湧川の、

「後悔したくない」

 という思いがあることを、つかさは、その理由も分かっていただけに、完全に遠ざけるためには仕方がないということで、警察に相談し、ストーカー防止法に則って、警察からの対面禁止命令を勝ち取っていた。

 つかさの秘密というのは、一度病院を辞めて、看護婦から遠ざかっていたということだったが、それが、風俗での勤務だったようだ。

 家族の借金のためにやむを得ずということであったが、つかさの本性は、風俗に合っていたのだろう。

 さらに、彼女の性格は、尽くすということがその本質だったこともあって、風俗の間にもストーカーに遭っていた。だから、今回の湧川からの、ストーキングにも、うまく対応できたということであろうか?

 そんな秘密を知った湧川は、きっと、魔が差したのだろう。

 だが、これを湧川の、

「大失恋」

 という言葉で表していいのだろうか?

 確かに、その後すぐに、我に返って、このようなひどいことはなくなった。つかさにも、えれなにも、その後は接触もしていないし、迫田とも距離を置いた。

 迫田も、そろそろ本格的に、家業を継ぐための地盤固めをしなければいけないので、正直、湧川にかまっているわけにはいかなくなった。

 ある意味、湧川は、

「世間から置いて行かれてしまった」

 と言っていいかも知れない。

 湧川は、その後、一旦、恋愛という感覚から離れていた。それまでは、恋愛を意識していないようだったが、気が付けば、恋愛というものに、いつの間にかのめり込んでしまっていたのだ。

 そんな状態になってからというもの。人生がうまく行かなくなり、仕事もプライべーろにも、やり気はなくなってしまっていた。人との出会いもまったく期待しないようになったし、人と出会うことが、自分の悪夢だと思うようになっていた。

「やっぱり、あの時、格好なんかつけずに、まわりに何と言われようとも、文句を言えばよかったんだ」

 と、いう後悔が、さらに後悔を呼び、

「負の連鎖」

 が続いていた。

 そんな時、聞く気はなかったのだが、遠くの方から聞こえてきた言葉を聞いて、それまでの自分が何だったのかを考えさせられた気がしたのだ。

 それは、

「長所は短所と紙一重というでしょう?」

 と、聞かれた女の子が、それを聞いて、

「うん、聞いたことがある」

 と答えたのを聞いて、最初に言った彼が、

「じゃあ、短所は長所と紙一重だとは言わないよね? そう言ってしまうと、悪い意味に聞こえてくるからね?」

 というのだった、

「ええ、確かにその通りよね。主語をどっちに持っていくかということを考えると、その内容は違ってくるのは当たり前だから」

 というと、

「その通りなんだ。それは、まるで鏡に映ったもののごとくなんだけど、自分の姿が、目の前にある鏡に映った時、左右が対称なだけで、まったく同じものを映し出していると思っていないかい?」

 と聞かれた女の子は、少し考え込んでから、

「ええ、それはそうだけど、当たり前のことが違うとでもいうの?」

「いいや、そうじゃない。当たり前のことは当たり前なんだよ。だけどね、人間というのは疑り深いもので、その当たり前のことを、急に信じられなくなることがあるんだよ。そう思ってしまうと、天邪鬼な考えをしてしまったり、それを信じることが、後悔に繋がると思うようになるんだよ。それが怖いということもあるというわけだよ」

 と男性は言った。

「というと?」

「君は、ドッペルゲンガーというのを聞いたことがあるかい?」

「ええ、もう一人の自分がいるという、あれのことでしょう?」

 と彼女がいうと、

「そうなんだ。まるで鏡の世界から出てきたようなもう一人の自分。それを描いた作品もいっぱいあって、その存在はいろいろな説がある。でも、僕の中では、長所と短所が入れ替わっているような存在じゃないかって思うんだ」

 と男がいうと、

「それはどういうこと?」

「自分の中で、自分では長所だと思っていることを、ドッペルゲンガーでは短所であり、逆もあるということ。つまり、まるで鏡に映った自分が鏡から出てきたようなイメージというのはそういうことなんだよ」

 という。

「じゃあ、あなたは、この同じ次元の世界に、似ているけど、性格的には裏返しの人がいるということを言っているの?」

「ああ、そうなんだ。だから同じ顔をしていても、誰にも気づかれない。だけど、人によっては、あるいは、場合によっては。その人の存在に気づく人がいる。その人には、同じ顔に見えるだろうね。そして、性格が正反対であることに気づく。それが、できるある人というのは、本人である可能性が高い。だから、そのことに気づいた人は、片方の影から消されることになる」

「どうして?」

「この世に、光と影が別人であるということは許されないからなんじゃないかな? 光があって、実像から影ができる。つまり、影が別に存在すると、影ばかりになってしまって、その存在意義が薄れてしまう。それで、ドッペルゲンガーに気づいた人は、死んでしまうという理屈なんじゃないかって、俺は思っているんだ」

 というのだった。

「そんなものなのかしら?」

 と女性がいうと、

「ああ、そんなものさ。俺は、以前、電車の中で、一人の男性に失礼なことをしたんだよ。きっとその人は俺のことを恨んでいるだろうね? だけど、それは俺の影がしたのさ。影というよりも、自分の本性と言えばいいのかな? そしてもう一人の俺が、この俺の存在に気づいたのさ。そこで、もう一人の自分は、消されてしまった。だから、今の俺は、長所も短所も兼ね備えた人物になれたということさ」

 というのを聞いて。湧川はビックリした。

 どこかで聞いた話であったが、まさにこの話は、後悔が自分の中でできてしまったことで、今は奈落の底に叩き落されたあの時の話を聞いているようだ。

 よく顔を見ると、確かにその時の男だったのだが、どう考えても別人にしか思えない。

「俺はやつのドッペルゲンガーを見たのだろうか?」

 誰かのドッペルゲンガーを見ると死ぬというが、どうなるのだろう?

 そんなことを考えたが、その思いは、

「いまさら」

 なのであった。

「ドッペルゲンガー? そんなものは、あの世の世界での出来事ではないか? 俺が感じているこの世界では、そんなものは妄想でしかない。なぜなら、影は、必ずその人にくっついているものではないからだ」

 と考えたのだ。

 仕事にも、恋愛にも、さらにはプライベートにおいて、すべてを失ってしまい。残ったのは、後悔だけだったはずだ。

 その後悔がいかに自分を苦しめ、その苦しみから逃れるにはどうすればいいのかを考えていた。

「結論は一つしかない。死ぬしかないんだ」

 そう思って。湧川は自殺をした。

 遺書を残そうという気はなくて、どこかの屋上から飛び降りたので、

「衝動的な自殺」

 ということになった。

 それは間違いのないことだったが、死んでも結局誰も悲しむ人なんかいない。ただ、自分が楽になったというだけのことだった。

 だが、死んでしまうと、この世で彷徨うことになるということを忘れていた。後悔がどしても、此の世に残ってしまったからだろう?

 じゃあ、後悔というのは、一体何なのか?

「それは、自分に後悔させた相手が、すでにこの世にはいなくて、幻だけを追いかけてしまっていた」

 ということであった。

「俺の30年という人生。一体何だったのだろう?」

 これが、後悔というものである……。


                 (  完  )

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後悔の意味 森本 晃次 @kakku

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