第7話 湧川の乱心

 二人がつき合うようになってから、ある日のことだった。電車で移動していたのだが、郊外にある彫刻の博物館があるということで、

「行ってみたい」

 と言い出したのは、つかさだった。

 つかさは、彫刻も好きなようで、本来は多趣味だった。その博物館は、彫刻は建物の中だけにあるのではなく、大きな敷地内が公園になっていて、その公園には、噴水や芝生のある場所もあるのだが、奥には森ができていた。

「いろいろなところに彫刻があるというところなのよ」

 と言って、つかさは、そのパンフレットを見せてくれた。

 そこには、森や公園に飾られている彫刻が、まるで、海外を思わせるようで、

「ここは、ミラノか、フィレンツェか?」

 とでもいうような、ルネッサンスを思わせる場所だったのだ。

「これは、本当にオブジェだね」

 というと、

「ええ、そうなの。オブジェなの。ここは、通称、彫刻の森とも言われているところで、私は、一度も行ったことがなかったの。でも、いずれは行きたいと思っていたの。だから、ご一緒してくれませんか?」

 というではないか。

 なるほど、つかさの気持ちが分かった気がした。

 たぶん、彼女は、

「彼氏ができたら、最初にデートで行きたいと思っていたから、今まで行かずに我慢していたのかも知れないな」

 と思いと、その場所に、一緒に行ってほしいという彼女の気持ちが嬉しくて仕方がなかった。

 初デートを、彼女の行ってみたかった場所だというのも、何とも誇らしく思えてくるほどだ。

「うんうん、それはいいよね。楽しみだね」

 ということで、早速、週末に行くことにしたのだった。

 その場所というのは、結構遠いのが難点だった。

 電車で、1時間近く揺られていくことになる。何しろ、県の中心部を通り超えてから、まだだいぶ行くことになる。

 しかも、そこからバスで、30分近くかかるということで、ちょっとした旅行気分であった。

 しかし、逆にそれもいいのではないかと思えた。

 その場所は海の近くにあり、彫刻を見た後に、砂浜を歩くというのも、いいのではないかと思うのだった。

 ただ、近くには、他に何か見るところがあるわけではないので、目的はここだけで計画しないと、遠いだけに、大変だということであった・

「その分、本当に興味のある人でないと、行っても面白くないから、いつもは、そんなにお客さんが混むということはないらしいの。だから、それだけ、ゆっくりできると思うのね」

 と、つかさは言った。

「でも、つかささんが、彫刻に興味があるとは思わなかったですね」

 と聞くと、

「実は、私よりもつむぎさんの方が、彫刻には造詣が深いのよ。彼女のお部屋には、有名な彫刻のレプリカがいくつも置いてあって、ちょっとした博物館に行ったような気がするの。それを見てから私も、部屋にいろいろな彫刻だったり、絵を飾るようになったのね。あの場所も、最初の頃はつむぎさんは、一緒に行こうってよく誘ってくれたんだけど、それを断っているうちに、彼女もさすがに折れてきて、じゃあ、彼氏ができたら、一番に行きなさいって言われたのよ」

 というのだった。

「お試しだけど、いいのかい?」

 と、軽くいなすようにいうと、彼女は照れたように、

「いいのよ。私もそろそろ行きたくなっていたんだから」

 と言って、笑いながら言った。

 かなり、二人が打ち解けてきたということであろう。

 湧川も嬉しくなって、自然と笑みが零れるのだった。

 約束の週末がやってきた。駅で待ち合わせをしたのだが、さすがに湧川の性格も知っているのか、それとも、遅れるわけにはいかないという律義な考えからか二人はお互いにほぼ待つことなく、待ち合わせができた。

 湧川はいつものように、10分前には着いていたので、つかさもほぼ同じくらいを目指してきたのだろう。

 電車に乗ると、さすがに都心駅までは、結構な人がいた。都心駅を通り過ぎると、一旦その駅ではたくさん降りたので、相当人が減ったが、途中の駅からは、学生がどっと乗ってきたので、思ったよりも、人が多かったのだ。

「そっか、このあたりは大学があるんだね?」

 と、湧川がいうと、

「ええ、そうですよ。ここから三つ先にある駅は、総合大学、短大、薬科大学、芸術大と、いろいろな学校が乱立している学園都市なんですよ」

「へえ、そんなにたくさんの大学があるんだ。知らなかったですね」

 と、湧川は言ったが、まったく知らなかったわけではなかった。

 実際に大学時代に、ここの総合大学には、学園祭で来たことがあったので、まんざら知らないわけでもなかったが、薬科大学だったり、芸術大学があるなど、まったく知らなかったのだ。

「ここにある芸術大学なんだけどね。今から行く、彫刻の森の近くに大学を作りたいという、学長の意見から。この土地に決まったそうなんですよ」

 と、つかさは豆知識を披露した。

「じゃあ、大学は比較的新しいんですね?」

 と、湧川がいうと

「そうですね。まだ、10年くらいしか経っていないんじゃないかしら?」

 というではないか。

「詳しいね」

 というと、

「私の友達に、薬科大学の人がいて、その友達が、芸術大学に彼氏がいたらしいの。それで、いろいろ教えてもらったというわけ」

 と、つかさは言った。

「大学がそんなにたくさんあるところというと、環境はよさそうだね。学園の街っていうのは、僕は好きだな」

 というと、

「ええ、私は看護学校だったんだけど、近くには大学はなかったので、ちょっと寂しかったわ。でも、看護学校も結構大変だから、普通の大学生の人と同じようなわけにはいかなかったので、ちょうどよかったかも知れないわ」

 と言った。

「なるほど、ナースも大変だ」

 というと、

「ナース?」

 と彼女が聞き返してきた。

「うん、僕は、本当は看護婦って呼びたいんだよ。昔の呼び方の方が情緒があると思ってね。だけど、なかなかそうもいかないので、看護婦のことは、ナースと呼ぶようにしているんだ」

 というと、彼女はまんざらでもないように微笑んで、小声で、

「実は私もそうなの。ナースキャップとか、昔の方が可愛かったと思うことが結構あって、ある意味寂しいと思っている口なのよ」

 というではないか。

「そうだよね。昔は昔で良さがあるというものだよね。これから見に行こうとしている彫刻だってそうだよ。ある意味レトロなんだろうけど、芸術やレトロというから、それなりに芸術性を感じるんだけど、環境が違うと、ただの古いものというだけだもんね。環境だけで、見方が変わるというのは、本当は好きじゃないんだよ。だから、今日行くところは、その環境を整えたうえで、一番芸術品が映えるようにしているわけだろう? それがいいと思うんだ」

 と湧川がいうと、

「そうね。インスタなどで、ばえるのがいいということで、人の迷惑を気にしなかったり。いいねが欲しいためだけに、犯罪を犯すような迷惑ユーチューバーも結構いますからね。真面目にやっている人まで白い目で見られる時代、本当に耐えられないと思うのは私だけなのかしら?」

 と、つかさが、半分、本気で怒っているのだ。

 二人の気持ちは共通項に入ったのだった。

「今の世の中、喫煙者が肩身の狭い思いをしているでしょう? 私はタバコを吸わないから、別に喫煙者の肩を持つつもりはないんだけど、最近は、マナーの悪さが目立つと思うのね」

 と、つかさは言ったが、それは、法律が喫煙者に対してかなり厳しくなってきたことを反映しての話であった。

「受動喫煙に関する法律」

 ということであるが、基本的には、

「自分の家以外では、喫煙してはいけない」

 というものだ。

 これは、段階的に進められているもので、最初に実行されたのは、役所だったり、美術館、あるいは、病院のような公共施設は、完全禁煙となった、喫煙所も撤廃である。だが、それが、2020年4月からは、完全にいろいろなところで喫煙ルームも廃止になった。

 例えば、大型ターミナルでのホームの喫煙所であったり、会社のオフィスでも禁止になった。

 喫茶店やレストランはもちろん、パチンコ屋のような施設はすべてそうだ。

 そもそも、病院などは、もっと前からやっていなければいけなかったはずなのに、どうなっているのかということである。

 さらに、もう一ついうと、大々的に受動喫煙の法律が施行された時も、実に中途半端であった。

 基本的には、すべての飲食店、喫茶店では吸ってはいけないはずなのに、

「電子タバコは喫煙可」

 などという店があったりする。

 こうなると、どこまでがよくて、どこからが悪いのか分かったものではない。しかも、パチンコ屋などで吸えなくなると、今度は駐車場などで吸っている輩や、夜などは、歩きながら、咥えタバコをして平気でマスクを外しているような、思わず、

「人間失格」

 の烙印を押してやりたくなるようなやつらがいるのだ。

 このような著しく風紀を乱す連中というのは、本当に、

「この世の害虫」

 と言ってもいいだろう。

 いわゆる、

「百害あって一利なし」

 だからである。

 やつらに対して怒っているのは、何も禁煙車、つまりは、大半の人間だけではないのだ。きちんとルールを守って、肩身が狭くなっても、それでも辞めることができずに吸っている連中からすれば、

「あんな連中がいるから、俺たちまで白い目で見られる」

 ということで、ひょっとすると、タバコを吸わない大多数の人たちよりも怒っているのかも知れない。

 ということは、ルールを守らずに吸っている連中というのは、

「全世界のすべての人間を敵に回している」

 と言ってもいいだろう。

 どうせ、そんなことも分からないから、吸っているのだろうが、世の中には、一定数、そんなバカな連中がいるということだ。

 この日、二人がデートで行こうとした、

「彫刻の森」

 への途中の電車の中で、本当に程度の悪い連中に出くわしてしまったことが、湧川の不運だったといってもいいだろう。

 電車に乗っていると、前述のように学生が増えてきた。対面式の席、つまり、四人掛けの席に、二人は窓際に座っていたが、そこに学生風の若い輩が座ってきた。

 二人はカップルのようで、本当であれば、先に座っていた人に対して、

「すみません」

 というくらいに言って座るものだろうが、この二人はこちらを気にすることもなく、もっといえば、無視する形で座ってきたのだ。

 学生というと、ほとんどの人は立っているのに、失礼千万な態度を取ってまで座ってくるので、

「何だ、こいつら」

 という目を露骨に見せたが、分かっているのかいないのか、まったく気にする素振りはなかったのだ。

 湧川も、つかさも無視して、車窓を見ていた。

 隣のカップルは、能天気に話をしている。

 というよりも、男の方が一方的に話をしていて、女は相槌を打っているだけに見えた。

 普通であれば、あまり気にもならないカップルなのだろうが、何か微妙に違いを感じた。何が違うのか分からないが、気色の悪さを感じたというのか、軽いくせに、何かこちらを意識しているようなそんな雰囲気だ。

 チンピラのような雰囲気もした、やつらは、弱いくせに虚勢を張って、何かまわりを必要以上に意識している。ただ、そんなやつらは世の中に、ごまんといる。もっといえば、そういう連中で溢れているといってもいいだろう。

 だから、

「下手に気にしすぎると疲れるだけだぞ」

 と言われたことがあった。

 それを言った友達も、どちらかというと、まわりを気にする方だった。厄介な連中を気にしているわけではなく、女性の目ばかりを気にしているやつだった。

「お前だって人を気にしているじゃないか?」

 と聞くと、

「俺はいいのさ。女ばかりを気にしているからな。だけど、お前の場合はそうじゃないだろう? ろくでもない連中ばかり気にしていると、お前もそのうちに似てくるぞ」

 と言われ、ギクリとしたものだった。

 その思いは実は前からあった。変な連中ばかりを気にしてしまって、いつの間にか嫌な顔を露骨に向けているのだ。

 いつの間にかというのは、間違いで、明らかに意識して見ているのだ。湧川は偽善者というわけではない。まわりに合わせて、いい顔をしたり、人のためと称して、あざといことをすることは、一番嫌いだったからである。これが、

「人と同じでは嫌だ」

 という思いと同じものだということであった。

 だから、

「偽善者ではない」

 ということの誇りがあり、だからこそ、その誇りを傷つけられると、余計に怒り狂うところがあった。

 この気持ちが、

「人と同じでは嫌だ」

 という発想に結びついているのかも知れない。

「湧川は、判官びいきのところもあるからな」

 と、友達が言っていたが、これは、

「お前は天邪鬼だ」

 という言葉の裏返しでもあった。

 昔からプロ野球でも、弱いチームばかりを応援していた。皆が強いチームに憧れるのを横目にである。

 だから。多数決というのも嫌いで、

「少数派は、泣き寝入りしなければいけないのか?」

 といつも言っていたものだ。

 だが、そのうちに、アニメや特撮などを見ていると出てくる言葉で、

「人一人の命は、地球よりも重たい」

 という、定番の言葉があるが。逆に、テーマとして。

「一人を助けるために、大勢が犠牲になるかも知れないことを考えれば、一人の命を犠牲にするのは致し方のないことだ」

 という考えもある。

 明らかに矛盾しているのだが、それに対して、明らかな回答があるわけではない。

「難しいことを言えば、それこそが、民主主義の矛盾、あるいは、限界ということになるんだよな」

 ということであった。

 これについても、湧川は、百も承知のことだった。

 高校時代に政治の授業で民主主義について習ったその時から感じていたことだった。

 だからと言って、その時は先生に質問はしなかった。意地悪に質問してみようかとも思ったが、

「どうせ、ハッキリとした答えを答えられる人なんているわけはないんだ」

 ということである。

 もちろん、自分にも答えることはできない。それを人に強制するのは、無理なことなのであろう。

 それは、湧川にとっての、

「判官びいきたるゆえん」

 だったのだ。

 隣に座った、二人。男の方が、必死になって、女に話しかけていた。それだけであれば、別に悪いことではないと思う。むしろ、相手の女の子が無口だから、

「自分の方から話しかけてあげなければいけない」

 と思ったのだろう。

 その気持ちは、湧川にもよく分かった。むしろ湧川だからこそ、分かることだといってもいいかも知れない。

 湧川は学生時代、一人の女の子と付き合えるかどうかというところまで行ったことがあった。

 その時、彼女が物静かな女性で、なかなか自分から話しのできない人だったこともあって、自分から話しかけることができないので、何とか男の自分から話しかけてあげようと必死だったのを覚えている。

 しかし、緊張と自分に自信がないということから、何も言えずに、その場の雰囲気は最悪だった。

 まるで、ヘビに睨まれたカエル状態で、ヘビの方も、きっとカエルに襲い掛かろうにもできない理由があったようだ。

「三すくみ」

 という言葉をご存じであろうか?

「ヘビはカエルを食べるが、ナメクジに溶かされてしまう。カエルはナメクジを食べるが、ヘビには食われる。したがって、ナメクジはヘビを溶かすが、カエルには食われてしまうという、まったく身動きの取れないトライアングル」

 そんな状態のことをいう。

 じゃんけんも同じことで、いわゆる、

「あいこ」

 の状態である。

 その時の彼女は、まわりの雰囲気に、ナメクジの存在を感じていたのかも知れない。だから、何も言えない状態だったのだろう。

 三すくみほど、雰囲気は最悪になることはない。そもそも、雰囲気なるものがあるのだろうか?

 その子は何か相談事があったようなのだが、湧川の態度を見て、何もできない湧川に愛想を尽かして、結局、それ以降連絡をしてくることはなかった。

 湧川もそれを分かっていたので、

「ああ、俺は何て度胸がないんだ」

 と思った。

「緊張さえしていなければ、アドバイスくらいできたはずだ」

 と思っていた。

 すべての元凶は緊張していたことであり、その緊張が、相手に与えるプレッシャーとなり、それが、また、

「自分を映す鏡」

 となって、まったくうまく行くことなく、潤滑油が全然利いていない状態になっているようだった。

 それが、分かっているだけに、湧川の中でトラウマになり、女の子と二人きりになると、言い知れぬプレッシャーに取りつかれてしまうのだった。

 湧川という男、そのせいで、自分を見失ってしまった。せっかく大学に入って、彼女wを作って、謳歌するはずだった大学時代を、半分、無為に過ごしてしまったと思い、後悔しているのだった。

 だから、今回のつかさとの出会いは、

「なんとしても、モノにしたい」

 と考えていた。

 出会いが、人の紹介だとしても、そこに違和感はない。

 ひと昔前であれば、

「出会い系」

 などという、怪しげなものが存在して、課金されたりして、結局詐欺まがいだったことが問題だったのだが、今ある、

「マッチングアプリ」

 というのは、そんなことはないようだ。

 実際に使ったことはないのだが、使えばどうなのだろう? 恋人だけではなく、友達から始める関係も十分にあるのだろうか? そのあたりもあまり詳しくはない。それだけ、怖がっているところもあるのだろう。

 そんな自分に対して、

「勇気がない。情けない人間だ」

 と思っていたところへ、この日の事件は起こった。

 いよいよ自分たちが降りる駅になって、つかさを先に、気に入らないカップルの間を通るような感じで行かせた後で、ゆっくり立ち上がった湧川が、二人の間を通り抜けようとした時のことであった。

 男が足を開けようとせずに、足を組んだまま、通せんぼのようなあ達になった。

「何してんだ。こいつ」

 と思っていると、男が顔を上げて、こちらを睨みつけている。

「謝れ」

 と一言いう。

「はぁ? 俺が何かしたと?」

 というと、

「お前、俺たちをガン見しやがあって、何か文句あんのかよ」

 と因縁を吹っかけてきた。

 さすがに、怒りと狼狽が一緒に襲ってきた。怒りはもちろん、激しい憤りであるが、狼狽は、今一人ではないということだ。ここで腹を立てて、人間の小ささを見せることへの戸惑いではない。相手が、足を組んで頑張っている以上、謝らないと出られないという、相手の恫喝だけではない拘束にもあった。

 それでも、熱しやすく冷めやすい性格が、今回は災いしたのか、出ないといけない状態だったので、とりあえず、不服ながら、謝った。

 相手は、それでも不満そうだが、さすがに一緒にいた女もまずいと思ったのだろう。

「もういいから」

 と言って、男の手を引っ張っていた。

 これ以上やると、自分たちに寄せられるまわりの目の厳しさに、彼女は耐えられないと思ったのだろう。

 男は、足を崩して、渋々通り道を作った。

「通してやったんだ」

 と言わんばかりのその表情に、またしても、湧川の一度収まった感情が戻ってきたのだ。

 だが、一度矛を収めてしまったので、それを取り出すことは、大人げない。せっかく、相手の男がすべて悪いという雰囲気になっているのが台無しだ。

 それを思うと、この中途半端な感情をどうしていいのか分からなくなった。

 そして、その時の湧川の一番の失策が何だったにかというと、感情が高ぶっている時、つかさのことが見えていなかったということだ。

 つかさは、何も言わず、ただ、横に佇んでいた。何をどのように考えていたのか、湧川に創造もつくはずもない。

 だが、本当はあの強い目力で、必死に湧川を制していたようだった。

 そのことは一瞬だけ感じたが、湧川に響くほどではなかった。電車を降りてから、まるで不整脈のように、息が絶え絶えになってしまって、まともに立っていられないほどになった。

 それは、怒りからくるものであったが、もう一つは、あの雰囲気の憤りからであった。

 何もできなかった自分に怒りも感じる。確かに横に、つかさがいたから、変な行動がとれるわけもない。

 それを分かっていながら、必死になって自分を抑えていたのだが、それは、まわりを一気に不安にさせるものだったようだ。

 つかさは、何も言わず、俯いていた。その様子を見て、

「怖い思いをさせたのかな?」

 と感じたが、その思いだけでは、自分を抑えることはできなかった。

 怒りは、つかさへの思いとは逆にさらにこみあげてきた。

 その怒りと、あの場で言いたいことを言わなかった後悔とが一緒になり、余計に耐えられない状況になってきた。

 大人の対応としては、これ以上ない態度だったに違いない。しかし、それでどうなったというのだ? つかさから、

「何て、男らしい人。この人にならついていける」

 とでも思われたのだろうか?

 そうであればいいのだが、そんなことはなさそうだ。少なくとも何も言ってくれないではないか? 再度訪れた怒りは、最初の怒りのように限度があるものではない。二度目は、抑えの利かないもののようだ。それを考えると、最初に怒りを抑えた自分に腹が立ってきた。

 湧川は、自分を抑えることができなくなっていたのだった。

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