楠知幸氏と八月六日

蛟 禍根

第1話 

 僕はその方に会ったこともないし、話をしたこともない。


 知っている事は、妻の友達で、ギターをやっていて、ずいぶん歳上で、元カノが彼のCDアルバムに参加していて、一昨年、癌で死んだってこと。


 敢えて名前を出させていただくが、楠知幸さんという方だ。別に彼に思い入れがあるわけでもないし、CDを妻が持っていて、車の中で彼のギターも歌も聞いたけど、特に心に響く事も無かった。


 彼は小説を書いていた。


 なんのどんなタイミングだったのかは思い出せないが、彼が書いた小説を読んだ事があった。妻から見せられたのかもしれない。もう20年くらい前。


「ベビールースの落下」


というタイトルだ。


 広島に原子爆弾を落としたエノラ・ゲイ号のポール・ティベッツ機長が飛行機乗りを目指したきっかけは、子供の頃、知り合いの複葉機に乗って菓子会社の販促の為に、「ベビールース」というチョコレートを空から大量に振り撒いたことがきっかけだという。


 この実話をもとにタイムトラベルをからめ、1945年8月6日の広島のとある少女と出会う。…というようなSF仕立ての筋書きだったと思う。


 読んだ時、よくできた話だなと思った。上手にまとまっているなと思った。いい話だと思った。それは広島に在住する僕だから受けた感傷だったのかもしれない。


 彼が死んだと聞いた時、別に何も思わなかった。知らない人だし、ガンならそりゃいつか死ぬだろうと思ったし、そもそも僕は冷たい人間だからだ。


 でも、8月6日が来るたびに「ベビールースの落下」の事を思い出す。


 彼の書いた小説を思い出す。


 彼の書いた小説は、WEBで検索すると少しだけ今でも出てくる。でも「ベビールースの落下」だけは見つからない。


 彼の書いた文章は、僕が意識しようがしまいが間違いなく僕に影響を与えている。


 彼の生物学的な遺伝子や、面識といった繋がりは全くないが、彼の「思い」は間違いなく僕に引き継がれている。


 そして、僕は今小説を書いている。


 全く知らない楠知幸さんは僕の中で生きている。




 ―――――― 2023年8月6日 8月9日 原爆の日に。



 

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楠知幸氏と八月六日 蛟 禍根 @mizuchikakon

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