幕間

第33話:若さに当たる

「ご、ごめんなさい!」


 細い身体を震わせての絶叫の後、端居さんは走り出した。謝ったのは俺に向けてで、何に謝られたかは分からない。


「は――!」


 呼び止めようとした。立ち上がり、足も踏み出した。しかし行けない。

 空をつかんだ拳をゆっくり下ろす。


 端居さんの消えた方向から、巨人の歯軋りを疑うような音が轟いた。

 離れていてさえ、耳を塞ぎたくなる。すぐに大型車に特有の排気音もした。


 まさか。


 最悪のイメージが脳裏を走る。大型車は走り去ったらしい、駆けつけてももう。

 別の普通車の音が聞こえた。速度を緩めたりもせず、ただ走っていった。十歩にも満たず、足を止めたのはそれが理由だ。


 たぶん。


「ふう――」


 ため息を両手で受け止め、顔を洗う。それから呆然と、バカみたいに、突っ立っていた。

 何をしていいのか、何かをしなきゃいけないのか。今の俺にはそれさえ考えられなかった。


「なんで追わんの?」


 三十秒ほども猶予をくれたろうか。背中の側から問われた。

 振り返れば、金髪の派手な女の子が俺を見ている。その子自身は、さっきからほとんど移動していないが。


「ええと、真地さんだっけ。端居さんの?」

「お、リサーチ強め。美香はね、ハシイさんの友達」


 一緒に居る男の子が、声を詰まらせて驚いてるんだが。まあ同じカフェで働く仲間ではあるらしい。店長が云々と言っていたし。


「なんで追わんの?」


 時間を戻したみたいに、同じ口調で同じ問い。遠慮とか配慮とかを、どこかに忘れてきたようだ。

 面食らうが、羨ましい気がしないでもない。


「俺みたいなおっさんが追いかけてもね」

「それ、関係ある?」

「あると思うけど。無いとしても、端居さんに迷惑なことはできないでしょ」


 真地さんは「んんー?」と。眉間に深い深い溝を作り、捩じ切れそうなくらい首を捻る。


「そんなにおかしい?」

「好きって言ってたじゃん、彼氏さんのこと。なのに迷惑って意味分からん」

「言ってないよ。彼氏でもないしね。こんなおっさんを充てがわれたら、端居さんがかわいそうだよ」


 思わず笑った。誰に対してでもなく、端居さんの隣へ立つ姿を想像した自分に。


「彼氏さん。日本語、難しい感じ?」

「ええ?」

「美香と賀屋が付き合ってて、それと同じって言ってたっしょ。彼氏ってことじゃん」


 三歩後ろの男の子、賀屋くんが頭を掻く。照れているより、申しわけなく見える。


「そういう受け取り方もできるかもしれないけど。俺のあげた物を大切にしてくれようっていう気遣いだよ、あれは」


 普通に考えればそうだ。あり得ない。

 身の丈に合う合わない以前の話で、この子の言い分を真に受けようものなら痛い目を見る。


「……うぅぅぅぅわ」


 腹の底を揺さぶるような重低音。正面の女の子の声と気づくのに、少しの間がかかった。

 なぜそんな音を奏でたかは、きっと細めて睨む眼が物語っている。


「ハシイさん、かわいそ」


 苦虫を潰したかに、歯を噛み合わせたまま。器用に吐かれる声は、俺を蔑んでいるとありあり伝わった。


「キバドラのペン」

「あ、ああ。俺があげた」

「客に踏み潰されたんよ。どんだけ壊れたか知らんけど」

「土下座して救助、だっけ」


 そうだ。さっき、この子が言っていた。大人の女性に、俺がパケモンなんてあげるから。


「何かさ、バカみたいに『ありがとう、ありがとう』って言ってるハシイさんがさ。土下座して、客の足に抱きついてさ。取り返したら、しばらく話せなくなってんの」

「そりゃあ……」


 聞けば聞くほど酷い話だ。それも本を正せば、俺のせいだが。


「不倫はあり得んけど、その時のハシイさんはカッコ良かった」

「いや、不倫はしてないって」

「そうなん?」


 勢い良く、頷いた。

 端居さんから聞いたのは、やってもないのに悪いことをしたと言いふらされる、だが。


「じゃあ何も問題ないんじゃん。なんで追わんの」


 振り出しに戻った。先ほどと違うのは、真地さんと端居さんが友達とは本当っぽいなと思うこと。


「その人が本心ではどう思ってるかって、真地さんには分かる?」

「分かるわけないしょ」

「だよね。特に俺は、そういうの察せなくて」


 高校時代のあの時みたいに、端居さんが罠を張っているとは思いもしないが。


「端居さんからしたら、絶対にあり得ないことをやらかすかもしれない。たぶん必ずやらかすんだよ、俺は」

「それマジ?」

「うん、マジだよ」


 また睨まれるだろうな。意気地がないと言われれば、その通りだ。

 と思ったら、真地さんは「へえ」と笑った。


「じゃあ、やめろし」

「ろし?」


 けらけら、笑声混じりに。俺も情けなく、笑みを作って見せる。


「もう、ここらに来んなってんの。ハシイさんが居たことも忘れろし」

「いや、まあ、うん」

「こんなの面白すぎだから、美香マジみんなに言うけど。おじさん、関係ないからいいしょ?」


 何だろう、この変わり身の早さは。言う通り、俺はいいが。


「端居さんの友達がそんなこと――」

「だぁら、関係ないってんの」


 重い声が、腹を突き刺す。

 言える言葉がない。端居さんのことを、気持ちが分からないから追いかけないと言った俺には。

 開けたままの口から、苦しげな自分の息が煩わしい。しかしあっさり数秒で、真地さんは「ジョーダン!」と爆笑し始める。


「ね、自分の本心ならマジ分かって当たり前だし」


 この子にとっては、そうらしい。賀屋くんの肩をバシバシ叩き、笑いすぎて咽る真地さん。

 参った、ぐうの音も出ないとはこのことだ。お礼にもならないが、アップルティーと缶コーヒーを二人に手渡す。


「ほんとに今まで分からなかったんだけどね」

「マジ? なら、これからアゲてこ」

「う、うん。どうしたら上がるか、考えてみる」


 男前に「よっしゃ」と親指を立てて見せ、真地さんは歩き始めた。賀屋くんもペコッと頭を下げ、着いていく。


 どうしたら上がるか、か。

 二人の背中を眺めながら考える。と、賀屋くんが振り返る。


「あの、僕が言うのは変に思われると思いますけど。端居さんのこと、よろしくお願いします」

「えっ。が、頑張るよ」

「すみません」


 なぜか賀屋くんは謝り、真地さんに追いつくべく走った。

 よく分からない。が、俺があの年頃によく言われていた言葉を思い出す。


「若いって、それだけで凄いな」

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