第32話:心かたまる
閉店まで、残り一時間。扉に大きく書いてあるので、見落とすのは考えにくい。この間のおばあちゃん達のように雨でも降り始めたかといえば、そんな気配はなかった。
もちろんお客さんは様々で、テーブルに着いて五分で出て行く人も珍しいというほどでない。テイクアウトの人だって。
新たなお客さんは、ゆっくりとこちらへ進んだ。床が抜けないか、一歩ずつたしかめてでもいるように。
「遅くまでお疲れのところ、ありがとうございます」
目の前までやって来たお客さんに、そう言って頭を下げた。濃紺のスーツ姿だったから。
店の様子を気にするのは、建築系の職業かも。高い背丈と広い胸板、丸坊主の頭もそういうイメージ。
「あ、あ、あ、あの。はじ、端居さん」
「はい?」
名札を見て、最初から名前を呼んでくるお客さんも少なくない。だから咄嗟に返事をしたけれど、直後あたしは動けなくなった。
とても、よく聞く声。最近の頻度で言うならダントツに。
「出島さん、ですよね――?」
「はっ、はい!」
なんで?
いや、なんで?
運転手さんがスーツで。普段は爽やかな芝生頭が、照明の撥ねるくらいの丸刈りで。
「カフェ、ですよ。ここ」
知らない場所。要領の分からないところへは、行けないと言っていたのに。
なんで?
成立していないあたしの問いに、彼は目を瞑って頷いた。
「来ないと、話せないと思って」
そのつもりだった。九十九パーセント。
でも。だからってここまで来るの、来れるの? 顔が真っ赤で。気をつけで固まった腕の先、握った拳が赤を通り過ぎて紫色だ。
「私……」
何も言えなくなった。顎が凍りついたようで、彼の様子と大差ない。
静かなピアノのソロ。沈黙のまま、随分とにらめっこをしたように思う。
ふと、どこからか空気の漏れる音。「むふぅ、むふぅ」なんて、一定のリズムで。聞こえるほうへ目を向ける。そこには布巾を畳む途中の真地さんが居た。
ニヤニヤ笑って、小刻みに頷く。何なの。
「あの、お客様」
おかげで、ではある。このままでは埒が明かない、と声を出せた。他のお客さんに不審がられないうち。
「ご、ごめん。端居さんが困ってるなら、と思ったんだ。何も話す必要がないなら俺は」
俺は、の後を彼は飲み込んだ。代わりになのか、見開いた眼の真ん中にあたしが映る。
「お、お客様。
ここはカフェだ。一緒に働く真地さんや、他のお客さんも居る。一名を除いて、誰にも気づかれてはないけれど。
取り繕って笑うと、出島さんも咳き込むみたいに笑った。
「あっ、そ、そうだよね。ここっ、コーヒーのMサイズ」
「ホットでよろしいですか?」
一旦は「うん」と、たしかに返事があった。でも声なく、彼は迷った素振りで息を吸う。
「あの。相談に乗ってもらえるって、前に聞いたような」
少し顔の赤みが引いただろうか。詰まっていた空気が抜けたように「へへっ」と出島さんは笑った。
「うん、そうですね。どんな飲み物にしましょう、温かいのがいいですか?」
「ええと、お任せで。端居さんに任せます、全部」
立っているのがカウンターで良かった。少しくらい罵られても、バカにされても、決まった笑顔をする訓練ができている。
でなければ、とても見せられた表情ではなかったはず。嬉しくて、困って、自分でもどんな感情で居るのかまったく不明だった。
お勧めの飲み物を手に、出島さんはカウンターから最も遠い角の席へ座った。お店の中を眺めたり、ガラス越しにじっと外を見つめたり。
こちらを盗み見る気配はなかった。むしろあたしが見ていて、たまたま視線のぶつかることはあったが。
もう、やめてほしい。ガッシリした広い胸板のスーツ。見ようによっては格闘家みたいな風貌で。
視界に入るたび、動悸がして困る。
閉店の五分前、彼は席を立った。先に帰ったお客さんを見ていたらしく、トレーを返す場所には迷わない。
たぶんスクーターに乗り、走り去った。
大丈夫だよね?
逸る気持ちは気づかぬふりで、閉店業務を済ませていく。久しぶりに店長から聞き取ったメモまで見ながら。
いつもは雑談で賑やかな真地さんと賀屋くんも、テキパキと描き文字が見えるかの動きだ。
そうしてくれるのはなぜか。と考えると、また逃げ出したくなる。
だけど堪えて、先に帰る二人を見送った。「しっかりー」と誰に言ったのか分からない真地さんの声は、聞かなかったこと。
裏口の扉が閉じ、「ふうぅぅ」と深く息を吐いた。すると再び扉が開いて、顔を覗かせたのは賀屋くん。
「あ、あれ。どうしたの」
「いや、その」
「うん?」
片足だけを室内へ戻し、視線がどこともなく宙を彷徨う。不特定の軌道が何度目か、あたしに向いてやっと続きが聞こえた。
「僕なんかに言われても、でしょうけど。うまくいくといいですね」
ボソボソ遠慮がちに励ましてくれた。ありがたいが、それは何もかも知ってるってこと。かあっと顔が熱くなり、フリではなく両手で隠す。
「やめてっ。そんなんじゃないから」
「あっ、そうなんですか。でも、すみません」
ペコペコと繰り返しに頭を下げつつ、賀屋くんは帰った。本当に帰ったかなと覗き見て、心拍数を戻す為に戸締りの確認をして、あたしも裏口を出る。
真っ暗な裏通り。唯一の明かりは自動販売機。あたしの作った飲み物のカップを、光に翳す男の人。
「あっ。端居さん、お疲れさま。この飲み物、マズイよ」
「ええっ、マズかったですか」
「いや、違う違う。おいしすぎて、何杯でも飲みたくなるんだよ。でも絶対太るよねコレ」
見ているだけで、思い浮かべるだけでドキドキする。
「でもまた頼もう。何ていう物?」
「ナッツクリームラテ、ピスタチオソース、クラッシュナッツトッピングです」
「……もう一回?」
困り果て、下がった眉。その代価は、飲み物の名前では支払いきれない。
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