第四幕:近く遠く
第27話:嘘に嘘
トビと呼ばれていた女性に。あの女に、出島さんから貰ったサインペンを奪われた。
今日は水曜日。四日前のことだ。
カウンターから飛び出し、踏みつけた低いパンプスを組みついて動かし、拾い上げる。
プラスチック製で地色は青。その蓋に白い筋が見えた。さあっと血の気の引く音がして、触れると蓋の先から中ほどまでに亀裂が入っていた。
「ごめんねぇ、うっかりしちゃって」
嘘だ。
「う、うぅぅ……」
震えた喉から勝手に声が漏れる。文句を言ったり、睨んだりはする暇もない。
割れた部分を撫でると、白い変色が少し直ったように見えた。でも傷をたしかめれば、やはりくっつくはずもなかった。
なんでこうなるの。
妙な噂を立てられ、急にシフトを変えられ、挙げ句にこれだ。誰かに仕組まれたように、望まないことばかりが起こる。
あたしのそんな不運で、出島さんの厚意を傷物にした。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
「ごめんなさ――うぅあぁぁぁ」
声を出した途端、ぼろぼろっと涙が溢れ落ちた。震える喉と口を慌てて塞ぎ、立ち上がる。
よろめいてカウンターに手をつき、そのまま伝って厨房内へ。視界に入ったあの女は、頬をヒクヒクさせながら笑っていた。
「落ち着くまで裏で休んどいて」
突っ立っていると、綺麗にネイルされた真地さんの指が休憩室の方向を示した。見れば彼女自身は、二人連れのカモとカウンター越しに向かい合って。
ありがとう、とは言えなかった。ズビズビじゅるじゅる、汚い音を立てそうで。たしか三十分くらい、顔を冷やしたりして休ませてもらった。
それから売り場へ戻ると、あの二人連れは居ない。真地さん達に何をどう言えばいいか分からなかったが、差し当たり「ごめんね」とは言えた。
返答は怒った口調ながら、「気にしない」だった。気遣う風に笑ってくれる賀屋くんにも、もう一度謝った。
閉店後。少しでも早く、出島さんに来てほしいと思った。同時に、今日だけは来てほしくないとも思った。
よほどまじまじ見なければ、目の充血や腫れもバレないはず。しかしサインペンが思い浮かべば、普通で居られる自信がない。彼を前に、そんな器用さはあたしにない。
だからやってきた出島さんに「風邪引いたみたいで、今日はすぐ帰ります」と嘘を吐いた。
もちろん彼は驚き、こちらが心配になるくらいの気遣う声で
「は、早く帰って。タクシー呼ぼうか?」
などと言ってくれる。
俯きっぱなしで、大丈夫すぐに治ると嘘に嘘を重ねた。あれからずっと、胸が痛い。
何もかも正直に、相談するのが正解だった。
分かっている。彼は怒るどころか、あたしより悲しんでくれたに違いない。またどうにかして、同じ物を手に入れようとまで言ってくれるかもだ。
そんなの、言えるはずないじゃない。
――悩んでいても、今日の時計は止まらない。出勤時間になり、遅番の真地さんと調理係の男の子が出てきて、やがて閉店が近づく。
言えるはずがないから言わない、の他にどうすればいいか思いつかないまま。
「やっぱり正直に言うしかないよね」
裏口を出る前に、姿見へ映るあたしに問う。どれだけ待っても、縦や横に首が振られることはなかった。
青いマスキングテープを巻いたペンは、気にしなければ普通に使えそうだ。
気にしなければ。
「はあ……」
ため息で床を埋め尽くしつつあった。ふと見ると、その場で十五分以上が過ぎている。
そろそろ出島さんが来る頃だ。深呼吸を最後に、裏口を出た。
「あっ端居さん、お疲れさま。先にゆっくりさせてもらってるよ」
自動販売機の明かりを背に、出島さんが片手を上げる。もう一方には缶コーヒーが握られ、口元近くへ。
姿を見ただけで、胸が押し潰されそうだ。もう一度、思いきり息を吸い込み
「すみません、すぐ締めちゃいます」
と笑って見せ――笑えただろうか。
「大丈夫。明日の朝まででも待ってるから」
逆光ではっきりしないけれど。とろんと眠そうな眼を細ませ、柔らかく笑う彼がくっきり見えた。
あたしが鍵をかける間、いそいそとプラケースを運んでくれる。
「アップルティー?」
「いえ今日はミルクティーでいいですか」
「もちろん」
代わりばんこに買う、互いの飲み物。出島さんがボタンを押しても、無遠慮な物音を立てて取出し口へ落ちてくる。
「たぶんだけど。コーヒー、苦手だよね? 最初にあげた奴、処分に困ったでしょ」
ミルクティーを差し出しながらの言葉が、すぐにはピンとこなかった。でも察して、「ああ」と照れ笑う。
「実はって言うのも今さらですけど、苦手です。貰ったのは、家に置いてありますよ」
「やっぱり。捨ててもいいし、もったいなかったら俺が飲むし」
話しながらプラケースに腰掛け、袖で包んだ熱々の缶を頬に当てた。そうして息継ぎの時間を稼ぎ、次の声を出す。
「いえ、あれはあたしが貰ったので」
「ええ? いや、いいけどさ。コーヒーが苦手って、正直に教えてくれたから」
ん、と何か引っかかった。おかしなことは言っていないのに、何だか首を傾げたくなる。
いつもと同じに裏通りを向いた出島さんの顔を盗み見る。と、彼の目もあたしを見ていた。
「風邪、治った?」
「え、ええと。はい、どうにか」
「そう」
缶コーヒーをひと口。瞑った目が、開くと正面へ向き直っていた。
「出島さん?」
「うん?」
呼ぶと微笑み、あたしを正面から見てくれる。
いつもと同じような、違うような。声に、気持ちに、硬い鉄芯でも通したかと思う。
「端居さん」
「はっ、はい」
呼んだから、お返しだろうか。咄嗟に首を竦め、窺った。
「もし、俺にできることがあったら言ってね。何か手伝えること、相談」
なぜか突然、出島さんはそんなことを言った。眉間に深く、皺を寄せて。
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