幕間
第26話:惑いの午後
「出島さん。こりゃあ、そろそろ買い替えですよ。商売抜きでね」
「まあねえ、家と仕事場と往復して置きっぱなしだし。かれこれ何年だっけ」
「たしか十二年ですかね。経済を回すんですね、なんて話した気が」
行きつけのバイクショップの若い店員。と思ったが、いつか三十路に入ったとか聞いたような。
エンジンの一部をバラしながら、よくも記憶を辿れると感心する。俺には一度に、どちらかしかできない。
「いいのあるかな。手のかからないのがいいけど、ヘルメットの収まる奴」
「となると、またスクーターですね。二百五十とかのほうが頑丈っちゃ頑丈ですけど」
「後で幾つか、パンフレット見繕ってもらえる?」
「ええ、もちろん」
商売抜きの商談とやらを一段落させ、店員は一文字に口を閉ざした。さすがに細かな部品の多いところで、失くしたり怪我をしたりはしたくないらしい。
俺もわざわざ仕事の邪魔をする性分でなかった。せっかくの日曜日に点検を頼んだのだから、見落としがあるのも困る。
このバイクショップの隣にカフェがある。通い始めた頃は意識になかったが、途中でオープンしたのだろう。
格子に組まれた板張りの向こう。行水のできそうな鉢に植わる花々や、茶色の砂利を接着剤で固めたような店前の通路。
もう、それ以上の奥を覗く必要もなく、俺の棲息領域とは違った。ただ今は、板の隙間からちょっと透かし見るくらいの興味はある。
端居さんの勤める店だ。
誰かに話を聞いてもらうことが、あれほど気持ちいいとは知らなかった。それはこうして、昼下がりのバイク屋で店員と話すのとは違う。
いや、知らなかったとは嘘になるか。覚えにないくらい久しぶりと訂正しよう。
「あれ、珍しい。お隣が気になるんです? 行ってきてもいいですよ、やっとくんで」
「とんでもない。そんな殿様みたいなマネできないよ」
「あはは、なんでですか。僕もたまに行きますけど、いい店ですよ。美味しいし」
見咎められたわけでもないが、何となく目隠し壁から離れる。店員はちらと一瞥したくらいで、きっと何とも思っていないけれど。
どうせ今日は、端居さんも休みと聞いている。ゆうべは風邪を引いたと、つらそうにしていたのが心配だ。
「ああ、一人で行っちゃあ奥さんに叱られますね。ああいう店、一緒に行ったりするんでしょ?」
「いやあ、そういうのはしないかな」
「またまた。出島さん、照れ屋だから。奥さんとだとベタベタっぽいです」
「あはは、無いって」
そうだ。不特定の誰かと話せば、耳触りのいいことばかりでない。もちろんこの店員が、話を弾ませてくれようというのも分かる。
だから口べたな俺などは、曖昧に受け流すくらいしか着地点を見つけられない。
だから俺なんかの与太話を、さも楽しそうに聞いてくれる彼女との会話が楽しい。利用しているようで、いいのかなと思わなくもないが。
「ねえトビちゃん、今日はやめとこうね」
「何を?」
「泣かすのはやり過ぎだって」
突然、キンキンと耳を突き刺すような高音が響いた。目隠し壁の向こうからだ、盗み見ると駐車場には女性が二人。
あれが地声なら、うるさいと言うのも酷だ。やはり「何です?」とこちらを見た店員に、「楽しいことでもあったらしいね」と苦笑するに留めた。
「あれはハシイちゃんが悪いんだもん。尻軽のくせに、クロさん横取りするから」
「あんたにだけは言われたくないでしょ」
何て言った? 考える前に、目隠し壁へ飛びついた。意外と華奢な造りとは言え、大きく揺らす勢いで。
「端居さんを……」
「えっ、何か言いました?」
「今の女の人、何て言ったか聞こえた?」
「いや、すみません」
端居さんを泣かせたと言わなかったか。保証を求めたが、店員は横に首を振った。
「ええと、隣の店にクロさんて居るのかな」
「クロ? クロ、クロ――ああ、店長さんが育手
それが何か? と店員は首を傾げる。
「いや。やっぱり隣のカフェ、美味しいらしいね」
「ええ、僕もお勧めです。お隣だからじゃなく」
頷いた店員は、すぐに手元へ視線を戻した。たぶんおかげで、歯を食いしばる俺に気づかれはしなかったはずだ。
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