第25話:高まる熱
「店長の
油断した。今日は真地さんが居ないから、と彼女だけを悪者にするのも良くないけれど。
閉店作業の終わりに現金を金庫へ収め、休憩室の扉を開けようとした。
このカフェで働く人は、みんな知っているだろうと想像はしていたが。さっきまで仲良く、近所のスーパーの話なんかしていた人の声で聞くのはキツイ。
「アレって?」
「ハシイさんと、ほら」
「ああ、不倫」
「ちょっと、聞こえたらどうするの」
窘める声さえ笑う。
「店長、顔とセンスだけはいいと思ってたのにね」
「そろそろチーフも黙ってないんじゃないかって」
耳を塞ぎ、店長室へ戻った。すぐに扉を大きな音で開け閉めし、店舗側の扉も開けてみたりして。それから休憩室へ向かう。
談笑していたはずの二人は、もう居なかった。
胸に何か刺さった感覚はある。
針。いやもっと太い、軒先のつららのような。
「ふう、大丈夫」
自分に言い聞かせ、きちんと戸締りをする。これを適当にやって何かあっても、言いわけにならない。
大丈夫と言える理由は明確。
あたしはミルクティーにしよう。それから出島さんのコーヒーと、二本の缶を手に待つ。今日は水曜日、彼が大阪から戻ってくる日。
「昨日さ、鹿がどいてくれなくて困ったよ」
会うなり。珍しく捲し立てる風に、出島さんは言った。「鹿が?」と答えるのと一緒に缶コーヒーを渡せば、すぐに二百四十円が差し出されたが。
「この前、出してもらったので。それより鹿なんて居るんですね、大阪に」
「居る居る。降ろし先が学校みたいな、横に動かす門なんだけど。真ん中に居座ってて、開けても全然通れなくてさ」
あたしが頷き、自分の缶を開ける。すると彼も蓋を開いた。「じゃあ次は俺ね」と断って。
「ガードマンの人なんか『これじゃ遅刻でんなぁ』とか笑ってるし」
「ええ?」
「結局、何人かに出てきてもらって。悪いけど脅かして逃がそうとしたら、集まった時には居なくなってて」
意地悪をされた話かと思ったが「立場ないよね」と頭を掻くのも楽しそうだ。
「鹿さん、居心地良かったんですかねえ」
「さあねえ。コンクリートのとこだったんだけど」
話していると、胸の奥がほかほかしてくる。モコモコ付きのジャケットを着てきたから、ではなく。
「あ、あとね。他にもあってね」
「他?」
実際、遅刻にならなかったのか。鹿はどれくらいの大きさだったか。
聞いてみたいこともあったのに、出島さんは次の何かを話したいらしい。しかも「アレアレ、何だっけ」と、最初の言葉を見失いながら。
――あたしが聞きたいって言ったから。
前回の土曜からずっと、何を話すか考えてくれたに違いない。一つだって贅沢なのに、幾つ用意してくれたんだろう。
そう思っていたら、彼は小さなメモ帳を取り出した。表紙を捲った最初のページをサッと見て
「あっ、そうだ。今どきさ、凧揚げしてる人が居てね」
嬉しそうに話す。
ごめんなさい、ちょっと盗み見ました。出島さんの大きな手に半分の紙面が、小さな字で真っ黒と言っていいくらい埋め尽くされているのを。
「俺も子供の時にやったけど。どこかで売ってるのかな、それとも作ったのかな。端居さんは、やったことある?」
「凧揚げはないですねえ。あと――」
「あと?」
「お疲れさまです。長い距離、いつも大変ですね」
今まで、言ってなかった気がする。これもごめんなさいの気持ちと、そんな中にありがとうを篭めて頭を下げた。
「いえいえ、慣れておりますので」
並べて置いたプラケースの椅子。向かい合えば、膝と膝がぶつかった。それなのに真面目な声と顔で言われては、あたしは「あはははっ」と声を上げずにいられない。
* * *
次の土曜、その次の水曜も。大阪までの往復をした帰りの日に、出島さんは自動販売機へやって来てくれる。必ず新しいお話と一緒に。
楽しいばかりで、嫌なことがないのなら羨ましい。などと勘違いしそうなほど、仕事先の人や、出会った動物のことを。
でも、そんなはずはない。
だからあたしもお返しに、この間のおばあちゃんがまた来てくれたこと。ウェブマガジンの記事ができあがったことを教えてあげた。
ふとした時、同僚の人達から妙な視線を感じる機会が増えた。というのは絶対に言わない。
そしてまた土曜日。同じシフトは真地さんと賀屋くんで「三連チャン、ダルいんだけどー」などと言いながらも楽しげだ。
こちらとしては、何ごともありませんようにと祈りたくなる組み合わせだが。
でも今日は出島さんに会える。そう思うことで自分のモチベーションを――ううん、違う。
会いたくて、待ち遠しい。単純にそれだけで胸がいっぱいだ。
午後十時過ぎ。
もう少し忙しければ、時計が早く進むのに。というくらいの、窓の外を見ても落ち着いた夜。
見覚えのある、二人連れのお客さんが訪れた。
「あら、ハシイちゃん。まだ働いてたの?」
いつか、ネトラレが云々とうるさかった人達。それを自分の武勇伝のごとく、自慢げにしていたほうの女性が口を開いて最初がこれだった。
からかう空気ながら、とても威圧的な眼で。
「ちょっとトビちゃん、いきなり過ぎるでしょ。どうどう」
「んふふ、全然よカモちゃん」
ネトラレ女はトビ、もう一人はカモと呼び合っているらしい。
ピーヒョロヒョロ、ガアガア。何となく「ああ」と合点がいった。共に痩せぎすなところも。
「おかげさまで楽しく働かせていただいてます、ありがとうございます。ご注文はお決まりですか?」
何が気に入らないのか知らないけれど、いちいち応じていても仕方がない。それに今のあたしには、出島さんから教わった、感謝の言葉がある。
「へえ、良かった。ってハシイちゃん、高校生だからって仕事中にそれは良くないわ」
「ん、何でしょう?」
薄ら笑いの目が、ひたすらジロジロと観察していたのは知っている。
どこか制服がほつれてでもいただろうか。それなら、教えてくれてありがとうございますだ。
「これよ、これ」
カウンター越し、トビの腕が動く。あたしと同じくらいの背丈、ちょうど伸ばしきったところがあたしの胸だった。
ポケットに挿していたペンの一本を抜き取り、自分の鼻先へ持ってくる。
「あっ」
「小学生じゃないんだし、仕事中にアニメグッズはないでしょ」
出島さんに貰った、キバドラのサインペン。使うことはないのだけど、お守りみたいに身に着けていた。
「か、返してください!」
「ええ? 泥棒みたいに言わないでよ、返すに決まってるでしょ」
こちらも腕を伸ばした。でも仕事中で、仮にも相手はお客さん。あたしの物でも、奪い取るなんてできない。
途中で止めた指先に、嘲笑う息がフフッとかかる。
「あ、ごめぇん」
意味の分からない、バカにした謝罪の言葉。間違いなくそう言ってから、トビの指が一本ずつ開かれた。
カツッ。
硬い床にプラスチックの落ちる乾いた音。ヒビでも入ったか、不安になる厭らしい音。
「あんたが驚かすから」
自分でも分かる、頬を引き攣らせたあたし。トビはニタァッと、ネバネバした笑みを浮かべる。
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