第20話:雨の日の夫婦
日に日に、加速度的に夏が遠くなる。ウェブマガジンのお姉さんは大丈夫だろうか。
会ったのは二日前だし、今日は来ないだろう。それでも大きく取られた窓へ目を向けると、たくさんの小さな水滴が付いていた。
雨。
そう言えば、午後八時過ぎにしてはお客さんが少ない。乾いた布巾を畳みながら、増えていく水滴を眺める。
それほど強くないけど、冷たそう。
曇りのない透明なガラス。その向こうは夜の闇。この一枚が、冬の蓋なのかなと思う。もしも割れれば、お店の中の暖かい空気が消えてなくなる。
なんて妄想は、入り口からの風鳴りで吹き飛ぶ。
入ってきたのは七十歳。いや八十歳くらいかもの、小ぢんまりしたおばあちゃん。「ああ驚いた」なんて言いつつ、ガラス扉を開けたまま押さえる。
旦那さんだろう。同じ年頃のおじいちゃんが、ムスッと唇を結んで続く。グレーのニットが、肩の辺りの色を濃くしていた。
ハンカチで拭こうとするおばあちゃんを「いい、いい」と邪険にする。そのまま店内を睥睨という感じで見回し、カウンターへ向かってきた。
「いらっしゃいませ。雨の中、ありがとうございます」
おじいちゃんはやはり機嫌悪そうに、全くの無反応でカウンター上のメニューを凝視した。もちろんあたしも、急かすなんてしない。
が。待っていると、小走りで追いついたおばあちゃんに場所を譲って腕組みだ。注文は奥さんの役目らしい。
「もう、ほんとにビックリしちゃった。雨なんて降るって言ってた? 天気予報」
「三十パーセントでしたね。冷たい思いをされたのに、お越しくださってありがとうございます」
「コーヒー屋さんよね? 雨宿りさせてね」
驚いたと言いながらも、おばあちゃんは楽しそうに話してくれる。どうしたってあたしまで「ええ、ごゆっくりされてください」と笑ってしまう。
「あら。横文字ばかりね」
「申しわけないです。よければお勧めしますが、コーヒーと紅茶、フルーツジュースや冷たい飲み物ではどれがいいですか?」
「コーヒー屋さんなら、やっぱりコーヒーよね。お父さん?」
好みは濃い味か、砂糖やミルクは入れるのか。問うたび、リレー式で投げかけられる。
すると声なく、アテレコするなら「うむ」という風に重々しい頷きが返る。横に首が動くことは一度もなかった。
「かしこまりました。恐れ入りますが、右手の受け取り場所でお待ちいただけますか?」
「自分で持っていくのね。こぼさないようにしなきゃ」
「申しわけないです。お食事はこちらで運ぶことになってるんですが」
言ったものの、厳守せよとはなっていない。新たなお客さんもないし、あたしが運ぶか。
そう伝えようとすると、おばあちゃんは「いいのよ」と。
「お父さんの口に入れる物は、あたしが運ばないとねえ」
「それは――ありがとうございます」
何なら、ごちそうさまですと言いたかった。
「でも、食事があるの?」
「あります。メニューのこの辺りが」
気づかなかったようだ。ショーケースにケーキやクッキーの類もある、と手で示す。
「和栗のパイって温かいの?」
「はい、ヤケドに注意いただかないといけないくらい」
「あらぁ、美味しそう。お父さん、お腹の具合いはどうかしら」
爛々と見開かれた眼がおじいちゃんへ向く。けれども返事は「減っとらん」だった。
「だそうよ。コーヒーだけでいいわ」
おばあちゃんのお腹は大丈夫か、気になる。でもそれは余計なお世話だ。
すぐに二杯の温かいコーヒーを用意すると、おばあちゃんは危なげなく持っていった。おじいちゃんは既にテーブルで、瞑想するみたいに不動の姿勢。
「
ヒソヒソと半笑いに、女の子の声。聞こえたのは、食事を調理する為の厨房のほう。今夜の担当は賀屋くんだけど、目の前に真地さんが立っている。
あたしが言われたのでなくて良かった。もし返事をするなら、そうかなあ? と疑問になるが。
だって、ほら。待っているおじいちゃんは、グレーのニットにベージュのパンツ。辿り着いたおばあちゃんは、ベージュのニットにグレーのパンツ。
奥さんに言われて、恥ずかしくても断らなかったのかな。なんて妄想が捗る。
あれ。おばあちゃんが席に着かず、どこかへ。お手洗いだろうと思ったら、やはりそうだ。
さて布巾の残りを畳もう――としたところで、おじいちゃんが席を立った。ズンズンと真っ直ぐ、むしろ慌てた様子でこちらへやって来る。
「す、すまんが。さっき母さんの言ってた奴、覚えとるかな。頼めるか」
「ええ、覚えてます。急いで用意しますね、ありがとうございます」
お手洗いのほうをチラチラ気にしながら、年季の入った革財布を取り出す。代金を受け取る前に、あたしは深々と頭を下げた。
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