第三幕:前へ前へ

第18話:きっかけの日

「出島さんのおかげです!」


 この気持ちは何だろう。唇がウズウズ、ムズムズして、まだ思い浮かんでもない次の言葉を伝えたくて仕方がない。


「いや俺は何も」

「しました。出島さんが自分のことを教えてくれたから!」

「それはきっかけで、実際は端居さんが自分で考えたでしょ」


 嬉しい?

 もちろんそうだ。だけど声のボリュームも抑えられないこの感情を説明するには、少し違う。


「違います、出島さんが気づかせてくれたんです!」


 自慢したい?

 これも間違ってはない。出島さんのおかげなのに、その当人に自慢なんて言うのは変だけれど。


「あ、あはは。ええと、それで具体的には?」


 前回、相談をしたのが九月の終わり。今日はもう、十月の十一日。これほど話したいのは、久しぶりのせいもきっとある。


「マニュアルを読んだんです」

「マニュアル? 仕事の手順とか書いてあるんだよね、たぶん」

「そうです。出島さんと話した後、朝までずっと」

「えっ、大丈夫?」


 お決まりで午前二時過ぎ、自動販売機の横にプラケースを重ねた椅子。腕を伸ばせば触れられる距離で、心配そうに彼の眉が寄せられる。


「大丈夫です。その後、ちゃんと寝ました」

「良かった」

「それで、探しました。どこにフォークリフトがあるかなって」


 出島さんの降ろし先で、必ず持ってきてくれるという人みたいに。誰かを手伝うには、手伝うだけの手間がなければできない。一人でできることに首を突っ込んでも、むしろ邪魔になる。


「カフェのフォークかあ。ナイフと一緒にじゃないだろうしねえ」

「え、ナイフですか?」

「いや、ごめん。何でもない」


 もう一度問いかけても、フォークリフトとナイフの関係は教えてもらえなかった。だけどこういう時、へへっと笑う出島さんは楽しそうだ。


「注文を受けたら、飲み物は基本的に自分で作るんですよ。食事は調理の人が居るし」

「じゃあ、それ以外かな」

「ですね。店長が作ったらしいんですけど効率的で、よく考えてあるなってあらためて思いました」


 ニコニコと「凄いねえ」なんて。そう言う彼こそ凄い人だ。あたしが必死に考えたことを、これほど自然にやっている。


「だから、書いてないことは何かなって探して、見つけました。使った食器とか調理具の片付けと、洗濯です」

「なるほど?」


 出島さんは斜めに頷く。カフェに入ったことがないという人が、頑張って理解しようとしてくれる。


「マニュアルには『洗い物用の流しに溜めておいて、お客様の途切れた時に最優先で』って。洗濯も『不足しないようこまめに』としか書いてないんです」

「ああ、うん。状況に合わせる余地を取ってあるんだね」


 打てば響くという言葉があるけれど、考えた人は天才に違いない。そうそう、そういう感じと共感ばかりだ。


「それで同じシフトの人が、どれくらいでやるのかなって観察して。次からちょっと早めにやるようにしました」

「めちゃくちゃ大変なことしてない?」

「いえいえ。こう見えても片付けは得意なんです」


 作るのと片付けるのとどちらが楽しいかというなら、作るほうだ。それはみんな同じはずで、だから片付けを率先する意味があると思った。


「そうなんだろうけどさ。同じシフトって、一人じゃないでしょ?」

「うーん、十人くらい」

「多いよ。それ全部のタイミングを計るって、物凄い才能だね」

「いえいえ、一度に居るのは一人か二人です。失敗が許されないとかでもないので、誰でもできます」


 話していると、自分がとても優秀な気分にさせられる。勘違いしないよう、違うよ違うよと言い続けるのがひと苦労だ。


「いやあ、凄いと思うよ」

「そんなことないです。それに、やりながら不安もあって。私が片付けをしたかったのに、って人が居たらどうしようとか」


 中には例外が居るかもしれない。するとまた、あたしが余計なことをした恰好になる。いい考えだと思いながらも、最初はビクビクしていた。


「居たの?」

「いえ。分かりませんけど、今のところ文句は言われてないです」

「じゃあ良かった」

「ありがとうございます。きっと、もう一つやってることのおかげと思いますけど」

 

 本当に意味があるのは、そのもう一つのほうだろう。ここまで話して「他にも?」と出島さんも首を傾げたが、片付けはオマケに過ぎないかもとさえ感じていた。


「どんなことにも必ずお礼を言うことにしました。何かやってもらった時だけじゃなくて、例えばお昼のシフトの人が帰る時にも」

「お疲れさま、じゃなくて?」

「お疲れさまです、ありがとうございましたって」


 自分が出勤してすぐは「ありがとうございます、おはようございます」だ。


「何のお礼かって聞かれるかと思ったんですけど、そんなことなくて。みんな、こちらこそとか答えてくれます。その場だけじゃなく、話しかけられるのも増えて」

「いいよね。何て言うか、報われた気がする」


 目尻を下げて、口角を上げて。でも真面目な顔で頷く出島さん。報われたのは今のあたしだ、何日か前までとカフェの空気が明らかに違う。


「――誇らしい、ですかね」

「え? ああ、そうだね。そんな気分になるよ、きっと」


 素直な気持ちを思い浮かべたら、知らぬ間に口を衝いていた。嬉しいのとも、自慢したいのとも違う。

 

「それで、あの。相談に乗ってもらったお礼なんですけど」

「えええっ! いいよいいよ、そんなの悪いよ。俺は何もしてないし」


 遠慮深そうな出島さんは、断るだろうと予想していた。だから渡す品物も言葉も、しっかり用意してきた。


「大した物じゃないですから。受け取ってもらえたら、お礼できたって私が納得できるってだけで」

「ええ……」


 顎と背中を引き気味の彼に、リュックから出した紙袋を押し付ける。うちのカフェのロゴ入りの、リボンも何も装飾はなしで。


「お店で使ってるコーヒー豆です。持ってるか分からなかったので、ドリッパーとフィルターも。店員価格と百均なので、遠慮しなくていいですよ」

「そんなにたくさん?」


 低めた声が、弱ったなと聞こえる。けれども仰け反っていた背中は少し、こちらへ戻ってきた。

 紙袋になかなか触れなかった手も、やがて観念したように左右の両方で抱えた。


「うわあ、いい匂いだね。豆のコーヒーって自分からは手が出ないんだよね」

「美味しいと思いますよ。お客さんから褒めてもらうのが、いちばん多いのなので」


 コーヒーを飲めないあたしには、唯一と言っていい選定方法。でも美味しくない物を、わざわざ言ってはこないだろう。


「ありがたく受け取るよ。誕生日に物を貰うなんて、何年ぶりかな」

「……誕生日なんです?」

「うん、そう」


 まさか誕生日とは。そうと知っていれば、もっといい物を用意したのに。言葉を失くすあたしをよそに、彼はへへっと笑った。

 誕生日と言ったのも無意識かもしれない。閉じた脚の上へ、紙袋の中身を取り出していく。小さな子が積み木でも並べるように。

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