第15話:陸の灯台
* * *
カフェを閉めた後の裏通りは、どうしてこんなに暗いのだろう。表の通りには街灯がたくさんで、夜通しで看板を照らしたままのお店もあるのに。
表と裏を繋ぐ道や、建物の隙間からも光が漏れ落ちる。それさえ、あたしの頭を飛び越えた遠くをしか照らさないが。
明さんが帰ってから、我ながらぼんやりがひどかった。何か壊したりはしなかったし、お客さんに失礼もなかったと思うけど。
――じゃあ、どうしたらいいのかな。
ずっと頭の中に、その問いだけが回り続ける。ちょうど目の前みたいに、何があるでもない暗闇へ投げかけるばかり。具体的に
歩きたくない。ここから鍵束を返しに行き、さらに自分の家までが遠すぎる。なんでそんなことしなきゃいけないの、とは言わずもがな。
分かっていても、踏み出す気になれなかった。プラケースを放り、蹴飛ばし、自動販売機の隣へ三つ重ねるのがやっと。
「明さん、ごめんなさい」
座って、迷惑をかけたことにブツブツと呟く。それも何だか自己弁護に思えて、膝を抱え込んだ。
もはややることは、アスファルトのヒビを視線でなぞるくらい。永遠に終わらないアミダクジよろしく。
そう言えば、これができるのは自動販売機の明かりがあるからか。消したらどれだけ暗いのか想像して、やってみたくなった。
まあ、そうなったら回収待ちの空き瓶に紛れるだけだ。明日の朝、業者さんが持っていってくれないかなとか取り留めもない。
「寒いなぁ……」
夜が寒くなってきたな、と思ったのが何日かあった。それがこの数日で一気に、凍えるくらいにまで冷えた。モコモコのセーターを着ていても。
寒い。動きたくない。ここで冬眠できないかな、などとまたバカなことを考える。
と。
スクーターの音が聞こえた。どこか遠くから、遠慮気味に一定の声量で鳴き続ける。
「あれ?」
自動販売機の作る、大きな光の輪。その真ん中に止まったスクーターから、背の高い男性が降りてくる。
胸から小銭入れを取り出し、飲み物を選ぶ前にあたしの居るほうへ視線を向ける。眼の上に手で庇を作りながら。
「やっぱり端居さん。寒くないの?」
「いえ全然」
「そう、さすが若いねえ」
何かいいことでもあったのか、心なしか出島さんの声が弾んでいる。どんな顔で見下ろしたか、逆光で見えないけれど。
一瞬の沈黙があって、飲み物を二つ買うのは口笛交じりだ。
「出島さんこそ、この前と同じ服装じゃないですか」
「そう思うでしょ。でもこの下、前はナイロンのランニングだったんだけど。今は綿百パー」
「下着ですよね? そんなに違うんですか」
胸元をちょっと広げて見せてから、「どっちがいい?」と缶を二つ差し出す。たぶんホットの缶コーヒーと、アップルティー。
「そんなに何度も奢ってもらえません」
「いいのいいの。何を買うか考えてたんでしょ? 余計なお世話してごめんね」
言われてみれば、飲み物を持っていなかった。これでは買ったついでに寛いでいる、という言いわけもできない。
「そんなこと。あ、ありがとうございます」
アップルティーを受け取ると、出島さんは自分でプラケースを取りに行った。「借ります」と無人のカフェに断って。
先日と反対の位置。同じ距離で並び、揃ってカシュッと缶を空けた。
「大阪の降ろし先がね、山の中にあるんだよ」
「え? ええ」
「広い土地が要るから、安くていいんだろうね。だから田舎道というか山道を、けっこう走る」
急に何の話かと思ったが、きっと世間話的なものだ。
助かった。普段ならともかく、今のあたしは何を話していいか思い浮かばない。
「心細い感じですね。お化けでも出そうで」
夜、街中にそういう怖さはない。でも出島さんの言うような、山の中に一人は嫌だ。
「出そうだね。実際、何度も通った道なのに『まだ着かないんだっけ?』ってなることもあってさ。いやたぶん霧のせいとか、ちょっと疲れてたとかなんだけど」
「危ないです。大丈夫ですか?」
目的地が分からなくなるなんて、相当ではないだろうか。ヘタなお化けより、よほど実害がある。
眉を寄せると、彼は頭を掻いた。
「うん、ありがとう。一応プロだから、ヤバいなって時はすぐ止まるようにしてるよ。そうでなくても、定期的に休憩するし」
「いえ、すみません。運転のこと分からないのに」
へへっと笑った出島さんの首が、左右へ振れる。
「そんなことないよ、休憩は大事。降ろし先の手前に自動販売機があってね。ヘッドライト以外はどこを向いても真っ暗闇だよ、その明かりがまあまあ遠くから見える」
彼の指が、こんな風にと目の前の自動販売機を示す。長くまっすぐと言え、この裏通りとは距離感がまるで違うだろうに。
「ああ着いたって。航海を終えた船乗りが、灯台を見つけた時はこんな気分かなって思うよ。すぐ上陸して、コーヒーなんかグビグビ飲んじゃう」
「何となくですけど想像はできます。ホッとできるでしょうね」
また、出島さんは「へへっ」と笑う。
「うん、そう。あれから帰りが遅かったり早すぎたりしたんだけど、端居さんの悩みは解決したかなって考えてた」
「
「何の参考にもならないだろうけど、色々言っちゃったから」
遠くまで行って、あたしの相談を気にかけてくれたらしい。友達のことと、ごまかして言ったのに。
忙しくて疲れて、さあ家に帰ろうってところで。あたしが居ないか探してくれたのかもしれない、さっきもそうだったように。
「実は、ちょっと失敗しちゃって」
「えっ。そうなの?」
出島さんってどんな人かと誰かに問われたら。いつもふんわり笑っている、と答える。
その彼が眉間に皺を寄せ、唇を噛み、あたしを覗き込んだ。
「出島さんのせいじゃないですよ、全然。私がきちんと考えなかったから」
「いや、でも、ええと……聞いても良ければだけど」
何があったか。頷き、話した。あたしがどんな候補を挙げ、補充とテーブル磨きを選び、明さんに注意されるまでを全部。
「そうかあ」
聞き終えた出島さんは、コーヒーを三口飲んでから言った。きっと何か考えながら、照らされたアスファルトを眺めて。
「昔、アルバイトしてた時のタイムカードが三十分刻みで、半端に二十分くらいで帰そうとする人は嫌われてたなあ」
それはあたしに言ったはずだけど、遠くの誰かへの言葉にも聞こえた。
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