第7話:相談の相手

 台所に掃除機をかけ、出しっぱなしの食器やコーンフレークの袋を片付けて拭き掃除。それからお風呂にカビ取りの洗剤を撒き、トイレを磨いてからのお風呂掃除。


 不倫の噂のこと、話したほうがいいかな。そのまま言うのもなんだし、友達の相談ってことで。

 二時間がかかったのは、そう考えながらだったのとは関係ない。二ヶ月近くの放ったらかしをリセットするには、普通に必要な時間だった。


 汗だくで終わって、そのつもりで着てきたTシャツを替え、顔を洗ったところで賑やかしく玄関扉が開く。


「ただいまぁ」


 くるくるパーマが鳥の巣に見える母は、機嫌良さそうだ。


「ケーキ食べる? ケーキ」


 一切の物が排除されたテーブルに、パンパンに膨れたエコバッグが載る。

 一番に取り出されたのは、言う通りのショートケーキ。母の勤めるスーパーでない、ドラッグストアの四割引きシール付きの。


「お昼は?」

「食べてない。穂花、作ってよ。オシャレカフェのランチ」

「はあ、いいけど」


 あたしは調理担当でない。とは何度も伝えたはずだが、会うたびに言われる。

 まあオシャレランチと言ったって、レトルトのパスタかドリアに卵黄を落としたりすれば母は喜ぶ。


「痩せたんじゃない?」


 ズルズルと、母にだけラーメンを出したかなと思う音。麺の端をちゅるっと吸い込みつつ、これまた毎度おなじみの問い。


「量ってないけど、そんなことないと思うよ」

「そう? ご飯、ちゃんと食べてんの?」

「食べてる。お店の食べ物がおいしすぎて困るくらい」


 心配をしてくれるのは分かる。だからぞんざいにしたくもないのだけど、とうに返答のバリエーションは尽きた。答えてから、前に同じこと言ったなと恥ずかしくなった。


「それならいいけど」


 微笑み、頷いた母が次のひと口を啜る。しかしすぐに、「でも」だ。


「やっぱりウチに帰ってきたら? この辺にも似たようなお店あるでしょ」

「高校から通ってたらね、愛着あるの。だいいち帰るって、大翔ひろとが嫌がるよ」


 弟の名を出し、その居城に目を向ける。さすがにこれには、そんなことないとは言われなかった。あたしだって弟の立場なら、また狭くなるのは嫌だ。


「だって穂花、十八ですぐ家を出るとかね。会社の寮にでも入るって言うなら安心だけど」

「うーん、そんなに珍しくないんじゃない? それに一人暮らし、楽しいよ。さっきも言ったけど、あのカフェに愛着あるし」

「そうなの?」


 どれに対して、そう・・なのか。お箸を持つ手も止まらず、納得のほどが分からなかった。さらに続くかなと身構えたが、母の次の声は「おいしい」だ。


「大翔は?」


 あたしの皿が空になるまで黙っていたが、母も黙々と食べ進めた。やはり、あたしの件は終わったのだろう。

 噂について話すにも、どうにも間が悪い。他に何でも良かったが、弟について聞いた。毎日、通勤以外の事件のない父よりは変化があるはず。


「学校行ってる」

「そうだろうけど。変わったこととかないの? 面白い話とか」


 無茶振りではある。明さんなどに言えば、穂花ちゃんには鉄板ネタがあるってこと? なんて反撃を食らうに違いない。

 そういう楽しい丁々発止は母との会話にあり得ないし、持って回っても仕方がなかった。


「面白い? うーん。あ、そうだ。この間ね、大翔の勤める会社の人が来てね」

「え?」

「ほら、社会人チームの。お気遣いなくって言ってるのに、お菓子持ってきてくださって」


 戸惑うあたしに気づかず、母はお菓子の箱を取りに立った。水屋に押し込まれた箱は潰れていて、当たり前のように中身もない。

 いや、それはどうでもいい。大翔の勤める会社って何? 弟はまだ高三だ。


「このお菓子がね――」

「ちょ、ちょっとごめん。何、大翔ってもう就職したの?」

「ええ? 卒業してからって言ってるでしょ」


 聞いてない。


「ええと。バスケの社会人チームのある会社に内定してて、その会社の人が挨拶に来たってこと?」

「そうそう、それでね」


 どう考えても初耳だった。弟がずっと好きで続けてきたバスケットボールで認められたのは嬉しい。しかも就職となるとなおさら。

 でもなんだか、良かったねおめでとうとすぐには言えなかった。持参されたお菓子が母の知り合いのお店だとか、その話にも笑ってあげられない。


「……良かったね」

「そうよ、楽しい人だった」

「じゃなくて、大翔の就職。あたし知らなかったから、お祝い何もしてない」


 言わなかったっけ、ごめんね。とでも笑ってくれれば、あたしも笑えたのに。

 悪気がないのは知っている。母はあまり、物ごとを深く考え込むタイプでないから。


「いいのいいの。卒業したら、みんなでご飯でも食べに行きましょ」

「うん、いいね。あたしも嬉しい。大翔が頑張れるように、部屋を譲った甲斐があるよ」

「そうねえ。大翔、ほんとに頑張ってるもん」


 本当にいつも通りの母。母は何も悪くない、ただタイミングが悪かっただけ。

 ふと気づいたフリで、椅子にかけたリュックを引き寄せる。スマホを取り出し、誰からも連絡のない画面を見て言う。


「あ、ごめん。お店の人が用があるみたい」

「えっ、電話?」

「ううん、ニャイン。今からすぐ戻らないと」


 椅子を立ち、「食器洗わなくてごめんね」と玄関へ向かった。


「帰ったばっかりなのに」

「ごめんね」


 慌てて追いかける母が、しゅんと肩を窄める。そんな顔をされても、今さら嘘でしたとは言えない。

 手を振り、さっさと玄関を出る。急に鼻水が出そうになって、力いっぱい啜った。


 明さんからも連絡ないしな。

 ニャインの明さんのアイコンを叩いても、新しいメッセージはない。直近は十日前、買い出しを頼まれた時の。

 すぐには解決できないかもと言っていたし、それはそうだと思う。

 何より今、いちばんショックを受けているのは他ならぬ明さんだ。いちいち相談なんてできない。


「誰か……」


 聞いてくれる人は居ないだろうか。カフェと関係なく、家族以外でとなると全く候補が居なくなる。

 誰でもいい、経験豊富な大人なら。

 階段を駆け下りる。と、目の前にコンテナ付きのトラックが止まっていた。


 出島さんか。贅沢は言わない、あの人でもいい。

 誰かに聞いてもらいたかった。

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