第6話:家に帰りたい

「あの童顔でさ、よくやるわ。店長と不倫はいいけど、バレてもまだ居残るとか恥ずかしくない?」


 あたしにしか当てはまらない話題がくっついているし、あたしのことだろう。

 そんなに言われるほど童顔なのかな。自分では普通と思う。お客さんにも言われたし、傍から見ればそうらしい。


 ——なんて、何でもないフリをしようとしたが無理だった。突然この通路だけ酸素を抜かれたみたいに、息が苦しくなる。


「その話ってほんと? ハシイさん、そんな風に見えないけど」

「じゃなかったら、こんな急にシフト変わる?」


 怪訝に聞く賀屋くんと、クスクス笑いを堪えられない真地さん。

 あたしは胸に手を当て、酸素を求めた。水面でパクパクとやる魚の心境が分かる気がした。


 扉まで一センチだった耳を離し、店長室へ後退る。ゆっくり、ゆっくりと。

 やることなんかないのに、事務机の引き出しを開けてみたりして。入っていたメモ書きに文字を加えるフリをしてみたりして。


 あたし、何やってんの。


 一歩退がったところから、冷静に言う自分の声を聞き流す。鏡なんか見なくても、顔が真っ赤と分かっているのに。ううん、真っ青かも。


 机の端の目覚まし時計を盗み見る。

 まだ三分しか経っていない。

 まだ四分。

 まだ四分三十秒。


 七分を過ぎたところで限界が来た。もう話題も変わっているはず、と決めつけて事務椅子から腰を上げる。

 居たら居たで、先に外へ出ていよう。覚悟を決め、息を止め、休憩室の扉に手をかけた。

 ガラッと勢い良く開ければ、そこに誰の姿もない。


「ふう……」


 ため息と一緒に声が出た。ホッとしたような、ただ気怠いだけのような。

 念の為に更衣室の中を見て、カフェの裏口を出る。鍵をかけ、警備システムを作動させて、やっと終わり。


 すぐ家に帰って、寝転びたい。だけどそれには二十分ほど歩かなければ。

 となるとここから動きたくなくなった。閉じた裏口に背中を預け、暗い裏通りを見るともなく。


 自動販売機の背中に、プラケースが積んである。店で使った空き瓶を回収に出す為の。

 三つを重ねて取り、自動販売機の横に置いた。座るのにちょうどいい高さだ。

 昼のシフトでも、嫌なことがあった日にはこうしていた。裏通りに唯一の明かりを、すぐ外側で眺める。


 車の音が聞こえないな。

 カフェの建物の向こう。午後七時過ぎなら、ひっきりなしの往来がある。ある種BGMのように聞こえていたのにと残念に思う。もちろんスクーターの音も聞こえない。


 ああそうだ、今日もお向かいの運送屋さんを見なかった。

 光の端がようやく金網を掴むくらいで頼りない。別に興味もなかったが、見えないとなると見たい気がした。


 背中を丸め、自動販売機より前へ顔を突き出す。昨日スクーターのやって来た方向には、闇が満たされているだけ。

 立ち上がり、自動販売機の前で財布を取り出す。悩むこと数十秒、いちばん小さな缶コーヒーのボタンを押した。


 周りの迷惑も考えず、ガタガタと賑やかに缶が落ちる。手に取ると、昨日より熱くない。迷わず蓋を開ければ、店とは違うコーヒーの香りが立つ。

 匂いは好きなんだけど。

 胸いっぱいに吸い込み、息を止め、コーヒーを口に含む。火傷の心配はなさそうだったので、三口、四口くらいも流し込んだ。


「まず……」


 今なら飲めると思ったのに。口いっぱいにした泥水を、ほんの数滴ずつ喉へ送った。

 何か気を紛らわせないと、飲めたものじゃない。またプラケースに座り、スマホを取り出す。

 ――あれ、お母さん。

 通信アプリのニャインのアイコンが出ていた。


〈今月は帰ってこないつもり?〉


 メッセージはそれだけだ。言う通りに今月は実家に帰っていないし、帰るつもりもなかった。

 何か用事でもあるような口ぶりだけど、それならどんな用かも書いてくれればいいのに。たぶん、用事というほどの何ごともないだろうけど。


〈ちょうど明日、休みだから帰るね〉


 しかし感謝の印に返信をした。

 さて自分の家に帰ろうか、と思えるくらいには気が紛れた。母のおかげかコーヒーのせいか分からないが。


 * * *


 翌日、午前九時過ぎに家を出た。電車で四駅を移動し、実家まで約一時間。

 元の色が分からないほど雨染みで汚れた団地の四階。当然にエレベーターとかいうブルジョワな乗り物もなく、階段で降りてくる人に対面すれば「こんにちは」と壁に張り付いて避ける。


 午前中、母は近所のスーパーでパートのはず。重い金属の玄関扉を、合鍵で勝手に開けた。

 入ってすぐが台所の板間で、ぐらぐらと危なげな脚のテーブルがしつこく健在だ。昨夜はお鍋で、今朝は菓子パンだったらしい。


 両親の部屋の襖を開けたが、やはり居ない。布団が二組、くしゃくしゃに壁際へ追いやられ――片付けられている。

 畳み直したくなったが、やめた。ピシャリと音を立てて襖を閉じた。


 お風呂やトイレを除けば、残る部屋は一つ。襖を開ければ、バスケットボールのユニフォームやポスターなんかで壁が見えない。

 元は弟との二人で使っていたが、もう家を出て五年になる。あたしの痕跡がないのは仕方のないことだ。

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