第4話:十人十色
カフェの表は、片側に二車線の広い通りだ。この時間ともなると走る車もほとんどなくなり、渡るのに何の気遣いも必要ない。
貰った缶コーヒーを、リレーのバトンみたいに振って歩く。何となくもういいかなと思えて、今日は自分では買わなかった。
プリントアウトされた地図を手に、十分ちょっと。聞いていたレンガ色のビルが見えた。
七、八階建てで、周りに似た高さのビルがたくさん。大小様々な一戸建ても並ぶ、どこにでもありそうな住宅街。
このビルの隣とかじゃないよね。
念の為に一戸建ての表札を見たが、目当ての苗字は書かれていない。
レンガ色のビルに入ると、おそらく全戸分の郵便受けが一階に固めて設けられていた。その中に育手の文字を見つけ、部屋番号もメモと突き合わせ、鍵束入りのポーチを落とす。
「ふう」
オートロックなどはないけれど、郵便受けの一つずつが頑丈な扉と鍵で閉ざされている。
やっと肩の荷が降りた。さて、あたしの家はどっちだっけ。軽くなった足で、だいたいの方向へ歩いた。
また、およそ十分。見慣れたライオンパレスのアパートに帰り着く。
「あ」
そう言えば、ラブホ通りの前を歩かなかった。縁のない場所だけど、だからこそかもしれないけど、いつも妙な緊張感がある。
もう嫌な噂を立てられることもなくなるし、少し長くなった帰宅経路もお得な気がした。
玄関を入ると、真っ暗だ。誰も居ないのだから当たり前で、そうでなければむしろ怖い。
でも変な人が潜んでいたら?
うっかり妄想して、慌てて照明を点けて回る。きっとあの、出島さんのせいだ。
結局あの人は何だったのだろう。あたしを中学生と見間違えたと言ったけど、ただの言いわけかもしれない。
缶コーヒーをローテーブルに置く。まだほんのり温かく、おかげであたしの手はぬくぬくだ。
しかし出島さんの手はもっと熱かった。手のひらに触れた缶コーヒーに負けないくらい手の甲も、と言うと大げさだろうけど。
「まあいいや」
悪口めいたことを考えるのが嫌で、切り捨てた。
これまで七年勤めて、初めて会ったのだ。もう会わないに決まっているし、会うとしてもまた七年後に違いない。
――翌日。
ほとんど悩んだことのない、着ていく物に二時間くらいを費やした。出島さん自体はどうでもいいが、もう少し年相応に見られなくては。
最後に姿見へ映ったのは、長袖ニットと膝上キュロットのあたし。なんだか知らない英単語入りのキャップをかぶり、これで完璧。
髪が短いせいかもね。
肩まで届かないショートカットを撫でつつ職場へ向かう。道々に美容院が幾つもあるけど、髪を長くしてくれる店はない。
毎度バカなことを考える。自分に苦笑しているとラブホ通りに差し掛かった。
明るい時間のラブホ通りは、暗くグレーの一色に染まっている。歩く人もなく、たまたま入っていく車が水底へ沈むように見えた。
逸らした視線の方向に困って、足元に落とす。三人で並べる幅の歩道を、通りとは反対の側へ距離を取る。
* * *
「あら今日も明ちゃん居ないの?」
「申しわけありません、二号店の応援に行ってまして」
昨日も幾らかは居たが、今日はもう数えるのも飽きた。明さんの不在を問うお客さんが、あまりにも多い。
女性も男性も、歳の頃もおよそ万遍なく。
「チーフさん、しばらく来れないんですか?」
「詳しくは聞いてないんですが、そうかもしれません」
「そうかあ。でも、ええとハシイさん? も、可愛いですね」
胸の名札を見て、そんなことを言うのは若い男性ばかり。明さんがイケメンなのはその通りだが、目当てに来た人がどうしてあたしもなどと言うのか。
見え透いた言葉を嘘だと言えるはずもなく、「あははは」と笑ってごまかす時間がつらかった。
ただ考えようで、常連と自己申告してくれるようなもの。顔と目立つ持ち物を、なるべく目に焼き付ける。
「お客さま、昨日も同じご注文でしたね。お好きなんですか?」
「え? ええ。ここのシナモン、よく効いてて。よそのだと本当にかかってるのって思っちゃって」
午後八時。遅番の同僚達とほぼ同時、図面ケースを担いだパンツスーツの女性客がやって来た。
「なるほど。カスタードシナモンコルネ、私も好きなんです。生クリームかチョコパウダー、無料で増せますけど」
「えっ、いいの?」
注文するのも別の何かを考えながらの風で、録音を聞かされている感じがした。しかし話せば笑ってくれたし、生クリームと聞いてぱあっと花が咲いた。
「……うーん。でもやめときます」
「そうですか、いつでも言ってくださいね」
「今度! 今度、お昼に来ます。その時に!」
断腸の思いとは、で検索したら出てきそうな顔。そこから必死に目を瞠り、唾を飛ばさんばかりに宣言する。
そんな予約とか要らないので「はい、いつでも」と、思わずあたしまで嬉しくて笑ってしまう。
まあこうやって、そのお客さんごとに合わせた会話はなかなか難しい。昨日、今日と続けて来て、何かしら印象に残っていなければ。
行列というほど並ぶことはなく、同僚と雑談する暇は皆無。そういうペースの中、毎日一人でも話せるお客さんが増えればいい。
やがてぽつぽつと、午後十一時ころになると空席が目立ち始めた。もちろん新たに来店するお客さんが全く途切れるわけでなく。
ようやく今日初めての同僚と、会話の余裕もできる。顔と名前くらいは以前から知っているけれど。
「ええと
「聞いてますぅ。だから補助しろって言われてたんですけど、必要なさそ」
「そんなことないよ。今日も助けてもらってばかりだったし、これから色々教えてね」
お世辞ではなかった。ふわふわの金髪を無理やり一つ縛りにした彼女は、お客さんが帰った後の片付けが異様に素早い。
任せきりみたいになって申しわけなかったけど、「マジです?」と、にこやかに応じてくれてひと安心だ。
今ここに居るいきさつはともかく、なんとかやっていけそう。
もう一人の男の子のことでも聞こう。そう思った時、お客さんの側から大きな声が響いた。
「あんたそれ、ネトラレじゃん!」
カウンターの正面、窓側の席。少し前に来店した、三十歳くらいだろう女性の二人連れ。
店じゅう、どの席でもうるさくないはずがない。何人かはあからさまに睨みつけた。
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