第3話:逃走

 なんで?

 歩く速度のスクーターから、あたしは見えないのか。震える後ろ歩きでは、距離が縮まるばかりだった。


 強盗? ひったくり?

 そう思うなら、とっとと逃げるべきだ。分かっているのに動けない、視線を切るのも怖い。


「ひ……!」


 いよいよ目の前。自動販売機の明かりをスポットライトみたいに、スクーターは止まった。ヘルメットの中は見えないけれど、こちらを見ているとは分かる。

 あたしは喉へ何か詰められたように、悲鳴も出なかった。傍から見れば、ただ突っ立っているだけだったろう。


 ヘルメットの誰かがスクーターを降りると、頭一つ見上げる背丈。まあまあ体格のいい男性と、ひと目で分かる。

 やはりあたしのほうへ顔を向けつつ、懐へ手を突っ込む。何が出てくるんだろう。想像できないし、したくもない。それでもまぶたを閉じきれず、背けつつの薄目で見る。


 と、出てきたのは小銭入れ。革の茶色がまだらに使い込まれた、たくさん中身の詰まっていそうな。

 男はそのまま自動販売機へ向き、飲み物のボタンを押した。


 ――普通に買い物ですか、そうですか。

 たぶんここまでサッと来たかったのに、あたしが居たからゆっくり来たのだろう。

 強盗、ひったくり。あちこち強張った身体から力が抜け、巡った血液が顔を熱くする。


「あの」


 さっきまでと違う意味で、呆然と立っていた。すると二本目を買った男が、またあたしのほうへ向き直って声をかけた。


「は、はいっ」

「ええと。おじさんは、そこの運送屋の出島でじまって言って、怪しい者じゃないんだけど」

「は、はい?」


 なんだか色々驚いて、言葉が出てこない。出島と名乗ったおじさんは、「ほら」とヘルメットのシールドを開けた。

 とろんと眠そうな、疲れた雰囲気の眼。小ジワや白髪なんかは見えないけれど、肌の感じが中年を感じさせる。

 怪しくない保証には、まるでなっていないが。


「そこ、って」


 出島さんの指が向く先、道路の対面に高い金網がある。ずっと見慣れた景色の一部ではあるが、囲われた中が何かとは考えたことがなかった。

 アスファルト舗装された広い敷地らしい。今は真っ暗で、細かくは分からないけれども。しかし大きなコンテナのトラックが何台か、かすかに見える。


「運転手さん、ですか」

「うん、そう。いや、ごめん、ダジャレじゃなくてね」


 言った当人に苦笑されても、どこがシャレになっていたか首をひねった。

 さておき、改めて出島さんを見る。ナイロンのウインドブレーカー。開きかけの胸元へ、作業着らしき青い襟が覗く。

 どちらも年季が入って、生地が薄い様子。そう気づくと、細かなシミがたくさんあるのも目に入った。洗濯はしないのだろうか。


「ええと、その。それで?」


 強盗ではないかもしれないが、じゃあ一体あたしに何の用が。リュックを抱える腕に、知らず力が入る。


「え? ああ、そうそう。こんな時間に大丈夫かなって。迷子とか困りごとなら、交番まで一緒に行ってもいいし」


 自身で腕時計をたしかめつつ、あたしにも文字盤を見せる。

 もうすぐ二時半。初めての閉店作業で手間取り、遅くなったのは間違いない。が、出島さんの言い分はどうも変だ。


「いえ迷子って。さっきまで仕事をしてて、帰るところですよ?」


 自分をおじさんと呼んだり、あたしを子供扱いしているような。

 すると誘拐? いやいや。いくらなんでも二十三歳の大人に、まさか。


「仕事……?」


 疲れた眼が、大きくまばたきを繰り返す。何やら情報の整理が行われている様子の間が十数秒。「アルバイトとか?」と絞り出した出島さんは、眉間にシワを寄せていた。


「まあ仰る通りにパートですけど、成人してます」

「えっ」


 濁点付きの驚きの声。やはり未成年と勘違いされていた。

 カフェの大人っぽい制服を着ていても、高校生かと言われることはある。今は私服で、トレーナーとショートパンツ姿。

 おしゃれなつもりなのに、子供っぽいのかな。


「すっ、すみません! 中――高校生かと思って! し、失礼しました!」


 張り上げた出島さんの声が、夜の街にこだまする。だけでなく彼は、勢いよく頭を振り下ろした。ヘルメットの重さによろめきながら。


「い、いえ。心配してくださったのはありがとうございます」


 ちょっと待っても頭を上げそうになかったので、お礼を言った。きっと中学生に勘違いされたのはショックだけれど、怒ることでもない。


「とんでもない、本当にすみませんでした!」


 思惑通り、出島さんの上体が起きる。その途中、流れるように「これどうぞ」と、あたしの手へ缶を握らせながら。

 さっき買っていたうちの一本に違いない。とても熱くて、背筋をビクッとさせてしまった。


「いや、あの」


 呼び止めようとしたが、出島さんは素早くスクーターを走らせる。あっという間にすぐそこの交叉点を曲がって、見えなくなった。


「あたし、コーヒー飲めないんですけど」


 変な人だ。押しつけられた缶コーヒーを見下ろし、笑うに笑えない。

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