第2話:深まる夜に

 休憩時間が終わり、仕事に戻っても。次の日も、その次の日も。不愉快なこと・・・・・・はなかった。

 けれども三日後、その時が突然にやって来た。おそらく明さんが言ったのとは違う形で。


「ハシイさん。無理言って悪いんだけど、夜のシフトに移ってくれない? 夕方から閉店まで」


 厨房内。他の同僚も居る中、にこやかに言ってのけたのは店長。

 明さんの居ない日だった。


「えっ。私、朝からしかやったことないですけど」

「平気だよ、特に変わらないし。強いて言えば鍵締めもやってほしいって、それだけかな」

「はあ……」


 明さんより、さらに五つくらい上だったと思う。だから三十過ぎの、その割に子供っぽい可愛らしい笑みで簡単そうに言ってくれる。むしろ染めたのかという黒々した短髪がよく似合っているけれど。


「夜は都合悪い? 門限とか、習い事とか」

「いえ、そういうのはないですけど」

「じゃあお願い。二号店がまだまだ回らなくて、こっちを頼めたら助かるんだよ」


 オーナーでもあるところの店長が拝む。新規開店して一ヶ月ほどの店が忙しいのも分かる。けど、どうしてピンポイントであたしに?

 別の意図もあるのかなとか考えると、どうしても断るだけの理由が思いつかなかった。


 断らない。

 それなら、と笑って頷く。


「分かりました」

「やってくれる? ホント助かるよ、感謝!」


 細い腰を二つに折り、柏手のごとく手を打つ。またニッと笑った店長の、こういうところをうまいなあと思う。


「いつからですか?」

「明日から。とりあえず明の夜シフトのとこへ、そのまま入ってくれたらいいよ」


 それはまた随分と。

 さすがに面食らい、ひと言くらいは何か言いたくなった。でも都合が悪いかと問われれば、やはり何もない。

 結果。歯切れ良く、元気も良く「はいっ」と答えた。するとすぐに閉店手順の説明が始まった。


 * * *


 翌日。言われた通り、午後四時に出勤した。

 シフトを移っての初日は、あまりお客さんの入りが良くなかった。それでも午前一時の閉店時間を迎え、三組ほどが残る。


 誰もの話し声が聞こえるけれど、どんな言葉かまでは分からない。同じくらいのボリュームで、ジャズと融け合う。

 深い木の色と、和紙を貼ったような黒。人間を除けば、四十席余りの店内をほとんどその二色が占める。

 お客さんにとってまだ必要なはずの、この落ち着いた空間の終了を告げて回った。


 作業着やスーツ姿で、やっと仕事終わりの雰囲気の男性達。平日にデートをできる身分らしい男女。

 青年から初老の頃まで様々の顔に、見覚えは一つもない。


「ご歓談のところ、申しわけありませんが」


 と断る瞬間、少しの緊張が走る。もうちょっといいじゃないか、などと言われたら何と返そう。

 昼間のシフトでも、名前まで知っているお客さんはほとんど居ない。しかし常連さんの好きなメニューや、おそらくの職業くらいは分かる。


 例えば近所の歯科助手さんがこの場に居たら、貴重な読書時間を邪魔してごめんなさいとあたしは言う。

 するときっと慌てて腕時計をたしかめ、「こちらこそ長々と」なんて笑いながら、読んでいた本の表紙を見せてくれるはず。

 幸いにどのお客さんも、快く腰を上げてくれた。またのお越しをと見送りつつ、透明のガラス扉を出ていく背中の一つずつに問う。


 こんな時間にどうしてここへ?

 どこでどんなことをしている人ですか?

 どんな言葉をかければ笑ってくれて、それとも怒らせてしまいますか。


 なんて、面と向かっては聞けない。来てくれるたびに少しずつ、盗み読まなければ。

 またうまくできるかな。期待か不安か自分でも仕分けられない気持ちを、わざと強く吐き出す。


「ふうっ!」


 ――それから一時間くらいの後、再び同じような息を吐いた。今度はカフェの裏口を閉じた外で。

 警備会社の装置は作動させた。新たな同僚達が帰ったのも確認した。厨房の火元も消した、はず。

 メモに従って間違いなく閉店作業を終えたのに、裏口の扉へ背を向けられない。


「どしよ……」


 何か一つでも見落としていれば火事になるかも、泥棒に入られるかも。もう一度、施錠もセキュリティーも解除して見回るか。

 いや、そんなことをしていたら帰るのがどんどん遅くなる。大丈夫、指さし確認までした記憶がしっかりあるのだ。


 金庫の鍵も付いた束を、リュックのポケットに収める。合皮の蓋の金具をパチリと留めると、少しは落ち着いたような気分がしてきた。

 あらためて警報装置の作動ランプを指さし、「よし」と離れた。


 カフェの裏を走る道路まで、ほんの五、六歩。敷地とを隔てる柵などなく、明確な境界も分からないのだけど。

 唯一あるとすれば、隣のバイク屋さんと肩を組むように置かれた赤い自動販売機。裏の道路を直に照らす、唯一の明かりでもあった。

 仕事終わりに必ず一つ、何か買うのが癖になっている。


「寒っ」


 ここ数日、夜が寒いと感じるようになった。遅くなればますますだ。でもホットの商品はコーヒーしかない。リュックをお腹に抱え、財布を取り出した恰好のまま、悩むこと数十秒。

 右手から眩しい光が射す。横目に見ると、スクーターがやって来るらしい。


 道路の端、あたしの立つ側を舐めるように。センターラインこそないものの、自動車がすれ違うのも余裕の道幅があるのに。

 速度もいやにゆっくりで、このまま進めばぶつかるコース。

 避けてくれるよね?

 黒いヘルメットに黒い上着。鍵束入りのリュックと財布をきつく抱きしめ直し、後退った。

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