夜道の自動販売機は背中を照らす
須能 雪羽
第一幕:夜道を照らすのは
第1話:火のない所にも煙は立つ
「ねえ
事務机の向こう、金庫との間。ちょうど回転できる隙間の事務椅子へ、
濃い茶のワイシャツ、黒いタイトなパンツ。高い背丈に引き締まった長い手足が、あたしが着ているのと同じ制服とは別物に思わせる。
琥珀色のベリーショートで、煙草でも吹かせばハマる感じに頬杖を突く。実際は明後日のほうの壁を眺めながら、コーヒーのカップを短く傾けた。
「ヤった、って」
あたしの勤めるカフェのチーフ。店長の奥さん。この店で唯一、
休憩はいつも、人数の都合で一人ずつ。それを一緒にとろうと言われた。しかも休憩室でなく店長室で、扉を閉めるなり顔を顰められた。
この場合、ヤったとはどんな言葉が代入されるのだろう。
「そ、そんなことあるわけ……」
導き出した答えに声が萎む。
同時に、なんで? と水平に首を振る。何度も。
店長とは店の外で会ったことさえないのに、どうしたらそんな疑いがかかるか。心当たりがなさすぎた。
「そうよね」
「え?」
「ありえないって、私も思った。でももう噂になってるみたいでさ、穂花ちゃんに聞かないわけにもいかなくて」
明さんの、いかにも不愉快な眼は変わらない。でも疲れたため息のような、ちょっと笑い飛ばすような鼻息を噴く。
それは大クレームをつけたお客さんが帰った後とか、あたしには見知った表情。
「えっ。あの、そんな簡単に信じていいんです?」
「なに、ヤったの?」
「や、ヤってません!」
「じゃあ信じなきゃ、穂花ちゃんが困るでしょ」
それは困るが、疑いの中身が中身だ。明さんの性格を知っていても、さすがにと思う。なにしろ無実の証拠もないのだから。
「はあ、ありがとうございます?」
わぁい、信じてもらえた。なんて素直に喜んでいい場面でないはず。
どう答えたものか慎重に言葉を選んでいると、今度こそ「フッ」と鼻先で笑われた。
「明さん?」
「だいじょぶだいじょぶ、本当に疑ってないから。穂花ちゃん、興味なさそうだし」
「興味って」
男女の良くない関係にか、店長にか。前者へは全くで、後者もあまり——と言っては悪口になる気もする。
「七年だっけ? もう短い付き合いでもないしさ、穂花ちゃんのことはある程度知ってるつもり」
そんなにか。あたしが高校二年から働き始めて、二十三歳の今。言われて指折り数えると、たしかにピッタリ合う。
「それでもラブホ通りで見たって、わざわざご注進いただいたらね。白黒はっきりさせとかないと、穂花ちゃんの為にもならないし」
「ラブホ通りで? 私と店長がですか?」
このカフェから歩いて十分ほど。川沿いを折れた横道に五、六軒のラブホテルが並んでいる。ドライブの終わりにちょうどいいのかなと想像くらいはできるが、あたしには縁のない施設。
ただその近くは、頻繁に歩く。だからと店長と二人でなんてあるわけが……
「あ」
一つ、希薄な記憶に行き当たった。意図せず漏らした声に、威圧の失せた明さんの視線が向く。
「どした?」
「いや、ええと、会いました。通りの向こう側で」
「へえ。いつ?」
「半月くらい前です。仕事の後、家に帰るのにあの通りの前を過ぎるので。それでちょっと、挨拶程度に話しました」
正確にはラブホ通りを突き抜けるのが一番の近道だ。しかし夜の七時頃ともなると危うい気もして、並行する大きな道まで遠回りをしている。
「穂花ちゃん
「私が行き過ぎようとしたら、ちょうど通りから出たところにぶつかって。いえ気づいたら目の前だったし、角のお弁当屋さんからかもですけど」
店長はスマホを見ながらだった気がする。一人だったと思うが、連れが居るのではと勘繰って見てはない。
曖昧ですみませんと謝りつつ、思い出せた限りを話す。シフト表をたしかめ、たぶん間違いない日付けも。
「私は信用してるから。だけどさっきも言ったけど、噂になっちゃってるみたいでさ。誰か、不愉快なこと言ってくるかも」
「そういうことなら仕方ないです。明さんに疑われたままなら困りましたけど」
短い髪が整髪料でカチカチにキメられ、格闘家と言われたら信じられる風貌。そんな彼女の太く描かれた眉が、未だ気に入らないと怒っていた。
けれど、あたしに向く視線や声からはトゲトゲが消えた。これなら愛想笑いくらいは返せる。
「聞かないの?」
「何をです?」
「こんなくだらないこと、誰が言ったのかって」
言われて「ああ」と。気にするべきらしいと気づいて苦笑した。
「ですね。でも噂話なんですよね、じゃあ言ってきた人のせいでもないですし」
「大人ね。私が穂花ちゃんと同じ歳の頃なら、一人ずつ吊り上げて回るとこだけど」
「大人なんて、全然。それに明さん、私と四つくらいしか違わないでしょ?」
あたしが吊り上げ——問い詰めて回る。想像しても無理がありすぎて笑うしかない。
それ以前に、さっきも言ったけど関係のない人に迷惑をかけるのは嫌だ。
「六つ。そんなことしても自分が疲れるだけって知ってて、その通りにできるのが大人なの」
「そうなんですか」
褒められたのか? 違う気もするけれど「ありがとうございます」と付け加えた。
「とは言え、分かるようなら調べとくから」
「えっ。みんなに?」
「聞かない聞かない。私も少しは賢くなってると思うし、安心して」
あたしの驚いたのがそんなに面白かったのか、明さんは声を上げて笑った。おかげで怒りの気配はまるでなくなり、結果オーライと言えるけれど。
「でも、すぐにはならないかな。それまで嫌なことあるかもだけど、言ってね?」
「私は平気ですよ。でも噂とは言え店長に悪いですね、私なんかが相手って」
「へっ?」
明さんが目を丸くした。何かおかしなことを言ったかなと考える間に、「あはははっ」と大きな声で笑い始める。
この人に避けられる事態は嫌だ。しかし、おあずけになっていた昼食を「チンしようか?」などと言ってくれるのだからきっと大丈夫。
カフェのメニューの、コルネサンド。チョリソーもチーズも硬くなったが、これはこれでおいしい。
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