水面の君を、僕だけが知る。

「そこで、空の神様」

 陽射しはじりじりと二人の頭皮を焼いているが、マリの肌は、未だすべすべとしている。触れたらひんやりと吸い付いてきそうな白さのまま。

「すごくすごく昔、この町の人たちは、神様に祈ったの。どうか助けてください、って。そりゃそうよね。百年だか二百年だかに一度でも、そのたび町が流されてしまうのは困るものね」

「それで、『花嫁』?」

 秀実は唾を飲んだ。教室ではあまり口数の多くないマリのよく動く口元に、なんだか秘められたものを覗き見しているような気にさせられた。それは胃液がせり上がってくるような、けれど決して不快ではなく、むしろとても甘美で、もしかしたら彼女は本当に「人魚」なのかもしれないな、などと、数分前の自分を簡単に裏切れるほどの感覚であった。


「龍が起きる頃になると、神様は『花嫁』を空に連れて行って、その龍を改めて深い眠りに落とすの。でも死んでしまったわけではないから、やっぱりいつかはまた起きてしまうわよね。だから」

「『代替わり』」

「そういうこと。そのいつ来るか分からない時のために、すぐに次の『花嫁』が選ばれるってわけ。あの川は、言うなれば生けみたいなものね」

 秀実がすんなりと話に付いてきたことに満足したのか、マリは柔らかく口角を上げる。彼女の話は、それが現実であればあまりにも荒唐無稽ではあったが、おとぎ話であるならば、非常にありふれた話のように秀実には感じられた。もしこれがただのおとぎ話なら、元々少しミステリアスなところのあるマリが、そんな子供だましのような話でにっこりと微笑んでいる姿は、なんだかすごく――可愛いじゃないか。マリの言うことが真実か否かなんて、秀実にはもはやどうでも良くなっていた。


「空に連れていかれた『花嫁』はどうなるの?」

「さあ?」

「さあ、って」

「だって誰も帰ってこないんだもの。『代替わり』なんて言うくらいだし、もしかしたら、龍の餌にされてしまうのかも。『花嫁』って名前の『生贄』。うん、それなら確かに花嫁の代替わりは必要だし、辻褄は合うわね」

 それは同時に、町の人々が人魚を無視し続け、人魚の存在を禁忌としていることの辻褄も合ってしまうことになる。単なる罪悪感による見て見ぬふり――人身御供なんて、やはり気分のいいものではないだろう。

 やっぱりこれはおとぎ話だ。こんなに愛らしいマリが、自分たちにとっての牛や豚のような扱いになるだなんて、そんなこと、あるはずがない。秀実は、一度は下げた右手をもう一度上げ、セーラーの半そでから伸びるマリの白い腕に伸ばした。


「それなら、君じゃなくてもいいだろう」

「触らないで!」

 鋭い声に、秀実は慌てて右手を引っ込めた。指先にぬるりとしたものがこびりついている。

「水多さん、それ……」

 先ほどまで凪いでいたマリの瞳は大きく揺れ、その白い二の腕には赤黒い筋が二筋ふたすじ、しゅうしゅうと白い煙を上げていた。秀実は初めてマリの顔から視線を外し、己の指先を見つめた。ぬるりとこびりついたそれは、剥がれ落ちた彼女の皮膚であった。彼女の腕に触れた瞬間じゅっという音が聞こえた気がしたが、あれは、地面に落ちた蝉の鳴き声ではなかったのか。秀実は咄嗟に口元を押さえた。マリの皮膚がこびりついたままの右手で。そして、その感触と肉の焼ける匂いに耐え切れず、そのまま地面に膝をつき、しこたま胃液をぶちまけた。


「これが、私が『花嫁』である証明、なの」

 胃液に喉を焼かれ咳き込む秀実に、マリは言う。

「ある日突然、こうなったの。人に触れると火傷しちゃうように。それを見て、母さんは泣いたわ。父さんも泣いた。私を抱きしめることは、できなかったけれど」

 マリの瞳は、再び凪ぎ始めていた。

「大人たちは、ちゃんと知っていたのよ、人魚の話を。それからは早かった。町長さんのところに連れていかれて、人魚について聞かされたわ。『代替わり』は間もなくだそうよ」

 ああ、ああ、と秀実は声を上げる。横隔膜が痙攣して、酷く息苦しかった。胃液は吐き尽くされ、口の端からは涎だけがだらだらと零れている。

「だから、ごめんね。あなたとお付き合いすることは出来ないの」

 紺色のスカートをふわりと揺らして、マリはきびすを返した。


「どうして」

 スカートの残像を追って、秀実は問いかける。

「どうして、それを僕に教えたの。普通に断れば、良かったじゃないか。だってそれはきっと、話してはいけないことだろ?」

 蝉は、ひと夏の恋を求めて鳴く。掴めるかも分からない恋を求めて鳴く。秀実は初めて、蝉を愛おしいと感じていた。好きな少女を救うため神に抗おうと立ち上がる、それこそ深夜に自分が観ていたアニメの主人公のようなことは到底出来ない。そんな自分は、蝉と同じだ。いいや、鳴きもしないなら、蝉以下かもしれない。

 スカートの揺れが小さくなってゆく。ようやく見上げることの出来たマリは、秀実に背を向けたまま、答えた。

「だって、『好き』って言ってくれたから。『人魚』になんてならなければ、私にも恋が出来たはずなんだ、って思ったら、なんだか堪らなく、話したくなっちゃったの」

 その表情を秀実が知る術はなかったが、すっと伸びた彼女の白いうなじに、彼はほうとため息をついた。

「秘密を共有するのって、なんだか恋みたいでしょ」

 それだけ言うと、ついにマリは歩き出した。スカートが再び揺れ始める。人魚って、やっぱり美しいんだな。いいや、水多マリは、やっぱり美しいんだな。汗と涎と胃液に汚れたまま、秀実は小さく右手を、乾き始めたマリの皮膚がこびりついたままの右手を、ぎゅっと握りしめた。


 数日後、秀実は川にマリの姿を見つけた。マリはこれまでの人魚と同じように、ぼんやりと、所在無げに川に浮かんでいる。

 秀実の視線に気付いたのか、マリがちらりとこちらを向く。秀実は駆けだした。昨夜の雨でできた水たまりを踏みつけ、駆け出した。跳ね上げた泥がズボンの裾を汚すのも、お構いなしに。その足取りは、軽かった。マリは黙ってそれを見送る。

 誰もマリに目をやることはない。こないだまで町に溶け込んでいたはずのマリは、今は町の異物ですらなくなってしまった。けれど秀実は知っている。何もできないが、知っている。水面に浮かぶマリの、その美しさを知っている。異物が転がり音を立て続ける鳩尾に、ぐっと右の拳を押し当て、秀実は走り続けた。

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水面の君を、僕だけが知る。 芥子菜ジパ子 @karashina285

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