水面の君を、僕だけが知る。
芥子菜ジパ子
みずたまり
「みっ……
「無理だよ。だって私、もうすぐ『人魚』になるから」
終業式の後の校舎裏で、
今まで「水多さん」としか呼んだことがなかったから、特に気付いたこともなかったけれど、一体彼女の両親は何を思って名前をつけたのだろう。水たまりなんて歩くのに邪魔なだけだし、子供や車のタイヤに跳ね散らかされるだけの、つまり、なんのいいところも見当たらないような名前だ。恋の告白をするのなら、きちんと相手のフルネームを呼ぶのがなんとなく格好いいと思っていたのに、余計なことに気付いてしまった。マリの思わぬ「告白返し」に、秀実はつい数分前にどもりながら下手くそな恋の告白をしたことも忘れて、そんなことをぼんやりと考え始めていた。そのくせ差し出したままの右手は、そのままで。
秀実の住む町には、「人魚」がいる。「人魚」と言っても、おとぎ話に出てくるような、魚の尾をくねらせながら艶めかしく泳ぐようなものでも、かの有名な「人魚のミイラ」のようなグロテスクな見た目のバケモノとも違い、見た目はごくごく普通の、人間の少女だ。ただ水の中から出ることのない、恐らく出ることも出来ない存在。それだけものだった。一体いつからいたのかは分からない。町に住む年寄りたち知らない。彼らが子供だった頃から人魚は、この町の真ん中を流れる川で、特に何をするでもなく、所在無げに泳いでいたそうだ。
どうしてそれを「人魚」と呼ぶのか、それも、誰も知らない。恐らく水中で生きる人型の人ならざるものを、
「人魚」などと種族のように呼んでいるが、人魚に仲間はいない。家族もいない。川の中で泳ぐたった一人が「人魚」と呼ばれ、たった一人でずっとずうっと泳ぎ続けている。「一人」という数え方がはたして正しいのかは、置いておいて。
「人魚になる、ったって、人魚は一人だけだろ?」
秀実は純粋な疑問を口にした。マリのその言葉が、自身の告白への、非常に雑な断り文句である可能性など、秀実の頭には一ミリも浮かんではこなかった。そういった懸念が浮かぶほどの恋の経験は、秀実には無い。
「『代替わり』するの」
「『代替わり』?」
「そう」
マリが頷く。その表情は、自らが「人魚」になるのだと告げた時と変わらない。彼女の瞳は全く揺れることなく、それこそ通り雨の後の水たまりのように、ただ目の前の秀実と、その背後の青空を映している。秀実の知る限り、マリはいつだってそのように他人と接していた。そして秀実は、そんな彼女の視線が好きだった。こちらをじっと見つめることで、その瞳の中の自らを覗かせるような、そんな視線が、なんとなく好きだった。
しゃわしゃわと、蝉が鳴いている。八月も半ばを過ぎ、その声は入道雲の向こうに消えゆく初恋の少女の、ひらりと翻るスカートの裾を必死に掴もうとするかのようであり、その必死さがまた、夏の暑さに拍車をかけていた。秀実はそっと額の汗を、手の甲で拭った。たった今まで馬鹿みたいに差し出しっぱなしだった、右手の甲で。
秀実の口は干上がって死んだ金魚のようにぽかんと開いたままだった。それは暑さのせいだけでなく、マリの言葉のなにひとつも理解できないことに拠るものでもあった。
この町において人魚は謎であり、同時に禁忌だ。いつから存在し、どこからやってきたのかは誰も分からない。けれど、それを知ろうとすることは許されていなかった。人魚は確かにこの町にいる。しかし、いるとみなしてはいけない。故にその存在に疑問を抱くことも許されない――この町の子供たちは、皆そう言われて育つ。そして、そうあろうと振舞う大人たちを見て、育つ。
人魚は時折岸辺に寄り、近くを通る人間に声をかける。今日は暑いわね、だの、どこへ行くの?だの、全て他愛もないものだったが、町の人間は皆それを無視していた。秀実も、幾度となく無視してきた。僅かな罪悪感と共に。どうして誰も心が痛まないのだろうと思っていたが、それを口に出すことも、勿論許されてはいなかった。だから本当は秀実のような人間が、他にいたのかもしれない。しかし何もかも、知ることのできないことだった。
「『人魚』はね、空の神様に見初められた『花嫁』なの」
視線を秀実から外さぬまま、マリは小さく首を傾ける。ポニーテールに結った毛先が、さらりと揺れた。彼女だけ、夏の暑さから取り残されたようだ。秀実は止まらぬ汗に濡れそぼってすっかりと重たくなった前髪を撫でながら、それを眺めていた。
「『花嫁』?」
「この町の空には、私たちの目には見えない大きな龍がずうっと留まって、眠っているんだって」
「龍……」
「で、百年から二百年くらいの間に一度起きて、大暴れするらしいの」
今自分は、自分の周りの誰もが知らないであろう「世界の真相」とやらに近付いているのかもしれないということへの興奮と、それをあろうことか恋の告白をしたばかりの相手から聞いているという動揺、単純に好きな少女の声をもう少し聞いていたいという非常にシンプルな少年らしい欲求、それら全てがないまぜになって、秀実はただ黙ってマリの次の言葉を待った。
「なんで暴れるのかなんて分からないけど、とにかく龍が暴れると、大雨になるんだって」
「うん」
「こんな小さな町なんて、簡単に流されちゃうくらいの」
「でも、そんな大雨が降ったなんて話、聞いたことがないよ」
秀実たちの住む町は昔からその乾燥した気候を生かして、豆類やハーブなどを特産品として育てている。つまり、それはそのまま、それほど雨とは無縁の町なのだという証明に他ならなかった。あまりにもむちゃくちゃだ――それでも秀実がやはり沈黙でその先を促したのは、ひとえに彼の、不慣れ故にブレーキの利かせ方が分からない恋心のためだった。
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