第40話 罰する期間ではなく

 1週間の入院。生後六ヶ月の朱莉。


 智司の実家は第三行政地区で、遠い。そして、智司は両親や兄弟とはほとんど交流していない。特に父とは物心つく前に離れており、連絡を全く取っていない。

 智司の母は……。

 智司は母のことはあまり考えないようにしている。いろいろあったのだ。


 麻衣美の親族は、第一行政地区で働いていて、実家は近くだ。

 しかし、間の悪いことに、麻衣美の兄夫婦がその先月交通事故に遭い、まだ入院している。麻衣美の父母はその影響て忙しい。保険会社・弁護士との交渉。麻衣美の甥姪の面倒。兄嫁の実家と分担して引き受け、大活躍している状況だ。

 

「えーと、入院中、お子さんの面倒を見るひとはいますか?」

 端末の向こうで医師は朗らかに聞いた。

「……すみません、僕だけです。事情があって、親戚には頼れません」

 智司はうめくように言った。

 

「あ、そう、わかりました!」

 軽やかに答えた医師は、端末をすごい勢いで操作した。

 

「お、良かった。私立みどり養護院が空いてます。ちょっと費用は高いですが、信頼できる施設です」

 医師が端末に表示した金額は確かに安くはなかったが、決して払えない金額ではなかった。

 

「畑崎智司さんは公務員ですから、共済から補助が出ます。立て替え払いしてもらって、後で支給、大丈夫ですよね?」

「はい、ありがとうございます」

「明日朝7時に院の車が来ます。引き渡しは立ち会ってください。帰りは23時まで厳守。泊まりは別契約なので、注意してください」

「大丈夫です。なるべく早く迎えに行きます!」


 医師は満足げに微笑んだ。


「了解。明朝、院の車にご自宅でお子さんを引き渡す。その後、智司さんが麻衣美さんを第一行政地区中央病院に連れてきて、入院手続きをしてください。そこだけはきちんと休暇を取ってくださいね。病院からも智司さんの職場に連絡しておきます。9時から受付ですから、午後1時には仕事に戻れるはずです」

「はい、わかりました」

「あと、色々細かいことは、後でみどり養護の担当者が連絡しますので、オンラインで打ち合わせしてください」


「そこ、鈴木……鮎田歩さんのいたとこだ……」

 弱々しい声で麻衣美がささやいた。そういえば、良い施設だったと話しているのを智司も覚えている。

 

 ***

 

 2週間後。

 すっかり体調が戻った麻衣美は、みどり養護院に来ていた。預け保育のお迎えのためだ。広い園庭の木々の間から夕方の日差しが差している。2077年、春の終わり、日が長くなってきた。

 今日が預け保育の最終日。


 手続きを済ませ、担当者にお礼を言う。

「薬が効く疾患で本当に良かった」


 養護院での朱莉保育担任は木立和士きだちかずし。50代くらいの男性だった。智司もお世話になったと言っていた。さっきそのお礼も言った。


「それとね、最後に、畑崎さん」

 ずっと柔和な笑みを浮かべていた木立が急に表情を引き締めた。

「はい」


「あなた、今回、かなり無理をしていなかった? 肺塞栓症はストレスが多いと免疫が落ちてかかりやすいと、最近論文が出ていた」

 麻衣美はうつむいた。

「はい、そのとおりです。申し訳ありません。でも、早くリスキリングして社会復帰したかった……したいんです。夫だけが働くんじゃなくて、私も給料をもらいたかった。技術革新に追いつきたかった」


 木立はため息をついた。

「あのね、畑崎さん。子育てに専念することは、罰をうけるようなことじゃないんだよ」


 ふたたび笑顔が戻ったが、目が真剣だった。


「たしかに僕が生まれたころ、僕の祖父母や両親、僕たちの世代は、重荷を背負っていた。自助の名のもとに産休中もリスキリングをして、より高い技能を身につけて、生産性を上げようとしていた。保育者たちの労働環境も劣悪だった。そして、多くのひとが倒れた。暗い時代だった」


 木立は端末を指先で軽くトントンとたたいた。


「超現象を活用することで、社会に余裕ができた。連邦加入などを経て、ようやく『20代に子どもを産んだ母親が30代に再就職』する制度が成熟してきた。僕ら、保育の仕事も、持続可能な労働条件に整備された」

 

 麻衣美はうつむいたままだった。木立は優しく笑いながら、諭すように続けた。

 

「そんなふうに整った制度を利用する君たちが、気負って、はしょって、破綻してはいけない。迷ったときは僕たち、民間や行政の子育て支援期間の担当者たちがいる。相談してくれ。頼ってくれ」


 麻衣美は恐る恐る言った。

「え、そんなことして、いいんですか」

「良いんだよ。畑崎さん、制度は使おうよ」


 麻衣美は言われている言葉の意味は分かるが、なんとなく受け入れがたく思っていた。まだ脳の芯が痺れたように意固地だった。

 

「立ち入ったことを言うけれど、お子さんも、可能であれば、もうひとりくらいいてもいいかもしれない。今回、いちど立ち止まって、よく配偶者さんと話し合って、人生の選択肢を広げると良いと思うよ。そして子育てが落ち着いたら、しっかり勉強して、バリバリ働きなさい」

 

 ――家族計画のことは、立ち入りすぎだよな、私が二人目不妊を自覚していたりしたら、どうするの。

 麻衣美は担当者のお節介に呆れた。


「私たちがあなたたちを守りたいと思っているのを、忘れないでください。そして、後輩たちにも、伝えてあげてください」

 木立は誇らしげに笑った。


 ***


 麻衣美は自宅で、ベビーカーを片付けながら、ため息をついた。

 ドアの開く音がする。

「ただいま、どうしたの、思い詰めた顔をして」

 麻衣美は、智司の顔から目をそらして、ぽろぽろと涙をこぼした。

 

 ***

 2086年。連邦首都で、鮎田歩と畑崎麻衣美は他愛のない話に興じていた。


 歩はふと思い出していた。げっそり落ち込んだ眼窩の麻衣美を、日本地方の畑崎家自宅に見舞ったときのこと。2077年6月のことだ。


「みどり養護院の保育担任にお節介なアドバイスをされて。早く就職したいのに、情けない。みんなみたいに、働きたい」

 そう暗い顔で言われて、歩は、「そっかあ」と答えた。相づちをうちながら、話を聞いた。


 しかし、結果的に畑崎夫妻は保育担任からのお節介なアドバイスに従った。リスキリングの講座は受講をいったん中止し、麻衣美自身の健康の完全な回復に努めていた。


 2077年6月、智司と数樹を交えて話した時、智司が吶々とつとつと言った。

「自分も妻も、無理をしすぎないようにしたい。職場の理解してくれる上司と同僚に感謝しつつ、どうしたら効率よく、その理解に応えられるか考えている」


 そのあたりの難しさは、歩にもわかるような気がした。先輩、同期、後輩が、産休や育児休暇や介護休暇を取るのを、ずっと見守り、理解するよう努めてきた。


 連邦は整った制度をつくりあげた。しかし、使う生身の人間たちの感じること、できることはそれぞれ違う。


「無理をし過ぎちゃいけないって、理屈ではわかるけど……」

 あのとき、麻衣美の表情は暗かった。


 ***


「今から考えると、気負って、疲れて、何も見えていなかった。智司にも余計な負担をかけた。そこから出るきっかけをくれた養護院の木立先生、保育担任さんが付き合い方を助言してくれた連邦の制度には感謝してる」

「そっかあ……私も、何もしてあげられなかったのに、せんべい送ってもらって。あれ、とっても美味しかった」

「塩せんべいは偉大な日本の文化だよね」


 ふたりはケラケラ笑った。

「間違いない!」


---

 

次、§9 エピローグ

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