第39話 畑崎智司とその妻の肺

 大学一年生の春。畑崎智司(当時は神崎姓だった)は隣の調理実習作業台にいた学生たちが悲鳴を上げるのを聞いた。


 見ると、ひとりの学生の手から怪我をして、かぼちゃとまな板を赤く染めていた。「前時代工藝入門」の授業中のことだった。


「前時代工藝の包丁は、媒質器具の調理器具とは違うので、良く注意しないとこういうことになります」

 教授がおっとりと説明し、待機していた上級生が手際よく傷の手当てをしていた。


 手当てに礼を言い、実習の手を止めたことを周りの学生に詫びている女子学生は、「超現象研究A」でも同じクラスの畑中麻衣美だった。


 智司は男子としては背が低い方だが、それよりも小柄。眼鏡をかけたふっくらした女子。


 元々あまり表情を変えない印象だったが、今もあまり痛そうではない。無表情で無愛想だが、ふわふわ動き、気働きが出来るタイプという第一印象だった。


 ――意外とそそっかしいのだな。

 そう思いながら、自分は十分に注意して、かぼちゃの分厚い皮に包丁を当て、ゆっくりと力を入れた。


 ***

 

 それから2年ほど経った三年生の秋、教養課程のときの仲間が集まって、「学食でケーキを食べる会」が行われた。


 高級ホールケーキを、各自1切れずつ食べる企画だ。3つの同種のホールケーキをいくつか買った。コーヒーは学食で各自買って。会費はバイト1時間分だった。

 同級生の鈴木の彼氏が参加していた。俳優のような美男子の上級生は、会費の他に、クッキーの詰め合わせを差し入れして、いろいろな意味で黄色い悲鳴が上がっていた。


 つるっとした茶色いチョコレートでコーティングされたケーキを、鈴木の彼氏が持参したケーキナイフの媒質器具で切り分けた。刃面が冷えるようにしてあるそうだ。

 智司は甘いものが大好きだ。

 切り分けられ、配られたケーキの断面を惚れ惚れと見つめた。

 薄くパリッとしたチョコレートの層の下に白いクリーム、チョコレートのスポンジケーキ、再び白いクリームの中に苺や葡萄の断面、一番下に黄金色のスポンジケーキ。洋酒の贅沢で芳醇な香りが漂う。


「おお……これは」

「最高だろ! これは絶対食べたいよね」

 今回の会を企画した同級生が得意げに言った。


「うん、素晴らしい」

 智司はそう褒めて、自分のコーヒーに勢いよく紙袋から砂糖を振り入れた。


「神崎くん、せっかくのケーキなのに、コーヒーに砂糖?」

「ここはブラックじゃない?」

 周りから声が飛んだ。


「え? コーヒーって砂糖を入れるとコクが出るじゃない。この! さいっ! こう! のケーキとよく合うと思うんだけどな」


 非難囂々の中、無表情な畑中麻衣美だけが珍しく高めのテンションでつぶやいて、智司と同じように、ミルクコーヒーに砂糖を振り入れた。


 智司は誰とでも気さくに話す性格だ。男子とか女子とかあまり意識していなかった。無愛想な麻衣美も、一度ふところに入れば、あっさりした、話しやすい同級生だった。

 彼女と他の数名の女子に相談されて、超現象研究専攻の鈴木の縁結びに協力したこともある。


 甘いコーヒーがきっかけで、距離が縮まった。ふたりだけでよく話すようになった。


 ***


 麻衣美の専攻は前時代工藝だ。


「実習の時にさ、私、怪我したじゃない」

「ああ、覚えてる。隣の作業台だった」

「そのとき、前時代工藝を専攻しようと決めたの」


 智司は戸惑った。

「え? 普通はそれで怖くなって避けるんじゃない?」


 智司の対面に座った麻衣美は頬杖をついてリラックスしていた。不意に背筋を伸ばして、眼鏡をくいっと持ち上げる。


「今まで、私ってそれなりに優秀だと思って生きてきた」

 小さな目に強い光が宿った。


「手が滑って。調理器具が傷つけた指から血がじわじわと染み出してくる。血に染まった自分の手を見て。あ、自分、全力で頑張れていなかった。注意すべきことを無視していた。それがわかったの」

 智司はうなずいた。


「畑中さん、いろんな処理を丁寧にする。手際がいい。それは最近よく思うよ。それから頑張ったんだね」


 無表情な顔に、ぽっと赤みが差した。


「そう。超現象だと詠唱で済ませられることも、前時代工藝の工程をじっくり考える作業をすると、手間がかかる。でも丁寧にやると、超現象では出来ないことが出来る。卒業研究は家電製品の修理を主題にしようと思っている。丁寧に、じっくり考えてやらないと、また怪我をする」


 少し間を置いて、真剣な目つきになった。

「二度とそんなことはしない」


 智司はそのとき、恋に落ちた。

 なお、後で聞いたところによると、その後、恋した相手に熱く語った自分の専攻(法学)に関する理想論に。麻衣美は恋に落ちたそうだ。


 ***

 

 大学四年生のクリスマス、智司は麻衣美にプロポーズした。卒業後すぐ結婚することに決めた。


 まず子どもを産んで、その後、就職する。二一世紀連邦は子育て支援制度の整備に熱心に取り組んでいて、その選択肢関連の支援も充実していた。


「まずひとりめを産んで、その後、再就職したい」

 麻衣美はそういった。


「前時代工藝と言いつつ、修理の技術も進歩する。最初の子が1歳の間にリスキリングをして、その後実務をしたいの」

「わかった。僕も一緒に頑張る」


ふたりは地方公務員が受けられる子育て支援の資料も検討した。


 ***

 

 2077年春、麻衣美はそのときの言葉通り、政府から助成のあるリスキリング講座(家電製品修理関係)の受講を開始した。朱莉は哺乳瓶のミルクと離乳食を摂るようになった。断乳したからだ。


 朱莉は最高にかわいい娘だ。生後3ヶ月は智司も育児休暇を取って子育てと家事諸々に参加した。


 職場の連絡網で「出産祝いのお父さんを囲む飲み会」を持ちかけてきた先輩(バツイチ)を論破する部長(二児の親)がいる程度には子育てに理解のある職場だった。

 なお、智司が送った写真を上司が共用スペースのスクリーンに映写して、みんなで愛でるランチには、夫婦でオンライン参加した。


 先輩はいろいろと思うことがあったらしく、元妻さんと息子さんに謝ったと後で話してくれた。

「俺や元のかみさんにも、部長みたいな人がいてくれたらと思う。俺がもしその立場になったら頑張ってみるよ」


 さて、朱莉が可愛い話だった。妙に運動神経が良かったり、予想もしない行動を取ったり。同僚に聞くと、どの子も多かれ少なかれそういう所があるようだ。

 そうやって、ずっと夫婦で助け合って子育てを順調に進める予定だった。それがある日破綻した。


 ***

 

「肺塞栓症ですね。早めに受診してくれて良かったです。1週間くらい入院して、詰まっている部分を溶かす薬を投与すれば大丈夫でしょう」

 

 麻衣美の体調は好転しなかった。

 「タオル事件」のあと、生理が来て、それが終わっても息切れがして、ふらつく。

 真っ青な顔をして講座の課題を解こうとしている姿を見かねて、智司はオンライン診療を手配した。

 

 診療で、今世紀前半から断続的に流行する感染症の影響らしいことが判明した。

 畑崎一家も感染したが、ほぼ無症状だった。しかし、無症状のように見えて、肺塞栓症になることがあるのは、報道などでは知っていた。麻衣美もそのひとりらしい。


 しかし、1週間の入院。



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次、第40話 罰する期間ではなく

§8最終 

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