§8 閑話:畑崎家の10年間

第38話 畑崎麻衣美は残されない

 畑崎麻衣美は体調を崩していた。


 2077年。その年、日本地方の春は遅かった。4月半ばになり、ようやく暖かくなってきた。布団も敷かない畳の上でついうたた寝をしてしまったらしい。カーテンから差し込む西日の中、目を覚まし、身体を苛む倦怠感を振り払いなから、気づいたことがあった。


 ――あんなにぐずぐず言っていたあの子の声がしない。

 ベビーベッドの上でぐずっていた生後7ヶ月の娘朱莉あかりの姿がどこにもない。麻衣美は全身の血がぐっと引いて全身が地底に押し込まれるような絶望を感じながら立ち上がった。

 

 ――朱莉……朱莉!


 麻衣美は駆け出した。ドタバタと扉を開けて、部屋を見て回る。

 ――朱莉! どこ? ああ、なんで目を離してしまったの。私、バカバカ。

 

麻衣美は薄暗い洗面所に駆け込み、電気もつけずに風呂場の扉に手をかけた。


  ***


「麻衣美!」

 目を開けると、そこには夫の智司がいた。麻衣美はベッドの中にいた。夫婦の寝室のベッド。小さな常夜灯が扉近くの絨毯を敷いた床を照らしていた。

 畳敷の部屋が2室、狭い洗面所に風呂場、台所と居間。畳敷の部屋にベビーベッド。そんな官舎にいたはず。なのに、いま、麻衣美は朱莉の弟の光が小学校入学の時のときに引っ越してきた3LDKの分譲集合住宅にいるらしい。


「夢だったんだ」

 ほう、とため息をつく。顔が汗だくだ。枕カバーの上に巻いていたバスタオルを取って拭いた。


「随分うなされてたよ」

 心配そうに言う智司。麻衣美は新しいタオルを出しながら答えた。

「うん、朱莉がいなくなっちゃった時の夢を見た」

「え? ああ、あの時か、『どこ』って寝言を言ってたね。そりゃ、うなされる」

 

 ***

 

 そう、あの日麻衣美は、ぐずぐず意味のわからない行動をとる朱莉を落ち着かせられなかった。そして、疲れてしまって、気絶するように眠ってしまった。


 はいはいができるようになった朱莉は、不思議なくらい器用だった。ベビーベッドを巧みに抜け出し、冒険の旅に出た。洗面所の下のタオルを積んでいたところにうまくはまり込んで、そのまま眠ってしまった。


 目を覚ました麻衣美は半狂乱になって朱莉を探した。どこにもいない。

 ――風呂の水に落ちた。

 なぜかそう思った。風呂桶に水は入っていないのに、疲れ果てた麻衣美の脳裏に、風呂の中で溺れる朱莉が苦しんでいる姿が浮かぶ。わあわあ泣きながら開けたドアの向こうには、何もなかった。掃除の行き届かない風呂場があるだけだ。

 真っ暗な風呂場に座り込んで泣いていると、玄関の扉の開く音がした。夫の畑崎智司はたざきともしが帰ってきた。

「麻衣美! 大丈夫? 今朝具合悪そうだったし、連絡しても返事がないから、育児時短とらせてもらって早退してきた」

「智司……朱莉が、朱莉がいないの!」

 智司にすがりついた。智司は涙でべとべとの顔がスーツにつくことには構わず、麻衣美を抱き止めた。


「えっ? 鍵は閉まってたよ。うちの中だな。あ、そうだ、この間……」

 洗面所に戻った智司は、風呂場の電気をつけて、1歳の娘を抱っこして戻ってきた。残念な匂いが漂う。


「朱莉!」

 委細構わず麻衣美は愛しい子を抱きしめた。

「ヨコ漏れしちゃったね」

「ていうか、こんなぱんぱんのオムツなのに、なんでこの子は眠ってるの? 泣いたら、どこにいるのかわかったのに!」

「悠々と寝てたよ。残念なお知らせだけど、タオルの中に潜っていて、ヨコ漏れしたので、大惨事」


 麻衣美はさらに朱莉を抱きしめた。イヤな湿り気が服に移るのを感じるが、まあいい。


「ああ……でもよかった。お風呂で溺れちゃったかと思った。私が目を離したから」

「大丈夫だよ。というか、僕もごめん。麻衣美が具合悪そうなのはわかってたのに、出勤してしまった」

「会議あったんでしょ、仕方ないよ」

「ありがとう。朱莉のオムツ替えと大惨事の修復は僕がやるから、麻衣美も着替えて、少し休みな」

「でも」

「でも、じゃないよ。僕を安心させて。ちゃっちゃっちゃ」


 歌うように言いながら、片手に朱莉を抱き、おむつ洗いバケツをもう片方の手に取った。風呂場に居るアドバンテージと、先ほど被害を受けたタオルをうまく使って、朱莉の世話をしはじめた。朱莉も汚れたエプロン等をビニール袋に入れはじめた。

 智司が着たままのスーツは少々残念な状況である。しかし、視察で泥まみれになることもよくあるのを見越して、洗いやすい製品なので無問題だ。


 ――あれ?

 どろっとしたものが身体から落ちる感覚。

 ――生理だ。だからこんなに情緒不安定で動けなかったのか。

 麻衣美はため息をついた。断乳して大学時代に専攻していた電気技術の学び直しリスキリングに取り組んで1ヶ月ほどが経っていた。


 ***


「あの頃は大変だったね。その後もいろんなことがあって」

「智司に、たくさん育児休暇を取らせちゃったね」

「あんな暗い部屋に愛しの妻をひとりで残すことはできないよ。僕は君たちを見ていたかった」


 ――くう、相変わらずこの男は最高にカッコいい……。

 麻衣美は悶えた。


「って、これ、あの養護院担当者さんの言葉のパクりだけどさ」

「ああ、お世話になったよねえ」

 ふたりはしみじみと回想した。


---


次、第39話 畑崎智司とその妻の肺

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