第37話 文字は燃える

 歩の書斎には40年前に流行った意匠の黒い書類箱が置かれていた。放射性物質が大気中に大量に拡散する時代の製品だ。紙を守るため工夫が凝らされ、よく売れたという。

 傷んだ外装の冷蔵庫の脇に置かれた黒い箱の近くには、ゴミ箱と「シュレッダー」と書かれた汚い段ボール箱があった。

 歩はゴミ箱の横に引っ掛けた手袋をはめた。「シュレッダー」箱に乱雑に積み上げられたぐしゃぐしゃの紙の下から、嫌そうにビニール袋に入れた紙を取り出した。


「この紙は私宛に郵送されてきた。本当は職場に提出しなければいけなかったの。でもさ、あまりに腹が立ったから、取っておいた。あ、使って、使い捨て手袋」


 麻衣美は渡された手袋をはめ、紙を手に取り、ビニール越しに読んだ。大小の文字を乱雑に組み合わせ、賑々しく乱れ舞うような赤い文字が刷られた紙。


「何これ」

 歩は、麻衣美が持つビニール袋(クリアファイルなどではなく、透明なゴミ用の安っぽいビニール袋)に入った紙を睨んだ。蔑むような怒りがこもった眼差しだった。


「キモい事務官の話、就職した頃にしたじゃない?」

「上から目線で、公私混同して、いろいろ指導してくる押しつけがましいバカ?」

「それそれ。私が仮装じゃなく武装で、髪をオレンジ色に染めた理由」


 歩は短めに切ったオレンジ色の髪をかき上げた。

「確かに! 強そうに見える」

「黒髪ボブはなめられる!」

 ふたりは顔を見合わせ、豪快に笑った。


「もしかして、この余計なお世話の怪文書の筆者は」

 歩は微笑みに猛々しさを加えた。

「正解でーす。私たち、妊娠しづらい状況って話は、したよね」

「うん」

「その前の年にさ」


 歩は「連邦病院所属職員による許可のない他部署への侵入事件」の話をした。


「なるほどね。ところで、私、火をつける媒質器具を持ってるよ」

 麻衣美は、笑いながら、静かに怒っているようだった。

「修理にそんなものが」

「厳重に管理してる。技術者が手順通り起動しないと火がつかない」


「待って」

 歩は手袋をはめた手で、麻衣美が持っていた袋をとり、汚らしいものを捨てるように、「シュレッダー」箱の紙の上にぞんざいに落とす。

 超現象を詠唱すると、グシャグシャの紙たちは、ビニール袋を中心にまとまり、ギュッと凝縮された。

「うん、いいじゃない」


 女ふたりは凶悪な笑顔で互いを見交わした。


「古い工具が入っていた錆びた缶でーす。手袋もここに入れてね」

 歩は缶に紙数枚と凝縮した塊を入れ、さらにふたりとも外した手袋を入れた。

「私も凝縮の超現象をかけたい!」

「じゃ、お願い」

 麻衣美は手袋をシュレッダー内から取り出した不要紙と一緒に凝縮した。

 麻衣美が道具箱の中から媒質器具を取り出し、二人はベランダに出た。汚い缶の中に小さくまとまった紙。麻衣美が媒質器具で火をつけた。


「おおー、燃えた」

「汚物は焼却だね。手袋の素材、臭っ」


 火が消えたカサカサとした灰に、歩は少量の水をかけた。その水は、自らの手から出した超現象の水ではなく、ベランダに置きっぱなしのじょうろに残った得体の知れない水だった。

 歩は缶にしっかり蓋をして、ベランダの隅にある「不燃ゴミ」と書かれた入れ物の脇に置いた。


「手を洗って、お茶でも入れよう」

「うん、まだ時間あるしね」

 

 ***

 

 居間のボードゲーム闘士たちの戦いを少し見学したあと、ふたりは冷たい飲み物を配り、自分たちの分を持って、書斎のソファに戻った。


「数樹がさ、結婚したころ、さんざん、わきまえなくて良いっていったんだよね」

「ああ、あなた、のろけてたね」

「それが、自分が不妊の立場になったら、わきまえてさ。秘密にしたのよ」

「ふっ、矛盾してるよね」

 

 ***

 鮎田家の書斎に置かれた妻と夫の机。間に部屋の幅半分だけの壁がある。就職4年目にこの中古集合住宅を買った時、歩は多忙で、改装オプションはほとんど数樹が考えて発注した。


 南と東向きの一番良い場所を数樹は書斎にした。

「子ども部屋にするときは、仕切れるように、書斎に半分壁を作っておく。家で仕事をしながら、見られるようにしたいんだ」

「なるほど」

「でも今は、お互い仕事を頑張ろう」

「うん、ありがとう」

 

 ***

 

「でも、数樹がわきまえて、隠した気持ちは、すごいわかったよ。私が不妊原因持ちのほうがマシだと思った。けど、でも今私が感じているような気持ちを彼も感じるわけで、それはしてほしくない」

「当たり前の幸せって、当たり前じゃないね」

「うん」

 

 ふたりは顔を見合わせて笑った。

 

「そろそろ冷えたかな、冷蔵庫」

「さっき台所の冷蔵庫から移動したグアバジュースで乾杯しない?」

「よし!」

 歩は麻衣美が修理した冷蔵庫を開けた。いくつかのグラスとグアバジュースの容器が入った冷蔵庫の中は優しく輝いている。急速冷却設定は、もう解除しても大丈夫なようだ。


 居間からは朱莉の勝ち誇った笑い声が聞こえてきた。悔しがりつつ、楽しそうな数樹の声も響いてくる。

 歩は、感謝と敬愛と未来の幸せへの祈りを込めて、その声に微笑んた。


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[登場人物 Ch.2 §7 暗い森 (https://kakuyomu.jp/works/16817330661673670560/episodes/16817330665079360730)

次、 §8 閑話:畑崎家の10年間

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