主水大也

 平安京が煌びやかな光を纏っていた時である。宇多天皇皇子、敦慶親王は、同じく宇多天皇の皇女である孚子内親王のもとにお通いになられていた。御二方の仲は大層睦まじく、他の人が羨むほどであり、はちすの花弁の如き御人たちでいらっしゃると囁かれていた。お二人の仲を羨む者は居れど、妬み嫉み、恨みを抱くものなど、誰一人としていなかった。

 そのような中、敦慶親王の御尋ねの度に、孚子内親王の下に仕える女が一人、忙しない様子となる。その忙しさは、急ぎの用があるというものではなく、その女を包む肉がはがされて、丸裸になった魂が、あえぎもがいているような、そんな忙しさだった。その女は白桜が如き肌を持ち、絹と見まがうほどの美しい髪を持つ、身分にそぐわない容姿を湛えていた。しかし、過ぎたものは零れ落ちる定めである。女には一つの消えぬ醜さがあった。幼いころに患った皮膚病による醜悪な手である。古い痣が斑にあり、冬の山に積もり落ちる枯れ葉のような肌を辛うじて保っている、ほの暗い手である。女はその手を恥じ、着物の袖を継ぎ足しそれを隠して過ごした。そして、夜な夜なその手を、鈍い影を放つ月に照らしながら、さめざめと泣き暮らしているのである。それゆえ、周囲の者は女のことを「袖余の人」と呼び、口には出さずとも、心苦し、と顔をしかめていた。

 ある昼下がりのこと、宮廷の庭の一角の木陰に、死にかけた雀が落ちていた。羽は乾いた血によって剥製のようになり、死の底に沈んだくちばしからは、くるる、と音が漏れているのみである。声音は徐々に死を帯びていく。只時折、生を取り戻したように、枝を折ったような声を雀は発した。しかし、人は気づかない。庭を不躾に眺めていた袖余を除いて。

 不幸な女は、油が乾いた機織りが如き音を辿り、幸運な雀の下に座り込んだ。雀は袖余を見るや否や、先程まで声を上げていたくちばしを噤んで、死んでしまった。きっと、太陽に照らされる女の美しさに心打たれたのであろう。その身を包んでいる手が、死よりも恐ろしい生きながらえた醜さを携えているとは知らずに。

 袖余は雀の死を悲しび、せめてこの手でつかむことはよしてあげようと、まくっていた袖を戻して雀を持ち、どこかへ埋めてやろうと庭を歩いていた。すると、一人の男が、彼女を呼ぶ声が聞こえた。声の主は、敦慶親王であった。親王は女から遠く離れたところにいらっしゃったが、女は驚き喜んで、まるで親王がすぐそばにいらっしゃるような心地がした。女はとっさに手を親王からは見えない位置にやった。醜い手を袖で隠していることも忘れて隠そうとしたのか、雀の死骸で親王の御眼を汚させはしまいとしたのか、女にもわからなかった。

 親王は袖余に、この季節は庭に螢がよくやってくるそうだがどうなのか、とお尋ねなさったようだった。女はただ、ゆうぐれは、ゆうぐれは、と頭の中で念じているばかりで、とっさに返事を差し上げることが出来なかった。親王は少し不審にお思いにり、その場を去ろうとすると、女は機会を逃すことを恐れこう言った。

「螢を眺めなさるときは、私を、お呼びになってください」

 その日の昼は、いやに短かった。人というものは、単純でありすぐに崩れるものなのだなと、袖余は思った。女は親王の呼び出しに応じ、夜の庭へと向かった。下品であることも厭わず、女は少し小走りになった。

 夜の庭は、月の影に照らされ何とも趣深い情景であった。土は影を反射して瑠璃のようになっている。木の影はひさしに妙ななまめかしさを与えていた。螢はそのなまめかしさの間を、可愛らしく駆け回っている。黄色い光が、月の影を裂いてはくっ付け、木の影の形をころころと変えている。女は、庭の一角で一匹、白い光を放つ螢がいるのを見つけた。それは無造作に飛び回っているように思えて、庭の一角から離れようとはしていない。その奇妙な違和感が、女の胸を締め付けた。

 袖余が、ひさしの模様のようになっている木蔭に見とれていると、その木蔭が浮き上がってこちらに歩いてくるように思えた。我に返り慌てて正面を見ると、親王がお立ちになっていた。

 親王はやおらに、庭の一角に指をお指しになった。あの一等白い光を放つ螢を捕まえてきてほしい、と仰ったのである。袖余は喜んで庭の一角へと向かった。女が向かうと、白く光る螢は、木の枝につかまった。その隙に捕まえようと腕を伸ばしたとき、月に照らされる自身の手が目に入った。女は、螢を見せる時、自ずとこの醜い掌を親王にお見せすることになってしまうと気づいたのである。袖余はあわててまくっていた汗衫かざみの長い袖を戻した。そうして再度木の枝に目をやった。すると白い光の螢は枝から離れ、くるくると意味もなく飛び回ったかと思うと、女の袖につかまりそのまま淡い光を放ちながら動かなくなった。まるで女の事を待っていたようだった。

 女は螢を優しく包み込み、親王の下へ向かった。螢を包み込んだ袖は、ほのかに白い光を放っている。袖余が螢をお見せしようとすると、親王はそれを止めた。どうやら、白く光る袖を大いに気に入られたらしい。

 袖余は、自身の袖を興味深く、慈しみながら眺めなさっている親王を拝見し、身が裂けるような感覚を覚えた。わが身の中で唯一、そして最も醜いと思われる手のひらを、親王に安らぎの御眼でもって見られているのである。女は、自分の身体の中に、きっちりと納まっていた親王への思いが、顔から、身体から、足から、そして手のひらから染み出でてしまうのではないかと思った。今日の昼、親王からとっさに手を隠してしまったのも、きっと染み出た思いが嗅ぎつけられないように努めたものなのだろうと、女は思った。

 突然、袖の中の蛍が女の手の中で飛び回った。夢見心地であった袖余には、それがとても強い衝撃のように感じ、驚いてひさしから足を踏み外してしまった。ここで手をついてしまっては、螢を潰してしまうかもしれない、そして何よりも、醜い掌を見られるかもしれない、そう思った女は、支えを失った棒のように倒れようとした。その時、親王は女の腕を力強くお掴みになった。女は強い力によって支えられた。長く継ぎはぎされた袖に、あたたかな肌のぬくもりを感じた。それによってより激しさを増した親王への思いは、染み出て袖余の口から解け落ちた。

「つつめども隠れぬものは夏虫の身より余れる思ひなりけり」

 この歌を聞き知った後世の人々は口々に、これこそまことの愛の心である、と語ったそうだ。


出典:大和物語 第40段 桂の皇女に故式部卿宮住み給ひける時

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主水大也 @diamond0830

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