あの日
「アキラさん」
職場を後にして駅に向かう途中、人気のない路地で不意に呼ばれた。
一瞬、自分のことかどうか分からなかった。会社では「佐塚さん」と苗字で呼ばれているから。でも学生時代は下の名前で呼ばれることも多かったし、昔の知り合いかな? と思って振り向いた。
そこには金髪でショートカットの小柄な女性が立っていた。
――知らない人だ。
やっぱり私じゃなかったか、それか名前が偶然同じだっただけで向こうの人違いだったのだろうか。返事をしたものか決めあぐねてしまって、結果私は、女性に向き合う形で立ち尽くしてしまった。
「アキラさん」
女性がもう一度呼ぶ。ということは、人違いではないのか。思い当たる知人はいないが、その声にどこか聞き覚えがある気がした。
――でお待ちの、アキラ様
「あ」
そうだ、彼女は、いつもコーヒーを買う店の店員だ。だから名前を知っているのか。私は注文アプリの呼び出し用のニックネームを本名の「アキラ」に設定していた。
しかし、よく行く店とはいえ、チェーン店の名前も知らない店員に店の外で声をかけられるのはあまり気持ちが良くない。あくまで店員と客という関係だからコミュニケーションが取れるのであって、そうでなければ全く知らない人だ。
「えっと……なんでしょう……?」
そうとしか答えようがなかった。
彼女はツカツカとこちらに歩み寄ってくる。かなり小柄だ。私は平均よりだいぶ背が高いし、その上ヒールも履いているので(相手も履いているのだが)見下ろすような形になる。
「ずっと好きでした。アキラさんの気持ちもわかってます。私たち一緒になりましょう」
私を上目遣いに
「は?」
言われた意味がわからなかった。一緒になる? 私の気持ちもわかってる? どういうこと?
しばらくして、今のは所謂告白なのではないか? と思い至る。
私は――当惑した。
「あの……私、女なんですけど」
とりあえずそう言ってみた。自分が男に見えるとは思わないが、身長がありマニッシュなファッションを好むので、もしかしたらなにか勘違いされているのかもしれない。と、同時に、相手が女性を好きな人――レズビアンだったら、失礼な言い方だっただろうか、とも思った。
いや、夜道で呼び止めていきなり告白してくる方が失礼じゃないか。まだ混乱している。
「当たり前ですよ! 私が男なんて
女性は突如激昂した。分からないがまずい物言いをしてしまったらしい。ダンダンッと片足で地面を踏み鳴らす様子が恐ろしくて、私は思わず後ずさった。
「いや、その、女だからというか、私はその、か……パートナーがいるので……」
ごめんなさい、すみません、と言いながら、私はじりじりと後退していく。
彼女はその場に立ち
「そう。私よりあいつを選ぶの」
低い声でそう呟く。
あいつ? 彼のことを知っているのか?
「アキラさん、後悔しないのね」
彼女の言葉の意図はわからなかったが。
「後悔しませんっ。もうすぐ彼と結婚するので、なので本当にごめんなさい! あなたの気持ちには応えられませんっ」
そう言った。
「……分かった」
意外にもあっさりとそう言って、彼女は
あの日――私はどうすれば良かった?
激しいノックと怒号が響く中、トイレの隅で小さくなって考えている。
あの時、彼女の告白を断らなければ良かったのか? そうしたら今こんな目に遭っていなかった?
でも、その場は切り抜けられたとして、私は彼女と付き合うことはできない。それなら結果は同じだったのではないか?
無言電話や手紙の嫌がらせも、ちゃんと警察に相談した。でも女同士だし、私が普通より体格が良いからって真剣に取り合って貰えなかった。
背が高いだけで運動や格闘技をやっていたわけじゃないし、凶器を持ち出されたらひとたまりもない。
現に今、ドアの向こうで狂ったように叫ぶ女は、手にナイフを持っている。私はそれが恐ろしくて仕方がない。
たしかに今日は迂闊だったかもしれない。一人で出かけないためには通販の利用は必須で、ちゃんとインターホンを確認して、玄関横に荷物を置いてもらうように指示した。
配達の人がいなくなったのを確認してからドアを開けた。ダンボールを両手で抱え、キッチンに運ぶ。そして玄関の鍵をかけようと振り向いたら――ナイフを持った女が立っていたのだ。
たった数十秒、その気の緩みが彼女に隙を与えたのだろう。
反射的にトイレに飛び込んで、今に至る。
女の金切り声で頭がおかしくなりそうだ。どこにも逃げ場はない。連絡手段もない。隣の住人が気付いて通報してくれるのを祈るしかなかった。
ダンッ! ダンッ! 扉が大きく揺れる。
ダンッ! その時、ガチ、と金属質な嫌な音がした。
――ドアノブの金具が緩みかけている。
慌ててノブを押さえようとするより一瞬早く、
バンッ
扉が、開いた。
「アキラさん」
先程までの怒号が嘘のように、女はうっとりと夢見るような声で言う。
――
そう自分を鼓舞しても、腰が抜けてしまって立ち上がることもできない。目は女の右手に釘付けになって、声も出ない。
怖い、死にたくない!
「泣かないで」
そう言われて初めて、自分が涙を流していることに気がついた。
女の顔が目の前に迫る。でも私は、左側から目が離せない。
「やっと一緒になれるね」
涙で
事の起こり/成れの果て ナツメ @frogfrogfrosch
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