殺さないっ! 後編

「ユー……リス……?」 

 正気を失った彼の顔が視界を塗りつぶす。カタカタと小刻みに震える手が、しっかりと私の肩を掴んで離さない。

「殺す……なんっ、何……なんで……っ!」

 喉に血でも絡まっているのかと思うほどに、ひどく擦れて荒れた声がする。薄暗くてよく見えない視界の中で、兢々きょうきょうとするユーリスの顔だけが分かった。

「アナリー、君は、俺たちが君を殺すと、君は俺たちに殺されると、そう思って此処に来たの?……ずっと、そう思ってきた?」

 此処から逃げる術がない。私は、素直に頷いた。

 鏡を通って、生きて帰ってきた人は今まで一人もいない。ならば、お前たちが食い殺していると考えるのが自然だろう。

「鏡の奥から帰ってきた人間は、いないわ。」

「…………‼」

 見た目が幼くとも、普段の態度が幼くとも、身体は大人の男のものらしい。勢いよく、私は顔を歪めたユーリスによって、近くのベッドへと叩きつけられる。

 その力強さが、逆に弱い。攻撃は最大の防御だとどこかで聞いたことがあるけれど、ならば彼は、何から己を守っている気になっているのだろうか。

「誰も、帰ってきてないって……?そんな、どうして……。」

 自我を何者かに奪われたような目をして、ベッドに横になった状態の私の目を見る。彼が、音が聞こえてしまいそうなほど、強く歯を食いしばる。

 彼の目から、硝子玉のような涙が溢れて零れ、私の頬に幾つも落ちた。一滴ひとしずくが私の目尻に落ちた直後に、彼はありったけのエネルギーで私に訴えるように叫んだ。

「……俺たちは、俺たちはそんなことしないっ!殺さないっ!理由もなく奪うなんてこと、そんな、こと……。」

 勢いのまま叫んだせいで、彼は勢いよく咳き込んだ。落ちる涙を拭うこともせず、その真っ赤で純粋な瞳が、私の姿を捉える。

「誰も帰ってきていない理由は、分からない……。去年此処に来たアイサは未だ鏡の奥に居るけど、その他の人は全員、マチレに返したはずだよ。戻っていないなんて、そんなこと。」

 ユーリスはやっと落ち着いたのか、押し倒した私の身体を優しく起こす。新しく筋を伝う涙が途切れていないけれど、真剣な瞳で私に向き合う。

「今まで、全ての人が俺たちに怯えていた。“過去の話を恐れている”んだとばかり思っていたけど、誰も帰ってきていないというなら、話は別だ。アナリー。俺たちは、理由もなく人を殺さない。」

 ユーリスが、気まずそうに目を逸らす。それから、ぼやけた声で呟いた。

「……確かに、欲に溺れてうずもれて、人を殺めたことがないわけじゃ、ない。……でも!」

 ユーリスが、私の手首を力強くつかむ。冷えた手が、落ちる涙で濡れていくのが分かった。

「人を殺したくて殺しているわけじゃない。そもそも、殺したことの方が稀で、普通はそんなことにはならないんだ。」

 私の手を取ったユーリスは、その手を自分に近付ける。縋る様に、自分の額に近づけた。

「信じて……。アナリー……。」

 子供のような、本当に幼い子供のような涙声。一人になるのを恐れた子供が大人を求めるような、そんな危うさが窺えた。

 そっと、彼の金色の細い髪に触れる。ユーリスは目を閉じて、目にたまっていた涙を落とした。

「……ええ。分かった。」

 私は、最大限柔らかい声で言った。ユーリスの目に、ぼうっと光が灯る。

「誰も帰ってきていない事実は、これから原因を調べていきましょう。そして、ユーリス。私は元から、貴方達に喰われるために来ていたのだから、寧ろ安心したくらいよ。……貴女こそ、私に怯えないで。」

 ユーリスが、やっと自分の涙を拭う。それから、微笑を浮かべて頷いた。

 その様子を見て、私はワンピースの一番上のボタンを外し、首筋を見せた。

「吸わないの?」

「……いい、の?」

 なんでダメだと思うのよ。今、貴方達に喰われるために此処に来たのだと言ったでしょう。そもそも、二人きりになったのは、それが目的なのでしょう。

 ユーリスの指が、冷たく震えたままの指で、私の首筋をなぞる。覚悟を決めたように、一度強く目を閉じると、「分かった」と呟いた。

 体を引き寄せられる。彼の牙が刺さったのが分かる。餓えた獅子の子供のようにすら見えた彼は、声を出さずに血を吸い続けていた。

「……。」

 暫くしてから、彼が私から体を離した。傷口にそっと手を触れると、そこは綺麗に治っていた。

「……ごめん。」

 その謝罪の意図が分からない。首を傾げると、ユーリスはぎこちない笑顔をこちらに向けた。そして、ゆっくりと、丁寧に頭を下げた。

「ありがとう。……図々しいとは分かってるんだ。でも、これから、よろしくお願いします。」

 人を殺めたことがある__そう言ったときの彼の顔は、恐怖に満ちていた。

 それでも、血を得なければ生きていくことはできない。それは彼らにとって、どれほど残酷に用意された道なのだろう。

 ユーリスに向かって、私は大きく頷く。それから、明るく笑って見せた。

 ユーリスの顔も、しっかり笑顔になった。


○○○○○○○○○○○○○


「そういえば、すっかり忘れていたわ。これをリーダーに渡すようにと、レイネルから頼まれていたの。」

 私は、近くにあった机に適当に置いていた資料を持ち上げた。それから、自分のワイシャツの襟を正しているユーリスに渡す。

「ああ……、忘れてた。毎年来るんだよね、これ。」

 ユーリスは、無表情のまま、資料に目を落としながら呟く。リーダーに、と言われていたので、私は彼に必要事項を伝えるべく口を開いた。

「じゃあそれ、ディロップ・ファロウに渡しておいて……。」

「了解。これは俺が処理しておく。」

 ……ん?

「え、リーダーにって。だから、ディロップに……。」

「へ?ディロップアイツ?」

「え?」

「……え?」

 アイツ?と聞かれましても。リーダーに渡せって言ってるんだから、リーダーに渡さないと……。

 あれ、ちょっと待って。

「ユーリス、一つ聞いていい?」

「……何?」

 ユーリスが資料を片手に持ちつつ、訝しげに眉根を寄せる。その態度に、私はそろそろ勘付いた。

「此処の吸血鬼のリーダーって……誰?」

 ユーリスが、首をゆっくりと傾げてから声を発した。

「俺……だけど……。」

 暫し、両者無言。それから、私は全力で叫んだ。

「……う、うそでしょーっ⁉」

「本当ですけど⁉」

 ユーリスが、疑うなという目をして、私に向かって言い返した。

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