乙女想う、故に信憑あり

阿村 顕

麻桶毛

・この儀式は満月の晩、午前二時から午前二時半の間に行ってください。

・洗面器に水を溜め、その水面に満月を映します。

・自分の髪の毛を一本抜き、洗面器内の満月に潜らせます。

・そして「髪よ伸びろ」と強く念じながら、「アサオケ」と十回唱えましょう。


 夏休みが終わり今日から新学期。長期休みを終えると何人かは、急に大人びたり垢ぬけたりする。俗に言うイメチェンというやつだろう。

長期休みで変化をつけて気になる「あの子」又は「あいつ」をドキッとさせてやろうという戦略的なものから、夏に起こった事件や出来事により自ずと変化したものまで様々な原因が考えられるが、私の前の席の高坂松乃は前者であると断言できる。

松乃とは席替えをするまではみんながいる中で二言三言話す程度の中であり、仲が悪いというほどではないが仲が良いとは決していえないそんな間柄だった。

だから席が前後になったとき、正直私は気まずさを感じていた。全く話さない人であれば会話もしなくて済むので楽だが、少し関係を持っている人は気を使って会話を成立させないといけない。

こういう仲の人と話したあとは家に帰ってから自動的に大反省会を一人で開催することになる。「あんなこと言わなければよかった」「なんで話題を振っちゃったんだろう」等今日の会話がぐるぐる頭の中で反芻してしまう。私の中にある会話という体力ゲージが削られる。本当に嫌だ。というかぶっちゃけ同年代との会話が苦手なのだ。同年代との会話は感情が渦巻く。どちらが上か白黒はっきりさせたいのだろう。

またその中に恋愛感情が混ざりぎらついた腹の探り合いも関係してくる。よくクラスメイトの「センコーうぜぇ」という愚痴を耳にするが、先生は授業やテストをそれなりにこなしていれば一線を超えて関わってくることもないし、表面だけでごまかせるからなにが「うぜぇ」かわからない。

逆になんで「うぜぇ」のに先生と関わりができる行動をするのか。不思議だ。ツンデレなのだろうか。以前、争いは同レベル同士でしか起こらないとかなんとか聞いたことがある。先生はきっと心のどこかでは「上」だと思っているから何ともないのだ。何だかんだ私自身この狭い教室内での自分のランクを落とさないよう争いに無意識のうちに参加しているため、この面倒くさい感情が沸き上がってくるのだろう。

 だが、自分でも驚くことに松乃とは馬が合った。それ故に踏み込んだ会話をしなくて済んだのだ。松乃も自分と同じように考えるタイプだと多くを語り合わなくても理解できたし、彼女も同様だった。

私たちは傍から見たらクラス内のグループも異なるし、二人での会話も当たり障りのない内容のもののみだったため、仲が良いとは誰も想像し得なかっただろう。休日二人で遊びに行ったりもしないし、まして家に踏み込んだりしない。生年月日や家族構成、家庭事情等彼女における情報も他のクラスメイトより知らないが、それでも私と彼女はこの狭い教室の誰よりも大切な部分で繋がっていた。

私たち二人だけがわかっていた。

 そんな彼女が夏休み前、もう随分蒸し暑くなった息苦しい教室で唯一立ち入った話を振ってきた。誰にも言わなかった、いや言えなかったと表したほうが正しい相談事を打ち明けてきた。

なぜあの放課後、私は彼女と二人きりだったのか、今考えてみても全く思い出せない。こんなちっぽけなことに使う言葉ではないとはわかっているのだが敢えて強い言葉を使用させてもらいたい。

運命だったのだ。

「私、好きな人がいるんだ」

 私は最初彼女の口から響き紡がれた音が言葉となって耳に入ってきた内容に心底がっかりしてしまった。と同時にそのひとことでごくごく普通の女子中学生の相談内容だと推測してしまい、自分勝手に彼女を理解者であると論理のない直感的部分で断言していたことに対して、とても恥ずべき事実のように感じてしまった。その羞恥心を感じてしまったが最後、この場からすぐ消え去りたい衝動に駆られて仕方がなかった。

その相談内容であればもっと適任がいるであろう。それこそいつも同じグループの真紀や明海は彼氏もいるし大の恋バナ好きのはずだ。

まあ、要らぬお節介やマウントを取ってくることを考えて、気持ちを整理するための話し相手という名目であれば、確かに恋愛経験が乏しく、なにも面倒くさいことを言ってこなさそうな私は適任といえるが。

「彼ね、髪の長い女の子に目がないの。髪が長ければ他の部分は多少好みでなくとも許容できちゃうくらいに、本当に髪が長い人が好きなんだって。私、ショートボブだから彼の唯一の好みに当てはまらないの。生まれてこの方髪を伸ばしたことがないし、前に一度髪を伸ばそうと試してみたことがあったんだけど肩につくかつかないかくらいになると顔にまとわりついてくる髪が鬱陶しいったらありゃしなくて。結局伸ばせず仕舞いだったんだ。それにね、もし今からロングヘアを目指しても約2年かかるって美容師さんに言われたんだ。二年後っていったら私たちもうこの中学を卒業しているわ。それじゃあ間に合わない」

 ゾクッと背中に嫌な感覚が走った。

何だかわからないがこの話はやめにしたほうがいい。

私の直感がそう告げている。よくないことが起こる。

まず髪という気軽に変えられるものに対してそこまで執着の強い人間はやめたほうがいいような気がする。

私は定期的に髪型を変えたくなるほうなのだが、それはきっと自分に飽きるからだ。ほかの箇所の変化はかなりお金がかかったり、痛みを伴ったりするが髪は別だ。中学生であるため、実際ブリーチをやったことはないが痛いと聞く。だが、皮膚に注射で液体を入れたり、穴をあけたりメスを入れることよりはマシなのではないか。

人間がよく見る部分である顔の大部分を占めているのが髪だ。髪の毛は印象を多くに左右するため、飽きが来た人間には手早く変化が感じられる部位のため、ぴったりである。お手軽に変化させることができ、更にかなりイメージも変わる。

その楽しみを奪う彼のことをずっと好きでいれるのだろうか。今、この好きが高ぶっているときはいいと思うが、手に入った後、そのモチベーションは続くのだろうか。

彼のロングヘア好きはわからなくない。先ほども思考した通り、印象の大半を占める髪に拘りがあってもおかしくない。そういう雰囲気が好きなのであろう。

まあ、最初は好みの見た目から入ったとしても一緒にいるうちに他の良さも見つかって、別にロングヘアが好みでもショートヘアの自分の彼女が好きになっていくのだろう。

だから、そこまで気にしなくていいのかもしれない。そう頭ではわかっているのだ。

わかっているのだが彼女の口ぶりに妙に引っかかる。

彼といるためにはずっと「絶対ロングヘアでなければいけない」というような、破ってはならぬ法律が二人の間にあるように聞こえる。

彼好みのロングヘアになるために二年かかると間に合わないとも言っているが同じ高校に行けばいいのではないか。そんなに好きなのであれば自分の学力より上の高校でも努力できるだろうし、以前伸ばした時と違って目的があるのだから伸ばし途中のうざったい髪の毛だって、目的のための手段になるのであればきっと我慢できる。

ああ、この教室何だかんだうだるように暑い。

髪が顔にまとわりつくぐらい大量に汗をかいている。こんなにも色々思考して、言いたいこともたくさんあるのに暑さにやられてしまったのか全くやる気が起きない。

だるい。だるいだるい。だるいだるいだるい。

口があかない。汗で口が張り付いたみたいだ。なんだこれ。

考えられない。


「だからね、おまじない、しようと思うんだ」


「中学生にもなって何言ってんだって思うかも知れないけど、藁にも縋りたい気持ちなの。ううん、嘘ついた。飛鳥ならそんなこと思わないし、馬鹿にしたり変な噂流さないって分かっていたから相談した。ここまでの話は決定事項だし、ここからの話はお願いだから正確には相談じゃないね。前置きが長くなって本当にごめん。ここからが飛鳥にお願いしたいこと。おまじないして何事もないデタラメだった場合は、それこそこんなことまでしてもダメだったんだからってあきらめられる。けれど、もしうまくいった場合、誤魔化すの手伝って欲しいの。飛鳥は気付いてないみたいだけど、クラスのみんなあなたのこと一目置いている。あなたが話すと妙に納得してしまう。この間の給食の時だって、係の女の子が一人で味噌汁の食管運んでいたら重すぎて手を滑らせ、全部廊下に食べられてしまったときあったじゃない。その時あなたすっとその食管の横に立ったと思ったら、中を指差して『虫』とひと言だけ発したじゃない。それで教室中が食べなくてよかったぁっていう雰囲気になった。実際虫が入っていたかはわからない。でも飛鳥が言うなら入っている。この教室にはそんな暗黙の了解があるの。でもその発言のおかげで救われた人は何人もいる。まずこぼした女の子。そして、先に軽い食管を運んでしまった男の子。責任感が強い女子の『ちょっと男子ぃ~』を聞かなくて済んだ私を含めた他のクラスメイト達。あれが始まってしまうと否が応でも男女で憎みあわないといけないから。先頭に立っていがみ合う人達はやりたくてやっているんだろうけど、その他大勢の私たちは合わせているだけ。飛鳥の発言は私たちを助けてくれるからみんな真実よりも飛鳥が言った、行動したという事実を尊重してしまうの。あなたがまあ、そういうこともあるんじゃないと発言してくれたりそれがあたかも普通だと行動してくれさえすれば、この教室ではあなたが発言した、行動したという事実だけが残ってみんな納得する。面倒ごとには極力巻き込まないと約束するから。お願い」

 松乃の瞳は真っ直ぐ私を捉え、視線が私をつかんで離さなかった。

熱を帯びたその瞳がこの閉鎖的な教室の温度をさらに上げている。

暑い。

口が張り付いたままで松乃に返事を返すこともままならない。早くここから、この教室から出ていきたい。

暑い暑い暑い。

「じゃあ、お願い、ね」


「迷惑かけて、ごめん」


 最後の言葉は喉の水分を何者かに奪われてしまったような、ひどく掠れて小さな音だった。

松乃は私の返事も聞かず、足早に教室を後にした。

まるで私の口が開かないのがわかっているかのようだった。

松乃の声を奪った原因もきっときっと。

彼女がいなくなった教室からは先ほどまでのうだるような暑さは消え、あんなにだるくて堪らなかった体もなんともない。張り付いてた口も、動く。

口をパクパクさせてみると違和感を感じた。自分の髪を食っている。払おうと髪を触ると両頬に大量の髪の毛がペタリと汗で張り付いている。

私はやっと気付いた。

私の口が張り付いて離れなかった理由が。



 夏休み明け、久しぶりの人間の訪問に教室が高揚を隠しきれていないように感じる。

長期休みが終わって欲しくないというものの感情と休みが案外長く感じてしまい、既に学校に行きたいと考えるものの感情が合わさって大きな渦を作っている。一人一つの感情というわけでもなく、一人の人間の中に二つの感情が自分の無意識化で出現している人も多数だ。

夏休みから登校のような変化がついてしまうとき、どうしても感情は普段より大きく強くなってしまう。異様な盛り上がりを感じる新学期の教室を前に少し憂鬱になる。

私のこの感情すら吸い込んでさらに教室は高揚していくのだろう。

 一歩教室に踏み込む。二歩三歩四歩。「おはよう」「久しぶり。元気だった?」五歩六歩。「宿題終わった?」七歩八歩九歩。「おはよう。夏休みどうだった?」「お土産ありがとう。旅行行ったんだぁ。いいなぁ」十歩十一歩十二歩十三歩十四歩十五歩十六歩十七歩。


「おはよう」


 私は、顔を上げて真っ直ぐ前を、前の席の彼女を、高坂松乃を捉えた。違う。動作的に捉えたといって間違いないのだが、私の思考の方が彼女を捉えそこなっている。

誰だ。こいつは。

彼女の髪は艶やかな黒髪で鎖骨下まで伸びている。

伸びている。

具体的にはわからないのだが、こう全体的に大人にというか成長している。

夏休み前は同じ目線だったのだが、今は彼女の方が少し高く感じる。

待て待て待て。

あの放課後のせいで私が変に意識してしまっているのだ。

中学生なんだから、なんていうか、こう、あれだ、あれ。成長期。

短期間で背が伸びたって問題ない。至って普通。至極当然。当たり前。

でも、「普通」ってなんだ?

考えるのはやめよう。私が今すべきことは一つじゃないか。

「おはよう」

 私は彼女に微笑みかけた。ごく自然に。

これが「普通」であると自分自身にも信じ込ませるように。日常に染み込ませ、境界線を曖昧にしていく。

それが彼女との約束なのだから。


 メキメキッメキッ。

 何の音だろう。わからない。わからない。

 メキキッ。メキッ。メキメキッ。

 嫌だ。嫌だ嫌だ。嫌だ。嫌だ厭だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。厭だ。

今日一日わからないことばかりだ。理解できないというのは恐ろしい。早く、一刻も早く眠ってしまいたい。現実にいるのがつらい。

この嫌な気持ちの悪い感覚から解放されたい。

なんなんだ。私は一体何を感じているのか。わからない。わからないから厭だ。

解らないのは堪らなく、嫌だ。

メメキッメキッ。メキッキ。メキメキッ。

楽しそうに真紀と明海と話す彼女の会話が聞こえる。

弾むような声色はまるで歌でも歌っているかのように軽やかに旋律を奏でている。

「彼氏。出来たの」

彼女の少し照れくさそうではあるが、隠しきれない幸せいっぱいの音が喉からあふれ出す。

それを待ってましたと言わんばかりに真紀と明海は手を握り、目を合わせたかと思うと飛び跳ねた。ワァーッキャーッひとしきり騒いだ後、彼女にお祝いのお言葉をかける。

「松乃垢ぬけたもんね」なんて言葉で彼女の変化を片付けた。

メキッメキッ。メキメキッ。メメキキッ。

意を決して音のする方を確認する。正直、何処から発せられたものかは解っていた。

だが、それを理解してしまうと次は、私には絶対的にわからない、理解不能な事態と向き合わなければならなくなる。

それがどうしようもなく厭なのだ。

しかし残念なことに私という人間は、いや昔話や神話でそのタブーを冒してしまう者が多いのでもしかしたら人間そのものの性なのかもしれないが、見てはいけないと思えば思うほど、厭だと考えれば考えるほどに、そのダブーを超えてしまう。

声が出そうになるのを必死で堪えた。彼女との約束を破ってしまうからだ。

もし破ったら私はどうなってしまうのだろうか。

メキッ。メキッ。メキッ。


彼女の髪が伸びている。


腰まである。今もなお、この瞬間にもまだ音を立てて伸び続けている。

あぁ、もうだめ。帰りたい。この教室から出ていきたい。

でも、そんなことはできない。私が「普通」じゃない行動をとってしまえば、この教室のみんなが気付いてしまう。

私が「普通」の行動をとっているから、みんな変化には気付いているが、この変化は「普通」と認識しているのだ。

あの時、あの放課後、私は私の理解の及ばない“何か”と契約させられていたのか。

彼女と私と“何か”。

契約放棄の場合の罰がわかっていれば、対策の立てようもあるがその一番の重要事項がわからない。

ただ従うことしかできない。

全ては過不足なく彼女の思いのままなのだろう。

明日からの学校も憂鬱だ。早いとこ、この「日常」に「普通」に慣れなければならない。

大丈夫。大丈夫。

根拠のない鼓舞を自分自身に捧げた。そうでもしないとやってられない。

何だかんだ人間はどんなことにも慣れてしまう。

それが己自身の命のかかった恐怖であろうが。


「松乃ちゃん、今日休みなんだって」

 翌日、私が教室に入ると仲良しグループの棗が、会話へ何の気なしに織り交ぜた話題の一つであったそれは、ひどく私の心に安らぎを与える。

 ハッと我に返ると、急激に不安が押し寄せてくる。

 私は今ちゃんとほっとした表情を隠せただろうか。

私の目、眉、鼻、口等の表情を作成するパーツ達は心配そうな動きをしただろうか。

仕草は、雰囲気は、感情は。ちゃんと心配出来ている?

わからない。

不安だ。

わからない。わからない。わからない。


それから一か月、彼女は学校に来ていない。

真紀と明海がプリントを持って彼女の家を訪れているのだが、一切姿を現さない。

それどころか彼女の母の話によると、部屋から出てこなくなってしまったらしい。家族にすら顔を見せない。

この状況を鑑みた学校側はいじめの可能性を疑って、アンケートを取る始末だ。いじめなんて勿論なかった。

むしろ、夏休み明け初日はいつもよりも幸せそうな彼女をクラスメイト達は目撃しているのだ。

そうなると、ただ一つ思い浮かぶのは彼氏との間に何かあったのかということなのだか、本当に何もないらしい。彼氏である先輩も何が何だかさっぱり見当もついてないらしい。会いに行っても絶対出てきてくれないみたいではあるが、SNSでのやり取りはちゃんと返信してくれるらしい。

ただ肝心な何故姿を見せてくれないのかという問いかけに対しては「ごめん」とひと言だけでそれ以上は何も話してはくれないそうだ。

私の方はちゃんと「普通」か不安ではあったのだが、何も起こらない毎日に安堵して慣れて、いや、馴染んでしまった。

近頃ではクラスのみんなと同じように心配し、また彼女のことを忘れて、日常を過ごした。

その日は、九月も後半というのに異常気象でうだるように暑かった。

まだ衣替え期間だったため、半袖でもよかったのだが丁度前の週の週末に母がクリーニングに全ての半袖シャツを出してしまっていた。長袖シャツをまくり上げていたのだが、折りたたまれて何重にもなっている部分がやけに暑い。肘窩から出る汗を全部吸い取って更に重くなる。

気持ち悪い。

自転車通学のため、どのように対策していても汗が噴き出す。首回りがベタベタする。髪が張り付く。

気持ち悪い。

少しでも気持ち悪さを軽減させたくて、シャツの第一ボタンを開ける。首周りの髪をかき集めて、一つにまとめようと試みるがうまくいかない。首にまとわりついて掬い取れないのだ。暑すぎて汗が止まらない。きっとそのせいだろう。

本当に気持ちが悪い。

早く汗を拭いて髪をまとめてしまおう。私は、登校して真っ直ぐ教室へは向かわず、鏡のあるお手洗いに向かった。タオルで汗をある程度拭きながらお手洗いへ向かう。到着後、カバンの中から汗拭きシートを取り出す。


「ヒェッ」


鏡を覗いたそこには、首を髪の毛に締め上げられている女が写っていた。

 声を、出してしまった。

よくない。よくない。

よくないことが起こる。失敗した。

反応、して、しまった。

助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて。


急いで髪の毛をかき分ける。自分の髪の毛の三分の一ほどが触っても触っても掬い上げられない。

嫌。厭だ厭だ嫌だ。厭だ嫌だ。厭だ。

う、埋まっている。首に髪の毛が埋まっている。

この巻き付いて嫌悪感を首元に与えている髪は皮膚の下なのだ。

だから、触れない。

な、んで?

 わからない。わからない。わからない。

 理解が追い付いてこない。

 メキッ。

 あの音だ。

 メキッ。メキッ。

 首に埋まっている髪がどんどん伸びているのか。いや違う。私の首を締め上げ出している。このままだと「何か」に殺される。

私が約束を破ったから?

どうしよう。どうしよう。どうにかしなくては。

彼女に会おう。

そして、どんな約束を私としたのか聞こう。得体のしれないものの対策や打開案は生み出せない。まずはそれからだ。

そして、文句の一つでも言ってやろう。なにが「迷惑かけないから」だ、迷惑かかりまくりじゃ、ボケッと。

 私は残念ながら彼女の家を知らない。早退しつつ彼女の家の場所を聞けるか?幸い締め上げるペースは大分ゆっくりだ。これなら、放課後まで持ちそうではある。

だが、この首を気にしながら学校生活を過ごすのは流石に無理だ。生きた心地がしない。

平常心でいられるわけがない。また何かの拍子に反応してしまい、締め上げるスピードが上がったらと考えるとリスクが高すぎる。

ましてや、何もしなくとも締め上げるスピードは徐々に上がる仕組みかもしれないし、彼女とあったらこれが収まる訳ではない場合、解決策を考える時間だってあればあるだけいい。家は真紀と明海に聞くのが一番いいが教室に行くのは厭だ。

あそこには、いる。約束してしまった「何か」が。

となると担任に聞く。これも却下だ。今から早退する生徒が現在不登校の生徒の家を聞くなんて誰でも不審がる。

待てよ。私は今日まだ教室にいってない。まだ誰にも会ってないじゃないか。幸い朝の挨拶のために生徒会が校門にたっていなかったし。

ついてるついてる。

まあ、首にも憑いてるから今のところ、プラマイマイナスだけど。ははは、笑えない。

朝の自習時間は先生が来ないし、朝の会にいなかったら一時限目の開始時間にきっと家に電話がかかってくる。

今は八時。

一時限目開始時間は八時四十分。

家までは三十分だから間に合う。

「よしっ」と自分の両頬をビンタして気合を入れる。やるべきことが見えてきた。他の人から首元を隠すようにシャツの第一ボタンをしっかり閉めた。

 私は生徒用の昇降口で誰にも見られないように自分の外履きを手に取る。

幸いこの時間はもう遅刻ギリギリのため、ちらほらしか人は来ないのだが念には念をいれてこちら側からではなく職員用の玄関から外へ出る。

この時間にくる教師は遅刻のため、いない。外側からは開かないようなっているが中に鍵がついているので内側からは簡単に開く。職員玄関の閉まっていなくとも今日の鍵閉め担当の先生がどやされるだけですむだろう。

こちらは命がかかっているのだ。大目にみて欲しい。

ぐるっと遠回りをして人目につかない草木に覆われた道を通る。通り抜けた先が自転車置き場だ。

自転車置き場にはフェンスが壊れていて、校門を通らなくとも外に出られる抜け道がある。そこを通って後は家まで全力で自転車を漕ぐ。

漕いで漕いで。漕ぐ。漕ぐ。漕ぐ。

この暑苦しく肌に絡みついてくる空気を振り払って風を感じるだけ、全力で漕いだ。

家に着くころには、途中で川に落ちたのかというほど汗でずぶ濡れだった。

ガチャガチャ。

鍵が上手く入らない。

ガチャガチャ。落ち着け。

ガチャガチャ。落ち着け。落ち着け。

今焦っても意味ない。寧ろ状況が悪化するだけ。

ガチャガチャ。ガチャガチャ。

駄目だ。考えれば考えるほど焦りが、不安が、大きくなっていく。

ガチャ。ガチャ。

落ち着け。落ち着け。落ち着け。


落ち着け。


バチンッ。

頬を力一杯叩いた。

何をやっているんだ自分。そんなことをしていたって、誰も助けてはくれない。いつまで誰かが、何かが助けてくれると思っているのだ。心の何処かにそんな思考があるから、悠長に焦ってなどいられるのだ。

願っているだけでタイミング良く奇跡は起こらない。

現実は少女漫画じゃないから、やばいやつに絡まれたってヒーローはやってこない。少年漫画じゃないから、ピンチに仲間は駆けつけない。

現実は自分から動いてどうにかするしかない。ひとりで解決できなければ、自分から助けを求める。察してもらおうなんて考えは馬鹿のすることだ。

自分勝手な理由でこんなおかしなことに巻き込まれたんだ、私だって自分勝手に助かってやる。絶対お前たちのためなんかに死んでやるもんか。

カチャッ。

鍵が開いた。


八時三十五分。学校に欠席の連絡を入れる。担任ではない先生が対応したため、全く怪しまれることなく母のフリを遂行出来た。

次は彼女の住所だ。リビングの壁に貼ってある緊急連絡網を見る。彼女の電話番号をメモし、そのまま父の書斎に向かう。私の歩みに迷いは消えた。

家のパソコンは少し古い機種だからか、起動するまでに時間がかかる。スイッチを入れて起動するまでの間に軽くシャワーを浴びて、着替えをしよう。

落ち着いたら、衣類が張り付いて気持ち悪い。流石にこの気温でも、今に汗が冷たくなってさらに衣服と肌の親和性は最低を刻々と更新していくだろう。

シャワーを浴びていると嫌でも首元に視線は釘付けになる。自分の意志ではどうにもできないそれは先ほどより深く首に埋め込まれており、着実に私を殺しにかかっている。

今までは怯えて恐怖心に支配されてしまっていたが、この瞬間から私の感情は恐怖よりも怒りが強くなってた。沸々と沸き上がる怒りに心は煮えたぎっていたが、頭は至って冷静だった。

風呂から上がるとパソコンはすでに起動していた。パスワードを打ち込む。私の誕生日だ。そこに隠されている愛が死んでやるもんかという気持ちを強くさせた。

インターネットで電話番号を検索する。広範囲でしか住所が出てこない。だが、カーナビであれば住所がかなり絞られるという情報を手に入れることが出来た。

すぐさまパソコンの電源を落とし、車庫に向かう。車の鍵はいつも運転席のサンバイザーの間に挟めてある。不用心な人達である。お陰でエンジンをいとも簡単にかけられたのだから、今は感謝すべきだ。

しかし、私の口からぽつりと車内へ生み出された単語は「ごめん」だった。

カーナビに電話番号と苗字を入力する。住所が表示された。大成功だ。目印になりそうな建物とその周囲の地図をメモする。多少はズレが生じるだろうが表札をみれば何とかなるだろう。「高坂」という苗字はこの地域多い苗字ではなくて本当に良かった。

少しずつではあるが運は私に傾いている気がする。まあ、マイナススタートだから、ゼロになるように帳尻合わせしているだけだろうが。


同じ学区なのだから当たり前のことだが彼女の家は案外近いところにあった。自転車を漕いで、この先の十字路を右に曲がった辺りが彼女の家だ。ペダルを漕ぐ足に力が入る。スピードを落とさず、そのまま右折した。

私は驚愕した。

曲がった先の木から何か黒いものがひらひらと風に揺れていた。

その謎の物体が髪の毛に見えた私は、目を奪われてしまった。

ガシャーーーーンッ。

地面を三回転ほどした。今の回転は体育の器械体操の授業中であれば、先生にかなり褒められるほどの勢いのある見事な技だったに違いない。

そしてやはり運は私に傾いている。自分でもびっくりするほどきれいな受け身を取り、アクションスターばりに回転の遠心力を利用して立ち上がったのである。十点満点。スーパープレイのおかげですり傷程度済んだ私はすぐさま状況を確認した。

先ほどの木に目を向けてみると黒い何かは塀をよじ登っている学ランを来た人間だった。人間は妄想する生き物であるとはよく言ったものである。夜中、不気味な雰囲気にやられて木が幽霊にみえて怯えるような種族だ。私は今何でも黒いものは髪にみえてしまう病に侵されている。


「君、大丈夫か?」

木の上の少年から声をかけられ、再び彼を見つめる。

それが彼、「雲林院 怪」との出会いだった。

今思うと恥ずかしいし、もうそんな印象は彼に更々、微塵も、一ミリもないのだが、この時私は運が付き始めた自分に天界とか何か光の存在というかなんていうかから、天使や妖精の類が送られてきたのだと感じた。

それくらい夏のぎらついた日差しのまぶしさは神々しく、そんなものに照らされた彼は厳かで神聖な美しさがあった。

太陽の光を浴びて透けるように白い肌にはこの暑さで学ランなのに汗一つかいておらず、それとは対照的な漆黒の髪はどこまでも光を通さなかった。その白と黒のコントラストが息をのむほど美しかった。

漆黒から除く瞳は何色もの色が混じっているようにみえるのに透明感がある。吸い込まれてそのまま瞳に閉じ込められてしまいそうな不思議な魅力に溢れた瞳だ。

既に中学二年生なのだが、中々ちゃおの購読を辞められず、毎月今月号こそは購入しないと意気込んで結局ダラダラ引退時期を延ばしてしまうほど筋金入りのちゃおっ子だった私はつい、「私が主人公のファンタジー少女漫画が始まった」と本気で考えてしまった。

数ページ前の自分が聞いてあきれる話だ。

多分厨二病も合併発症しているため、すぐ運命的に思考してしまう。そういうお年頃なのだ。大目にみて欲しい。

みんな誰しも美少女戦士や魔法少女にもしかしたら選ばれる日が来るかもなんて一度は考えたことがあるはずだ。そう信じている。

私は漫画やアニメの主人公っぽくキョトンとして察しが悪く大げさな感じを演じなければという使命感に駆られ、少し間をあけてから答えた。

それが出来ないと「魔法少女アスカ」が早速打ち切りになってしまう。先生の次回作に期待されてしまう。折角の機会なのにそんなの絶対に無理。

「…はい」

彼は表情を大きくは変えなかったが、あごに手をあてて頷いた。そして塀の上に立ち上がって言い放った。

「そうか、それはよかった。だがあちらは駄目そうだな」

 彼が指さした先に顔を向けると私の自転車が見るも無残な姿になっていた。

「イヤァーーーーーーー」

 ちょっと待って。これは両親から雷が落ちるやつだ。もし命からがら助かったとしても死にそうになった話がオカルトの類だったら絶対二千パーセント信じてくれない。

彼が木登りしてなければこんなことにはならなかったのに。そう考えると無性に腹が立ってきた。勝手に転んだと思ってそうなこの男に文句の一つでも言いたい。

でもそれって、「魔法少女アスカ」的にはいいのかな?そういう言い合ってなんだかんだいい感じになるやつも結構あるけどその場合でもこの言いがかり的感情はぶつけても大丈夫なやつ?心が汚れている判定になってお役御免?ていうか最初から呪われている主人公ってもっと年齢層高めか?いや案外少女向けって重い話多いしなぁ。いやいや、どんどん話が脱線している。

あぁ、もういいや。私を主人公に選んだ見る目のある作者ならもし今回打ち切りでも次回作はきっとヒットして先生の代表作になるよ。自信もって。

正直私、考え過ぎでかなりひねくれているから魔法少女ものの主人公には向いてないことに自分でも薄々気づいていたし。もし演じきれたとしても本心とのギャップに精神をすり減らすことが目に見える。何よりもガツンと言ってやらないと私の気が収まらない。

彼への濡れ衣感も否めないけど、もう我慢できない。キッと彼の方を睨み付け、思いっきり息を吸い込んで吐き出した音をぶつけた。

「あんな木の上でなにしていたの?私、あなたを見て気が動転しちゃって。自転車が変わり果てた姿になっちゃったじゃない。どうしてくれるのよ」

 彼は私の問いに見事なキョトン顔を作って反応しており、「あなたの方が魔法少女の主人公向きじゃない。ムカつく」なんて心の中でさらに悪態をつく羽目になった。

「それはすまないことをした。謝るよ。突然驚かせてしまって申し訳なかった。自転車は僕が修理しよう。なんで木登りしていたかの問いに関してだが、今日提出のプリントが風に飛ばされてしまってね。そこの木に挟まってしまったからしょうがなく登っていたんだ。遊んでいたわけじゃない」

ひらひらとプリントを掲げる彼の仕草とすぐ謝罪をした大人な対応に拍子抜けしてしまった。そして半ば強引な因縁をつけてしまった自分の子供っぽさが今更、無性に恥ずかしくなってしまった。

私はすぐに冷静を取り繕って、恰も八つ当たりしていませんよという体を装う。ダサすぎる。穴があったら入りたい。

「そうなんだ。プリント無事でよかったね。学校行くのだとすれは、結構遅刻だけど大丈夫?」

 またもや彼はキョトンという顔をした。なんなんだ。その顔が決め顔か?決め顔なのか?そんな顔でも絵になる顔面を持っていて羨ましい限りだよ。なんていうどうでもいい悪態をついて目を離した隙に、彼は塀から飛び降りた。

その瞬間、時間がゆっくり動きだした。コマ送りで落ちてきているように感じる。まるで映画のワンシーン。というかこのままだと私の上に振ってくるな、こいつ。

えっ?なにこいつ、危なっ。私がこの男を抱きとめるの?いくら華奢な男子でも無理。無理無理。よけられるか?こいつは自業自得だから一人で怪我する分にはいいけど、巻き込まれたくない。

ゆっくりな時間経過だから落下する動きは見えるけど自分の動きもゆっくり。よけられない。なんでこんなゆっくり見えているんだよ。

走馬灯?私死ぬの?あいつらには殺されてやらない宣言したのに、ポッとでのこの男に殺されるの?示しつかないじゃない。塀よじ登って上がったんだから降りる時も塀をつたって降りてよ。

ええい。もうままよ。こんなところで死んでたまるか。受け止めてやる。そう意気込んだ私は両腕を上に突き上げ、受け止める体制になった。そのままゆっくり降りてきた彼の脇に手を滑らせ掴んだ。スピードが上がることはなく、ゆっくりと地面に彼を降ろすことが出来た。

そして彼は口を開いた。

「君こそ遅刻だろう。しかも制服着ていないし。同じ学校じゃなかったか?名前は分からないがみたことあるぞ」

いやいやいや、今の不思議体験無視?

嘘?感覚が違うなぁ。マイペースで疲れるかも。早いとこ話を切り上げよう。

「私は今日用事あるから学校休みなの。ていうか、いくらなんでもあの高さから飛び降りるのやめた方がいいよ。怪我しちゃう」

お得意のキョトン顔だよ。はいはい。もうわかったから。

「いつも飛び降りるわけじゃない。今時間が遅くなっていたから、飛び降りたんだ」

「は?」

「君も感じていただろう。ここら辺一帯は近頃時間が早くなったり遅くなったりしているから気になって見に来たんだ。そのおかげで学校に遅れてしまった訳だが。君もじゃないのか。首に似たようなもの巻き付けているし」

え、え?な、んで?

彼が一軒の家を指差す。

「あの家が中心。そこから今は半径五メートルが時間の変化が見られるな。日に日に範囲が拡大している」

彼が指を差した家の表札には「高坂」と記載された。

「あ、あなた。なにもの? なんなの?」

 今度の表情は微笑を浮かべていた。その表情は神聖さを感じる一方で何かとても厭な、厭な、厭な冷たさが背中を通り抜ける感覚に襲われた。

「僕かい? 僕は丞翔中学二年B組雲林院 怪(ウンリンイン クワイ)だ。話すのは初めてだったな。よろしく。君のことは気になっていた。君ずっとそれと一緒にいるからな」

 自信たっぷりな自己紹介を堂々とした彼に、名前を聞きたかった訳じゃねぇわっとツッコミを入れたくなったが今は我慢だ。

バーンっという効果音が私の脳内で勝手に再生されるほどの自信満々さだった。普段だったら絶対関わらない。百二十パーセント苦手なヤツ。

でも、こいつ知っている。

首に巻き付いてるものの正体を知っている。

ていうか名前がもうすでに陰陽師的なアレじゃん。絶対お祓いできる系男子じゃん。使えそうなものは四の五の言わずになんでも使っていかなきゃ。迷っている暇はない。

先ほどの話から察するにこいつには視えてる。

話す価値がある。

もし適当ぶっこいていたとしても明日から不思議ちゃんとして学校で笑いものになるだけ。私は今日を乗り越えないと明日すら来ないのだ。死ぬよりは幾分かマシ。もし死にたいくらい学校生活が辛くなったら、その時改めて考えよう。

「雲林院君って呼んでいいかな? ありがとう。信じられないかもしれないのだけどお願い。私の話を聞いてくれないかな。うんん。初対面の人に申し訳ないのだけどこれは命令。聞いて」

私は雲林院君に今までの経緯を話した。

「…だから、この問題を解決したいんだ。雲林院君に協力してもらえたら、百人力。お願いします」

私は深々と頭を下げた。

顔を上げた時、彼は肯定にも否定にも取れない何と言えない表情をしていた。その刹那から読み取れる仕草や立ち振る舞いにより馬鹿にせず真剣に私の話を聞き、思考を巡らせていることが彼の一挙手一投足からありありと伝わってきた。

私自身もしも自分が当事者ではない場合、このようなオカルトチックな話を唐突に、しかも一切話したことのない人間からされたとき、真摯な態度で話に耳を傾け、手を差し伸べることができるだろうか。

信じる自信がない。

いやきっと無理だ。

彼はきっと人よりも多くのものが視えるから、こんなお伽話にも向き合ってくれるのだろう。むしろ、その色眼鏡なしで素直にこの世界を受け入れているからこそ、多くのものを感じることが出来ているのだろう。

それだけ頼もしい面持ちをしていたのだが、この後話を聞いた彼の行動により度肝を抜かれることになる。

「なるほど。では、本人に直接確かめてみよう。ちょうど彼女の家はすぐそこではないか。手間が省けるな。正面から行っても会えないのなら、部屋に直接行けばいいだろう。よし登るか」

どうやら雲林院君にはモラルがないらしい。

え? いきなり? 頭大丈夫?

「え? いきなり? 頭大丈夫?」

びっくりしてつい考えていることをそのまま口に出してしまった。初対面の、しかもこれから助けてくれるかもしれない未来の命の恩人に向かって何という口の利き方。

直ちに弁解せねばと思った矢先、先に口を開いたのは彼の方だった。

「頭? 先ほど落ちた時も話したが時間がゆっくりだったから難なく降りられた。君も足から着地したのを見ていただろう。頭は打ちつけてないから、そう何度も心配しなくていいぞ」

 よかった。常人じゃなくて。こいつ私が頭打ったか心配した人だと本気で思っている。言葉をそのまま受け取るタイプだ。本当に素直。ラッキー。

 私は心配そうな表情を作り、話を合わせる。

 「雲林院君が無事ならよかった。さっきの提案なんだけど人の部屋に勝手に侵入するのは一般常識的にどうなのかなって。やっぱり、玄関から入るべきかなと思うんだ」 

 「君、一刻も早くどうにかしたいわけではないのか? 玄関から入っても成果がないことが既に分かっているにも関わらず、なにか入った方がいい道理があるのか?」

 でた、キョトン顔。確かに雲林院君の言っていることは正しい。

自分の命がかかっている状況でモラルもへったくれもあるか。つい彼にペースを乱されて、常識人ぶってしまった。

だが、言い方ムカつくなこいつ。素直な人だから言葉にそれ以上の意味がないのだろう。わかっている。分かっているが、むかっ腹が立ってきた。我慢だ。我慢しろ自分。

 「そうだね。雲林院君の言う通りだよ。私、一刻も早くこの首に巻き付いているものをどうにかしたい。だって、さすがにこんな、とばっちりみたいな死に方したくない」

 私はこみ上げる涙が抑えきれず、うつむいた。ずっと混乱していたため、声に出してやっと自分が心底死にたくないということが今更ながらはっきり理解できた。

そして堪らず両目から涙が溢れてしまったのだ。涙が頬を伝って川を作っている。とても他人に見せられるようなものではない。早く泣くのを辞めなければ。必死に手の甲を使って頬を拭う。拭っても拭っても止まらない。うつむいているからか、それとも自分の涙に溺れているからかうまく息ができない。

苦しい。苦しい。苦しい。溺れる。

息ができない。

グッと腕をつかまれ、一気に引き上げられた。

私は彼を見上げる。

視線がかち合う。

やっと、肺に空気が入ってきた。そんな気がした。

呼吸を整える。感情のコントロールがかなり下手くそになっている。

目が合った時、彼の表情は初めてみせるものだった。

じっと何かを考えているそんな顔。私の表面ではなく、奥の方の核の部分を視ている、そんな表情だった。彼の瞳にはすべてが視えているような神聖さがあると改めて感じた。

泣いている私にオロオロするわけでも呆れるわけでも、ましてや同情する訳でもない。その気にも留めず、普通に接してくれている彼の態度に救われる。

「飛鳥女史、ずっと一緒の巻き付いているそいつをどうにかしたかったのかい? すまない、僕はこの状況、つまり一連の騒動全てをどうにかしたいのかとばかり思っていた。それに、ソレと君の関係性が良好に視えていたから。かなり君に好意的なものも一緒だったからてっきり好んでその状況だとばかり。勘違いをしていたみたいだな、すまない。そんなことなら木を登らなくても済むな」

「へ?」

前言撤回。私の何も視えてないよ、こいつ。涙も目にもとまらぬ速さで引っ込んだわ。目から出てるだけにな。ガハハッ。驚きでつい、つまらないジョーク考えてしまった。

私のこれまでの長々とくどくど語ってしまったこの心情からくる恐怖や不安、焦燥感がバカみたいじゃないか。

まるでクラス会でカラオケに行くことになり、流行りの歌を知らないためランキング上位三曲を必死で覚えて当日を迎えたが、先に覚えた曲全て歌われてしまいこの場をどう切り向けようか考えていたところ、自分の番が来る前に会自体が終了し、ここ数日の私何だったんだろうと帰り道、空を見上げながら虚無感に襲われた時のようなあっけなさだ。クラス会自体乗り気じゃなかったし、歌わなくてもよかったことは本当にうれしいのだが、なんというか準備もしてたしなみたいな。

あと、二次会にカースト上位の人のみで行く雰囲気を作るのであれば、何故乗り気ではない人たちも渋々強制参加の一次会を催すのだろう。最初から仲良しメンバーのみで集まればよくないか。もしかして男女グループで集まるのは恥ずかしいから先ずは全員参加にしといて自然とグループでみたいな思春期独特のアレか?私たちをだしに使わないでくれ。

ああ、またくどい語りをして脱線してしまった。やっぱり厨二病を発症してしまっているらしい。不治の病だ。

というか死ぬと思っていたものが簡単に治るのなら寧ろ万々歳じゃないか。あっけない幕切れ万歳。ありがとう。命の恩人。

私は雲林院君の神聖な瞳を覗き込むことによりなんとか感情の高ぶりを押さえつけながら、質問を投げかけた。

「そう、そうなの。この首に巻き付いているものをどうにかして欲しいの。そんなことってつまり簡単に治るってこと?」

彼は私の目をまっすぐ見つめ返した。

「首に巻き付いているもののどうにかしたい方っていうのは、どっちのこと?」

どっちのこと?

つまりわたしの首には複数巻き付いているってこと?

背筋がゾッとする。

恐怖が声を上ずらせる。

「どっちってなに? 複数、首に巻き付いているってこと?」

さも当然といったように、雲林院君は息を吸って吐くぐらいの当たり前さで答える。

「君を絞め殺そうとしている髪の毛みたいなそいつと入学式からいつもそばにいるソレが巻き付いているよ。そいつの方はあまりに君が『普通』を貫くから、痺れを切らして手を出してしまったようだね。まあ、そいつも契約を破らせて、約束の品を取りただすのが存在意義だからしょうがないといえばそれまでなのだが」

そいつ?ソレ?

どっちを選ぶ?どっちも要らない?

ああ、理解できないことばかりだ。簡単に考えよう。私は今どうしてこんなことをしている?

根本を思い出そう。

生きたい。生きていたい。

ただ、それだけだ。

「私、生きたい! 死にたくないの! 命が助かるような解決策、ある? あったらそれで、お願いします」

私は彼の目を真っ直ぐ見つめた。

「あるぞ」

そう一言答えた彼から後光が差す。

なんとも神々しい。

今思うとタイミングよく西日が差し込んだのか、はたまた私の幻覚かは定かではないのだが、どちらにせよ私にとって雲林院君が特別な存在であることがこのとき定義づけられた。

「本当に?」

つい、縋るような弱々しい声が漏れる。

「ああ、ソレ自体を飛鳥女史から引き剥がすのではなく、首に巻き付いているそいつもいる状態を戻す事ならそう難しいことではない。君、入学式の時からそれと一緒だったから変化が起きる、目に見える前までと同じになればいいという解釈で合っているかな?ソレ自体は君にとっても都合のいい存在だから無理に引き離さない方がきっとこれからの中学校生活のためにもいいと思うぞ。まあ、中学限定の付き合いだろうしな。学び舎を離れたらついてはいけないから」

私は思わず首を傾げてしまった。

「今も校舎から離れているけどついてきているのよ。ずっといるじゃない!」

「すまない、説明不足だったかな。校舎が重要なのではない。君にとってあの校舎が学び舎であることが重要なんだ。君が学問を学ぶ場所は成長するにつれ、移ろっていくだろう。この校舎が君にとっての学び舎じゃなくなったとき、つまり中学を卒業したときに離れていくんだ。推測するにあの学び舎発祥のものなんだ、ソレは。安心して、中学生のうちはどこにいてもいつでも一緒だよ」

いやいやいや、安心できないだろ。どこにいてもいつでも一緒?

滅茶苦茶怖いのだが。お風呂場で絶対後ろ振り向けないじゃん、もう二度と。

そんな私の悩ましい心情などどこ吹く風なこの男はさらに話を続ける。

「彼女との約束はあたかも普通だと行動してくれさえすればということだったけど、定義があまりにも曖昧過ぎる。そもそも普通ってなんだ? 普通は人によって異なる。例えば僕の家では父が週刊少年マガジンを定期購読しているから、みんなが読んでいるものだと思っていたおだけれどもマジョリティは週刊少年ジャンプだと後々になってから知った。マジョリティでないと分かったとて、毎週水曜日に週刊少年マガジンを読むことは僕にとっては普通だ。それこそ僕と同じくマガジン派もいれば、毎週月曜日にジャンプを読むのが普通の人、両方とも読む人、チャンピオンやサンデー等別の少年漫画を読むことが普通である人、更に少年誌に限らず少女漫画や趣味の雑誌等その他何らかの本を読むのが普通である人もいる。ましてや全く雑誌を購入しないことが普通の人だって数多く存在する。この前漫画の読み方が分からないというクラスメイトの話を聞いた時驚愕してしまったが、彼は寧ろ僕の反応をみて不思議そうな顔をしていたよ。この例だけでも無数の普通が存在しているんだ。飛鳥女史と彼女との普通が相違していたっておかしくない。君の話を聞く限り、首に巻き付いているそいつの発動条件は『君自身が普通じゃない行動をしたと思った』時だ。君の『普通』が基準なんだよ。僕が考えるにこの問題は飛鳥女史が思う『普通』が変われば解決するのではないかと踏んでいる。彼女がもし君を絶対的に約束で縛りたかったのであれば『普通』なんてぼんやりした定義ではなく、具体的に内容を伝えたんじゃないだろうか。つまり、君ならきっとふわっとした言い方でも自分の考えを汲み取ってくれるという確信があった。相当似通った思考の持ち主だと信頼されていたようだね。約束を守ってもらいたいために君の思考を利用して脅す反面、曖昧な表現にして逃げ道も作った。具体的内容で約束してしまうと君が約束を守れなかった場合、逃げ道がなくなってしまう。君がその逃げ道に気が付かない間、首に巻き付いているソレが守ってくれるとも知っていたんだ、彼女は。視えているわけではないとは思うけれど、君の学校生活における影響力からそれの存在を感じ取っていたんだ。約束を守れなかったから髪の毛のようなもので絞め殺そうとしているそいつから、ソレは君を守るただそれだけの目的で抵抗している。飛鳥女史を殺すような存在ではないと日々の学校生活の中で彼女自身も感じていた。そしてソレが時間稼ぎをしてくれる間に、君なら自分の意図に気付くと信じて疑わなかった。彼女の君への信頼度には目を見張るものがあるよ。今回割りを食っているそいつが少し可哀想な話でもあるがな。そんな抜け道みたいなやり方で、仕事はさせられて報酬は無しって話だ。そいつ相手にカモろうなんて考える彼女は相当太いやつだね」

一度に情報が多すぎて混乱してしまう。

ソレって?

そいつって?

彼女は本当に私に対する迷惑を極力抑えようとしていたってこと?

じゃあ彼女は?

ダメダメ。こんなまとまれない思考をいくら動かしたって無意味だ。

今、この回答を持っている人間が目の前にいるじゃないか。もうすでに迷惑かけっぱなし、命の恩人確定演出なのだから、頼れるだけ頼ってやる。

「ごめんなさい。話についていけてなくって。取り敢えず今、私がはっきりさせたいことが三つあるの。ソレって、そいつってなに?私の首に巻き付いているものなのは分かるのだけれど、どういう存在のものなの?もう一つは、私死なないってこと?私の普通の価値観を変えればいいという話だったけれど自分の中の普通って変えられるの?最後の一つは、じゃあ彼女はどうなっているの?私自体は守ろうとしたけど彼女自身のことは?ロングヘアになりたいなんていうちんけな理由でどうなってしまったの?」

雲林院君の顔がゆがむ。

それが目にまた溜まっている涙のせいか、彼自身のせいか、もう判断がつかなかった。

うんん。私は未だに厚顔無恥に分からないふりを続けている。

心の奥底ではもう分かっているのに。

分からないふりをしているにも関わらず、私は曖昧を許さない。具体性を問いかけてしまうのはなぜなのだろう。

もしかしたら、答え合わせがしたいのかもしれない。

「これが正しい」という確信が欲しいのだ。

なんとか友達を守ろうと必死に考えた彼女と違い弱い人間である私は、好奇心という魔物に抗えない。

そしてきっと目の前の彼もまたその欲望に抗えないもののひとりなのだろう。そんな人間だからこそ、それが視えているのだ。

「じゃあ順番に僕の意見を述べていこう。まあ、飛鳥女史には視えていると思うのだが。それは中学の学び舎に閉じ込められている人達の感情、気持ちの集合体だと考える。学校って何故かそこから逃げられないような、逃げたら道を踏み外してしまう不安感があるだろう。そんな雰囲気を作り出しているやつもいる。自分は辛い思いをして学び舎を過ごしたのにお前だけ逃げるなんて許さないというどっかの誰かさんの怨念が渦巻いているんだ。こんなところ本当にちっぽけな世界なのにな。この学び舎でやっていけないとダメという掟を守らせようと躍起になっている誰かがいる。そんな感情一つがそいつだ。今回は彼女の髪への想いの影響で髪の毛という形で具現化しているのだろう。君のソレは学び舎内で辛い思いをしている人間たちがこうであったらな、ああであったらいいなどいう想いが根源にあるじゃないかと思われる。何もないところでも多くの人間の想い集まり、信じることによってソレが生まれる。そいつやソレに人間側の都合に合わせて勝手に神や鬼、妖怪、化け物等の名前を付けるだけだ。もともと君の発言はソレを作り出した人々の願いを叶える節があるから、きっとソレが飛鳥女史を見込んで言葉に力を与えたんだ」

話している最中、遠くを見つめたり、そこら辺を一定の距離往復したりしていた彼が私に近づくとそっと自分の両手を差し出す。

差し出された透き通るほど綺麗な両手に吸い込まれるように自分自身の両手をそっと重ね合わせる。

下から優しく包み込む彼の温かい体温が私に勇気をくれる。と同時にこの人にも血が通っていて、私と近い動物なのだなという安心感も与えてくれた。

「二つ目の質問についてだが、できる。できるよ、君なら」

ああ本当に神秘的な瞳だ。そんな瞳に力強く見つめられたら何でもできてしまう気がしてしまう。なんてずるい男だ。

この神秘性には唸らせられる。彼は何か特別な人間なのではと期待してしまう。

「髪がすごい早さで伸びるのをみて、驚愕するのは飛鳥女史の中では『普通』だろう。人は自分の常識の範囲外のことが起きてしまった時、反応してしまうのは仕方が無い。そう、『普通』だよ。飛鳥女史が驚愕した事実は『あたかも普通に振舞うこと』に反していない。自分に都合のいいように解釈すればいい。よく思考できる君だからこそ、熟考してよりよいものに変えていける力がある。共感はできなくとも理解をしようと努力する、誰の意見にも耳を傾けて、一つの意見に固執しない柔軟な思考の飛鳥女史だからこそ、彼女は他でもない君を頼ったんだよ。ソレは君を選んだんだよ。君ならできる」

なんて優しい調べなのだろう。

いつの間にか息苦しさはなくなっていた。

首元を確認できないが、確実に巻き付いていたものはもう戻っている。絶対的な確信がある。

自分から死の影が遠のいたことに安堵したはずであるのに、気持ちがまだ重い。体の真ん中に鉛が埋め込まれているような重だるさが残ったままだ。

いや、いい様に言ってしまった。この重さはこのままここを離れる名残惜しさだ。ここに止まりたい好奇心の重さである。

私は表向きでは、彼女を心配しているような表情をすることにより何とか自分の体裁を保とうとしている。要は気になるのだ。

私の根本には他人を助けたいだとか誰かを守りたいだとかそんな正義感ではなく、自分から死の足音が遠のいたと分かると今度はなにが起こっているのか分からないこの状況を知りたいだけの、自分本位な浅ましい人間が詰まっているのである。

好奇心に勝てない浅はかな人間はいつか己の好奇心に食い殺されるだろう。だがその死の瞬間ですら私は知りたいと思ったまま息絶える。

他人から巻きこまれた時はあんなに恐れ慄き、嘆いた死であるのに、自分の好奇心のためであれば惜しげもなく生を差し出す。恐ろしい感情だ。そしてそんな感情を制御できない理性のない恐ろしい人間なのだ。

聖母のような微笑みを浮かべた雲林院君は先ほどと同様に軽やかな調べのようにそっと口元から音をこぼした。

「それで最後の件についてだけど、僕にも分からない。ただ君にとってはたかがロングヘアでも彼女にとっては危険を冒してでも欲しかったものだ。その欲望に侵された人間がどうなったか、分からない。分からないから、僕は知りたいんだ」

にっこりと更に口角をあげた彼は幸福に満ち溢れた顔をしている。男である彼に聖母という表現は些か不適切だと思われるかもしれないがそれくらい穢れない心からの笑みだった。

だったのだが、だんだん目がキラキラいやギラギラギンギンしてきており、ワクワクという効果音が爆音で聞こえてきそうなほどご機嫌な様子が浮きあがってきた。

ああ、こいつ私と一緒だ。

一点の曇りのない純粋な好奇心に取り付かれた浅ましい人間。先ほど理解したはずだったのに。またこの神聖な見た目にもっていかれてしまった。

そう簡単に先入観を捨てられない私はきっとこれから何度もこの見た目に騙されてしまうんだろうな、なんて愉快そうな表情の彼をみてぼんやりと考えてしまった。

「飛鳥女史はもう望みが叶ったから帰るのか? じゃあ、気を付けて。自転車直しておくから置いていってくれ。学校で返す」

 彼が私に背を向けた瞬間、腕を掴んだ。ああ、このまま帰ればまた明日から日常に戻れるのに。何しているのだろう。

だが、振り向いた彼の吸い込まれそうな瞳に映った自分自身の目もまた爛々と輝いており、口角は吊り上がっていた。

どうやら、やはり私たちはかなり近しい動物らしい。

「私も行く。分からないことが一番恐怖なの。それに彼女に文句の一つでも言って全部すっきりしてから日常に戻る権利が私にはあるんじゃないかな」

この気持ちも嘘じゃない。恐怖だってもちろんある。分からないことが恐怖なのは変わってない。

だって震えているもの。でもその震えって本当に恐怖からくるもの?私は今まで本当に分からない恐怖で震えていた?もしかして…。


「飛鳥女史、彼女の部屋はきっと二階の角部屋だ。遮光カーテンから少し透けている柄は如何にも子供部屋っぽい。それにカーテンの隙間から視えるあれ、髪の毛だろう」

カーテンがほのかに揺らめいているように視える。その隙間から深い闇が覗いている。ただ、その闇が髪の毛と分かるなんて雲林院君は相当目がいいのか、はたまた視えているのか。

カーテンから姿を覗かせるほどに伸びている髪。おまじないの強力さに凄いなと素直に感心してしまう。

そして私たちは木を登り、一階の屋根の上に飛び乗った。

彼女の部屋だと思われる窓についたとき、雲林院君はおもむろにズボンのポケットから何かを取り出し、そのまま左手を窓ガラス目掛けて振りかぶる。

その一連の動作を見た私は意外にも冷静に自分の身を守った。

ガシャーン!

顔を上げると彼の左手からぽたっ、ぽたっ、と血が落ちている。何のためらいもなく窓ガラスを割った隣の男について、やはり頭がおかしいなとは心の遠い何処かで思ったが、共に行動した僅か数時間で既に慣れてしまった。

いや、認めたくないのだが自分自身も相当頭がおかしいのだ。そんなことより部屋の中のことが気になって気になってしょうがない。血を流した命の恩人よりなによりも。

彼が割った部分に手を突っ込み窓の鍵を開ける。窓を引くがうまく開かないらしい。

私は一緒になって力いっぱい引っ張る。中々開かなかったがその時は突然やってきた。ブチブチブチッ音を立てたかと思うと力強く引っ張っていた反動で尻餅をついた。

部屋を覗くと一面真っ黒だった。床、壁、天井が真っ黒で飲み込まれてしまいそうな錯覚に陥る。

壁を指先で触ってみると爪が少し引っ掛かり、プチプチする。細いコシのある何かが束になっている。流れにそって手の甲で撫でるとなんとも艶やかでずっと触っていたい。この部屋の闇を作り出していたのは、彼の言う通り「髪」だった。

部屋の隅に人がいる。きっと彼女だろう。

暗闇に慣れた目が捉えたものに、私は驚愕した。

面影はあるもの、見た目が明らかに中学生ではない。そこには三十歳前後の大人の女性が体育座りをして小さくまとまっていた。

「貴女が高坂松乃さん?」

雲林院君が問い掛ける。きっと彼女も今頃先ほどの私みたいに舞い上がっているだろう。どう見たって、この状況で出会う彼はピンチに駆けつけてくれたヒーローでしかない。

彼女はもうこの雰囲気にのまれているのか天井を見つめながら、質問の回答を放棄したままぽつりぽつりとこうなった理由を語りだした。

「ごくありふれたつまらない理由なんだけどね。ある日、好きな人が女の先輩と仲良く下校しているのを目撃してしまって。私、自分にこんな黒々とした感情が眠っていたなんて知らなかった。好きという気持ちが初めてだったから舞い上がっていたの。先輩と学校ですれ違うだけで気分が高揚したし、部活で先輩が前に出て喋るのを聞くだけで楽しかった。先輩眠そうでかわいいとか話し方かわいいなとか、他の人であれば気にも留めないような、なんでもない動作に目を奪われる。とにかく一挙手一投足がかわいいの。先輩に関することであれば箸が転んでもかわいかった。そんなお花畑な私だったのに一緒に下校している姿がいい雰囲気の、それこそ付き合う一歩手前の甘い関係性の二人に見えた。心がじわじわと締め付けられ、息の仕方を忘れるくらい苦しかった。その時から、どんな手を使ってでも絶対手に入れたくなったの。既に私の原動力は好きな先輩と付き合いたいという純粋な気持ちではなく、どんな手段を使ってでも、もう二度とこんな辛い想いはしたくないという自分本位な感情に変化していた。結局二人はただの友達だったけど、このままじゃダメだと思って私、髪を伸ばすことにしたの。先輩、ロングヘアが好きだったから。髪が伸びたらすべてが上手くいく。本気だった。だから必死に調べた。髪が伸びると噂の高いシャンプーを使ったり、シャンプーに塩を混ぜたり、髪を毎日引っ張ってみたり。目についたものは手当たり次第全部試してみたけど、成果があるものは全くなかった。そんな時、あるサイトに行き着いたの。今までのものに比べてすごく凝っていて、直感でこれは本物だ、そう感じた。その後は飛鳥が知っている通り。あなたに脅しに近い約束をさせて、おまじないをした。そしたら本当にロングヘアが手に入ったの。私、ロングヘアになれたとき、これまでの自分とは別の生き物になれた気がしてとてつもない勇気が一気に湧き上がってきたんだ。積極的になれて、遂に先輩と付き合えたの」

彼女はロングヘアのおかげで付き合えたと本気で思っているみたいだが、それ自体はきっかけに過ぎない。そのきっかけで勇気を出せたおかげで彼女自身が本来持っている魅力を正しく先輩にプレゼンできたため、見事交際に漕ぎつけたのだ。

まあ、その一歩が踏み出せず、成就しない恋だってあるだろうし、勇気のきっかけをくれたロングヘアも成功の要因の一つで間違いないだろう。

だがしかし、それ自体がすべてを解決してくれたと思い込んでいることがおかしいのだ。

一気に話終えた彼女の表情からは生気が感じられない。一気に老けてしまったように見受けられる。

雲林院君も黙って話を聞いていたが、なにか思い当たる節があるのか壁の艶やかな髪を撫でる。その仕草はまるで最愛の人に接するような優しさ溢れたものであった。

そして鈴の音を転がすような声色で、彼女に話しかけた。こんな風に話しかけられたら、何でも話してしまうだろうな。そう感じるほど、洗練された一連の動作だった。

こいつは無意識化で行っているのだろうなと、つい斜に構えた見方をしてしまう。本当に末恐ろしい男だ。

「貴女が行った『おまじない』とはどのようなものだったんですか?」

彼女はゴクッと唾を飲んで、雲林院君に向かって浴びせるように語りだした。その行動に私は、早く全て吐き出して楽になってしまいたいという彼女の心情を感じずにはいられなかった。

「そのサイトにはこう書かれてあった。『この儀式は満月の晩、午前二時から午前二時半の間に行ってください。洗面器に水を溜め、その水面に満月を映します。そして自分の髪の毛を一本抜き、洗面器内の満月に潜らせます。「髪よ伸びろ」と強く念じながら、「アサオケ」と十回唱えましょう。』ひと段落空いて注意書きがあって、『必ず誰か信頼できるクラスメイト一人におまじないをすると話しておきましょう。いない場合は絶対にやらないでください。』こうも記されていたの。だから私は、飛鳥に頼みました」

 話を聞き終えた雲林院君はやけに納得した顔をしていた。まるで、全てが分かったと言わんばかりの表情で彼女を導くようにこう切り出した。

「もう無理に先輩を想わなくても大丈夫ですよ。強い感情というものは長続きしない。急激な熱意は急速に萎むものです。きっと貴女も感じているのでしょう。その激しい感情が落ち着いてもなお、残っている好意があればきっとうまくいく。無理やり助長させた感情が収まれば、この状況もすぐ良くなります」

 雲林院君は彼女が今一番言って欲しいことを物腰柔らかに、そっと不安を包み込むように伝えた。

まるで、催眠のようだった。あんなに具体的に話さないと伝わらなかった率直なつい先刻までの男とは大違いだった。そして私の方に向き直ったとき、彼は聖母の顔を忘れ、率直で不躾な雲林院君に戻った気配を感じ取った。

ふと、彼女はいつ松乃に戻るのかな、なんてことを考えてしまった。

「そういえば飛鳥女史、彼女に累を及ぼされた件について文句を言うのだったよな」

 彼が発言を促したが、私は首を横に振った。こんな大変な目にあっている人を更に罵倒する気も起きないし、なにより雲林院君の言葉で終わっておいた方がいいような気がする。

私が文句を言いたいのは松乃にであって、彼女ではない。

彼女は松乃であって松乃ではない。何かが決定的に違う。


「そうか」と彼は呟いて、私たちは屋根から降りた。自転車あるところまで歩みを進めている最中にようやく話を切り出した。

「ところでさ、彼女は何もしなくてもおまじないは解けるの? おまじないの内容聞いた瞬間妙に納得していたけど、もしかして雲林院君も知っている有名なサイトだった?」

 私は何の気なしに質問を投げかけた。

「ん? ああ、知っている。なにせ僕が作ったサイトだ」

「は?」

出た。キョトン顔。ちゃんと雲林院君に戻ってやがる。

「だから、あのサイトの運営者は僕でおまじないを作ったのも僕。まさか本当に信じる人がいるなんて驚いたよ。弟のサイトの装飾もっとこだわった方がいいというアドバイスの元、凝った作りに変更して大正解だったな」

何言っているんだ?

じゃあ、今回の件って?

こいつの性じゃん!

命の恩人ではなく。諸悪の根源じゃん!

「はぁ~~~~。なんであんなおまじない、いいやあんなサイト運営してんのよ!」

「ああ、髪が伸びるおまじないを作ったのは従姉妹の美優香ちゃんに今なにかお願い事ってあるかと尋ねたら、髪が早く伸びて欲しいということだったから作ってみた。消費者リサーチは大事だな。自分では思いつかない願いだったから大変参考になったよ。私は何を隠そうデタラメを他人に信じ込ませることに生きていて一番悦びを見出す質なんだ」

こいつ私がなんで怒っているかを全く理解してないな。

暖簾に腕押し、糠に釘、雲林院君に感情論だ。

てか、そんなものに生きる悦びを見出してんじゃねーよ。

「てか、なんでそんな小学校で長期休み前に貰う袋で購入できるおまじない本みたいな、ファンシーな内容をいかにもそれっぽく書き直しているのよ」

パァッと表情が明るく華やかになっていく彼と対比して私の中の感情が死んでいく。

「飛鳥女史、中々鋭いな。この方法はその袋で買った『めちゃくちゃ効く?! お願いかなっておまじない』という本を参考にした。弟が持ってきた袋でこっそり買ったのだが、受け取るときかなり恥ずかしかったらしく、一か月ほど口を聞いてもらえなかったんだ。何が恥ずかしかったのだろうな。さっぱりだ。僕はデタラメを作るとき信じるか信じないかのギリギリを責めたいんだ。だからその本と麻桶の毛と呼ばれる妖怪を参考にした。本当は新月にしたかったのだが、如何せん水面に写っているかが分かりにくいと感じてな。仕方なく満月に変更したんだ。今回の件で信じてくれた人がいたことが分かって喜悦している。胡散臭いだの嘘乙だのというメッセージしか届かなくて傷心していたが、サイトを続けていてよかった」

理解不能のクソ男だ、こいつは。こんな奴に神聖さを感じてしまった自分自身の愚かさを恥じるしかない。

「あんたみたいな本当に力がある人が作ったおまじないはデタラメなものでも意味を持ってしまうんじゃない。それこそ今回の件みたいに」

雲林院君はお決まりのごとくキョトン顔だ。なにしらばっくれてんだ。

「僕に力があるだって? 何言ってるんだ? 君は。何もないよ。最初に自己紹介したとおりただの中学生だ。」

「え? でも名前もそうだし、なにより私のこと助けてくれたじゃない」

「名前?飛鳥女史、君は偏見が凄いな。名前には確かに力があるけど、それだけを判断基準にイメージだけで物事を語るなんて。表面だけ掬い取って決めつけるのはやめた方がいい。それに僕は君を助けていないよ。君が勝手に助かっただけだよ。考え方を変えられたのは君。それ以上でもそれ以下でもない」

 このクソ男に正論言われた。確かに表面だけ見て決めつけたせいで何度も騙されている。主にお前に。確かに一言も陰陽師だとか霊媒師だとか言っていなかったしね。なんだかとても悔しくなってきて、つい質問を問いかけた。

「じゃあ、その名前の由来ってなんなの?」

「僕の名前かい? 実は母が怪盗ランマの大ファンでそこからとったのさ」

 はぁ~。呆れる。この期に及んでデタラメを混ぜてくるなんて。

「快刀乱麻でしょ。知らないとでも思った?そんなアニメや漫画みたいに言ってこないでよ。ていうか快刀乱麻なら漢字違うし、怪盗ランマだとしてもそこは取らないだろ。せめてランマの部分から取るでしょ」

「この間クラスメイトに言ったら、信じてもらえたから自信あったのだがな。いつか飛鳥女史に信じてもらえるようなデタラメを考えられるようこれからも精進しよう」

 はぁ。本当に呆れた野郎だ。

しかもこっちがついた悪態などどこ吹く風で全く理解していない。

これはもう住んでいる星から違う。分かり合えない感性だ。

「っていうかなんでもない、ただの中学生は女子の敬称に女史って使わないのよ。ついあんたの雰囲気に呑まれて言えず仕舞いだったのだけれど、やめてよね。もしかして皮肉ってんの? それになんでクラスメイトのみんなに視えないものが視えているのよ! 視えないものが視えちゃうなんてそんなの勘違いしちゃうじゃない!」

 雲林院君は首をひねって不可思議そうに私を見た。

「僕も飛鳥女史以外に女史なんて敬称使用したことがないんだ。どうしてだろう。飛鳥女史は飛鳥女史が妙にしっくりくるんだよな。皮肉だと感じていたのであれば申し訳ない。あと視える視えないの件だが、あの髪の毛は僕と君と彼女は確実に視えていた。クラスメイトに視えないのは、その方が都合のいいから自分の脳の処理で消しているのかなと僕は推測する。僕はどう頑張ったって僕として以外の世界を確認する手立てが無いから推測の域はでないのが残念なところだがね。視えないと解決出来ない危機の場合、視えるようになっている。僕の世界ではね。だから僕にもこの世の全ての物が視えているわけではない。飛鳥女史の世界で視えて僕の世界では視えないものもあるだろうし、逆もしかり、『普通』のように動物の数だけ無数に世界だって存在するんだよ」

 この男、掴めない。

腹が立つところもあるがいやに素直で、なんだかんだぶつくさ文句を言っているが私は既に彼に魅了されている。

だって、苦手なタイプとの関わりを避ける私がもう構わずにはいられないのだから。

本当にムカつくほど、魅力的な男。

「彼女また学校くるかな?」

夕方になり、少し肌寒くなってきた。あんなに暑かったのが嘘のように、あたりには秋色が漂い始めている。

「どうだろうな。僕の見解だとまじないの類を使ってむやみに時間を歪めてしまったため、見たところ三十歳前後まで彼女の時間だけ進んでしまっていた。まあ、髪だけ更に何倍速もの速さだったけど。自然の摂理を破ってしまったんだ。自分に都合のいいところで止まるなんて考えが端から間違っていたんだよ。そんな虫がよすぎる話がこの世にはないことに気付く勉強代としては多すぎるくらいの代償を払ってしまった。無知であるがゆえ、ぼったくられた。信じる力が収まって元のスピードに彼女を取り巻く時間は戻るとは思うが、進んだ時間はおそらく戻らない。僕達が今日部屋を訪れなくたって、髪の毛が伸びて欲しいなんて願いは一時的なものだ。放っておいたって元に戻っていた。ただ、時間を凌駕する程信じる力は偉大なんだ。まじない自体に効力があるわけではない。強く信じてしまう心に効力がある。デタラメも真にしてしまう。飛鳥女史だって僕が特別なものだと自分で信じたから自力で助かった。誰しもが使用できる、使い方によって薬にも毒にもなる力。誤った使用方法をしないようにしないとな。今度身を滅ぼすのは僕かもしれないし、君かもしれない」

 雲林院君と私の間を逆風が通り抜けていった。思わず振り返って風を追う。見上げた空は既に夜の準備を始めていた。

「さて、帰るか。今日はこれから『超宇宙大解剖~地底人は本当にいるのか~』が始まるのでな。早急に帰らねばならない。自転車は明日返す」

 彼が自転車を押す。明日は歩きになるから早く起きないとな、頼めば車で送ってくれるかな、なんて考えている。先程まで不思議体験をしていた人間とは思えない切り替えの早さだ。

いや、人間なんてこんなものなのだろう。

過ぎ去った大事よりこれからの小さな問題なのだ。

何も気なしに目が合う。

「じゃ、また明日。」

 そう言って不恰好な自転車を押す少年の姿はどんどん小さくなっていく。

私は今まで当たり前に明日が来る、そう信じて疑わなかった。いつかは死ぬけど明日ではない、なんて根拠のない自信があった。

視界から消えた彼が明日必ず自転車を持ってくる確証はない。

けれど、明日を約束できるくらいの日常に幸福を感じる。

私も帰ろう。行ってきますと約束をした私の帰りを信じて疑わない、あの家へ。

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乙女想う、故に信憑あり 阿村 顕 @amumura

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