第2話 悪夢から覚めて

「……ゼ。リーゼ!起きて!」

 誰かに強く揺さぶられて、私は目を覚ました。

 そこはいつもの宿舎のベッド。同室の友人ベッティーナが、ほっとした顔で私を揺さぶるのをやめて、ベッド脇に置いてある粗末な椅子に座り込んだ。

 「ベッティーナ。私……寝ていたのね」

 「寝言がひどかったわ。うなされていたから、夢見が悪かったのね。大丈夫?昨日は夜通し舞踏会が開かれていて、大膳所に運ばれてくる食器もすごかったものね。徹夜でくたくたになるまで働いたから、きっとよく眠れなかったのよ。そういうこともあるわよね」

 ベッティーナはその亜麻色の髪を軽く整えて、がたつく安物の木のテーブルに載った、冷たい朝食をすすめてくれた。

 彼女はこの寒々しい宮廷下級卑官宿舎で、たったひとりの友人で親友だ。ベッティーナも皿洗いの私と同じで、宮廷の大膳所(台所)で調理の下処理をする下級卑官なのだが、鶏をしめたり、毛をむしったりと誰もが嫌がる仕事ばかり押しつけられている。気が弱くておとなしいけれど、この宿舎での私へのいじめには決して加わらない。むしろおどおどしながらかばってくれる。

「私、宿舎炊事場に倒れ込んでいたでしょう。傷の手当てをしてくれたのを覚えているわ。本当にありがとう」

「いいのよ。なんでもないわ」

 ベッティーナの微笑みに、私は朝食の固いパンをちぎりながらうつむいた。宿舎でのいじめは加速する一方だ。昨日は宿舎炊事場で、私の使う石鹸にカミソリが仕込まれていて、皿を洗う大事な手に傷をつけてしまった。傷の深さと失血死する恐怖で、私はうずくまって動けなくなってしまった。そして探しに来たらしいベッティーナに見つけられ、ベッドに運び込んでもらったのだ。決して徹夜で働いた疲れだけで悪夢を見たのではないが、心優しい彼女はきっと、私がよけいなことを思い出さなくてよいように配慮してくれたのだ。

 私はアンネリーゼ・エルブ、19歳。愛称はリーゼ。10年前に、ある事件から逃げるように宮廷の大膳所に拾ってもらった下級卑官だ。宮廷に勤めていると言えば聞こえはいいが、仕事は大量の銀食器類を割らないように丁寧に洗う地道な作業の繰り返しだ。つまりは皿洗いなのだけれど、私はそれでも喜んでこの仕事をやっている。薄給で待遇も悪く、華麗な世界に憧れてまずはここからと足を踏み入れた同僚たちは、何人も辞めていった。

 けれど、ここにいれば、大好きな料理に少しでも関わっていられる。仕事の合間のわずかな自由時間に、自分なりのレシピを考えてベッティーナに作ってもらうのは楽しいことだった。

 私は、料理の世界から離れたくない。ある過去のために、料理人になる夢はとうにあきらめたけれど、いつか罪が償えたとき、一から料理を習いたい。

 この手を汚した罪のために調理ができないけれど、いつか必ず償って、大切な御方のためにおいしいものを作りたい。

 いつも遠くから見つめてはため息をつくだけの、ゲオルク・フォン・クラウト王太子殿下の端麗な横顔……。

「朝食のスープはいただいたわ。その代わり、ビスケットを取っておいたから」

 親友のかさかさした手の上に、小さなビスケットが載っている。私はスープが苦手で、いつもベッティーナの朝食に出てきたなにかと交換している。スープに限らず、「具の比率よりもおつゆが多いもの」全般が苦手なのだ。

 彼女が取っておいてくれるものは甘いものが多い。ちょっとふっくらした体つきのベッティーナは、甘いものが大好きだが、最近ダイエットをしているのだ。理由は、王太子殿下の家庭教師に最近ひとめぼれして、好きになったからだとか。その麗しいたたずまいで国内外の女性を虜にする殿下ではなくて、なぜ家庭教師?そんな人いたっけ?と思ったけれど、なんでもおいしそうな香りをまとわせているのだとか。食いしん坊の彼女らしい。

「リーゼ、私そろそろ行くわね」

「あら、急ぎのようね」

「そうなの。あの……料理長がお呼びなの」

 ベッティーナは口ごもる。「料理長」と私の因縁を先刻承知なのだ。

「……行ってらっしゃい」

 無理に笑顔を作ったが、私の手は震えていた。

「すぐ戻るわ」

 ちょっと丸っこい背中を見せて、彼女は足早に去って行った。私は朝食のトレイを押しやり、薄汚いカーテンを開けて窓の外を見やる。

 お日様の光は、どんな身分の者も分け隔てなくあたためてくれる。陽光だけが、同じお城に住む私と愛しいあの方を結びつけてくれているのだ。身分違いの恋でも、それだけで私の苦しい生活は報われた。

 そして、「あの子」との血のつながりや私との因縁も、恋しい方のいるこのお城に、大蛇の吐く毒のように瘴気をまとわりつかせていた。

 「料理長」、私が焦がれても手に入れることの出来なかった職に就いているのは、エミリア・エルブ。

 実の妹で、私の兄殺しの罪の告発者なのだった。

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