この手を引いてくれたのは
各務あやめ
第1話
17歳の夏。病院の診察室で、私は絶望した。
担当医が、私の手のレントゲンが映ったモニターを指さして、事務的に説明する。医者だから、「これでもう安心ですね」なんてお気楽なことは言わない。けれどその声は明らかに以前よりも穏やかで、緊張感が抜けていた。
隣に座っている母が、顔を伏せて肩を震わせている。本当によかった、本当によかった、と涙交じりに何度も何度も呟く。
―何もよくない。
この場で喜んでいないのは、患者である当の本人の私だけだった。
どうやら私は、命は助かるらしい。私の体は、これからも何の問題なく生きていけるらしい。
でもそんなことなんて、もう、どうでもいいくらいなのだ。
目の前が暗くなっていく。私はずっと、拳を握りしめている。確かにそこには感触がある。けれど。
薄っぺらな紙に機械的に打ち込まれた検査結果は、私に何も与えない。
私に残されたのは、価値の無い時間だけだった。
私は昔から、何でも器用にこなす子供だった。
勉強はそれなりにできたし、運動も得意な部類だった。友人関係を良好に保つ術も自然と肌感覚で覚え、程よく八方美人でいることに嫌悪感も抱かないまま、人と衝突するまでもなく礼儀も常識も身につけた。毎日が人並程度に満ち足りていて、これといった大きな苦悩も味わわずにこれまで育った。
しかしある時突然、そんな人生に初めて違和感を覚える出来事が起こった。多分私はそこで初めて、人生に存在する波というものを知った。14歳の夏のことだ。
夏休み明け初日、一か月前よりも肌を黒くしたクラスメイトたちは、まだ少し浮かれていて、もう戻らない休みを惜しんでいた。その日、担任に連れられて、ひとりの転校生が教室にやってきた。
第一印象は、どこにでもいそうな、普通の女子中学生。みんなの前で自己紹介する声が緊張したように震えていたのを覚えている。彼女は私の隣の席に座ることになった。
驚いたのは、彼女の定期考査の結果が、ちらりと見えてしまった時だった。当時の私にとって、学校と家の往復しかしない私にとって、テストはこの世で最も重要な何かだった。今以上にまだまだ狭い範囲で生きている子供だったから、色々なことを錯覚していたのかもしれない。
別に見ようと思って見たわけではない。隣の席だったので、ふと横を向いた時に、彼女の成績表がたまたま視界に入ってきてしまったのだ。その時まで私は彼女を普通の生徒だと思っていたから、見えてしまった瞬間、慌てて目を逸らした。けれど逸らす必要なんてなかった。
一位、とそこには書いてあった。
その数字を見た瞬間、体が硬直した。全身の体温が、急激に冷えていった。それまで一番は、ずっと自分の席だったから。
僅差ではなかったことも、私に衝撃を与えた。逆転された、と思ってから、そもそも彼女とは勝負にもならないくらい差があるのだと知って呆然とした。
勉強で、周りの人間に負けたことは、それまでほとんどなかった。自分には勉強が向いていると思っていたし、大抵の人には負けないという自身も持っていた。負けというものを知らなかったから、自然と、上の人間のことを想像できなくなっていたのだ。とんだ思い上がりだったし、この突然現れた転校生に出会っていなくたって、いつかは気づかされていただろう。
自分が圧倒的ではない。思い違いをしていたようだった。せいぜい私は世間を見渡せば掃いて捨てる程いる人間のうちの、一人に過ぎない。
それまで素直に真っすぐに努力してきた私は、挫折の仕方も素直だった。勘違いをしていた自分を正そうと思った。
井の中の蛙。針の穴から天を覗く。そんな人間は嫌だと、強く思ったから。
どうやら勉強では、私には限界があるらしい。私は勉強以外のことに目を向けるようになった。何か自分でも一番になれるものが、どこへ行っても誇れるものが、とてつもなく欲しい。たったひとつの出来事だったけれど、私はその時から明確な焦りを抱くようになった。このままじゃ駄目だと、ただ強く感じた。何か、自分が自分であることの証明が欲しい。言い表せないほどの不安が自分の中にあることに、私は気づいた。
高校に入学して、私は勢いで強豪と呼ばれていたそこのテニス部に入った。だって、強豪って響き、格好良いじゃないか。そこに入った時、私は自分が見えない盾を得たような気がした。けれど、それだけじゃ足りない。絶対に足りない。
テニスは楽しかった。先輩も、顧問の先生も厳しかったけれど、課せれられた試練を達成する度、どんどん実力がついていくのが実感した。
とにかくもっとやらなきゃいけない。私はもっとやらなきゃならない。やりようのない焦燥感をぶつけるように、私は朝も放課後も学校に残ってテニスをした。試合で負ける度に猛烈な悔しさが胸にこみ上げ、その悔しさの全てを練習に注ぎ込んだ。勝つためにはどうすればいいか、ひたすらに考え続けた。
そうしているうち、入部した頃は素人だった私は、一年後にはその部のエースと呼ばれるまでになっていた。努力すれば努力した分、結果がついてくる。勝率もどんどん高くなる。プレーする時、ここが自分の居場所だと、実感できた。
けれど、そう上手くもいかなかった。私がエースと呼ばれたのも束の間、春になると新入部員が入ってきた。
もともと強豪で有名だったのだ、テニスが得意な生徒がその部には集まった。そんな中、ひと際異彩を放つ新入生がいた。スポーツ推薦で入学したという彼女は、「もともとプロ志望だったんですけど、怪我しちゃって」と遠慮がちにラケットを握った。
見たことのないボールだった。
彼女が放ったボールは、空を突っ切って、バーン、と激しい音を立ててフェンスに衝突した。そこにいた全員が、何も言えなかった。
もうプロは目指せないんですけどね、と彼女は肩をさすりながら諦めたように笑った。
その瞬間、沸々と体の内側から抑えきれないほどの衝動が沸き起こった。怒りなのか、怒りだとしたら穏やかに笑う彼女に対してなのか、それとも自分自身に対してなのかも分からなかったけれど、とにかく叫びたかった。―そんなにできるのに、笑わないで。私は、あなたの足元にも及ばないんだよ?
私は知った。たとえこの場の人間に勝っても、そんなの狭い世界でもがいているだけに過ぎない。私が目指してきたのは、誰にも負けない自分。何か圧倒的なものを持った自分。要するに、テニスじゃなくても、何でもよかったのだ。でもそんな自分は、きっと何処にもいない。
それまで必死だった分、その反動だろうか、冷めていくのはあっけなかった。
どうして私って、こんなに頑張ってたんだろうね。過去の自分が、今となっては滑稽にさえ思えてくる。どうせ理想なんて現実には存在しない。だらだらと堕ちていくように、私は全力で走るのをやめていった。
だから、ピアノを始めたのは気まぐれだった。
幼い頃、数年間だけだったが、母に連れられてピアノ教室に通っていた。もうずっと弾いていなかったけれど、決められた時間以外にテニスをすることがなくなった私は、暇だった。部屋の隅に置かれた薄く埃を被ったオルガンに、何となく手を伸ばした。
とりあえず座って、ドレミファソラシドを弾いてみる。久々に叩く鍵盤は、案外軽く感じた。記憶を頼りに、昔弾いていた曲を弾いてみる。教室に通っていた当時のことが思い出されて懐かしさを感じた。結構楽しい。
そうやって弾いている時、たまたま母が通りかかった。私がオルガンの前に座っているのを見ると、いいじゃないの、と喜んだ。もともと私にピアノを勧めたのは母で、本当は私にもっと音楽を続けて欲しかったらしい。
そんな母だったから、時間を持て余していた私にすぐに提案してきた。
ピアノ、もう一度やったら、と。
―まあ、そのピアノももう辞めるけど。
私は診察室で、ぼうっと医者の話を聞いている。内容なんて、まるで頭に入ってこない。
私は手術をするらしい。患部は右手だ。腫瘍があるとかなんちゃら。腫瘍だと分かった時には、我が家は大騒ぎだった。すぐに私は大病院に連れて行かれて、先週検査をして、その結果が今日返ってきたのだ。腫瘍が悪性か、良性か。
「良性でした」と聞いた瞬間、母は両手で顔を覆って、よかった、と呟いた。良性でも、手術で右手からそれを取り除くらしい。ピアノはまあ、手術が成功したとしても、しばらく弾けないだろう。
悪性だったら命にも関わっていただろうが、私は無事だった。私は母ほど喜びもしない。勉強を頑張っていた、テニスを頑張っていた頃の私だったら、きっと飛び跳ねて喜んだだろう。でも、今はもう違う。
そんなことよりも、手術をすると言われた時の方が、どちらかといえばショックを受けた。仮にも右手を切るのだから、ピアノから離れるのは必須だ。けれどピアノなんてせいぜい遊びで、あってもなくてもどっちでもいいくらいの存在なのだ。私はそう思い直した。
ピアノ教室に通い始めて、私には友達ができた。同い年のあかりちゃんと、はなちゃん。週に一度教室ですれ違うだけの、近いとも遠いとも言えない距離感だが、別に互いにそれ以上親しくなろうともしない。ただ何となく、義務のように連絡先を交換しているだけの友達。
私は淡泊なのか、友人関係がある一定のラインから発展しない。それはピアノ教室で出会ったこの二人に限った話ではなかった。自分を磨こうと努力すればする程、私はまわりが見えなくなる人間だった。別にそれでもいいと思っている自分も確実にいる。
楽しみなんて特になく、流されるように生きて、時間をただ貪るだけ。
自分は達観しているとか、大人だとかなんて微塵も思っていない。私は凡人で、それを覆せる程の努力家でもない。ただそれを自覚しているだけだ。
母が隣で、医者の説明を熱心に聞いている。私も体裁だけは整えて聞いてる振りをする。だってもう、そこまで興味もない。手術だって、別にどうとでもなればいい。なぜだかそう思えてしまった。
私は腫瘍のない方の左手を、ずっと握っている。握っているけれど、どこか空っぽな気がする。私は何も持っていない気がする。気がするというか、きっと何も持っていない。
良性かあ。
私はふと、恐ろしいことを考える。母や父が聞いたら、泣いて悲しむようなことを。
てゆーか、ここで終わればよかったのに。
しばらくして、私たちは診察室を出た。ありがとうございます、と母がこれでもかという程、丁重にお礼を言うので、私も一緒にお辞儀をする。それでも拳は握ったまま。かつてペンを握り、ラケットを持ち、鍵盤を叩いた手。
母は診察料を払いに行くと言って、受付に向かった。私は待合室のソファに、誰も座っていない隅の方を探して座る。
大きな病院だ。建物の中にはコンビニもあって、ここで働く医者や入院している患者たちが多く立ち寄っている。病院には似合わない程の活気がそこには溢れていた。あのコンビニにいる患者全員が、一か月後も買い物をできるのか。みんな何てことない顔をしているが、この大病院に送られてくる人間が、どれ程の病を患っているのか。私は蚊帳の外で、気楽にそんなことを考える。苦悩なんて結局、それを味わった人間にしか分からないし、それ以外の人は大抵的外れのことを思うだけだ。
もし検査の結果が悪かったら、私はここで長期間の入院を強いられていただろう。人生の最期をここで迎えることになっていたのかもしれない。そのくらい、私は、つい数分前まで生死の淵に立っていた。それを突然、崖っぷちから広い野原に突き返されて、呆然としている人間だ。
私はポケットからスマホを取り出し、ピアノ教室の友達にメッセージを送る。二人とも、私が検査を受けることを知った時、すごく心配していた。何てことないと、早く伝えた方がいいだろう。
送信ボタンを押すと、私は再び虚無感に襲われた。
私には今、目があって、足があって、自分の力で歩くことができる。けれど、それを使いこなせないのなら、もうどうしようもない。
その時、目の前をすっと、小さな女の子が通った。
年は5、6歳くらいだろうか。女の子の腕には管が刺さっており、点滴台に繋がっていて、コロコロとそれを運んで歩いている。私の前を一度通り過ぎてからふと立ち止まって、こちらに近づいてきた。どうしたのだろうと思っていると、鈴を転がしたような声が降ってきた。
「お姉ちゃん、そのシュシュ可愛いね」
一瞬、何を言われたのか分からなくて、数秒経ってようやく自分が髪に付けてる飾りのことだと気づいた。
「あ、ありがとう」
女の子の腕から視線を引き剥がしながら応える。痛々しい腕だった。
けれど女の子はにっこりと笑って、そのまま何も言わずに去っていく。さっちゃん、こっちだよ、と看護師がその子を病棟に繋がるエレベーターに呼んでいる。
―あっちの病棟は、確か。
私は思い当たって、顔を伏せた。
胸が痛い。私は唇を引き結び、拳を握った。
終わればよかったなんて、何で思ったんだろう。
他人を見ないと自分の幸せに気づけないだなんて、馬鹿が過ぎる。
母はなかなか戻ってこない。家族以外の人と話すのは、ひどく久しぶりだったような気がする。私は女の子が吸い込まれていったエレベーターをじっと見つめた。
子供からお年寄りまで。幅広い年代の患者が、そこに乗る。その全員に共通しているのは、薄緑色の病衣を着ていることだ。中には顔色の良い人もいて、点滴を抜いて着替えれば、どこにでもいそうな健康な人間に見えそうだった。
どうして私は、無事だったのだろう。
つい考えてしまう。私は幸せ者だ。だからこそ余裕があって、考えたって仕方のないことを永遠に続けてしまう。全ては運命で、私たちの意志とは関係無しに、歯車は回っているのに。
しかし家に帰ったところで、きっと私は時間を貪るだけなのだろう。やりきれない気持ちを適当に紛らわして、誰か隣に立った人間の真似をして息を吸う、意志を捨てた人間。意志は無いのではなく、私はそれを自主的に捨てたのだ。身軽さを手に入れるために手放した意志、目標。けれど私は今、前よりずっと重い何かを背負っている気がする。何を考えても、ずるずるとどこか暗いところに引き摺られていくようだった。
私は今、何を求めているのか。
何者かになりたいだなんて、必死なように聞こえて、誰にでも抱ける幻想だ。ただただ何かが自分に都合良く降ってくるのを待って、膝を抱えているだけ。本当は、自分の無力さと怠惰を認めるのが怖いだけなのに。
私は拳を握る。なんでこんなことになったのだろう。理不尽な怒ばかりが募る。怒りではないのかもしれないけれど、子供の私には自分の気持ちを素直に言葉にすることすら出来ない。
すると、ポケットの中で、わずかな振動が起こった。
私はスマホをもう一度取り出す。画面を開いて、驚いた。
メッセージは、ピアノ教室のあかりちゃんと、はなちゃんからだった。連絡先を交換した時に送った「よろしくね」のスタンプから今日私が送信するまで一度も更新されていなかった会話。そこに、光のように二人からのメッセージが浮かび上がる。
『良かったああああああああああ!!!!』
『安心したよー!!!!』
顔文字にハートマーク、普段の関係からは考えられないくらいに画面は文字とスタンプで溢れ返っていた。私が呆気に取られている今この瞬間も、ぽんぽんぽんぽん、新しいスタンプが次々に送られてくる。
―そんなに心配してくれていたのか。
たかが週に一度、顔を合わせるだけの関係。知り合ってからも、まだ一か月程しか経っていない。きっと、お互いのフルネームだって漢字では書けない。
なのに、こんなに。
そもそも、私が検査を受けることだって、始めは二人に伝えるつもりなんてなかったのだ。大事にするのが嫌だったし、心配もかけたくなかった。けれど、ピアノ教室の先生に病院に行くのでレッスンを休むと伝えた時に、うっかり彼女たちに会話が漏れてしまったのだ。
私はスマホの画面を見つめる。画面に手を触れて、こんなに温かいと感じたのは初めてだった。
私は、拳を握る。
ぱっ、と画面に文字が浮かぶ。
『お守り、役に立った?』
役に立ったよ。すごく。
私は、手を開く。そこには、片手にすっぽりと収まってしまうくらいの、小さなお守りがある。
今日何度も、握って、握って、握り返してきた拳。その中にはずっと、二人がくれたこのお守りがあった。
視界が歪んでいく。涙だと気づくのに少し時間がかかった。
人の声って不思議だなあ、と私は小さく呟く。たとえ何も解決してくれなくても、塞がらない心をすっと埋めてくれる。
ずっと、怖かった。死ぬのも、自分を見失っていくのも。
私はようやく気づく。私が抱いていたのは、怒りでも何でもない。
本当は多分、ずっと寂しかった。誰かの声が欲しくて、ずっとこのお守りを握り締めていた。
自覚した瞬間、すっと心の中のわだかまりが解けていく。手術でピアノが弾けなくなると知った時悲しかったのは、この二人にもう会えないのではないかと思ったからだった。ようやく認められた。
私は震える手で、文字を打つ。一文字一文字、ゆっくりと、丁寧に。
手術は、来月だからさ。
『再来月、また会おうね』
生きていてよかった。
あんなに長い間どうにもならなかた焦燥感が、嘘みたいに薄れていく。色んな事を諦めて先なんて分からないままでも、私には何も無いわけじゃない。このあたたかさに気づかないのは、本当に惜しいことだ。
生きている限り、私は独りにならないのだから。
この手を引いてくれたのは 各務あやめ @ao1tsuki
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