モノトニクスの息吹(comitia145)

丹路槇

モノトニクスの息吹

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 日当たりの良い南向きの洋室、ブラインドは下ろしたまま、グリップで入射角を変えて部屋の明るさを調整する。照明を落とした空間は人間の目には少し暗く見えた。三脚の上でSONYのZVーE10Lのレンズを開ける。カメラが好きというよりも男に生まれた定めみたいな顔をして、振り返った透くんがさして準備の捗っていないこちらの手元を注視している。

 部屋は昼下がりまでに溜めた陽光みたいな匂いがした。夏に共働きの両親に送り出されてひとり帰省した田舎の祖母の家の畳間みたいな。大人になってからあれは藺草の匂いと理解していたのに、透くんの部屋を見る限り、それに代わる良い匂いがしそうなものはなさそうだった。草じゃなくて大量の糸があるけど。糸が? まあいいか、良い匂いは大歓迎だし、透くんは午後じゃなくても、わりといつも僕が好きな香を仄かに纏っている。

「ねえそれ」

「あ、はい」

「なんで敬語。もしこだわりないなら、4Kじゃないで撮ってほしいんだけど」

 横顔を晒すのを惜しんだ、というより手入れが億劫で伸ばした髪越しに彼はじっとレンズを見据えていた。透くんの目でカメラの方が撮られているみたい、とこっそり笑いながら、ダイヤルを行ったり来たりして露出の調整をする。

「うーんどうだろう、分かんない。いつも設定いじらないよ。勝手に撮れちゃう?」

 この答えはお気に召さなかったようで、ワークトップに置いていた両手を軽く拳にして押し返す動作がやおら起こった。花梨の木でできた綺麗な色の机の天板から慌てて手を放し、彼が立ち上がるのを制止する。待って、と口に出す寸前に、もう怒らせてしまっているな、とか思っている。思いながら、大場透という青年がそんな簡単に機嫌を損ねる人じゃないのも知っている。

 記憶に依れば、会話の場面が全て思い出せそうなくらい、彼は無口で穏やかな人だった。高校の在学中はもうお父さんは他界されていて、持ってくるお弁当は毎日じゃないけど自分で作ったものだと聞いている。今でも全く自炊しない僕にはその労苦も崇高な営みも想像する術はない。

 また余分なことを考えている、と自分を嗜めつつ、ポケットから社用の端末を取り出した。

「そうだ、碧ちゃんに聞くわ。彼女これでアイキャッチムービーとか作ってるし」

「いや設定見て探せばいいでしょ」

「いいって、どうせ今もオフィスで電話待ちしてお菓子食べてるだけの時間……」

 特に言い淀むことのない些末な会話は、矢庭に打ち切られてしんと静かになった。机上にあるのはデジタル時計だから秒針の音も聞こえない。それよりももっと微細な、例えば瞬きの音も察知できそうな、とはいえ実際に耳にしたことはないけれど、つまり今の沈黙は完璧に近い、という感じ。

瞼が動くときは、やっぱりカメラのシャッターみたいなカチャッっていう音がするのだろうか。透くんの双眼レンズは静止画? 動画?

 ああ、またどうでもいいことに頭を使った。収まりが悪くなって再び椅子へ腰を下ろした透くんの、こちらへ向ける相貌へ近づき、指先で瞼の下をそっとつまんだ。睫毛が落ちてる、そう釈明すると、彼は控えめに歯を見せながら視線を落とす。

「三河は優しいね」

「え、何が?」

「俺はさ、優しいの無理だから、人に仕事あげられないの。仕事ができない大人。いや、大人になれなかったって意味か」

 カメラのこと、片浜さんに電話しなよ。彼女と知り合った時のままの名前で呼ぶ透くんが、窓側へ向き直り頬杖をつく。横顔の輪郭を無意識に目でなぞっている。そういう囚われ方をすると、ちょっと嬉しい気持ちになる。

 端末を耳に当てたまま呼び出し音を数回鳴らした。応答はない。もしかして本当にしっかりお菓子食べてて、そのせいで口の中がぱんぱんで元も子もなく電話に出られないとか。嘘でしょ、碧ちゃん。

 スピーカーボタンをタップして椅子の上にスマホを投げた。

撮影モードの設定は一度開いたけれどカメラのモニター横のダイヤルをコロコロと動かすだけで無為に終わった。強いて言えば小さな円環を回すのが舵取りの所作みたいで面白かった、っていうくらい。小さな画面でフォーカスのカッコを出すと、チチッ、とピントを合わせてシャッターの準備ができた電子音が鳴る。録画の赤いボタンを押せば、ぐっと画角がひと回り小さくなり、左下に点灯する録画時間のカウントが始まった。

 光彩の調整が即座に行われて、薄暗い部屋はスタジオみたいに明るくなる。いい感じに黒が殺されていて穏やかなカラーバランスだ。さすがVログカメラ、めちゃくちゃ見やすい。

 試し撮りを始めているのに気づいて、透くんが軽く拳を作った両手をワークトップの上に並べて見せてくれる。いつもの工程でとる姿勢に近い感じに前へやや屈み、指先を規則的に動かすのを模して何度か両手の間隔を開けたり狭めたりした。

 被写体の青年は珍しいジャンルでの工芸作家を生業にしていた。かぎ針編みで構築した立体は恐竜の造形で、図鑑の挿絵やCGで表現されるのとは違い、完全な三次元、更に作られた四肢がティディベアみたいに動いたりする。そんなすごいものを作っているのが、大場透という人なのだ。

「どう」

「うん、撮れてるよ」

 瞼の上まで垂れたもさもさの髪の向こうでも分かるくらい、透くんは顰め面をしてみせる。

「そうじゃなくて、見やすいかどうかって言ってるの。背中、邪魔じゃなければ真後ろからがいいんだけど」

 うん、と生返事しながら小さく切り取られた画面を覗く。彼の両手は輪郭を曖昧にして、透けるくらい綺麗な肌をワークトップの上に並べていた。指が細くて長い。爪の形もなだらかな膨らみが磨かれた硝子玉みたいだ。女のひとの手みたい、と思った時、もう口に出してしまったかもしれない。

 溜息は深く、諦めたように長く落とされる。背もたれのない椅子がくるりと自転すると微かに古い軋み音がした。

「飯、付き合って。撮ってる間に腹が鳴りそう」

 そう言うと、伸びをする猫みたいに腕を伸ばし、革製の小銭入れを手に取ると立ち上がった。レンズ側からカメラを覆うようにしてモニターを覗き込んだ透くんが録画を停止する。レンズカバーはつまみを押しながらかちゃっと嵌められた。その時になってまるで大仰な事を言ってしまったみたいに肩をすくめ、返事をしない僕をちらと上目遣いに覗く。

「俺、この話」

「うん」

「受けて良かった。すごい、楽しいんだよ。分かる? 三河は」

 そう口にする彼の表情は平生の涼やかで緩急の無い様相から寸分の乱れも感じられないが、もしかしたら、じーっと見ていたら少し笑っているとか、目が優しいとか、否、うーんどうだろう、希望的観測としては、やや楽しそう。そう、声が少し明るい。これはいい兆候だ。もしかしたら近日中、また彼が臆面なく笑ってくれるのを見られるかも。

 それに応えるべく「僕も!」と言って腕を広げたら今度はそそくさと逃げられた。始まってもいないレコーディングはお預け、まずは腹拵え。いいね、怠惰な週末の午後っていう感じ。

 でもこれはただの仕事の延長なのだった。透くんが僕を家に上げてくれるのも、黙って顔についた睫毛を取らせてくれるのも、その先に許してくれるものいろいろだって、そこに協働の関係があるからということでしかない。

 

 かつての同級生である透くんの存在を十五年ぶりに発掘してきたのは先のお菓子飽食疑いの同僚、片浜碧だった。数年前から僕が仮の編集長をしているWEBマガジン会社で、彼女はちょっとニッチなサブカル好き独身女性をターゲットにライターをしている。

 碧ちゃんは背伸びしても頭の先っぽが僕の肩より下にあって、腕なんて掴めば折れそうに細いのに、ひとりで撮影機材も軽々と手持ちで運びどこへでも取材へ突っ込むパワフル女子だ。夏の間は街で蝉の羽音がするたびに「セミミサイル!」と言ってさっとしゃがみ込む。で、その足元にひっくり返ったミンミンゼミが転がり込んできて、ぎゃーっと絶叫しちゃう。そんなところが可愛い相棒だ。

 去年めでたくアラサーの仲間入りをした碧ちゃんが、この夏もその機敏かつ力強いフットワークで夏のグルメと観光の特集コラムの連載を立て続けに打ち出してひとしきり乗り切った後、ある時唐突に「もうネタがない」と音を上げた。

「そうなの? この間の川辺のかき氷カフェ特集、最高だったじゃん。首都圏百名城シリーズも好きだったけど」

「そーいうんじゃないの。三河さん狡い。編集長ぶってもう兵隊やめたんだ。下っ端ばっかり歩かせてさ」

 いやいや、きみは殆ど走っているでしょう、というお返しはこの場では控えておく。気怠そうに碧ちゃんは自席の36型画面のデスクトップにでかでかと個人アカウントのSNSのブラウザを開き、Endボタンを連打してそれを奥底の過去へ遡らせていた。彼女が長く使用しているアカウントのプロフィール画面らしく、2017年という投稿年の表示あたりから一気に毛色が変わる。「へえ、金髪」と不躾に口に出すと、「今でも似合うよ」と弊社の参謀はふんと得意げに鼻を鳴らした。

 正方形に整然と並ぶ投稿のサムネイルは食べ物、地方の観光地、ネイル、冷えたビールなど感性が雑多に散在する。在りし日の女子大生の鋭敏を暴いてしまうような後ろめたさに小さく唾を呑むと、碧ちゃんは少し意地悪な顔をして「えっち」と揶揄い、また画面に視線を戻した。やや芝居がかった溜息が漏れる。

「過去の自分にヒントを見出そうとしてみても、そんな都合の良い話は落ちてなくてさぁ。当時のご飯屋さんなんて、きっと粗方閉店とか移転してるかじゃん、それかもうみんな知ってて当たり前でさ、定番すぎてかえって足が遠のくやつ。……あ、これ楽器ね。昔やってたの。だから? カタハマミドリのソロリサイタルする? 観光地の話は飽きちゃった。インタビューものにしても、紹介できそうな友達もいないし」

「へえ。元彼は?」

「うっわ、気色悪い」

「今そういう需要だったでしょう、気色悪い男。ありだよね、みんながうえって思っちゃうものをたまには記事にする。屑籠の中身って汚いの分かってるんだけど、なんとなく覗き込みたい、みたいなさ」

 その言い回しに彼女はぶんぶんとかぶりを振り、無理、無理、としきりに連呼した。

「そんなの、他人が叩き潰したゴキブリの捥げた脚を見るようなもんじゃん」

「そう、それが良いのよ、碧ちゃんの黒歴史。恥ずかしい過去。二度と日の目を見ないプリントシールのページを御開帳」

「ぎえええ」

 心地良い断末魔の声をBGMに、手放されたワイヤレスのマウスにちゃっかり手を置くと、スクロールのダイヤルをしゃっしゃっと軽快に下へ送る。2019年の投稿頻度は直近4年の更新頻度を怠慢と叱責して然るべき、めちゃくちゃな投稿回数だった。しかも猛烈に見た目に拘ってる。見よ、うら若き碧。麗しきその姿、盛りに盛れてるぞ。こんなこと言ったら脇腹を思いきり拳で穿たれるだろうな、と思った時、奇妙な物体を見つけた。

 その実像を視認することはできなかったが、単に可愛いな、というのが第一印象だった。薄灰の色がまだらに混じる、もじゃもじゃした丸いもの。なにやら毛玉みたい。ウニ? そういうモニュメントかな。カフェのテーブルでコーヒーの傍に置かれていたその不思議な造形物を指さし「これなんだろう」と言った。碧ちゃんはおかっぱを掻きむしりながらまだ呻いている。

「丸くてちょっとちくちくしてそう。本当に何?」

「うるさいなぁ、マフラーだよ。人にあげる用だったの」

「わ、本当に元彼を引き当てちゃった。だけど〈あげる用だった〉って、何? 出来がタワシになったからやめたの?」

 その後の暴力事件については特に言及しないでおく。こういう仕事柄、碧ちゃんの生みの苦しみの為には僕というサンドバッグは不可欠だし、何かあれば労災が下りるし、本当にのっぴきならなくなれば、ほら、人権こころの相談窓口もある。

 それに、痛みなど些末なことはどうでもよくなるような想起が舞い降りた。碧ちゃんの隠れたる無限の人脈が突如開眼したのである。

「……いる、やばい知り合い」

「お、来たか。どんな元彼だい?」

 僕がお預かりしているマウスは取り上げられ、落ち着いた朱色に彩られた爪先に掴まれた楕円形がカッカッとデスクを抉るように擦られた。レーザーでカーソル位置を認識して開かれた新しいウィンドウに、今度はキーボードから検索キーワードが入力され、タブキーで飛び石に項目を渡って目的のSNSのプロフィールページを探し当てるとエンター、更にその先で彼女の記憶通りにIDが打ち込まれていく。

 華麗な動きには真摯な情熱が感じられた。きっと彼女の生きたその日々は僕が思うよりずっと、輝かしくも混沌たる極めて人間的な時の流れだったに違いない。

 そういうのも曝け出して自らを犠牲にし、また切り売りしながら、物作りが営まれていることを僕等は皆よく知っていた。斯く言う自分も随分前に昔の交際相手の伝手を三人ほど使って……まあいいか、この話は。

 碧ちゃんがその小さな呼吸器官では到底出せなさそうな野太い声で「知らんでしょ、この人」と告げる。結構高かった液晶画面を平気でノックしてきた。全くおちゃめなんだから。

 インターネット大洋の周遊を終えて表示されたその画面に、僕は一瞬で釘付けになる。この歳でまだ真っ新な未知との対面が叶うのかと感動するほど、想像をひと跳びした別の世界が広がっていたのだった。

 窓枠を使って所狭しと敷き詰められた恐竜の、お人形と言うには惜しいくらい見事な造形が、実に80体以上の大群で一様に此方を見据えていた。誰も知り得ない本物が理想とされていても、それを越えた美しい模造というのは有り得るのか、と自然と嘆息が漏れる。

「手芸作家モノトニクス、っていうの。狭い業界ではけっこうな有名人だよ。会いたい?」

 その問いに答えられる余白もないほどに思考は眼前のものに攫われていた。殆ど顔が見えないアイコン写真に反射で手を伸ばしながら「……透くん」と旧知の名前を口にしている。

 

 モノトニクスを発見してから三日後、僕は指定された大学の正門そばの生垣に立ち、待ち合わせ時間が訪れるのを待っていた。上野駅から公園口をゆっくり歩いたのは高校の遠足以来じゃないだろうか。時折ちりっと光線に熱がこもり、雨上がりみたいな湿気にまだ夏の暑さだな、と襟足をハンカチで拭く。風が抜ければキャンパス一帯に生えた木々がさわさわと葉を揺らした。足の速い雲がぐんぐんと空を横切って翳り、またひなたを作り、そんなことも知らずに別の空まで疾駆していく。面白いなぁ、こうして普段景色だけを見ている時間はほとんどない。手元の端末と睨めっこしたり、人と話をしたり、イヤホンの音声に夢中で視野は限定的な情報伝達だけに使われていたり。

 僕は今、大場透が現れるのを待っている。美大の工業デザイン科で非常勤講師をしていると教えられたので、てっきり碧ちゃんの母校とか、そうじゃなくてもついて来てくれると思っていたのに、彼女はお留守番を決め込んだ。理由を尋ねても教えてくれない。

「そっちこそ、同級生なのに変なの。アポの日、カタハマミドリの紹介ですって言えば分かるようにしとくから」

 ああ、そういえばそんな感じの名前だったね。とどめに回し蹴りを喰らって、その場は閉会。

 デスクに戻ってチャットに送ってもらったアポイントの短い詳細文を読みながら思った。これ、ライター片浜碧の新記事ネタ探しだったよね? 僕が取材に行くことになったんだっけ?

 5分くらい身動きも取らずそこへ居たので、門の側に立つ守衛さんが一度こちらへ歩み寄り、何かご用ですか、と尋ねられた。

「こちらの非常勤の先生で、大場透さんとお約束していまして」

「はあ。ご本人へご連絡は」

「すみません、お忙しいと思って、今着いたとは、未だ」

 愛想笑いでごまかす僕を、恰幅の良い制服姿の男性がじろじろと風体を確認する。この頃大学で頻回に物騒な事件が起こっているからだろう、確かに入構手続きもしないで外でぼんやり立っている男がひとり、かなり怪しい。黒いリュックも背負っているし。襲撃かな、とか疑われている。まあそれで動揺する程度ならマガジン編集なんてしないけど。こんな美しく平和な芸術大学とかじゃなくて、僕や碧ちゃんの母校みたいな、週末の学生運動による大量逮捕劇みたいな物々しさに比べたら、ちっともね。

 ああ、また脱線した。守衛さんが何かを質問していたら聞き逃していたかもしれない。充血が走る少し黄ばんだ目がじろりと動く。名刺を出そうと後ろ手に鞄のポケットへ手をかけたところで、待ち人が正面の講堂から出てくるのが見えた。

 小走りにこちらへ向かう姿は黒いTシャツに濃茶のジョガーパンツ、スニーカーはプーマのランニング用だ。ボディバッグひとつで書類どころかPCも持ち歩いている気配がない。手首には太さのばらばらな紐やゴムが何本も留められ、それに混じって着けられたスマートウォッチがかえって場違いみたいだった。湿気なのか手入れが億劫なせいか、髪は伸び放題で耳の後ろで束ねるのも半ば失敗している。ざっくり言えば、頭はぼさぼさで出立ちは近所のコンビニに行く程度の恰好の人を、想像に違わずかつての同級生だと一瞬で認識した。

「片浜さんのご紹介で」

 守衛さんに事情を話して僕を連れ出してからそう声をかけた彼は、こちらに気づいていないようだった。「三河昌幸です」と試しに告げてみる。はい、と返事されただけで彼は先に歩き出した。緩やかな坂を下り、駅から向かった時の交差点に戻る。遥か昔に駅としての役割を終えた遺構が、信号の向こう側に青銅の扉を目印みたいにして立っていた。

 何処かのカフェでお話伺いますか。口に出してみてから、変な台詞だったなとすぐに後悔する。とりあえず飯でも、これはもっとおかしいか。僕のこと覚えてる? は、いきなり復縁迫る男みたいで気持ち悪い。碧ちゃん、なんで今日の僕をひとりでここへ寄越したの。

 噴水のある大きな広場へやってくる。周りの木陰を利用して、停車したワゴンが軽食や飲み物の販売をしていた。手前のワゴンはA形に自立させる黒板を車輪の前に置いていて、白チョークで書き込まれた丸い字体が〈パンとコーヒー〉と謳っている。

「ねえ」

 少し先を行く透くんの袖を引いた。黒板の下半分にびっしりと並んだ、挿絵付きのメニューを指差しながら高校の記憶をなぞる。

「昔、2限終わりの休み時間に、ジャン負けしたやつが交代で購買まで走ったよね。次の授業、すぐに始まるのにさ。渡り廊下転がるみたいに走って。透くんは何が好きだった?」

 足を止めたプーマのジョギングシューズが砂利を掻いて爪先を黒板の方へ向けた。風がざっと通り、伸び切った前髪の内側に隠れた双眸が億劫そうに瞬きする。透くんは多分、手描きのイラストからその巻貝みたいな定番のパンを見つけ出していた。軽く前に屈んでそれを確かめると、ぱっとこちらへ振り返る。

「ミカはいつも、チョココロネ」

「あ」

「……憶えてる、三河。学ラン以外の服が似合うなんて、知らなかったよ」

 その時にはもう、喫緊のネタ不足解消の為のマガジン特集の確保とか、碧ちゃんが繋いでくれた手前云々とか、そんなこと全て思考から消し飛んでしまっていた。

 やっぱり透くんだった、という当然のことをしみじみと噛み締め、たぶん結構な大声で「ありがとう」とか何とか、言ったんだと思う。

 彼は急に感嘆を叫んだ三十路の元同級生をまじまじと見て、あまり主張しない両目をその時は大きく見開き、それから「ふ」と一瞬、笑った。

 それから、ワゴンの中から店員さんがこちらを控えめに観察する視線に漸く気づいて、ばつが悪くなりぺこりとお辞儀をする。透くんはそのままディスプレイを物色して、早速「メロンパンひとつ」と声をかけた。僕らはパンとコーヒーを買うところから、手探りに再会の感傷を掴もうとしている。

 

「モノは1、ニクスは爪。かぎ針っていう、道具一本で編むんだよね、あれ。学名っぽくした造語、実際はそんな恐竜いないよ」

 もさもさに生えた無造作な髪の向こうで、透くんが歌うように話す。

 パンとコーヒーの軽食を摂った後、成り行きで公園の中へ足を伸ばし、国立科学博物館へ立ち寄った。日本館から地球館へ移動する半屋外のエスカレーターに順に乗りながら、屏風折りのパンフレットを広げてフロアガイドの小さな活字を懸命に読む。

 入場の切符を買う時になって僕はようやくあれきり碧ちゃんに連絡を入れていないことに気がついた。慌てて「ぶじ会えた」とだけ送った社内メッセージの吹き出しは送信日時だけが表示され、readのバッジは待てどもいっこうにつかない。これ、絶対通知バーで読んでいるけどスルーされているパターンだ。まあそれが分かるだけでいいか。

 訪れた地下2階の展示室には、誰もが知る親しみのある顔から目新しい姿形のものまで、様々な恐竜の骨格標本が展示されていた。さっきは一瞬で高校生の自分が宿ったと思えば、今度は更に遡って幼年の心が蘇る。空き箱に覗き穴ひとつ開けたような小さな世界の真ん中で、自分は必ず恐竜博士になるに違いないと信じていたあの頃も、ここにいる三十過ぎの自分と同じ生き物だということの方に今は感動した。

 感情論に限らず、四半世紀以上の時が確かに過ぎたのだということを展示そのものからも汲むことができる。草食獣を植物食恐竜と呼ぶようになったのなんて知らなかったし、あのティラノサウルスに実は羽毛が生えていたのかもしれないという仮説には思わず「ほおお」と変な声が出てしまった。碧ちゃんならきっと「こういうの好き」とか言いそうな、背中がとげとげして尻尾にハンマーがついた鎧竜の標本と再現模型の前を、物音立てないようにそっと通る。

 展示室の中央で尾を後へ真っ直ぐに伸ばし、独特な格好でディスプレイされた巨大な肉食恐竜の大きな歯列を見上げてから、傍へ寄った透くんの指さす方へ視線を移した。タンクみたいに膨らんだ肋骨の層があって、その手前にちょこんと前足が飛び出ている。下半身が無いように思ったのはそれが屈んだ姿勢で静止しているからだった。

「かなり興味深いポーズで、獲物を待ち伏せしている様子が再現されているんだけど、それも難儀だなってくらい、頭が大きくてバランス悪いよね。重心が今の哺乳類や爬虫類と大分違う」

「うん」

 反った喉から出す声で滔々と解説する大場博士の隣で相槌を打つ。高校の時も確かこんな場面があった気がするな。教室の休み時間ではなく、学校の外にいるような情景と重なった。僕と透くんは当時、放課後に連れ立ってどこかへ出かけるほど仲が良かったのだろうか。

 きっとひとりでここへ何度も通っているのであろう、パネルに書いてある文句は諳んじられるといった風で、その横顔は微かに悦びに染まっている。

「退化した前足は、このしゃがんだ姿勢から、また立ち上がる時にバランスを取るために使われたって言われているんだよね。その証拠かは分からないけど、発掘された化石の中に、前足を骨折している個体がいる。自重に耐えられなくて折れたとか、ちょっと面白いじゃない」

「本当だ、なんかちょっとまぬけ」

「だろ。そういうの聞くと、俺、気になっちゃうの。本当にそんな姿してたのかな、って」

 だから作るんだね、とすかさず添えると、不測に彼は混乱して、選ぼうとした言葉が抜け落ちたのか返答に窮し、そのまま「違うと思う」とだけ言った。

 地球館の上階にある剥製の展示まで見た。フロアにある夥しい数の哺乳類や鳥類の剥製がかつて殆どが個人蔵だと聞いて思わず「そんなお金持ちいるんだねえ」と感嘆する。透くんがむず痒そうな顔でこくんと頷くのを見て一安心した。

 日本館へ戻る歩みは日々の喧騒から離れてとてもゆっくりだ。僕にはそれがとても不思議だったけれど、透くんという人に寄せればそれはひどく自然なことに思える。かつて同じ教室にいた仲間だとしても、僕と彼との間に流れている時間は全く別物だった。あの頃の不完全ができあがってから凝固しきってしまうだけの月日は十分に経っていた。歳もその時の倍になっている。さっき自分がフルネームで名乗った時と同じ心境、これは新しい出会いと挿げ替えても間違いではないくらいに。

 とりとめのない話が一度着地してから少しの沈黙を過ぎ、僕はようやくアポイントの主意を彼に話した。

 マガジンと銘打っているが出るものはWEB記事で、僕らが求めるのはページビューと滞在時間、最終目的は広告収入、分かり易い金銭評価だと。まあ、本当はもっとオブラートに包んでのらりくらりと語るべきだけど、僕も碧ちゃんもそういうのは苦手だった。綺麗で格好の良いものづくりがしたい、そんな歯痒くて吐きそうになる理想論は、どっかの駅ビルの小洒落たバーで披露すればいい。

 明け透けに運営の実態を語りつつ、それでも手を組まないか、というおかしな打診に、透くんは僅かに眉を上げて見せただけだった。ちょっと失敗したかな。

 日本館の建物は中央に大きな吹き抜けがあり、屋根はぽかりと半球に盛り上がっていた。帽子を被った紳士と僕が勝手に考えたその洋館は南北に展示室に分かれている。渡り回廊の手摺りには技巧が凝った彫物が見られ、建築自体に息づく気配が濃い。

 連絡通路のエスカレーターを降り、今度は階段で3階を目指す。そこに恐竜ではない、海の爬虫類の骨格が居るらしい。在るではなく居るって言っちゃう感じ、かなり好きだ。

 僕は透くんの温度とか会話と沈黙の緩急とかに、波長が合うような心地良さを覚えている。今の失敗がなければ受けてもらえたであろう彼の取材は、今日くらい過ごしやすい風が吹くのかな。いや、もう諾と言われたら記事にできるくらいには、この時までに随分話を聞けていたけれど。

 展示室の入口すぐ、長い首を少しもたげるような恰好で、海洋性爬虫類の巨躯は展示室の宙に佇んでいた。悠然としているが、夜になれば泳いで吹き抜けへ飛び出して行ってしまいそうでもある。

 骨格の種名はフタバスズキリュウと言った。発見は最近というイメージだったけれど、もう半世紀ほど前のことらしい。実際は発掘された標本はごく一部、その関節ひとつや頭骨、顎骨の欠片から研究によって再現された姿なのだから当たり前だけど、人の手を借りて再びひとつの形となった姿は美しかった。

 ポケットから端末を取り出してカメラアプリを起動する。なんでも写真を横置きで撮ってしまうのは職業病。プレビューでブレていないかだけを確認してから碧ちゃんにデータを送る。ボケてます、指が写ってます、でどれだけ今まで怒られたことか。そういう時、決まって「一緒に来ればよかったじゃん」と返す。ただの挨拶だけど、今日はあんまり使いたくない返答だなと思った。念のため保険にもう一枚、撮ってから端末をしまう。

「片浜さん、もう社会人なんだね」

 僕の連絡相手を承知している透くんが、腕に巻いたスマートウォッチの画面を確認した。表示されたシンプルなアナログ時計の文字盤表示に、もうこんな時間か、とやや驚く。

「ああ、そっか。学生時代に会ったんだっけ? 僕は新卒からだけど、彼女、何も変わってない感じだと思うよ、きっと」

 返事を聞く合間に、彼は別のことを思い出したようだった。少し目が泳いで、諦めたように唇を一度軽く噛み、ふうと嘆息した。

「……初対面、中学生かと思って、金髪はだめだよって叱っちゃった」

「うそ」

 本当、と告げた透くんの双眸は既にフタバスズキリュウに戻っている。これが、彼の手の中から糸の変容により、編みぐるみという姿形でまた別に顕在するらしい。不思議で面白い世界だ。

 海のような沈黙が穏やかに広がる。碧ちゃんとはいつ会ったの、という問いに、彼は答えなかった。

 下階の展示室には寄らず、一方通行の階段を降りてミュージアムショップの手前あたりに戻ってくる。ロッカーエリアの近くにあるカプセルトイのコーナーになんとなく足が向いた。四百円か。あれ、僕、これからガチャガチャをやろうとしている?

「三河は」

 名前を呼ばれるなんて思っていなくて、背中にぽんと軽く投げられた声に、伸ばしかけた手が反射でびくりと跳ねた。

「あ、はい」

「なんで敬語」

 そんなことを言われても、と拗ねるより先に、傍にあった両替機からじゃらじゃらとコインが吐き出された。透くんの手がそこから五百円玉を拾って、上の投入口にまた押し込む。今度はきちきちと下に堆積している硬貨に重なってぶつかる音がした。猫みたいに丸めた掌が取り出し口から銀色のコインをまとめて引き出した。手の甲を上にしたまま親指と人差し指を器用に擦り合わせて、僕に一、二、三、四と百円玉を渡してくれる。彼は僕が見ていた玩具メーカーのカプセルトイ機械の前へ行くと、パネルに視線を合わせるようにしゃがみ、ひとつずつ丁寧に硬貨を入れていった。吸い込まれた百円玉が機械の内側で落ちて鳴るまで待ってから、クリーム色の大きなダイヤルをゆっくり回す。ごろ、ごろ、と気怠そうな球体の遷移が不規則に行われた後、がこんと唐突な落下によって小さなイベントは終幕した。

 カプセルに貼られているテープを爪で掻いて剥がし、留め具を開けて中のビニールを引き出す。透くんは小さく折り畳まれた説明書も見ずに、分解された状態の恐竜のパーツを見て「アロサウルス」とだけ呟いた。僕にもすぐに追従を促す。言われた通り指の隙間から硬貨を擦って押し出しコインメックへ入れるのに紛れて、角のない声が通り過ぎる。

「三河は気持ち悪くないの、編み物やってる男って聞いて」

 ごろごろがこん、とカプセルが落ちた。さっきとは違う色に包まれた球体をひとつ、手に取る。中の恐竜は土気色で、量産のため大味に着色された瞳が変なところに置かれていた。正直、ちょっと気味が悪い。カプセルを開けずに後ろ手で開けたリュックのジッパーの中へ潜らせた。そうだ、これは碧ちゃんへのお土産にしよう。我ながら素晴らしい判断だ。きっとハチ公クッキーなどを買ってそのセンスを詰られることを考えれば、カプセルで喜んでもらえるチャンスを狙った方が賢明だろう。

 まあ、何にせよ碧ちゃんが僕のセンスに響いたことなんて一度もない気がするけど。

「編み物が? そんなの、見てみないと分からなくない?」

「……あ、そう」

 テープも剥がさずにカプセルをしまいこんだ僕を変な目で見ながら、透くんは襟足を軽く手で梳いた。引き当てたアロサウルスを再びカプセルにしまい、彼もボディバッグの中にそれを滑り込ませる。質問した方が回答を得る前に興味が失せてしまった時のように、そのまますたすたと出口の方へひとり歩き出したのを慌てて追いかけた。透くんは背丈は僕よりすこし小さいし歩幅も大きい方じゃないけれど、歩くのがすごく速い。

「待って、今の間違えた、語弊がある、たぶん見ても気持ち悪いって思わない」

「なんだそれ」

「なんだって言われても。想像してるだけだから。でもきっと、綺麗でしょ」

 どうせ聞こえていないだろうと思って張った声が、思いの外屋外でもよく響いた。シロナガスクジラが尾を跳ね上げて跳躍している巨大模型が出口の階段上に据えられている。その手前で透くんの伸ばしっぱなしにしている黒髪がふわっと揺れた。

 大場透にあてはめるならそれが一番耳に馴染む言葉だと思ったし、彼にもそう共感してほしいと欲が出て、押し通すような語気で「綺麗」ともう一度口にした。

「綺麗、って、男のひとに使う僕は、気持ち悪い人間だと思う?」

 前を行く背が振り向く。透くんの双眸からは何も読み取れなかった。残暑の照りつける日射に怯む隙に、風がばたばたと彼の髪を撫でて泳がせて遊び、刹那に覗くかもしれなかった真意を閉ざした。

「配信、毎週木曜の夜」

「……モノトニクスの?」

 上野公園の木々が一斉にざあざあと西風に揺れる。着ているシャツの襟が立ち、僕でも前髪がちりちりと肌に打たれる感覚を覚えた。透くんの服は風を含んでぱっと膨らみ、ジョガーパンツはばたばたと旗みたいな音を立てている。歩くのも立ち止まるのも居心地悪そうにしている彼が、それも構わないといった口調で淡々と告げた。

「視聴者はいつも50人くらい。のどかなとこだよ。都合良ければ……」

 大股に駆けて漸く追いつく。すぐ傍に寄っても、彼には僕のことが見えていないようだった。思うより先に手を伸ばす。遊ぶままに投げ出された分厚い黒髪を集め、両握で頭の後ろへ梳くというより押しやった。

「……観に、くれば」

 額を露わにした青年が、僕を見上げて途切れた文句を絞り出した。突風に塵が含まれていたのか、億劫そうに瞬きする目は少し潤んでいる。

 見合ったまま互いに動かなかったのは一瞬、直ぐに視線は別れ別れになった。十指の間から零れた彼の伸びた前髪が再び風に攫われていく。

「うん、行く、配信してるとこ」

「は?」

「あ、えっと、取材……透くん、今度の記事、協力してください。お願い」

 こういう時、既知でも身内でも、依頼の時にはきっちり頭を下げる、それが数少ない自分への約束事みたいなものだったけれど、ここではなぜか、透くんの手を勢い両手で握って訴えていた。しつこい湿気を纏った外気に反し、透くんの手はさらさらしていて、少し冷たい。

 返事に窮する横顔を眺めているうちに、ポケットの中から振動音が上がった。執拗に長音を繰り返す感じ、絶対に碧ちゃんじゃないか。こんな時に? 僕が余所見して街頭で美人さんでも口説いてると思った? いや、間違っちゃいないけど。あれ、間違っちゃいないって言っていいのかな。

 手の中の肌がじんわりと熱を通わせ始める。引っ込めようとする透くんの手を掴み直してぎゅっと食い止めると、押し殺した声が「はなして、三河」と遁逃を試みる。

「きっといい特集になると思う」と僕が懲りずに掻いつくと、彼はやや硬くした語調で、そんなのは分かっていると言い捨てた。

「受ける気なかったら、来ないから。片浜さんにもよろしく。じゃあね」

 唸る風の隙間に彼を聞き取ろうと懸命に耳をそばだてていると、一寸の緩慢を縫って手の中から彼の体温が逃げ去った。

 遠ざかる背はあっという間に公園口へ向かう人波に紛れて見失った。端末が壊れたと思うくらい延々鳴っていた着信のバイブレーションも気づけばぴたりと止まっている。

 誰でもない人々の後ろ姿を、暫くの間、あて無く眺め続けた。いくら探してもなにひとつ分からないに決まっている何かの答えを探す感じが、高校の時にしょっちゅうあった逡巡によく似ていると都合の良い小さな感動まで覚えていた。

 そういえば、どうしてフタバスズキリュウは恐竜とは呼ばないのか、透くんに聞きそびれてしまった。次に会う時まで、忘れずにいられるだろうか。

 手の中に残る、僕ではない温度が消えてしまう前に、軽く握った手の中を合わせた指でそっとなぞった。

 

 


■■□□

 

 ワークトップのすぐ傍で氷の溶けたアイスティーを飲む三河の方へ振り返り、口の動きだけで「終わり」と告げると、向こうも無言のまま小さく頷く。

 部屋の置時計は午後十時四十分を示していた。シャットダウンしたPCと配信用のアクションカメラは三脚スタンドもケーブルもそのままにしておく。明日も放置、明後日も片づけが億劫になり見て見ぬふりをして、結局次の木曜日に全く移動させなかった機材一式をまた使うことになるだろう。

 同じように完成した制作物は、かつて本棚だった空のラックに無秩序に詰め置かれている。其処にはジュラ紀や白亜紀や三畳紀といった地質時代も、肉食・植物食・雑食の概念もない。ただ殆どがある程度許容できる範囲で縮尺の均衡が保たれ作られているので、ネズミのようなティラノサウルスも大鷲のようなミクロラプトルもいない、というのが幾らかの救いだ。

 今しがた糸始末まで終えたばかりの獣脚類の個体をひとつ、隙間とは言えない場所に立たせておく。制作物の体長はおよそ35㎝、ごく最近に発掘され、命名されたのが昨年という、パラリテリジノサウルスという新種の立体再現はこれで試作が四度目になる。今回の配信では既に形ができていた上腕部から爪の付け根にかけて、羽毛があったと仮定した場合の装飾を追加していた。

 テリジノサウルス類は長い恐竜時代の繁栄の中でひとつの象徴的な進化の終着を表している。力強い二本の後ろ足が前足や上体を支えた格好はアベリサウルス類やティラノサウルス類といった他の分類と同様だが、頭や顎が大きく、鋭敏に尖った大量の歯が縁にずらりと並んだような骨格の特徴はない。頭蓋骨は骨盤や脚骨に比べて小さく、逆に特出して巨大化したのは前足の爪だ。同類の中では70㎝を超える爪の化石が発掘されており、〈刈り取りする〉というギリシャ語が学名となっている。

 同類別種ではそれが鉤爪のように使われており、彼等を魚食とする説もあったが、腕と手先で枝葉を引き寄せるための熊手の役目をしていたというのがパラリテリジノサウルスの当座の解釈らしい。新種発見報道と共に公開された復元画に描写された羽毛の着色根拠は不明だ。命名のパラリ、つまり海辺の、という意味に添うように青を中心に構成されたとも思える。

 俺が一度しまった編みぐるみのところへ三河が歩み寄り、距離感を掴めないまま持ち上げてしまったというようにできあがった造形物の方へ手を伸ばしながら「ごめんね」と小さく詫びた。

「カメラ回ってる時、少し喋っちゃった」

 許しを乞うというよりも、自らの粗相を事実として報告する欲求を叶えるような言い方がやや独特だと感じる。それには触れずほぼ反射で首を横に振った。

「いや、俺が話しかけたから。視聴者も半分くらい無音だよ。だいたい手元しか見てない」

「そういう問題じゃないでしょ。僕は仕事だったし」

 引っ込められなくなった彼の両手は宙に浮いたまま、次の俺の反応を待っている。ワークトップの手元灯を落としてからもう一度ラックの前へ戻り、三河が触れるのをためらっていたパラリテリジノサウルスの試作四号を空の手の中へ嵌めてやる。

 地続きになっているダイニングのカウンターテーブルへ移動を促し、ビールは飲めるかと尋ねる。本当は彼が何でもいける口であることを随分前から知っている。実際に飲んでいる姿は見たことがないが、別の元同級生である半田という男を介してその話を聞いていた。高校時代のクラスや部活の繋がりでも誰ひとりとして連絡をとっていない俺が何故それを知っているかというと、半田の姉が現在通っている美大での俺の上司だからだ。

 半田姉は三年前から工業デザイン科の専任講師としてゼミ生を抱えつつ自身の研究にも邁進している、所謂ちゃんとした学者だ。俺のことを高校から選択科目でCADをやっていたと弟から聞きつけ、それ以来不定期に仕事を寄越すようになった。やっていることはだいたい一般教養科目の演習授業や半田ゼミの学生のレポート補助など。それでも何度か勧められている助手への専従採用をうやむやにしているのは、俺が毎日ひとところへ通い勤める己の姿をてんで想像できないからだ。

 根無し草のような生活とは違い、新卒から良い会社へ勤め、それもFIREして今は友人とコンテンツ制作会社を共同経営している三河昌幸は、俺の問いかけに「炭酸が入ってるお酒、全部だーいすき」と真面目なのか不真面目なのか分からない返事をする。

「エビスビールのロング缶、角ハイボール、翠ジンソーダ。あとはコンビニ行けば」

「いいね。翠、貰おうかな」

「じゃあそこ座って。つまむ物作る」

「え、今から? すごいなぁ、ありがとうね。でもお気遣いなく。スナック菓子があればお酒飲めるおじさんだよ、僕」

 遠慮しつつも三河はちゃんとカウンターテーブルに腰を下ろし、手に持ったままの試作品を丁寧に板面に乗せた。植物食恐竜の形をした物体の頭部に向かい合い、博物館で標本を見た時と同じ顔をしてじっと眺めている。

 ダイニングのテーブルと地続きに作られたキッチンへ入り、カウンター越しにグラスと翠ジンソーダを渡す。食器は棚の中を整頓するのが億劫で、焼き鳥屋みたいにそのままカウンターに積んであった。コンビニのビニールに入ったままの割り箸とともにそれも三河の前に出す。

 チルド室のタッパーから作り置きの味噌ディップを小皿に取り、スーパーで特売だったキュウリとセロリを適当にスティック状にした。とりあえずつまんで口寂しさを紛らわすもの。

 アボカドとツナ缶のナムルを作りながらトースターで冷凍のフライドポテトを加熱する。下からフライパンを取り出してガスコンロを点けると、そわそわしていた三河が「ほんとに料理じゃん」と声を上げた。

「いや、食えればいいと思ってるからけっこう適当。あと5分くらいでそっち行くよ」

「5分!」

 跳ねるような声をやり過ごし、忘れていた自分の酒を出してプルタブを引く。チリチリと小さく爆ぜる炭酸は喉越しに感じる刺激より音の方が好きだった。氷を半分入れたグラスに三河と同じ発泡酒を注ぐ。ロゴの翠という漢字を止まり木に、カワセミの小さなシルエットが描かれている。頭から背、尾羽にかけて瑠璃色の羽で覆われ、頭には白い鱗模様があり、胸部は橙色をしていた。鳥が恐竜の進化の延長線上どこかで繋がっているとすれば、現代の研究者が鳥の姿に似た多彩な着色を施すことも些末なこと、或いは真に有り得たことなのかもしれない。

 乾杯、とグラスを持ち上げて縁がぶつかる一寸手前で静止した。互いに手元に引き寄せて一口二口と飲みながら、灯りを半分落としたままの部屋に浮かぶ三河の笑顔をぼんやり眺める。

 今の彼があの頃の高校生のまま不変である訳はないと分かりきっていても、未だに教室で談笑する横顔と重ねずにはいられなかった。服も職業も借り物を着たみたいな不自然さで、俺の中ではやはりいつまでも制服姿の三河が動いて話をしている。こうして夜更けに友人宅を訪ねて酒を飲んでいても、頬から顎の輪郭が少し削がれて目尻の皺が増えていても、片浜さんのことをちゃん付けするような年長者の顔を見せても、ここにいるのは間違いなく、教室でチョココロネばっかり食っているミカその人だった。

 可愛いやつだったな、という印象ばかりが残っている。笑い声と間抜けな「うそだろ」とか「またじゃん」とかいう決まり文句、ふざけているが煩くも嫌味もない感じが、近くの席からいつまでも見ていられた。

 なぜ今、俺を〈発見して〉しまったのか。知人の伝手ならもっと若い時に既に何かあったかもしれないのに、卒業して十五年の、今。


「透くん、後でこっちきたら、話聞いてもいいかな。えっと、彼女の……この子、何て名前?」

 不意に話しかけられて、流水で濯いでいた空き缶をシンクの中に落とした。蛇口を止めて視線を彼の指す方へ向ける。「パラリテリジノサウルス」と答えると、「そうじゃなくて、名前だよ。固有名詞」と即座に質問が戻ってきた。

「なに、どういう」

「つまり、作品名みたいなこと。でも生きてるみたいだしさ、お顔も可愛いし、名前がついているのかなって。彼女をどう呼べばいい?」

 立ち飲みしていた酒が回ったのか、途端に返答が思い浮かばなくなった。元々種名のある恐竜の造形作品に別称をつけるのは、CADで設計したモデルルームの内装イメージに名前をつけるみたいな感覚に近い気がする。

 そもそも三河はなぜそれをメスだと思ったのかという言及は、船とか機体とかを女性名詞で呼ぶ文化圏もあるわけだしそちらは訳もなく納得した。この顔の男が言うと気障ではあるが残念ながら鬱陶しさは全く伴わない。

 皿やボウルに簡単に盛った肴をカウンターに並べてテーブル側から受け取れるようにしてから、濡れた手を服の袖で適当に拭きながらようやくダイニングの椅子にかけた。来訪者を終電までに帰す算段にしても支度した食事が少なかったかと腰を下ろしてから思った。野菜室にしまってある無塩のミックスナッツの存在を記憶から探り当て、二杯目を持ってくるついでに皿に開けることを思考に留めておく。

「思いつかない。テトラ、とか」

「四番目? そっか。いいね……じゃあいくつか教えてくれる? まずどうやってテトラは自立できているの?」

 三河手元にあるグラスに、下半分だけうっすらと結露した翠の缶を傾けて酌をした。肩を縮めて儀礼的に「ごめん」と添えるやや広い背を隣から小突く。微かに驚きで見開かれた双眸から逸れて前へ向き直り、短く息を吐いた。

「物理なら半田に聞いて。説明は無理」

「半田? ハンダ……あ、パンダ?」

 言われてみれば、半田にはそんな妙なあだ名がついていた気がする。最初の頃は頻繁に訂正と抵抗を試みていて、同じ高校を出た半田姉は羊と読み違えられた云々で別の愛らしい称号を冠していたとしきりに主張していたが、姉を知る教師数名にも弟はパンダと呼ばれるようになり、半田直忠の認識コードはパンダになった。

 そもそも半田という名字自体がその地域では珍しかったので、かつての俺はどの潮流に乗ることなく、当初言い慣れていた呼称をそのまま使い続けた。

 だとすれば、今度は自分がなぜ、三河の方は渾名で呼んでいたのかが気になり始める。記憶力は比較的頼りになる方だと自負していたが、そのあたりにある情景は今ひとつ鮮明度が欠けていた。

「ねえ、パンダはなんで? 透くん、もう3組とは誰とも、かと思ってた……彼には連絡するの」

 成り行きで記憶をなぞる作業をしていると、ずいと三河の顔が近づいた。武士だったら間合いを割られて斬られてるぞ、みたいな言うだけ仕方のない文句は口に出さない。億劫で暫く切っていない前髪を退かすように手首で額を擦ると、出くわした相貌は奇妙な感傷を纏って見えた。

「三河、半田は2年から1組」

「意地悪言う。じゃあ、質問終わり」

 まるで今のやり取りで不機嫌になりましたという風に眉を顰め、フライドポテトをひとつ口へ放りもぐもぐとやる三河を見て、俺は不可解な安堵を覚える。ここで弛緩していく感情は一体どういう実態に繋がっているのだろう。既知と注釈の要らない会話を少し交わすだけでこうも無防備になるほど、俺は日々の生活を窮屈に過ごしているとでも言うのか。

「半田に姉がいたでしょ」

「ああ、いたいた。四期上だっけ。工学の大学行ったのに、美大に編入したとか聞いたな」

「さすがだね。こないだの大学、それじゃん。俺、半田姉の子分なの」

 次に上がったのは盛大な不満の声だった。これは酒のおかわりが要るな、と思い、翠が気に入ったのならジンライムにでもしてやろうかと提案する。三河はくしゃくしゃと頭を掻き、パンダとは先週会ったばかりだったのにとか、何度も話題に上がりそうなもの十五年もの間をどうして悉く回避されてきたとか、散々文句を零していた。

 席を立ちキッチンに持ち帰ったグラスを一度スポンジで洗いながら、小さく丸まった氷の破片が排水口へ落ちるのを黙って見守る。蛇口の水は流せばすぐ冷たくなった。自分のグラスも泡がついたままの手で掴み取り、ざっと残りを飲み干してから一緒に洗い流す。

 全く同じ造りのふたつのグラスを、キッチンタオルで水気を取りまた氷で嵩を埋め、今度はジンの瓶を開けた。これはいつかの自分への褒美に買ったものを半年以上飲み時を逃して飾り物にしていたのだから、客人に振舞われるのは本望だろう。野菜室に眠っていた割り物の供はライムではなくすだちだった。

 出てくるものはミックスナッツと〈ジンすだち〉だと断ると、三河はようやく変な顔をやめて素直に「ありがとう、飲みます」と答える。グラスを渡す時、する気は全くなかったのに席をつく動作につられ二度目の乾杯を言い合った。テーブルに肘をついて炒めたサイコロポークを箸でつまむ。少し味が薄いがまあ悪くはないだろう。片側の頬に崩れた肉の断片を寄せ、奥歯で噛み潰しながら複数あるはずの質問の続きを促した。仕事の打ち上げという風でもないが、ふたりだけの同窓会という心地とも違っていた。

 三河は出した軽食に概ね満足したのか、もう殆ど手をつけず、手元の酒ばかり飲んでいる。

「あのね、透くん」

 終に観念したか、と思った頃、作業部屋にある置時計が短くジジッと鳴った。いつもであれば就寝の時刻を報せるそれは、じきに最寄り駅から終電が出るという音だった。肩越しにちらと暗闇を見遣った横顔は、ダイニングの暖色の蛍光灯に物憂げに映える。

「理解できていないって自覚はあるんだけど、碧ちゃんにも聞けなくて……本当に情けないこと、言うんだけどさ」

「どうぞ」

 視線を戻した三河がぐいっと酒を煽る。改まってこちらへ向いた面持ちが大真面目にパンの注文を伝えてくる高校生のミカと全く同じで笑いそうになった。莫迦だな、もう毎度言わなくてもあんたがチョココロネしか食わないの、知ってるよ。そんな風に気楽に返せる友人であれば、どんなにか良かっただろう。

 想像に違わず、三河は誠実に、然し不理解に困惑した顔で俺に詫びた。

「そもそも、編むっていう……つまり、一本の糸がね、こうなる仕組みが分かってないの。パラリテリジノサウルスのテトラも、今まで透くんが作った全部の作品も、解くと一本の糸に戻るんでしょう。でも、なんで? みんなどうやって立体化するの?」

 それは単に不勉強というのではなく、おそらく今夜ここへ来るまで関連する動画や書籍を散々見聞きしてきたが、それでも根本から編み物という手工芸の概念を理解できないという、完全に率直な感覚から生まれた言葉なのだと理解する。堪らず声を上げて笑うと、もう青年と呼ぶには随分な旧知が、それでも早春の影を残したまま情けない声を出した。

「透くん、今ので五年分くらい笑ってるじゃん、もう」

 

 テーブルにかぎ針をまとめて入れたペン立てと中細の白い綿糸を持ってくる。糸玉の中から繰り出して引いた糸に4号のかぎ針を鉛筆のように持って当てた。糸の番手とかぎ針の太さについての説明はほぼ独り言みたいにぶつぶつと早口に済ませる。

「何してるか分からないの、多分、速度だと思う」

「そうかなぁ、動画もスローで見たけど」

「見慣れないからでしょ。はじめはこう、結び目に輪を挟む。輪はかぎ針に通っている」

「うん、ここまでは大丈夫」

 糸は左手で親指と中指で挟み持ち、撓まないように人差し指を張る。ミシンでいえば天秤みたいなものか。

 抑えた二本の指と人差し指の間の糸を掬う。その名の通り引かれた糸はかぎ針の窪みにかかっている。それを引き寄せると人差し指の向こうから続きの糸がするすると出てきた。

「かけた糸を前の輪に通す。新しい輪ができる」

「ほおお」

「ほらな、ちゃんと見えただろ」

 新しくできた輪にまたかけた糸を通して次の輪を作る。それを繰り返すとシンプルな鎖状のものができあがった。

「これが基本的な仕組み。作ってる恐竜ぜんぶ、この無数の輪の集合で成立している」

「なるほど」

 はい、と三河がすかさず手を上げる。

「じゃあ、どうしてその鎖の連続がくっついているの? マフラーは面だし、テトラたちは立体じゃん」

「途端に急く」

「ごめん、だって」

 作った鎖編みをかぎ針を抜いて解く。この時に解きながら作った輪の構造を見せて何度かゆっくりと糸を引いた。

 今度の立ち上がり、つまり編み始めは二本の指の間に二周半した糸の輪から始める。輪の中にかぎ針を差し込むと、観覧者はやや狼狽えた。

「さっきと違うよ」

「そう、でも構造も動きも同じ」

 糸をかけて引く。大きな輪に通し、またかけて通す。先ほどの鎖と同じ形状の目ができる。

 そして、次にかけた糸は再び輪の中を潜るが、今度はかぎ針の付け根の方へ残されて鎖にはしない。

「針に糸の輪が、ふたつ?」

「正解。これを順番に処理したり、二本同時に新しい輪に通したりする。繫がるところが二か所、三か所と増えていって、面ができるってこと」

「そうか、マスを積み上げていくイメージだね」

 その通り、編み物はプラモデルやブロックと同じだ。ピクトグラムの世界と思えば構造の処理は格段に簡便になる。同じ高さの階層ごとに制作するから、大仏の炉の流し込み、もっと単純に3Dプリンターにかけていると思えばいい。一段ごとの丈は編み方でいくつかのパターンを選択できるし、幅を広げたり縮めたりもひとマス、一目ごとに自由に可変できる。

「こうして輪の中に8回、同じ編み方を入れると……こう、はじめの位置と閉じれば円になった」

「わあ、すごい、僕が理解できてる……それで」

「円の端にかぎ針の輪が残ってる。さらに外周してこの円を広げよう」

 また立ち上がりの目を編み、今度は編むところを見せる必要がないから手早く進めた。はじめに見せたのは作った8つの目に16の目を編んで積み重ねる、純粋に幅を倍にする方法。これをある規則で編むと円が平面に広がる。所謂コースター状の編み方だ。

「作った同じ目の中にふたつ、みっつって重ねて編んでいいんだね」

「これを増し目っていうの。寸胴じゃなくて腹を膨れさせられるし、首を細くする時は逆に目を減らす」

「それ、パズルやブロックよりすごくない?」

「そういうこと」

 作った円の平面に作った二段目だけざっと糸を解く。同じ動作で立ち上がり、今度はひとつの目にひとつずつ、時たま増し目をして、ただ初回よりは少し窮屈に編んでいく。編みながら糸を挟み持っていた中指の指先をすっぽりと覆うような角度が形成された。できたのは少し緩い指抜きみたいな形だ。

「最初と出来が全然違う」

 歯を持つ恐竜であれば鼻先になるような形状、嘴にしたければ更に鋭角に編めば自然と先が尖る。

 そうして大抵の恐竜は鼻面から順々に形成していく。ブロックや3Dプリンターとの差異は外皮しか作らないということ、中は綿を詰めて補強すること、ただその柔軟さによって腕を持ち上げたり首を傾げさせたりと多少の可動を許されているということだった。

 編み目を再び解く。テーブルの器を隅へ押し退け、空になったボウルをカウンターに上げた。手持ちの道具を三河の前へ持っていき、「さっき配信でやってたのは」と今度は横から身を乗り出して手元が見えるように接近する。

「透くん、まって」

「なに、後ろから覗く?」

「そうじゃなくてさぁ……」

  ふうと嘆息した三河の吐息が手の甲を微かに撫でた。視線を少し上げれば彼の質量の多い睫毛の揃った切先が見える。そうか、これは確かに距離感を取り払いすぎたと軽く背を伸ばすと、それを留まらせるように腕の付け根を軽く引かれた。

「髪、影になるね」

 照明の灯りを反射して白く浮かんだ手がひらっと視界をよぎる。頬と耳に覆い被さって蔦みたく好き放題に伸びた横髪を、緩く隙間を作った五指が器用に閊えなく滑り込んだ。ぱっと左半分だけ視界が開けて途端に心許無くなる。止めろ、と言うはずの口は形をなぞったまま掠れた息を吐くだけだった。

「次にカメラ回す時、僕が結ってもいいかな」

 気づけば喉はひりひりと焦げつくように熱くなり、俺はその問いに気まずくなるほどに窮して俯いている。最低だ、ばかばかしい、自分をそう詰ったところで何の足しにもならなかった。

 手元のグラスを掴み、氷を鳴らしながらジンライムを飲み干した。今でも酒が旨いことを丹念に確認してから、三河の手をゆっくり押し返す。

「今度、撮影か」

「うん……ごめん透くん、僕」

「支度は自分でするよ。億劫だけど嫌いではないから」

 隣席の前まで突き出していた腕から道具を離してその場に置き、持ち直した箸で冷めたポテトを摘んだ。元の位置へ戻った髪の隙間から三河をちらと見遣る。「飯は足りたの」と念のため聞くと、答えの代わりに彼も箸を手に取り豚肉を口に運んだ。

 視界の切れ目にテトラと名付けられたパラリテリジノサウルスの試作が佇んでいる。その新種も他の多くの種目と同様に、現代の人類に知られているのは骨格化石で、それも躯体の限られたごく一部であり、研究は未知に溢れる渡航を続けている。

 その表皮が全身鱗模様だったという新説が生まれる可能性もあるし、もしかしたら鳥盤類の立位解釈すら見直される瞬間に出くわすかもしれない。仮説と定説があらゆる契機により何度入れ替わったとして、それすら一向に構わなかった。俺は古生物学者でも建築家でもない。ただ己の夢想を地質時代の奥底に埋まる幻の絶滅種に重ねて遊んでいるだけなのだ。

 時計を見なくても、終電の時刻をとっくに過ぎていることはふたりとも承知していた。

 三河はタクシーを呼ぶことを固辞した。近くの国道を歩きながら拾えばいいと明るく然し頑なに繰り返す。シャツにかかった襟足を、癖なのかくしゃくしゃと掻きながら、「出る前にトイレ、借りるね」と淡く微笑むと、こちらの反応を待たずすぐに背を向けた。

 再会の日に制服以外の服も似合う、などと口にした事を芯から後悔していた。今日だって狙ったみたいに白いシャツを着てきやがって。廊下の薄闇に溶ける影を恨めしく見送りながら、空になった器を上げ、のろのろと椅子から立ち上がる。

 

 いつかの時に家具屋か均一ショップで買ったであろう、ありふれたデザインの揃いのグラスふたつ、纏めてカウンター隅に寄せてからテーブルをアルコールで簡単に拭いた。換気にベランダの窓を半ば開けておく。夜の空気は涼風と呼気に絡む湿気を絶妙に配合し、素直に爽快を感じさせてはくれない。思わぬべたつきに喉が蟠り、ほぼ無意識にグラスに手を伸ばす。

 ひとつは氷しか残っていない、俺がついさっき空になるまで飲み干したグラスだった。すぐ横に寄せ置かれているのは河原石みたいに丸く縮んだ氷が浮かんで酒も半分残っている、三河が口をつけたもの。

 単純な判断として、自分のグラスの氷を食うか、空のままシンクへ持って行って水を注ぎ足して飲む、間違いなくそれが正答だった。酔っていようが疲労と睡魔が意識を引き下ろそうとしている時だろうが関係ない。もしもその手が誤謬を選ぶとすれば、つまり魔が差したということ。

 あろうことかその時の判断は賢明の対岸へ渡っていた。思考は限りなく凪いでいて無に近く、前後に何ひとつ逡巡することなくグラスをひとつ掴む。口をつける前、躊躇はあっただろうか。瞬く間に過ぎた出来事は、流し込んだ薄まった酒を嚥下するのとリビングのドアが開けられるのとほぼ同時だった。

 三河の視線を痛烈に感じる。ごくっとゆっくり下りた喉仏は、音を立てて慨嘆を呑んだところだった。グラスを元の場所へ置く。同じデザインの氷だけが残った方にごつんと縁がぶつかった。

「……悪い、ただの、貧乏性」

 意外にも平生のように話せている。言い淀んだり狼狽えて語尾が揺れたりすることもなかった。安心してそのまま言葉を続ける。

「配信の後、いつも寝るまで酒飲むから。変なことした、他意はない、忘れて」

 グラスに指を二本ずつ差し込んで親指と挟んで掴みカウンターへ上げた。テーブルを拭いていた使い捨てのクロスを屑籠へ放る。一方的に喋ったままキッチンへ引っ込もうとした。彼がじきにこの混迷した場の情況から抜け出るために退出を告げ、タクシーを拾って帰る、立ち去る気配を掻き消すようにシンクの水を落とす。完璧な筋書きではないか。瞬時に描いたシミュレーションの通りにフローリングをひたひた歩く。

 後ろから腕を引かれた。無意識に振り返ってしまう。三河がぴたりとつけていて、いつも緩く下がり気味の眉は険しく傾斜をつけて顳顬へ寄せられている。切り揃えた前髪の毛先と黒鳶に染まった瞳の周りの目を見て、此処と其処は同じ色なのかとぼんやり考えた。むしろそれしかすることがなかったのだ。前髪を掻き分けられて視界は日頃より明瞭だったし、新たに浮かんだ仄かな疑念は尋ねることを許されなかった。

 合わさった唇がようやく離れる時、三河が耳朶を軽く噛んだ。親が仔にする表現というよりも、雄が群に示すようなものだなと思う。その行動には確かに意志とか感情とかが表されていて、自分に無いものが彼に在ることが新鮮だった。

「透くんのうそつき」

 嘘は吐かない、と即座に反証しようとするのを、今度は顔を両手で挟まれ食われるみたいに口を塞がれる。腕を突っ張り引き剥がそうとすれば簡単に手を取られてカウンターの壁面に押し返された。捲った白いシャツの袖が擦れる。

 突然訪れた変異に、俺の意識と身体はひとつも不和を覚えることなく順応した。進化なのか退化なのか分からない瞬間だな、と無責任に抵抗を諦めて張っていた肩を下ろす。

 恐らく十秒も経っていないくらいの短い取り交わしは、三河が「今日、ここに泊めて」と口にしたことで強引に着地した。

「な」

「なぜ、って言おうとしたんでしょう。理由なんて並べるほどでもないなぁ。でもそうだな、まあ有り体に、僕、たぶん上手だよ。男の人は初めてだけど」

「え、どっ、みか……」

「あはは、どっちって、どっちがいいの? 透くん、ネコじゃん」

「……三河」

「今、すごい困ってるね。大丈夫だよ、仕事もちゃんとするから。明日には一度、君にプレビュー送るよ。でも今はもう夜だし、ご飯も終わったところだし。何かに追われるでもない」

 そこまで話した男の手を漸く振り払って解き、自分の手で髪をぐしゃぐしゃと混ぜて散らした。考えたくないものに向き合わなくてはならないという恐怖よりも、既に俺の中に澱む愉楽の感覚が手に馴染むことへの拒絶、衝動を組み伏せる力が拮抗して息苦しいというのがふさわしい。三河の酒に口を付けてしまった時には動じない風にやり過ごせたつもりでいたが、今は肺呼吸を反覆させることすらいちいち閊えてぎこちない。

 向かい合わせに立つ彼はずっと黙っていた。悠然と見守られているような視線、時間はたっぷりあると不言の内で語られているように思える。何だか途端に厭になって、酒臭さばかりが鼻について、自分ではない人肌の温さが残った口唇を手の甲で乱暴に擦った。

「片浜さんには黙っておいてやるよ」

 粗雑に誂えた捨て科白に、小綺麗に整った相貌はすぐにぱっと破顔した。

「ありがとう。彼女にはちゃんと僕から伝えとく」

 何の礼だと悪態を吐く前に、拭ったばかりの口端を、おそらく今度はぺろっと舌でやられ、やたらべたべたと近寄ってくる犬のようだなと呆れた。古い情景の中に残る、教室の通路を挟んで向こう側、自席に横向きで腰掛け、こちらには背ばかり見せていたあの頃の三河昌幸には、きっと懐かれて綻ぶようなみっともない姿を露わにすることなどなかっただろうに。

 気楽に流されてくれても、腹を決めてくれてもいいと畳みかけられ、随分な口説き方だと厭味で返す。その時初めて、三河の相好は寂然に翳ったかもしれない。

 肩越しにダイニングを見ていた双眼が睫毛を仰いで瞬く。羽毛様の飾り編みを施されたパラリテリジノサウルスを見遣って、ぽつりと言った。

「次、何作るの」

 一寸思案して、ペンタ、と返すと、聞いているのは数じゃないと笑われる。

「じゃあ、マジュンガサウルス」

「へえ、可愛い名前」

 可愛いと類推した意図が分からないから何とも返しようがないが、マジュンガというのは出土したマダガスカルの地名に由来しフクイサウルスと同じくらい安易な命名と言っていい。この同類は目下一種しか発見されておらず、確認された種の小名はクレナティッシムス、そちらは目を引く円鋸状の歯というギリシャ語に由来し形態を確りと物語っている。仮説ではマダガスカル島での頂点捕食者であった。さらにもうひとつ特徴がある。

 マジュンガサウルスには化石から共喰いの形跡があった。骨を傷つけたのが同種の歯であることが解明されている。孤島での生息では限られた縄張りの下、容易に別の個体に遭遇するだろう。その時に環境の悪化、力関係の変動、そして領域侵犯からカニバリズムへ及ぶことは現代の大型哺乳類にも同様の傾向が見られた。

 復元画の多くはこの共喰いが好んで描写されている。喰われる方は地に横転し、脚を上げたりしながら大きく口を開いているものを何枚も見た。ひとりがそうすれば皆同じ方角を向くかのように模倣するのが業界の性なのかもしれない。

 ひとつ疑念があるとすれば、その時劣勢の個は、既に命を落とすつもりであったのか。否、相手の隙を見極め、逆に此方が喉を喰い千切ってやろうなどと好機を狙っていたのではないか。

 一度背をつけ転んだ状態からでも容易に身体を返すことのできる哺乳類とは違い、恐竜の骨格では同じような芸当は難しい。バランスを崩して斃れるとしてもうつ伏せ、また立ち上がることができるようにある程度の受け身が取られたのではないか。

 科学博物館で背を伏せしゃがんで獲物を待っているティラノサウルスの姿と重なる。共喰いが成立するのはただ同じ種だからというだけでなく、互いが生を奪う捕食者として拮抗していた事に主軸が置かれていると俺は解釈する。形成する次のマジュンガサウルスはきっと腹這いの恰好だ。

 喰った喰われたの話以前に、無様な仰向けになって脚を投げ出すのは御免だと思う。そう思うから、今の感傷は察してくれるなと三河を薄く睨んだ。

 寝室にはエアコンがついていないとか、翌朝の食事は近所にパン屋がないから貧相だとか、そんなことを言ったところで男は一塵も落胆の色を見せないことはいい加減なんとなく察しがついている。それに近所のコンビニでは、安価で見るからに大味という感じの菓子パンがいつでも必ず売られていることも記憶していた。

 それにしてもどうしてチョココロネばかり飽きずに食っていたのだろうか。それこそ憑かれたように、もしかすれば共喰い、然しどのあたりが。

「ミカ」

 俺が呼ぶと、古い渾名で呼ばれた青年はくいと双眸を円くした。白いシャツの襟を掴む。残念ながら踵は浮かせないと届かない。皺になる前にボタンの合わせ目を握った手を放した。カウンターへ向き直り、同じ形のグラスをふたつ、シンクに下ろして蛇口を捻る。

「俺、朝起きないよ」

 シンクの中央に滔々と水が流れ落ちる。同じ太さで同じ量、一定に、美しい連続が時間の一方通行を示唆していた。

「……うん、出る時に、ちゃんと透くんに声かける」

 少し前まで夢想していたマダガスカルの荒涼とした情景から逸して、貰った返事の柔さに覚束なくなる。

 水音に紛れた掠れ声で「そうしてよ」と縋ると、じきにキッチンの水音が止んだ。

 

 


■■■□

 

 チャットアプリの発信ボタンをタップして2コール。珍しく音声通話が始まり、ぼそぼそと「なーに」と応答がある。碧ちゃんの寝起きが最高に最悪なのは世界の秩序の一端、自然の道理だ。それによって招かれる一連の結果はさておき、懲りずに果敢にも連絡を取る僕という存在も予定調和、今日も僕らWEBマガジンの制作チームはすこぶる平和に過ごしている。

「おはよう。今日さ、午後から出社にするね。AM直行ってキントーンにも書いといたから」

「あーそう。書いといたなら電話いらないよ。今、何時だと思ってんの? あと1時間寝れるとこだったのにさぁ」

 別にいいじゃん、きっと碧ちゃんならいつもの通り、電話を切った後にちゃんと1時間寝足して、それから更に30分ベッドでスマホ弄りの惰性を貪り、朝食はオフィスでいいやって乗る電車を遅らせ、始業時間の3分前に地下鉄の駅から地上に這い出して「カード切っといてお願い」ってチャットに断末魔の叫びを送ってくるんだから。たぶん今日は僕がいないから、他の面倒見のいい、比較的いつも早めに出勤している誰かが彼女の世話をするんだろう。

 腰掛けているところの重心を変えたら微かに軋み音が上がる。朝方に空に取り残された白い月みたいな色の布地に掌を滑らせた。持ち主さん好みの通気性が良い、柔らかい肌触り。借りた半袖のシャツも同じ感触に同じ匂いがした。透くんはきっと気づいていないだろうけど、彼と彼の家は何だか陽光みたいな不思議な薫香が漂っている。横髪から襟足を手で梳くと匂いは濃くなった。

 純粋に好きなのだと思う。何をされても許しちゃう感じ。だってほら、あの時に碧ちゃんのパソコンの画面で見た透くんの横顔に、僕は落とし穴に嵌ったみたいに二度目の一目惚れをした。

 アイコンの写真は確かに現在の大場透だったけれど、僕にとってそれは、高校時代に教室の僕の席から見ていた彼の輪郭だった。お母さんとふたりで暮らしている一人っ子、周囲との交流は厭わないけれどひとりになるとほっとした顔をする、部活にも入らずそそくさと帰る。彼女はいる? 予備校に入った? 進学先は地元? 思っただけで聞くことのできた質問はひとつもない。

 気づけば透くんの居所ばかり確かめて過ごしていた。いつもつるんでいる仲間たちと学食脇の購買への使い走りを決めるジャンケンをするのが楽しかった。ミカと呼ばれると嬉しくてその時をいつも待っていた。

 

 高校一年の一学期、下の兄弟の部活とか模試とかでてんやわんやしていた母が、僕の弁当作りを止めると宣言した。そのできごと自体は別段構わなかったけど、それを月曜日の朝に月曜日からですって言う? っていうくらいの小さな不満は確かにあった。その時まで学食使ったことなんてなかったし、学校の近くにコンビニもないし。

 仕方なく高校の最寄りにある、セブンでもローソンでもない、鉄道会社がやってる売店に入って適当にパンを買った。通路が狭くて選ぶ暇がなくて、なんとなく見た目で手に取っただけ。絵に描いたみたいな小麦色に綺麗に焼かれたパンの中にチキンカツが入ってるのかクリームが入っているのかも分からない。まあ元々そういうことに頓着しない性質だから後で失敗したって思うこともないんだけど。

 その日は前夜のゲーム夜更かしの所為か、一限が終わる頃にもう昼食にしたいくらいお腹が減っていた。5分の休み時間に耐えきれず取り出した売店のパンの袋を破る。

 咥えてみて初めて中にチョコが入っていると気づいたそのパンは、尻すぼみの円錐形をしていて膨れた生地は螺旋状に捩れていた。どんな名前のパンだっけ、なんて思った気がする。小さい時にパン屋さんでトレーに乗せる時、メロンパンとどっちがいいか迷うやつ。

「みかー、飯はえーよ」

 ご近所席から野次が飛ぶ。肩の広い野球部員が日焼けした顔をにやにやさせていた。部活では先輩に飛ばされる檄にしのごの言わず「うーっす、しゃしゃーっす」とか言ってるくせに、中身は根っからの理系脳っていうのが面白い。普段の彼が決してやらなさそうなことを口にして応酬する。

「またぁ、パンダは朝練終わったらランチでしょ。いいなぁ」

「は? じゃあ昼が晩飯じゃん。夜は何を食えばいいのよ」

「朝ご飯じゃない?」

 僕の気のない返事に、パンダはそういう理屈は好きじゃないといった風に顔を顰めた。その恰幅のいい背に隠れていた影がひょいとこちらに顔を出す。はじめの時は、まだ僕は彼を大場くん、と頭の中で呼んでいたと思う。

 彼は今よりもやや短く切り揃えられた髪の隙間から双眸を覗かせ、僕の手元を指さすとそれ、と口を開いた。

「右巻きか左巻き、どっち」

「え? 何、これ?」

 食べかけのパンを口から離した。食べている方向から見れば渦は時計回りに流れているようだった。けれどそれは螺旋形なので、反対に円錐形の天頂から見ればその逆方向に見える。

 助けを乞おうと顔を上げるともう声の主は此方へ近づいてきていた。思ったことをそのまま言葉にして伝えると、彼は軽く頷いてから右手の親指を突き立てた。ナイス、ってこと? 真似して右の親指を突き出す。よく見ると大場くんのサムアップは、他の四本の指が緩く解かれていた。

「親指が螺旋の進行方向だとして、巻かれる方向が他の指と同じなら右巻き。だからこのチョココロネは右巻き」

 彼はそう言って僕が差し出している食べかけのパンをそっと見下ろした。そうだ、そういえばチョココロネって名前だったよね。さっきまで名称すら忘れられていたただの菓子パンが、急に海底から引き揚げられた宝物のように見えてくる。

「へえ、右巻き! 物知りだね、えっと……」

 その時にはもう間食がどうでもよくなっていた僕がぽんぽんと自席の机をたたいて促すと、そこにお尻を半分置いて寄りかかり、「大場」と知っている名を告げられた。

「うん、大場くんは知ってる」

「大場、透」

 いつの間にか親指を引っ込めた彼の目が微かに泳ぐ。他人と話すのが苦手というよくある性分とは別に、何かを躊躇したり隠したりしているのかもしれないと思った。おうちが複雑なのかな、と考え始めたのは少し後のことだけど、その件は思いの外あっさりと話をしてくれたから、僕の勘ぐり過ぎかとすぐに気にならなくなった。

「透くんか。すごいね、よく見るの? 貝の博士?」

 彼が答えに唇を動かすまで、予鈴は待ってくれない。ファとソとラとドだけでできたそのメロディに紛れながら、透くんがそっと机から立ち上がった。

「ミカ、上の名前なのか。書き方を聞くところだった」

 きゅ、と上履きのゴムが短く鳴る。彼の席は通路を隔てていたけれど一応、僕のお隣さんだ。

「いいよミカで。パンダにも名前の書き方聞いた?」

 食べかけの菓子パンをジッパーが開いたままの鞄にしまうと、僕はその隣席の方へ寝返りを打つように頭を横に倒して声を落とした。流れ弾を喰らった野球部員がその対面の窓側あたりで反駁に唸る。

「半分の田んぼで半田! 毎日ユーカリばっかり食ってるやつみたいに言いやがって」

 びっくりするくらいつまらないことを言ったパンダのボケはいつまでも半端に静まった教室に漂った。透くんはもう日本史Bの教科書とルーズリーフを出していて、頬杖をつき僕よりずっと向こうの窓際をぼんやりと見ている。

 今なら分かる、彼はその時もう、既にペルム紀か三畳紀あたりにいたんだ。地層に数多ある貝や魚や海藻、それと共に眠る、巨大な幻影へ想いを馳せていたに違いない。

 信心なんて全くないけれど、十五年越しの答え合わせの瞬間に、ほとんど反射で神様ありがとう、なんて思った。透くんに古生物や恐竜を見せてくれてありがとう、編み物という表現を教えてくれてありがとう、って。その乗算の心地良さはまさに奇跡ではないか。こんな孤独にストイックに、均一と利便から極限までかけ離れて、だから透くんは綺麗なのだと知った。

 悔しいけれど当時の僕は鈍感で正解だったのだ。あの時彼が得た啓示に気づいてしまっていたら、芽生える前に蹂躙してしまっている。

 

 昔、チョココロネは右巻きと教えてくれたひとが、傍でうっすらと目を開けた。ちらとこちらを一瞥し、細い息を長く吐いた後、横向きに体を丸め眉を寄せる。明け方に何度も足下から手繰り寄せてかけ直している肌掛けを、また彼の肩まで持ち上げた。薄い水色の波線模様の掛布は、被せると浜辺みたいな雰囲気になる。僕だったら翼竜の編みぐるみたちを配置して遊びでスナップを撮ってしまうだろうなぁ。あとでやらせてもらおうかな。ラックへ視線を上げるとちょうど尖った頭頂を突き出したプテラノドンみたいな子と目が合った。躯体はよく見る復元図の赤っぽい色ではなく、薄灰でできている。嘴がペリカンみたいにややヘラ状の特徴、であっているのか。あとで名前を聞きたいな。目が合った手前、手を振って挨拶でもしたい気持ちになる。

「三河」

 視線を戻すと、欠伸を漏らしたのか、透くんは少し泣いていた。

「はい、三河ですよ。おはよう、透くん起きたね」

 手をつくところを変えると、またベッドが浅く軋んだ。その連動で上体が揺さぶられても、彼は殆ど動かない。は、と出し切った呼気の尻尾が微かに震えている。

「……起きた。狭くて背中痛かったでしょ。体しんどくないの」

 ず、と鼻を啜る音。気怠そうに重く繰り返される瞬き。ああ、好き。君が欲しい。屈んで鼻面を合わせて先を軽く擦る。喉を鳴らすみたいに笑うと、難儀そうに持ち上がった彼の手が僕の頬をつまんだ。

「こういうの、俺、しないひとだと思ってた」

「僕もそう思ってたよ」

「変だね。今、少し楽しいよ、三河いると」

 そう言うと、彼は堪えていたものを手放すみたいに、再び微睡の波に身を委ねていく。気持ち良さそうな顔しちゃってさ、透くんは存外、狡い人なのだ。

 そっとベッドから足を下ろして寝室を歩く。といってもここは昨夜ライブ配信をしていた作業部屋の一角で、視界に入ったラックも花梨の木材を使った綺麗なワークトップも二、三歩進めばすぐに手を伸ばせるところにあった。

 先ほど見つけた翼竜に手を伸ばし、他の同居者にぶつからないようにゆっくり引き出した。昨夜彼が作業していたパラリテリジノサウルスとはまた毛色の違う形成だ。糸はさらに細く編み目は鱗様ではない。薄皮に細い骨で飛翔していた仮説に近づけた姿なのか、翼の部分も隙間から光が入るほどに透けていた。これは、釣り糸かな。

 透くんの丸椅子に腰掛け、ワークトップの空いたスペースに翼竜を置く。電池の残数が20%を切った端末でモノトニクスの過去の投稿を遡った。見つけたのは2021年5月、僕が手に取ったのと同じ翼竜が映っていて、種はオルニトケイルスと書かれている。

 細やかな注釈にはかつてそれが英国の有名な映像作品の中で再現が登場したこと、しかしそれが誇張した全長と体重の解釈だったこと、以前分類されていたオルニトケイルス種の多くは、今は別種とされていることなどが付記されていた。

 学名は〈鳥の手〉という意味。作られた翼竜の、畳まれた翼の先に手を添える。確かに小さな手があった。飛べるだけでなく、地上も闊歩する不思議な爬虫類だ。立派な嘴の内側には退化する前の歯がびっしりと生えている。

 どういう均衡でできているのか、透くんのオルニトケイルスもやはり器用に自立していた。

 昨日の配信で驚いたのは、彼は編み物という手工芸の中では共通言語である、編み図を書かないということだった。本来は図面通りに模倣すれば全く同じものを多数の人が作ることができるということが目的、つまり合唱するための楽譜みたいな役割を主とするので、彼だけが製法を知っていれば良いとすれば不要なのかもしれないが、話を聞けば決してそういう意図ではないらしい。

「みんなと同じ言語が喋れないだけなの。通訳してくれる人がいるなら、これをどうにかしてほしい」

 配信中、おそらく初見である僕に説明するためにPC画面に切り替えて見せてくれたのは、製図ソフトのCADだった。そこには無数の記号と配置の指示が書き込まれていて、スライスされた恐竜の姿が確かに可視化されている。大場透の専用の設計図を再現できるのは彼だけ、というわけだ。むしろ、作り出す造形の技巧と複雑性、もちろん商業的な観点で言えば汎用性は皆無という特性から、恐竜たちを編み図で表現する必要性はないような気がした。WEBマガジンで紹介するという僕の仕事から考えれば、誰でもとっつきやすく、挑戦のきっかけとなるもの、特に昨今のインドア層の拡大と巣ごもり需要によるコンテンツの提供は読者獲得に非常に有用だけど、モノトニクスを展示する、という意図からすれば、むしろ近寄りがたい崇高さは敢えてそれに対抗する必要なブランディングかもしれない。

 そう、僕は実はちゃんとビジネスのことも考えている。じゃないと碧ちゃんにまた鉄拳を見舞われるから、なんて後ろめたい動機はたぶん、あんまりない。むしろ彼女には一度尋ねてみなくちゃ。どうして自分で透くんの取材をしようと思わなかったのか。

 そうこうしているうちに配信ではあっという間に腕の付け根から関節、手首のあたりまで足された羽毛装飾は見事に仕上がっていた。動画配信の時間、BGMも流さずに時折小声で彼が話すだけの、淡々とした時間がただ流れるだけだと思っていたのに、そう侮ったのを恥じることになる。これはフォロワーさんを〈沼〉に嵌めてしまうだけのことはあるよね。初回の参加にして、編み物も恐竜もまったく詳しくない僕も見事にそうなった、という訳だ。

 製作において、何の学術的根拠も見識もないと彼は話していたけれど、透くんが作ればパラリテリジノサウルス毛並の細やかな羽毛が生えていたかもしれないし、オルニトケイルスは薄灰の体を持っていたかもしれないと思う。アロサウルスもステゴサウルスも赤土みたいな色だっておかしくない。熊みたいにフサフサのタルボサウルスがいたって可愛いじゃないか。

 それが想像の域を超えて本当に精巧な造形でできあがることに確かな意味があった。仕事をする説得力、という表現は変かもしれないけれど、モノトニクスのプロフェッショナリズムは多くの人の目に触れさえすれば多くの人の賞賛を呼ぶだろう。そうなったら僕、ちょっと嫉妬しちゃうかな。いや、そういうことじゃなくて。

 オルニトケイルスの投稿から並びで数件、掲載された写真をスクロールして見ていく。5月と6月に続けて更新していたログは、ある時途絶えてまた半年後に復活していた。

 戻ってくるまでに、何かあったのかな。

 ラックに累々と積まれる恐竜たちを見上げながら、その疑念は答えを見つけられずにいつまでも蟠っていく。

 

「三河さん、モノトニクスの記事の予告、今日出そうよ」

 金曜日の漸次タスクが収束しつつある平和なオフィスで、マガジンの定期更新を終えて一息ついている僕を碧ちゃんが小突きに来た。ワークスペースから少し離れたオープンラウンジで遅めの昼食を摂るところだったので十分後にしてくれないか、と申告すると、「席でご飯食べて。ほら行くよ」と襟足を掴まれた。あれ、これってなんとかハラスメントってやつじゃない? いよいよ人権こころの相談窓口の出番になっちゃう。しかも極めて形勢不利な戦いになる。だって碧ちゃんの上司は僕だし、彼女はここぞという時の泣き落としも共感の誘い方も一流なんだから。まあ、そりゃそうだよね。ライターやってれば渉外の腕に覚えがあって当然、先ずは何を掴んでそれからどう化粧をするか。おっと、これは誤解なく言っておきたいけれど、出来事の化粧は嘘じゃない。そもそも人間の目だって都合のいい補正を、つまり多大なるバイアスを経由して対象を見ているのだから。情報は料理しないと食べられない。でもたった今この瞬間に、そんなことはどうでもいいんだった。今は碧嬢の不測の苛立ちを鎮めるのが最優先、一体どうしちゃったんだろう。

 窓際の赤いゲーミングチェア、つまり僕の席に押し込むように座らされる。PCでウィンドウを開いてマガジンのコンテンツマネジメントシステムを起動するようにと指図を受け、黙ってIDを入力した。実は透くんに関する記事は予告のビジュアルに使用する画像データから連載の初回記事まで全てプレビューが終わっていて、透くんの校閲も通っていた。ラフは上野の科博に行った日にその足でオフィスへ寄って1時間で組み立てを終えていたし、動画配信の翌日には連載3回分の台割とヒアリングの書き起こしも済ませている。彼女が急いても応じられるほどに準備は万端ではあったけれど、だから逆に今日である必要もない。

「午後に予告打てば初回を明日の午前中に出せるじゃん。休日はお布団族がだいたい10時くらいからザッピング始めるし」

「理屈はわかるけど……どうしたの、碧ちゃんいつも、要素はいつも揃ってから出すのがいいって言うじゃない」

 タイマー公開の設定画面を時限爆弾みたいに出させられ、それでも諾とは言わない僕から彼女はマウスを掠め取った。

 開かれたネットニュースの画面には、道南での発掘から新種発見の速報と現地博物館での臨時企画展の開催予告の文字が躍っている。翌々週には秋の大型連休が来るところ、狙って出された話題という気もするが、読者の反応は上々の雰囲気が窺えた。

 示された自社媒体のアクセス解析画面でも、北海道観光や温泉地レビューの投稿が俄かに伸びていることが示されている。旅券やホテルの予約斡旋サイトへのAD流入もかなり成績が良い。

「へえ、こりゃすごい。この頃は北海道が新しい恐竜王国だなんて言われているもんねえ、僕は福井のイメージばっかりだったけどさ」

「呑気なこと言ってないで、早くボタン押してよ、三河さん」

「うーん」

「後手でもこれは伸びる。出そうよ」

「うーん」

「なによ」

 俄かに失速した碧ちゃんの隙をつき、ぱっとパン屋のポリ袋を取ると、中から豆乳の紙パックとチョココロネを取り出した。本当に見事に、いつもいつも買うパン全てが右巻きばかりだ。そのうち新規開拓の果てに、左巻きのチョココロネに巡り合えるんじゃないかと、長らくあてのないゲームを続けている。透くんに会うまでは無自覚で(そもそもチョココロネは普通に大好き)、会ってからは、遅咲きに自覚した僕だけの秘密になった。

 ぱくりと一口齧りつく。クリーム状のチョコが甘ったるい、既製品の味。時たま板チョコを溶かしたみたいな美味しいチョコのお店を見つけられると当たり。もっとすごいのはパン生地が固めの場合、一生替えられないシャンプーに出会った時と同じくらい虜になっちゃう。

 ああ、また考えが飛び石だ。碧ちゃんの変な顔を他人事みたいに見上げながら、パンをむしゃむしゃ咀嚼する。豆乳とチョココロネの組み合わせについて散々文句を呈してきた彼女からは、既に言葉を枯渇させることに成功していて今はもう何も言われない。

 ごくんとパンを飲み込んで、袋の中にあったウエットティッシュを取り出し封を切った。

「碧ちゃん、透くんにアップいいか、聞いてくれる?」

 整った小顔一面が疑問符の色になる。全然関係ないけど碧ちゃんってずっとボブ、というか短めに整えたおかっぱ頭なんだよなぁ。透くんが初対面に見た彼女もボブの金髪だったんだろうか。根元からプリンのカラメルが出てきたら、きーって怒りそう。それで2週間おきにヘアサロンへ通って、もう止めたいって言って、また染めて。

 そういえば碧ちゃん、何年彼氏がいないんだ?

 めちゃくちゃ失礼なことを考えたのがたぶんそのまま顔に出ていただろうに、敢えて彼女はそれを咎めたりはしなかった。

 代わりに僕の方へやや同情の眼差しを向けている。

「いいけど、なんで? ほとんど毎日会ってるんじゃないの?」

 ここで驚くべき事実を紹介すると、僕はチョココロネより大切な事案が目の前に来ると、どんなにチョココロネというどこにでもある菓子パンが宇宙で一番の大好物であっても、咀嚼を止めて次の一口を忘却することができる。元々食い意地は然程ない方だし、マルチタスクが不得手という性質でもない。

 そうなんだ。透くんとはあれからほぼ毎日顔を合わせている。彼の家にある食器や衣類の場所はだいたい覚えたし、数日おきに勤めに出る美大への帰りは、そこから比較的近い僕の部屋へ遊びに来てくれていた。透くんは会う毎に昔の記憶を織り交ぜて僕の目に穏やかに映る。仕事にかかわるやり取りも、そうでない時間の共有も、僕と透くんの持つ距離感はとても和やかであるはずだった。

 なのに、大事なことは肌身離さず握りしめているくせして、そのさわりの一言だって口に出せていなかった。

 僕はあの夜、透くんのからだに触れてから、今日まで二度目の機を請えずにいる。


(後略)

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モノトニクスの息吹(comitia145) 丹路槇 @niro_maki

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