エピローグ
まさか、この歳になって奇跡が起きるとは思わなかった。
「ただいま」と言われたとき、思わず泣いてしまった。
永遠に聞けないだろうと思っていた言葉を、まさか聞くことになるなんて。
「お帰りなさい」
久江は泣きながら、すぐにそう言った。
時代は移ろいゆく。もともと隣に住んでいた人たちは家族が増えて、大きな家に引っ越すと言って出て行ってしまった。家族が増えるのを見るのは辛かった。
そうして、隣に越してきたのが金沢夫婦だ。澪が生まれ、夫婦が挨拶に来たときは新しい命への期待と、失った命への悲しみがごっちゃになった。
でも。
家の中で一人、久江はコーヒーを飲みながら思った。
史子が帰って来たなんて。本当に信じられない。
史子が死んでから生きていたくないと思っていたけれど、失った世界の色彩も少しずつ、取り戻せている。
朝、ベランダで布団を干す。すると澪が学校へ出かけるのを見かける。久江が声をかけると、澪は気づいて大きく手を振る。そんななんでもない日常に心が動かされて、幸せを感じるようになった。
告白してくれなければ、本当に澪はただの隣に住む家のお嬢さん、としか思っていなかったのだ。料理の味付けが史子と同じだったのも腑に落ちないままでいただろう。
史子の魂は澪の中に眠っている。そして澪に史子の記憶がある。それを知ったとき、娘はまだ生きているのだと思った。史子は帰ってこないし澪は姿も形も違うけれど、史子は確かに生きている。
それが久江の心の支えとなった。澪が史子と重なるときがあるからだ。それは、澪が史子の記憶でものを語っている時に顕著に表れる。
そういう時に、久江はやはり心を揺さぶられる。別人であって別人ではない。そんな気がしてならないのだ。
澪は友達を連れてきてくれるから、家が賑やかになった。この前も秋刀魚をご馳走した。楽しそうにしている澪は、史子の生き直しをしているようにも感じられて、少しだけ複雑な気分にはなるけれど、それでも澪がいいならいい。
最近は久江も手作りの料理を作って、金沢家におすそ分けをしている。昔、家族に振る舞っていた感覚も蘇って料理を作るのも悪くない、と思えるようになった。
長く封印してきた坦々麺も、また食べられるようになるとは思っていなかった。
手作りの担々麺は本当に美味。辛さを求めて食べたくなり、そうしてしばらく食べないとまた食べたくなる。半ば中毒だ。
長い年月を経てあの日の続きが再現されたことも奇跡としか言いようがない。レシピを澪に聞こうと思ったこともあるが、聞かずにいる。澪が作ってくれるのが楽しみになっているからだ。近々「桂蘭」へ行く約束もした。
澪の成長がこれから見られる。陰ながら支えられる。
そのことが、なによりも嬉しかった。
史子が死んで二十八年、博が死んで十年。何もかも失って空っぽな人生だと思ってきた。家に一人でいると、気が狂いそうになっていた。でも、どこかに出かけるのも億劫で、ただ最低限の家事をして昼間はテレビを見る気も起きずにぼーっと過ごしていた。
そんな日々に終止符が打たれた。澪が打ってくれたのだ。
久江は仏壇の前に座り、線香に火をつける。
「あなた、史子が帰ってきたの。信じられる? 姿は澪ちゃんだけれど、史子の声も聞けないけれど、魂はここにいるのよ」
そう、博に伝えた。
インターホンが鳴る。久江が電話越しに返事をすると、恵理子の姿が見えた。
昼間、澪がいないときはこうして顔を出してくれる。ドアを開けた。
「こんにちは。澪がいつもお世話になっております」
そう深々と頭を下げる。
「いえ、こちらこそ澪ちゃんにはよくして頂いて」
恵理子は澪に前世の記憶があることを、そこまで気にしてはいないようだった。むしろ好意的に受け止めている。
「実家からリンゴが届いたので、おすそ分けに来ました」
恵理子は言ってリンゴの入った袋を渡す。
「まあ、ありがとうございます」
「この前は秋刀魚をご馳走していただいたようで、すみません」
「いいのですよ。澪ちゃんやそのお友達と楽しく過ごさせていただきました。あれからはそちらに泊まりに?」
恵理子は首を縦に振る。
「夜中まで騒いでいましたよ。注意しても聞かないんです」
「若い証拠ですよ」
昼間は大抵、恵理子とこうしたやり取りをしている。一人暮らしで心配してくれている部分もあるのだろう。それがあまりに申し訳なくて少し距離を置いていた時期もあったけれど、澪の告白から距離が縮まった。
酢豚の話をした時は気分が落ち込み、分けてもらって食べたときは本当にどうにかなってしまうと思ったけれど、すぐに澪が説明をしに来てくれたから助かった。澪も澪なりに、ずっと思い煩っていたのだろうと思うと、少しだけ胸が苦しくなる。
「あの子、今日もそちらへうかがうかもしれませんがよろしくお願いいたします」
「気にしなくて構いません。澪ちゃんが元気なのが一番ですよ」
「そうですね」
恵理子とは、澪に前世の記憶があるといった話はしない。けれどお互い分かっているから、どこか通じる部分はある。
「今度は澪のお気に入りのお店にも行かれるそうですね」
「ええ、澪ちゃんがおすすめと言った担々麺を食べに」
言うと恵理子は封筒を差し出す。多分担々麺の代金だろう。以前もお寿司の代金を支払おうとした。
久江は封筒を押し返す。
「いいんですよ、お金は」
「でもいつもいつも澪がお世話になっているから」
「お互い様です。私も澪ちゃんや恵理子さんに夕飯を頂いている身でしたから。本当は材料費など、払わなければならないのはこちらです」
「いえ、それはいいのです」
「なら、お互い様ですよ。これからもこういうのはなしにしましょう」
「わかりました」
恵理子は封筒を、持っていたバッグの中に入れた。
「じゃあ、今日はこれで」
会釈をして、去っていく。久江も会釈をして家の中に入った。
独りぼっち。いつもそう考えていた。金沢家の人々がいなかったら、久江は昼間、誰とも喋らずに一日を過ごしていたのではないかと思う。
本当のことを話してくれる前は澪が来ても、心はどこか虚ろだった。でも今は心に余裕もできて、とても楽しい。澪は金沢家の家族ともちゃんとコミュニケーションをとって思い出作りに励んでいるのだとか。
小四の時に史子に言った台詞が、生まれ変わってもまだ律義に守られている。そこにも久江は不思議な縁と奇跡を感じている。
二階へ行って、史子のなにも置かれていない勉強机を見る。机の表面を触った。
処分してしまってもいいだろうか。自分だってあと何年生きられるかわからない。大きな荷物は誰にも迷惑が掛からないように、早めに処分したほうがいいのかもしれない。
でも、澪がいたとしてもこの机だけはどうしても捨てられずにいる。史子がずっと使っていたものだから。史子が高校の時髪は長かった。その長いストレートの髪の後ろ姿を、今でもよく思い出す。夜食を持っていけばいつでもその後姿が見えた。
もう少しだけ、捨てずにいよう。澪が高校を卒業するその日までは、とっておこう。
久江はスーパーに行った。近く、澪に酢豚を作ろうか。ずっと私に遠慮していて作らなかったというから。そして転生した後もまだ好物だというから。
またお友達と一緒に食べに来てくれてもいい。久々に豚肉を揚げて、パイナップルの缶詰のシロップで甘酢あんを作って。ああ、多分澪も同じことをしていたのだ。ようやく納得がいく。
今日の夕飯の材料と、酢豚の材料をかごに入れる。最近、澪は以前より遠慮なくうちに来る。ママ、と言われるのもくすぐったい。
夜はなにを話そう。澪が練習してきた担々麺の話でも聞こうか。澪が作ってくれた担々麺は心がこもっていた。お店も何件か行って味を研究していたのだとか。それを聞いただけでも、久江のためにわざわざ時間を使ってくれたことにほっこりする。担々麺の話を詳しく聞かせてもらおう。それとも、なにか澪は話題を提供してくるだろうか。
家に帰ると、久江はゆっくりと煮物を作った。魚も焼くつもりだ。澪が食べるかもしれないから、煮物は少し多めに。最近はママの味も食べたいとやたら手作りの料理を食べたがるのだ。
鍋や箸を置く場所は、もう何十年も変えていない。それを澪が全部知っているかのように使ったときに、確信中の確信に変わった。澪が史子と重なったのだ。
澪の疑いようのない、動作。記憶。合言葉。
塵も積もれば担々麺。
久江にもそれは当てはまる。自分のことはずっと棚に上げていた。泣きながら死んでいくものだとばかり思っていた。でもきっと、人生の最後は笑って死ねる。澪との思い出を積み重ねて、いい人生だったと心から思って死ねる。
午後七時近くになり、インターホンが鳴った。
きっと澪だ。
久江は小さく返事をし、軽い足取りで玄関のドアを開けた。
「了」
塵も積もれば担々麺 明(めい) @uminosora
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